第十二話  覚醒

文字数 2,821文字

 ルビはあのカフェにほぼ毎日一人でやって来るようになった。
 なぜここでなら書けるのかルビにも理解できなかったが、とにかくの喫煙席に座ってペンを握ると自然に物語が湧いてくるのだった。

 ルビは12歳には小説を数本書き上げていた。
自室のなかったルビは居間やキッチンの隅っこ、ベランダや廊下などあらゆるところで物語を文字にした。そのときルビは外界から遮断され、自分の脳内に作り出された仮想世界の住人となった。

 それは本に没頭するときとも違う独特の感覚だった。
 物語を書きながら、笑ったり悲しんだり興奮しているルビの姿を見つけた父は、祖母と母にルビに話しかけないように強く言い聞かした。

――あのときの感覚が今のルビの全身にフィードバックしている。
 ただ、ルビの思考の進み方にペンがついてこなくなったり、指が疲れてしまいやむを得ず休憩をとらなくてはならないことに苛立ちを覚えるようになった。
なのでここ数日ではノートパソコンを持ち込んで執筆している。取り憑かれたようにタイピングをするルビの姿に異様なものを見るような視線を投げる客もいたが、現実界から完全にシャットアウトされたルビは、一向に気に留めることはなかった。

目の前に人の気配を感じたルビは、店員が水でも継ぎ足しに来たのかと思ったが、それは三浦だった。

「やあ、ここだと思ったよ」

 三浦はコーヒーカップを手にニコニコと笑顔をたたえている。
 朝日に照らされた三浦は、50過ぎのおじさんに見えないくらいみずみずしく光を反射させていた。

 ルビは口元だけで笑顔を送り、すぐにパソコンのディズプレイに視線を戻し執筆を続ける。椅子に座った三浦は独り言を言うように喋り始める。

「今書いている『美しいノーベル』はホンマモノだよ。次回で4回目の掲載になるけど、読者からの反応がすごいんだ。昨日編集長と話をしてね、単行本化は決定だ。僕も早く続きを読みたいくらいだ」


『美しいノーベル』は、ルビの処女作とは大きくかけ離れ、読みやすさを考慮せず綴られた。いささか難解な内容だったが、それでも強く読者を惹きつけた。ルビは三浦の言うとおり一切調べ物をせず、自分の記憶にあるものだけで内容を作り上げた。というより、それが”記憶”なのかどうかもはっきりしなかった。とにかく文字が出てくるのだ。
その方法こそが、自分の能力を引き出す最善のものだということを、ルビは小説家デビュー3年目にして知ったのだった。

一段落ついた頃、三浦がコーヒーのおかわりを持ってきてくれた。
新しいタバコに火をつけ、煙を一直線に伸ばしたルビが三浦に言葉を発した。

「なんでここなら書けるんだろう?」

三浦はルビと目を合わさず、通りを歩く人たちをぼんやり眺めながら口を開く。

「作家は書けない時期でも体の中で何かが”分泌”されているんだよ。スランプで書けないと頭の中が空白になる感じがするらしいけどそれは錯覚だ。体の中で溜まっていく不規則な文字の山が、内側から内蔵と皮膚を圧迫して辛くなるんじゃないのかな?うまく書けたときには”創造の喜び”ではなく『カタルシス』によって全身が歓喜するんだよ。作家が情報を貪るのは決して知識が足りないわけじゃない、”トリガー”を探しているのかもね。簡単に言うと『便秘薬』だよ。便秘しているときにそれを押し出そうと食べるのは逆効果だよ、体を”排出モード”にしないと。ルビは(美しいnovel)にそれほど思い入れはないんじゃないのかい?作者にとって完成品にはそれほど価値はないもんだ。書けた自分に対して価値を感じるんだよ。それとその奥にある方程式にね」

三浦の解答はルビの質問には答えていないと感じたが、”何か”を解決するには十分な内容だった。
ちょっとヌケている人間である三浦だったが、ヌケている人間は賢い人がどうやってもたどり着けない真実を”まぐれ”で引き当ててしまうことがある。三浦の脱線した話は、ルビの奥底にある”核”の構造式そのものだった。


――執筆スピードは驚くほどに早く、連載頻度を大きく前倒しして完成を迎えた。

 ルビは久しぶりに顔を見せた出版社で、三浦に「おめでとう」と、初めてそんなことを言われた。たいてい穏やかで笑顔の三浦だが、いつにも増して表情が明るい。彼もどこか「排出の喜び」を感じているようだった。全10回の連載後、3ヶ月という異例の早さで単行本化され売上も順調だった。

 ルビの頭の中には、「早く文字化してくれ!」と言わんばかりに思考の中で次々と文章が並べられて催促している。そしてその状態にルビは安堵感を覚えていた。


   ***

「お母さん、一緒に暮らそうか……」

 いつものように掃除にやって来てキッチンをゴシゴシと磨き上げている母の背中に向かってルビが言った。
母の動きは一瞬止まり、また再開させて答える。

「いいの?一人がいいんじゃない?気が散らないの?」

「うん、それは大丈夫。いちいち来てもらうの大変だし……」

 ルビはパソコンを打ちながらそっけなく言い、母親は次に風呂場の掃除に取り掛かった。

 ルビの母親は、風呂の床をごしごしとスポンジで擦りながら、実はうれしさに包まれていた。「一緒に暮らそうか?」という何気ない一言に、ルビの精神状態の変化を見て取れたからだった。
 ルビが小説家デビューした際に一人で暮らしたいと言い出したとき、彼女の性格から覚悟はしていたので二つ返事で了承した。ルビの不安定さと危なっかしさが心配でたまらなかったが、娘の成長を願って自分の感情を押し殺したのだった。

 母はこれまでルビのメンタルな部分にほとんど干渉しなかった。

 この間、自分の過去をルビに告白したのが初めてのことだったのかもしれない。そして今現在、ルビは目に生気を取り戻し仕事を頑張っている。その詳細には推測も及ばないことだけが残念だった。

(父親が生きていたらもっと深くルビの喜びを分かってあげられるのに…)

一瞬脳裏に浮かんだその言葉は、風呂場の床の汚れと共にかき消した。


 風呂場が片付くと、買ってあったハンバーグとサラダと惣菜を作る材料を冷蔵庫から取り出し調理にかかった。
 それらが一段落つく頃、ルビはパソコンから離れてコーヒーを入れ、母の分と2つテーブルに置いた。


「お母さん、いつまで看護師するの?」

 普段はそんな話をしないルビの言葉に母は驚き、少し考えて答える。

「今の病院は定年が65歳だけど、再就職するわ。看護師自体に定年はないのよ」

 そう答える母親の胸元を見ながらルビはボソりと言った。

「天職なのね……今の仕事」

 しばらくの沈黙のあとどちらともなく笑い、しばらくその声が止まることはなかった。
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