クリオーネ /Crione/
文字数 2,301文字
「クリオ」
涼しい夜風が優しく吹き抜ける緑の中庭で、チェンバロを前にしたクリオーネは寂しそうな顔でカッツェンを見る。
気まずく気恥ずかしい気持ちが同時に心に生じ、カッツェンは彼女に顔を向けられない。この数日間の不在で、彼女に気苦労をかけただろう。それは反省すべきだ。
「チェンバロがずっと音を立ててました」
「え?」
「あなたがいないので、ずっと泣いてたのですよ。とても心配して」
そっか、と言いながらカッツェンはとても心が重くなる。
もっともチェンバロは泣くはずもないもの。きっとクリオーネは自分がここ数日に経験した心の律動を、チェンバロが経験したことのように遠回しに言ってるのだろう。
それならば、彼女を相当心配させたこと、容易にわかる。カッツェンは重たくなった顔をあげ、クリオーネの顔を見る。城の照明が控えめに押さえられているせいか、彼女の姿はおぼろげで、とても弱々しく見えた。寂しそうな笑顔を作る。一瞬の星の煌めきのように、その笑みはちょっとしたことで壊れてしまいそうだった。
「わたくしに渡すものがあるのでしょう? カッツェ」
「あ、うん」
畏れながらカッツェンは、クリオーネに歩み寄り、セロからの親書を渡した。
クリオーネが封書を開ける。親書を読む顔は穏やかだ。けれど変わらないその表情に、何か押さえ込んでいるものを察してしまう。だからむしろ緊張してしまう。
カッツェンの母親ではない彼女だが。その彼女から漂う気配は、母親が醸し出している威厳そのものに思われた。
彼女の泳ぐ視線を拝見する。この後来たるであろう叱責の時間が早く通り過ぎて欲しいと願った。だがそれも覚悟した。その上でクリオーネの下に戻ってきたのである。
「わかりました」
彼女が横に顔を向け、気づけば使いの者が一人いる。親書を厳かに預かった。そして、使いの者が奧のほうへと消えた。
「長旅で疲れたでしょう、今日はもう眠りなさい」
「クリオ、僕は」
「あなたに対してわたくしは、何ひとつ咎めはしません。そして、あなたをここに縛りつけようとも考えておりません」
その処遇を聞いてカッツェンは安堵する。だがその気持ちは一瞬で消える。どうして彼女がそこまで寛容になれるのか、そんな不気味な不快感が喉の奥から迫り上がってきたから。
「わたくしは公の場に出ます。ブリオーダの女王陛下のところまで参りますわ」
簡単に話が進みすぎて、カッツェンはかえって不安になる。こんなに物事が簡単に進みすぎていいのだろうかと。
「ねえ、クリオ」
「なんですか?」
「どうしてセロの提案に乗ったの?」
いままでではありえなかったことだった。何より彼女は国民の期待に応えるため、自分の才力でもって三国を統一しようと思っていたはず。平和条約の締結も拒んでいたのに。
この折れ方は異常だと思う。
「あなたが動いたからですよ」
「僕が……?」
「あなたがいなくなってから、とても切ない日々が続きました。あなたが旅先でどうにかなってしまわないか、とても心配でした」
本当にクリオーネは過保護だ。けれどその心配はカッツェンの瞳に染み渡って、彼は涙が溢れ出そうになる。
「でもわたくしも疑心暗鬼になっておりました。それから、民もいまこの疑心暗鬼の渦中にいるのでしょう」
平和条約を結ぼうとしない理由が見えてきた。
それはクリオーネに周りが見えていなかったから。多分、そういうことなのだろう。
「わたくしは、あなたがベニアカネ国とブリオーダ国へと渡り、理不尽な仕打ちを受けていると思っておりました。けれど、そのようなこともなく無事帰ってこれた。それでわずかばかり考えが変わりました」
偏屈な考えに陥っていた。国民と他国の板挟みに苦しんでいたのだ。
でも、いまになって理解できる。そう、これがセロの狙いだったのだろう。カッツェンをリネルに帰すことで、自分はカッツェンに危害を加えるような王ではない。そして我々がカッツェンに危害を加えるような国ではないことのメッセージの表れであった。
「……それだけ?」
「はい、あ……うん、そうですわね……。それだけですよ」
何か言い淀んで、カッツェンは気になった顔をする。
「いいえ、わたくしが言葉につっかえたのは本当に些細なことですよ。わたくしはセロ女王陛下が記した、最後の詩文が気になっただけです。そんなことはどうでもよくて。そう、それだけです」
その詩文をクリオーネが小さく口にした。
Linnel...(リネルよ)
Pal modeo pro dabra kristeria kitte.(もしこの彼の自由を縛りつけようと考えるなら)
1000 gritz bal 1000 baliba ditra.(千の緑を千の黒で埋め尽くして進ぜよう)
Vienia-carne...(ベニアカネよ)
Pal modeo pro ambrone citlliamero kitte.(もしこの彼の希望を踏みにじろうと考えるなら)
1000 dormech bal 1000 makras shozero.(千の赤を千の夜で鎮めて進ぜよう)
B.A...(我々とて同じこと)
Briochda...(ブリオーダは)
Pal modeo pro kuridol kristeria kitte.(もしこの彼の生命を蹂躙せしめると考えるなら)
1000 meros bal 1000 balmel ditra.(千の青を千の闇で覆って進ぜよう)