バリスタ、北池袋で迷子の神に絡まれる。
文字数 2,000文字
手帳を破ったらしき紙にぞんざいな筆致で『ハワイに行きたい』と、けったいな文面が送られてきたのが一か月半前。
「ふ、ふざけやがって」
受け取った直後に紙片をライターで焼いてやりたい衝動に駆られた。しかしオーナーの奇行の貴重な証拠である。引水は胃から噴き上がる熱を抑えて、手紙を厳重に店の金庫にしまった。その日以来、タバコもやめた。もちろん、衝動的に焼いてしまわないためである。
「まったく迷惑な」
ぶつくさと不平をもらしながら、引水は北池袋を歩いていた。片手に中華の食材がぎっしり詰まった袋を抱えている。来週からと告知してしまった
「食材調達はともかく、フェアの企画は俺の仕事か?」
色素の薄い切れ長のつり目の上で、くすんだ金の前髪がわずかに揺れる。店の制服を着ていなければ、北池袋の怪しげな裏道に似合いすぎる男だった。
そのせいであろうか。すれ違う人々の中で、たちの悪そうな雰囲気の男ばかりがチラチラとこちらを見てくるのだ。
(やれやれ)
降りかかる火の粉は払わねばならぬ。だが火の粉が降りかからないに越したことはない。繁華街を歩きながら、引水はふと考えた。
「せめてハッタリで、外見に
引水も身長の高さだけは、それなりにある。しかしなにぶん肉がない。だからといって簡単に舐められないのは、接客業にあるまじき仏頂面のおかげであった。あまり褒められた話とは言えない。
「必要なのは
なげやりな独り言が口から滑ったときだった。
「あ」
威厳が、立ち尽くしていた。
それも毛筆で清書して額縁に飾ったみたいな、とびきりの威厳の塊だ。
威厳は、年を召していた。姿勢は良く、彫りの深いきりりとした顔立ち。搾りたてのミルクを流したような
彼からは、思わず平伏せずにはいられない迫力が放射状に溢れている。
そう。ありがたいおとぎ話でなら、どこにでも出てくるような老人だった。
「ほう」
さしもの引水も覚えず声を漏らす。
すると威厳の権化が、髭で風を切って振り向いた。
「おぬし!」
「おぬし?」
威厳の権化は、威厳の権化にしか許されないような言葉を発した。
「徹底したキャラ作りだな」
引水は、すっかり感心した。いっそ、木の杖と雲とかをコーディネイトに加えたらバッチリだろうとまで思う。あまり恐れ入ってはいなかった。
老人が目を見開き、猛然と引水のそばまでやって来る。
(なんだ、次は『ワシが見えるのか?』とか言い出しそうだな)
「おぬしっ」
「はあ」
「北池袋に詳しいか⁈」
「は?」
威厳は返答を待たなかった。その代わりに、えらく切羽詰まった
「すごい、もう全然わからぬのだ。そもそもJRなのに駅全体が地下だし、東武は西口にあるし、西武は東口だし。がんばってそれだけ覚えてきたのに、ワシが出たところ北口じゃって、今ココどこなん???」
ありがたい威厳の権化は、森羅万象を知り尽くしたような青い瞳にうっすら涙を
(まあ誰しも、ジャンルによって得手不得手があるもんだしな)
引水は納得した。そして接客モードに切り替えて、ともかく老人を落ち着かせて話を聞いた。あいにくとスマイルの仕入れ予定はないのだが、的確な道案内も接客業のスキルのひとつなので、問題はすぐに解決した。
捨てられた子犬のように
「よかった。午前中から何人もの人間に声をかけてみたんじゃが、みんなワシと目が合うと祈るか腰を抜かすか逃げ出すかしよって、まったく話ができん状態での〜〜」
「まあ、わからんでもないです」
「おぬしは若いのに肝が据わっとるようじゃな」
「あ、実家が寺なもので」
「なるほど、宗派の違いか」
「そんな大それた問題でもないと思いますがね」
「とにかく、礼をしよう。何か望みはあるかね?」
「望み?」
引水はちょっと考えて、そして、言った。
店に戻ると、諸悪の根源が笑顔で立っていた。
「ヘェーイ! 引水ちゃん、ただいマハイウラビーチ⭐︎ はいこれ、おみやげ」
引水は奥歯で念入りに苦虫を噛み潰しつつ、オーナーから無言で小袋を受け取った。
個包装されたパックには、ごつい筆文字で商品名が書かれていた。
――『キラウエア火山温泉の素』
にっこり笑って引水は構えた。
「よし、黙って歯を食いしばれ」