第九章 ②
文字数 3,750文字
あれは、ある日の閉店間際。
社長が、私たちの働く店舗に、
急に来たんです。
社長は、普段、本社とも『営業本部』とも
呼ばれるビルにいました。
そして、日替わりで、1日に1店舗、
『その日の店』に顔を出して、奥にある
事務室で色々とチェックとかをして
いました。
なので、私は社長と顔を合わせることが
多かったわけでは、ありません。
私のいた、川崎本店の事務室に社長が来る
のは、毎週月曜と金曜の午後の数時間と、
決まっていました。
はい、そうです。話を戻します。
ある日の夜、社長が、ひょっこと
来たのです。
社長が、川崎本店に来るはずのない、
木曜日…。
しかも、閉店10分前だったはずです。
それで、社長が来てすぐに閉店になり、
店内の後片付け、掃除をする時間に
なりました。
私は、業務用の掃除機をかける担当
だったのですが、その日、風邪気味で
少しゴホゴホやっていました。
それを見た社長が、ヒラの私に、言って
くれたのです。
「おい柳沼。風邪か?
今日は、早く帰って休め。
掃除機は、俺がやっておくから!」と。
ビックリしました。
そう言われても、社長にやらせるわけ
いきません!!
でも、社長は、躊躇う私の手から
掃除機を奪い取ったのです!
今でも思い出します。
社長が、私の代わりに、閉店後の
広い店内中を、掃除機をかけて回って
くださっているあの姿を。
私は、社長を尊敬し、立派な人だなぁと
本当に思ったのでした。
感動して、立ち尽くしてしまって、
帰れませんでしたね。
そんな私に、社長が大きな声で言って
くれました。
「柳沼、何している!?早く帰れ!
そうじゃないと、俺が掃除機かけて
いる意味なくなるだろ!」と。
あと、年に2回、社長夫妻は、
ポケットマネーで、全従業員を集めて
バーベキュー大会を開いてくれました。
スーパーで扱っている中で一番高い
最高級のお肉、それから一番高いお酒を
用意して、私たち従業員を、社長夫妻が
もてなしてくれるのです!
皆さん。信じられますか?
社長夫妻が、お金を出すだけでは、
ないのです!
社長夫人が、徹夜して、特製のスゴク
美味しいカレーを作って、そして、
当日は、一人一人に笑顔で、よそって
くれるのです。
そして、社長は率先してお肉を焼いて
くださり、あとは、私なんかにも
ジュースを注いでくれる……。
社長も社長夫人も自分たちは何も
食べずに、従業員一人一人に声を
かけながら、駐車場の中を巡ります。
そして、私たちの話や悩み事も真剣に
聞いてくれるのです。
締めの時、社長はいつもこんなことを
言っていました。
「皆、いつもありがとう!
そして、今日は楽しい時間を一緒に
過ごしてくれて、ありがとう!
例年通り、今回も私は、肉や、
妻の特製カレーを全然食べれ
なかった!
でも、皆とたくさん話せたから満足
ですね!皆の話や笑顔で、お腹
いっぱいになりましたぁ!!」。
従業員一同、盛大な拍手です。
本当にアットホームな会社でした。
そう言う会社にしようと努力を
惜しまない社長夫妻でした。
そんな社長夫妻が、わざわざ、
会合先から飛んできてくれたのに!!
真剣に、私のことを心配して、
自分たちの娘に対するかのように
諭してくださっていたのに、
あの時の私は、聞こうとはしていません
でした!
社長夫妻の言うことを聞くつもりが、
はなからなかったのです。
それでも、社長夫妻は、交互に私に、
口を開いてくれました。
私が誤った道へ行くのを防ごうと
してくださいました。
でも、私には聞く気がなかったのです。
だから、社長夫妻は、帰りざるを
えませんでした。
最後に社長がこう言いました。
「柳沼。もうこんな時間だなぁ。
君も疲れただろうから、今日は、
これぐらいにしとこう。
でも、また明日もう1度ゆっくり
話そう。
これは、本当に、君の今後に関する
大事な決断になるからね……。
じゃあ、明日、店に出ないで良いから、
朝そのまま営業本部に来てくれ」
私は、「はい」と頷きました。
頷きましたが、私は、翌日、
営業本部に行くつもりは、全く
ありませんでした、さらさら。
だから、社長夫妻が帰ったあと、すぐに
掃除を再開し、部屋をキレイにして、
そして、その部屋を出ました。
部屋のカギは、郵便受けに入れました。
一応、部屋には、社長夫妻への置手紙を
残すことにしました。
「今までありがとうございました。
ごめんなさい。
やっぱり私、出て行きます。
捜さないでください。
柳沼真子」
と言うような文面だったはずです。
私が、川崎市を出る時に、手にしていた
のは、スーツケース1個と、
〔さだみん〕からもらったキーホルダー
がついた鞄だけです。
私の全財産は、それらに入るだけ、
でした。
それまでの住まいだった部屋を出ると、
もう深夜。
辺り一帯シーンと静まり返っていました。
時計を見ると、深夜の2時になろうと
していました。
その足で、私は、近くの駅へと、向かった
のです……。
生まれて初めて、野宿をしました。
寒くて寒くて、大変でした。
震えて、惨めでした。
駅近くのコンビニに行き、温かいコーヒー
を買って、飲んだのを憶えています。
そして、私は、始発の電車に乗って、
東京へ向かいました。
朝、駅員さんが、駅の入り口を開く際、
そこに私が座っていたので、ビックリ
していたのを思い出します。
さて、川崎市と東京都なんて目と鼻の
先ですが、それまでは仕事と平戸への
復讐のためにだけ生きていましたから、
神奈川から出たことがありませんでした。
私は、初めて、その早朝、東京に、
足を踏み入れたのです。
「東京に行こう」とだけ考えていました。
詳しく、どこに行くかは、決めて
いなかったのです。
ひとまず、私は、品河駅で、電車を
降りました。
駅前は、早朝にも関わらず、人が、
いっぱいでした。
ビジネスマンやOLが、たくさん
歩いています。
「クソどもめ。敵がいっぱいだなぁ。
汚らわしい、男共!!」、そう思い
ながら、私は駅を背にして、歩きます。
そして、最初に目に入った、漫画喫茶に
入ったのでした。
正直、眠くて眠くてしょうがなかった
のです。
それから、お腹も減っていました。
その漫画喫茶で、私は軽く食べて、夕方
近くまで寝ました。
目を覚ますと、もう18時でした。
携帯電話を見てみると、不在着信が、
いっぱいでした。
誰からだと思います?
社長。
そして、社長夫人。
それから、愛媛の雪子おばさん。
私は、すぐに察しました。
社長たちが、雪子おばさんに、連絡
したんだと。
当然のことですが…。
私は、屋山社長や社長夫人からの
着信は無視することに、決めました。
すぐに、着信履歴を消しました。
でも、雪子おばさんには、電話をして
おいた方が良いなと思いました。
私は、雪子おばさんに、電話をかけ
ました。
雪子おばさんは、すぐに出ました。
本当に、取り乱していました、あの時の
雪子おばさんは。
その原因を作ったのは、他ならない、
この私なのですが……。
雪子おばさんは、矢継ぎ早に、
私に訊いて来ました。
なぜ、急にスーパーをやめたのか。
しかも、自分に相談もせずにと。
怒るよりは、どうやら心配している
ようでした。
そして、電話の向こうで、
雪子おばさんは泣き出してしまったのです。
あの時は、私も辛かったです。
雪子おばさんを苦しめてしまっているのを
ヒシヒシ感じました。
でも、今さら松山には、戻れません。
だから、私は、
とにかく東京で働きたい。
東京で一人で生活したいんだと、
必死に伝えました。
そして、言いました。
「雪子おばさん。
今回も、迷惑かけて本当にごめんなさい。
でも、これからはちゃんと頑張って、
東京で生活するから!
真面目に生きて、健康にも気をつける
から……、許して!」
つまり、東京での一人暮らしを、
許してと言うことです。
本当に勝手な話!
雪子おばさんは、電話の向こうで、
はーっとため息を吐きました。
そして、「私がどんな言っても、
真子ちゃんは、東京で働くつもりでしょ。
いまさら、川崎の屋山さんたちの所には
戻らんわよね。そう言う性格だもんねぇ」
と呟くように言いました。
それから、長い沈黙が続きました。
そして、雪子おばさんは口は開きました。
「分かったわ。
賛成は出来んけど、帰って来い言って、
帰ってくるような子じゃないからねぇ…。
自分のことは、自分で決めたいんで
しょう……?
うん、……。とにかく、本当に、体には
気をつけるんよ。
一人暮らしで、しかも、今までみたいに
寮とかじゃないと生活が不規則に
なるんだから……。
あとね、変な仕事は、絶対イカんよ!
もし、変な仕事しか見つからんよう
だったら、その時は、ちゃんと、松山に
戻るんよ!」と。
私は「大丈夫よ。安心して」と、
答えましたが、雪子おばさんの言う
『変な仕事』をする気、満々でした…。
最後に、雪子おばさんは、
「いい?東京での新しい住所が
決まったらすぐに連絡するんよ!
あと……、屋山さんたちにはもう一度、
私から謝罪するけど、あなたも、
落ち着いたらちゃんと連絡いれるんよ」
そう言って、電話を切りました。
私は、胸がチクリと、いえ、ブスッと
刺されるような感じがしました。
心配してくれている雪子おばさんを、
自分は騙しているのです。
良い気は、全く、しませんでした。
「しょうがないんだ!
こうするしかないんだよ……」と言う、
言い訳を自分にしながら、店内に戻り
ました。
そして、私は、その夜も、品河の
漫画喫茶で過ごしたのでした。
(著作権は、篠原元にあります)