第二巻 第二章 聖武天皇による国づくり

文字数 3,009文字

〇平城京地図
N「和銅三(七一〇)年三月十日、幼少の首皇子に代わって即位した元明天皇により、平城京への遷都が行われた」

〇平城京の一角
行基(三十歳)が兵士に引っ立てられている。それを見下ろす首皇子(聖武天皇、十七歳)と藤原不比等(ふひと)(五十九歳)。縛り上げられ、引っ立てられながらも、凛とした様子を崩さない行基。
首「そちは官僧でありながら、みだりに寺の外で布教を行い、仏法を勝手に解釈して、人民を惑わした。相違ないか」
行基、きっと顔を上げ、首を見据える。たじろぐ首。
首「ふ、不服があれば申してみよ」
行基「ならば申し上げます。そもそも釈迦が説いた仏法は、人民を救うための教えでした。しかしこの日本では、仏法はあくまで国家鎮護のためのものであり、その功徳を人民に届ける者がおりませぬ。ゆえに拙僧が、自ら立ったまでです」
言い負かされて口をぱくぱくさせる首。不比等が進み出て、
不比等「行基とやら、そちの申すことに一理がないとは言わぬ。だが、官僧の地位と職務は、法によって厳しく規定されておる。そちはそれを破った。認めるか」
行基「認めます。しかし……」
不比等「認めたのならおとなしく刑に服せ。そちから官僧としての身分を剥奪し、京を追放する。引っ立てよ」
あくまで堂々と引っ立てられていく行基。首、それを見送って震えながら、
首「こ、こんなことをして、仏罰が当たりはせぬか……」
不比等、「困ったものだ」という顔で
不比等「国家を支えるのは法であって、仏法ではございませぬ。僧侶といえど、法を犯した者は厳しく罰せねば、国の形が揺らぎます」
N「不比等は養老四(七二〇)年に亡くなり、政治は武智麻呂ら、不比等の四人の息子が中心となって執り行うことになる」

〇教えを説いて回る行基(五十一歳)と弟子たち
N「その後も行基は活動を続け、ついに天平三(七三一)年には弾圧が止み、天平十(七三八)年には『行基大徳』の称号が朝廷から授けられる」

〇聖武天皇(二十四歳)
N「神亀元(七二四)年、文武天皇の皇太子として帝位が約束されていた首皇子は、ようやく聖武天皇として帝位に就く」

〇戦場
N「しかしその治世のはじめは、戦乱や」

〇飢饉に苦しむ人々
N「飢饉」

〇疫病に倒れる藤原四兄弟
N「疫病にたびたび襲われることとなった。特に天平九(七三七)年の疫病では、藤原四兄弟が全員病死するなどして、国家の屋台骨が揺らぐこととなった」

〇平城京・大極殿
聖武(四十歳)、橘諸兄(五十七歳)、鈴鹿王(中年)らが朝議をしている。
聖武「天下がこれほどまでに乱れたのは、仏法をないがしろにしたからである。そこで京を山城国相楽に移し、行基を政権に加える」
驚く一同。
諸兄「人民はうち続く戦乱や飢餓、疫病に苦しんでおります。そんな中で遷都をなさっては、人民の苦しみが増すばかりです!」
鈴鹿「今は罪を許されているとは言え、行基は一度は京から追放した者。そのような者を取り立てるなど……!」
聖武「ではそちに、この国難を乗り切る力があると申すか」
沈黙する一同。
聖武「朕の命である。早急に実行に移せ」
N「聖武天皇はこの後も、天平十七(七四五)年に平城京に再遷都するまで、全部で五回の遷都を行う」

〇恭仁京の外れ
聖武と行基が会見している。
行基「……ありがたいお言葉ですが、政権に加わることはできませぬ」
聖武「(驚いて)朕の誘いを断ると申すのか?」
行基「拙僧の務めは、一人でも多くの人民を救うこと。政権に加わってしまっては、人民に直接、教えを垂れることができませぬ」
がっかりする聖武天皇。
行基「国のためと言うのであれば、大仏を建立されてはいかがでしょうか」
聖武「大仏?」
行基「唐の奉先寺には、五十七尺(十七.四メートル)の大仏があると聞きます。大唐帝国が栄えているのは、その功徳によるものでしょう」
聖武「(興奮して)それだ! 行基どの、大仏建立のために力を貸してくだされ!」
行基「そういうことでしたら、拙僧と私の教団が、力をお貸しいたします」
N「聖武天皇は、天平十三(七四一)年に国分寺建立の詔(みことのり)、天平十五(七四三)年に東大寺大仏建立の詔を出すなど、ますます仏法に傾倒していく」

〇建築が進む大仏
木材の支柱で、大仏の大まかな形ができあがりつつある。
指揮する行基。
N「天平十七(七四五)年に僧として最高位である『大僧正』の位を授かった行基は、聖武天皇と二人三脚で、大仏建立に力を尽くし、天平二十一(七四九)年に亡くなる」

〇大仏開眼法要
大仏殿はまだ建築中で、簡単な屋根がかけてある。
数千人の僧侶や貴族たちが、開眼法要に立ち合っている。
感慨深げな、僧衣の聖武上皇(五十二歳)。
N「天平勝宝四(七五二)年、東大寺大仏の開眼供養が盛大におこなわれる。完成した大仏は、実に十五メートル八十センチの大きさであった」
聖武(M)「行基どの……!」
一筋の涙を零す聖武。

〇荒れた海を行く遣唐使船
その中で一心に祈っている鑑真(六十七歳)。
N「天平勝宝五(七五四)年、唐から五回の失敗を乗り越えて、鑑真が来日する」

〇東大寺の大仏
大仏殿はまだ建築中である。
並んで大仏を遥拝する、聖武上皇(五十四歳)と鑑真(六十八歳)。
鑑真「(感激して)日本がここまで仏法を重んじているとは……! 苦労して来た甲斐がありました」
聖武「(感激して)日本には戒律を授けることができる僧がおりませんでした。これでようやく、きちんと戒律を受けた僧侶の手で、仏法を広めることができます」
N「鑑真の来日によりようやく、日本の仏教は、中国からも正統と認められるものになったのである」

〇落成した唐招提寺
N「鑑真は唐招提寺を建立し、自ら律宗の開祖となった。唐招提寺と東大寺を中心に、後に『南都六宗』と呼ばれることになる六つの流派が成立、互いに学び合って発展していった」

〇興福寺の阿修羅像
N「南都六宗の興隆と共に、天平文化と呼ばれる、建築や芸術の文化が花開いた。正倉院には、天平文化を伝える多くの品物が納められている」

〇称徳天皇(四十七歳)と道鏡(六十五歳)
極めて親しげにしている二人。
N「しかし仏教が力をつけすぎたことによる弊害も現れはじめていた。一介の僧侶に過ぎない道鏡が、孝謙皇(称徳天皇)の寵愛を得て法王となり、政治に関与し始めたのである」

〇大極殿
称徳(五十二歳)、道鏡(七十歳)、白壁王(光仁天皇、六十一歳)らが朝議している。
称徳「宇佐八幡宮から神託があった。道鏡どのを帝位に就ければ、国は治まると」
動揺する一同。
白壁「道鏡どの、ご自身はどうお考えか」
道鏡「人臣の身でありながら帝位に就くとは、まことに恐れ多いことではあるが……神託には逆らえぬ」
称徳「宇佐八幡宮は、さらなる神託を仰ぐための勅使を求めておる。ただちに勅使を遣わし、道鏡どのの即位の準備に入る」
反論できる者はいない。

〇追放される道鏡(七十一歳)
N「しかし、宇佐八幡宮の再度の神託は、道鏡が帝位に就くことを否定するものであった。激怒した称徳は、勅使を務めた和気清麻呂(わけのきよまろ)を左遷するが、神護景雲四(七七〇)年に称徳天皇が崩御すると、道鏡は朝廷から追放され、間もなく亡くなった」
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