第6章「動詞について:人称・時制って何?」(つづき)
文字数 4,108文字
「現在形」「過去形」「未来形」「進行形」「完了形」などなど。
英語は日本語に比べて、こういう区別がとってもきちっと決まっている言語で……
(これでも他のヨーロッパ語に比べたらまだゆるいくらいなんですが!)
それなのに、最近アメリカでは「現在形だけで書く」というのがやたらに流行っているらしく、
(アメリカ人にもばかはいるのね。)
(英語しゃべれるからって全員かしこいわけじゃないのね。)←あたりまえ
まず前提として、
英文法では「時制」ってほんと大事で、一つの出来事を書いているとき、現在形と過去形を混ぜ混ぜしないというルールがしっかりしてるんですね。
だから斬新なつもりで混ぜ混ぜしても、わりと残念にしか見えないんです。
イタいというか。頭が悪そうにしか。
それに気づこうね、とル=グウィンさんは優しーく言ってくださってるわけです。
混ぜてもそんなに違和感ない。
むしろ、過去のことを語るとき、現在形をうまく混ぜこんでいくと、ぐっと臨場感が出ますよね!
ヒツジはよくやります。
「文章内の『時間』を把握する」
ということなら、日本語で書く私たちにとっても、すごく大事なことですよね。
いま書いていることは──
いま起こっていることなのか、
すでに起こったことなのか、
いつか起こることなのか。
それをきちっと分ける、という話です。
混ぜ混ぜすると頭が悪そう問題。
じゃあいっそぜーんぶ現在形に統一して、「いま」起きているできごとだけにしたら?
実況中継みたいに!!
これはありですね。バトルものやサスペンスにぴったり。
ところが、この「実況中継」文体の問題もル=グウィンさんは指摘してくださっています。
ここすごく重要なポイントだとヒツジは思います。
日本の私たちにも当てはまる。
この現在形オンリー実況中継文体は、
私たちのあたまがものすごーく「映像」に頼るようになってきていて、
何でも「イメージ」を通さないと安心できない、そういうところから来ていると。
これは、言ってみれば、
ずーっと懐中電灯で行く先の一点だけを照らしながら進むようなものだと。
立ち止まって、遠くまでを照らして、来た方や行く先を見ることができなくなると。
「現在時制だけで書く」=「ひたすら目の前の出来事だけ追う」、と読み換えるといいと思います。
こういう上っ面な世界との関わりかたと視野の狭さのせいで、現在時制だけで書かれた小説はどれもこれもクールな印象を与えるのだと思う。フラットで、感情がなく、単純。おかげで、みんな似たり寄ったりだ。
(『ル=グウィンの小説教室』より。太字の強調はヒツジによります)
はずかしながらヒツジも、一回読んだだけではわかりませんでした。
何度も読み直して、「あーそういうことか!」ってやっとわかりました。
こういうとき、
「ちょっと何言ってるかわかんないんだけど( ´~`)ゞ」
って鼻で笑って、読みとばす人いますよね……
もったいないと思います。
こういう、複雑にしか言えない大事なことを全部読みとばしていくと、
自分にわかることしかわからなくなっていく。
結果、何も進歩しなくなっていく。Σ(゚д゚lll)
──と、まさにそういう話をしてるんですね!
いいからとっとと先へ進まんかい!というかたのために……
袋とじにします!
ウソです。笑
キリトリ線を2本入れて、で、そのあいだは次のページに書きます。
ご興味のあるかたはぜひめくってみてくださいまし。
たしかに、
「ひたすら〈今〉を、目の前の出来事だけを追う」
(他は見ない)
という書きかた、考えかた。
一見クールだけど、じつはけっこう問題あるかも、と。
というのはですね。
「ひたすら〈今〉を、目の前の出来事だけを追う」
(ご本人によると「イメージを言語に落としこむ」)
という書きかたを得意としていらっしゃる、ある超~有名人気作家先生がですね。
お名前は伏せますけれども。
#皆さん、覚えてらっしゃいますか?
#treeで去年、素敵な企画があったでしょう。「Day to Day」という。
#コロナ禍のいま、人々を励ます短文を、プロの作家さんたちが、
#フィクションでもエッセイでもいいから寄稿する、
#という企画。
#(ヒツジはあの心意気にシビレて、NovelDaysに登録したんです!)
あのとき、その超~有名人気作家先生はですね。
次のような文章を書いてくださったんですね。
「世界中大騒ぎになっているようだけれど、僕はもともと人と会わない生活をしているため、変化は皆無。マスクも必要ない。毎日犬と遊んで、模型飛行機や庭園鉄道で遊んでいる」
「みんなつながりすぎ」
「書きたいことも言いたいこともない。依頼されたから、今これを書いている」
「わあクール! かっこいい!」
って思う人たちが、この先生の絶大な人気を支えているんでしょうね。
そういう人の数がすごく多いこと、ネットを見てればわかります。
考えかた、行動のしかた、つまり、生きかた全体におよぶ話なのかもしれないですね。
現在形だけで書く、ということは。
いま頭に浮かんだことを、そのまま言葉に「落としこむ」という書きかたは。
その言葉が、いま目の前にいない誰かを侮辱するかもしれない――
一年後の自分に恥をかかせるかもしれない――
そういうことを想像しようともせず、
ただ、他人を冷笑することで、
自分のクールなスタンスをキープする、という生きかたに、直結するかもしれないんですね。
それが、シュウォーツさんとル=グウィンさんの心配していることなんです。
クールで、フラットで、単純。
それが、ル=グウィンさんの指摘していることなんですね。
まさに「すべてがFになる(フラットになる)」、ってやつですね!
深呼吸して、と。
練習問題です。
この課題は1ページくらいで仕上げてください。あまりがんばりすぎず、なるべく短くしておいてくださいね。というのは、同じお話を2回書いていただくからです。
内容はこういう感じ。
おばあさんがひとり、せっせと何かをしています。お皿を洗ったり、お庭の手入れをしたり、はたまた数学の博士論文を推敲したり。何をしていてもいいです。そして、それをしながら、若かった頃の出来事を思い出しています。
2つの時間のあいだを、行ったり来たりしてください。
そして、おばあさんが今していることは「いま now」として、
おばあさんの記憶の中で起こることは「あの頃 then」として表してください。
少なくとも2回は、現在と過去のあいだでタイム・ジャンプを行なってください。
バージョン1:
人称:一人称(私)か三人称(彼女)のどちらかを選んでください。
時制:一貫して過去形か、一貫して現在形かのどちらかを選んでください。
時制を変えずに、どこからどこまでがリアルタイムで、どこからどこまでが回想か、読者にわかるように書いてください。それも、できるだけさりげなく。
バージョン2:
人称:バージョン1で選ばなかったほうを用いてください。
時制:パターンAかパターンBのどちらかから選んでください。
パターンA:「いま」は現在形で、「あの頃」は過去形で書く。
パターンB:「いま」は過去形で、「あの頃」は現在形で書く。
バージョン1とバージョン2が一語一句合致していなくていいです。
パソコンで「私」を「彼女」に、「する」を「した」に一括変換してすまそうなんてだめですからね。ちゃんと書き直してくださいね!
人称と時制を変えると、他の言葉も変わってくるはずです。そこがこの課題のねらいなんです。オプション:さらに他の人称と時制で遊んでみたくなったら、ぜひそうしてね。
グループワークでやったらめちゃくちゃ盛り上がりそう。
ていうかそれ以前に、面白そうだけど大変そう。
どうしよう?! わたしできるかなぁ??
でも……
ヒツジルール。「おじいさん」でもいいのでは?
読者さまの中には、ご自分が男性だから「おじいさん」のほうが書きやすい、というかたも、
ご自分が女性だからこそ「おじいさん」のほうがかえって書きやすい、というかたもいると思うんです。
それはゲセン人ですね!
(『闇の左手』に出てくる中性/両性具有の人たち)
ゲセン人はなしということで。
おばあさんか、おじいさんかでお願いしますー!