第１３話　〈地下図書室〉の特等席

　

　出がけにお師匠さまの口から何気なく飛び出した名前。

（エレン、って言ってた……）

　もちろん、ルナに心当たりがあるわけでも、同じ名前の知り合いがいるわけでもない。

　カーネリア・エイカー以外の、女の人の名前。ルナはそれが、なんだか気に入らない。
　ルイ・マックールといえば、カーネリア・エイカー。

　これは、みんなが知ってるお決まりの

セット

のようなものだった。

（そりゃあ、世の中には女の人がカーネリアお姉さん一人、ってわけじゃないけど……）

　姉弟子びいきのルナとしては、無意識に口がとんがってしまう。

　ルイ・マックールは世間から長い間キョリを置いて生活していた。
　そんな彼に、なんと、エレンという女性は親しげにアドバイスをしたというから、ルナのお師匠さまにとって、ずいぶん身近な存在らしい。

　――ツン、ツン。

　何かに肩をつつかれて、ルナは顔を上げた。

　カーネリア・エイカーが選んでくれた、ルナのほうきだった。
　ほうきはルナが胸に抱えている本を、柄(え)の部分で指し示している。

「そうだった！　今はほうきの勉強しないとね！」

　もやもやした気分をふり払うように、ルナは本の表紙に指をかけた。
　ためしに最初の方をめくってみる。

　ほうきに乗った女の子の全身図といっしょに、ほうきの「柄(え)」「房(ふさ)」「乗るところ」など、矢印で名前やかんたんな説明が書いてあった。

　これなら、ルナにも読めそうだ。
　ルナはじっくり本と向き合うことにした。

「そうだ！」

　宿題をするためには、集中できる部屋とノートと筆箱。それから麦茶とおやつが要(い)る。
　ルナは自分の部屋へ駆け出した。

　ルナの机には、弟子取り見学のために用意したリュックサックが引っ掛けてある。
　中身は、ノートと筆記用具、水筒。
　ハンカチ、ティッシュ。酔い止めの薬。　

　ルナはその中から、ノートと筆箱。それに、お師匠さまが用意してくれたスケッチブックと色えんぴつも手に取った。

（それから……）

　ルナはチラリと水筒に目をやった。中身はお母さんが入れてくれた麦茶。
　ただし、満月の夜の日の。

（あれから何日経つんだっけ……？　お師匠さまのことだから、魔法で勉強のはかどるジュースに入れ替(か)えてくれているかもしれない！）

　ルナは気軽にふたを開けて、すぐ、閉じた。
　麦茶のにおいが、

むわん

と、飛び出したから。

　ルナはこれもノートと一緒に抱えた。次の行き先は、もちろんキッチン。

　ルイ・マックールのお城のキッチンは、一階にある。
　玄関から入って左手の階段の奥。両開きの扉があって、その扉は内側にも外側にも開く。

　ルナは今、両手がふさがっているから、肩で扉を押し開けて中へ入った。
　ひとまず、荷物は食卓のはしの方に置いておいて、ルナは真っ先に銀色の大きな冷蔵庫を開いた。

　お目当ては、ゆうべから寝かせておいた食パン。
　タッパーを開けると、ルナの狙い通りたっぷりと卵液を吸い込んでいた。
　ふんふん鼻歌を歌いながら、ルナはフライパンに少し、油をひいて火にかける。

　本当は朝食のためにと思って、昨日食べ残ったパンを下ごしらえしておいたもの。
　けれど、どうやらルイ・マックールは甘いものはほとんど食べないらしい。
　それが分かって、急(きゅう)きょ自分のおやつにすることにした。

　フライパンの中で、

ひたひた

だったパンが、ふっくらとしてくる。
　バターを一切れ足して、ひっくり返したら、キッチンはいい匂いでいっぱいになった。

　こんがり焼き色をつけたら火を止めて、ルナは慎重(しんちょう)にお皿に移す。

　ルナはいつか使ってみたいと思っていたお皿を使った。
　食器棚では目立つ存在の、色鮮やかな大きな花が描かれた、ステキなお皿。

「はちみつ！　忘れてた！」

　あつあつにふくらんだ食パンは、

ふわとろ

が命。できたてを食べなければ、あっという間にしぼんでしまう。

　ルナは急いでキッチンを見回した。けれど、それらしいものは見つからない。
　お皿の上の黄色い

ふわふわ

には、代わりにお砂糖を振りかけることにした。

「フレンチトーストの出来上がり！」

　アツアツのうちに、ルナはナイフとフォークで次々と口へ運んだ。
　自分で作っておきながら、おいしくって止まらない。
　ぺろりと平らげた後で、しまった、これは勉強のおやつ用だった、と思い出した。

　後片付けの最後に水筒を洗いながら、ルナはちょっとだけお母さんの顔を思い浮かべて涙がにじみそうになった。
　こうなると分かっていたから、ルナはできるだけ、おうちのものには手を付けずにいた。
　ルナは洗い終えた水筒を、ほかの物といっしょに、かごにふせて置いた。

　こうして、ルナはやっと、〈地下図書室(ちかとしょしつ)〉へ向かった。


　〈地下図書室〉は、キッチンとちょうど反対側にある。
　地下といっても、入り口は一階にあるし、おひさまの光がよく入る明るい図書室。
　ルナは入り口近くのカウンター席を通り過ぎ、中央の大きな机に席を決めた。

　ルナはここが好き。
　おひさまの光で満ちていて、ぽかぽかして、落ち着く。

　反対にルナのお師匠さまは、この一階の図書室よりも地下の方が好きみたい。
　大事な資料や難しい本は、地下の図書室に置いてあるし、なによりお師匠さまの研究室が作ってある。

　だから、お師匠さまが図書室を利用するといったら地下の方ばかり。それで、図書室全体のことを指して「地下図書室」と呼ぶ。
　ルナに「〈地下図書室〉にも行ってごらん」といったのも、特に地下に降りるよう言ったわけではなく、図書室全体を指して言った、ということになる。

　ルナもそれが分かっているので、わざわざ用のない地下へは下りず、一階(ここ)で『はじめてのほうき』にとりかかった。

　１ページずつ、１字も見逃さないよう、ていねいに読んでいく。
　もう少しで半分というところで、ルナの手が止まった。

　ふうーーっと、長い息を吐く。
　さっぱり理解できない。
　ルナは『はじめてのほうき』をパタンと閉じた。

（お師匠さまが『実践(じっせん)が一番』っておっしゃってたのは、本当だったんだぁ……）

　ルナの目が、図書室の奥の窓辺にいく。

　そこは、座って本を読むのにちょうどいい〈出窓具合(でまどぐあい)〉をしているところで、なにより背中がポカポカして気持ちがいい特等席(とくとうせき)。

　 この出窓(でまど)の背が、天井まで届くほど高いおかげで、図書室はおひさまの光で満ちている。

　ルナは気分転換(きぶんてんかん)のつもりで、席を立った。本は机に残したまま、代わりにスケッチブックと色えんぴつを持って――。

　貴重(きちょう)な専門書(せんもんしょ)がつまった贅沢(ぜいたく)な本棚の列を、ルナは見向きもしないで通り過ぎていく。
　お目当ての窓辺(まどべ)に到着して、ルナは、あっと、うれしい声を上げた。

「猫ちゃん！」

　特等席には先客(せんきゃく)が居座(いすわ)っていた。
　銀(ぎん)色の毛をした猫は、ルナを無視して丸まっている。

「いつか木のうしろでほうきの練習を見ていたのは、あなた？」

　どれだけ相手にされなくても、ルナはこの可愛らしい生き物が、うれしくってたまらない。

「きれいな毛だね。銀猫(ぎんねこ)ちゃん、って呼ぶね」

　気に入らなかったのか、猫は初めて目を開けてキッと、ルナをにらんだ。
　そして、スルッと窓の隙間から外へ飛び出ると、木立(こだち)の中へ消えてしまった。

　けれどルナは、ちっとも気にしない。
　だって、猫ちゃんって、そういうものだと思っているから。

　ルナはさっきまで銀猫が丸まっていたところに座って、ひざの上でスケッチブックを開いた。

　紙は優しい白色をしていた。