第2話
文字数 1,963文字
覚えているのは、とても寒かったこと。
空からたくさんたくさん水が落ちてきて、体中が痛かったこと。
地面は水浸 しで、どろどろで。歩こうとするとすべって転びそうになった。
まぶしい光が世界を覆い、激しい音が世界を震わせる。目も耳も役に立たなくなった。
ごうごうと風が渦を巻いて吹きつける。もう動けない。
小さな獣は深い森の中でうずくまり、目を閉じた。彼女は自分が何ものであるかも知らないまま、濡れそぼち、みすぼらしい綿埃 のような姿になって生を終えようとしていた。
ドドドド――…。
地響きが近づいてくる。大きなものがすごい勢いでそばを通り過ぎて行った。
泥飛沫 が上がる。溜まり水が大波となって彼女を押し流した。木にぶつかり、その衝撃で彼女の意識が覚醒 した。
(なにか、いる)
獣の鋭い感覚が、生き物の気配を捉 えた。
本能が小さな獣に、「歩け」と命じる。
「にー……」
彼女は力を振り絞った。わずかに残った命の火をかき立て、正体も分からぬものに向けて訴えた。
(――……!)
ふわりと身体が宙に浮いた。すっぽりと包み込まれる感触。
水と、あの嫌な光と音が遠くなる。
(あたたかい)
夢うつつの中、彼女は聞いたことのない音で会話するふたつの声を聞いた。
――魔法動物の生き残り。
――女神に愛された者。
音の切れっ端が頭に残った。
意味は分からない。分かったのは、もう泥水の上で寝なくてもいいのだということ。
ここは乾いていて、ほどよく明るくて、暖かい。ここにいれば怖いことは何もない。
ふう、と鼻から小さな息が漏れた。もう安心だ。ごろごろと喉を鳴らし、彼女は深い眠りに落ちた。
目が覚めると、大きな生き物が自分を見下ろしていた。その生き物は、藍色の目を細めて心地の良い音で彼女に話しかけた。
「シャトン」、と。
* * *
一人の少年がいた。名はアリルという。
彼はダナン王の長子で、『王子』と呼ばれる身分であった。
十五歳になった年、ウィングロット公がダナンの王に反旗 を翻 した。反乱軍の鎮圧 。それが彼の初陣となった。選ばれし精鋭たちに交じり、王と共に都を出立した王子に、周囲の者たちは次代の王としてふさわしい戦功を期待した。
ところが彼はしくじった。
道中、急激な天候の変化に見舞われて、軍からはぐれた。
奇妙なことに、同行の騎士たちは誰も王子の姿が消えたことに気づかなかった。
皆が王子の不在に気づいたのは、戦が終わり、勝利の知らせを持って王と共に意気揚々 と城に帰還したときだった。女王に王子の所在を問われ、王は返答に窮 した。
――王子が行方知れずになった。
勝利の喜びに沸きかけた王宮は、騒然となった。
混乱のただ中に、当の王子が姿を現わした。騎馬で城を発 ったはずのアリル王子は、なぜか城の自室から帰ってきた。その肩に灰色の子猫がちょこんと座っていた。
王子の姿を見た者たちは、あまりの変わりように声を失った。
アリル王子は語った。
嵐に遭 い、コーンノートとアンセルスに跨 がる大森林、ケイドンの森に迷い込んだ。そして、伝説の大魔法使いマクドゥーンの流れを継ぐ『惑わしの森の隠者』に命を救われた、と。
ウィングロットとはまるで方向が違う。にわかには信じがたい話だった。
ところで、イニス・ダナエには古い言い伝えがある。
女神ダヌは、ときに気に入った人間をひょいと手のひらにつまみ上げる。選ばれた者は女神から愛と特別な恩恵を受け、それと引き換えに大切なものを失う。
アリルは、王の長子として皆の期待に応える絶好の機会を失った。
しかし女神は、彼が自分に選ばれた者であるという証しに、衆目 にも明らかな徴 を残した。ほんの少し前まで「太陽のような」と称 えられた黄金色の髪は輝きを失い、色 褪 せて、百歳の齢 を重ねたかのような鉛色に変わっていた。
人々は『畏 れ』を思い出した。
――女神は確かにおわすのだ。
――不可思議な力は、まだ生きているのだ。
人ならぬものは存在する。不可解な事象はどこでも転がっている。
――自分もいつ遭遇するか知れないのだ。
人々は王子から一歩距離を置いた。
王宮で大勢の人間に囲まれながら、王子は今までに感じたことのない孤独を覚えた。胸に抱いたちっぽけな猫の温もりが、心に吹き込もうとする冷たい隙間風から彼を守ってくれた。
空からたくさんたくさん水が落ちてきて、体中が痛かったこと。
地面は
まぶしい光が世界を覆い、激しい音が世界を震わせる。目も耳も役に立たなくなった。
ごうごうと風が渦を巻いて吹きつける。もう動けない。
小さな獣は深い森の中でうずくまり、目を閉じた。彼女は自分が何ものであるかも知らないまま、濡れそぼち、みすぼらしい
ドドドド――…。
地響きが近づいてくる。大きなものがすごい勢いでそばを通り過ぎて行った。
(なにか、いる)
獣の鋭い感覚が、生き物の気配を
本能が小さな獣に、「歩け」と命じる。
「にー……」
彼女は力を振り絞った。わずかに残った命の火をかき立て、正体も分からぬものに向けて訴えた。
(――……!)
ふわりと身体が宙に浮いた。すっぽりと包み込まれる感触。
水と、あの嫌な光と音が遠くなる。
(あたたかい)
夢うつつの中、彼女は聞いたことのない音で会話するふたつの声を聞いた。
――魔法動物の生き残り。
――女神に愛された者。
音の切れっ端が頭に残った。
意味は分からない。分かったのは、もう泥水の上で寝なくてもいいのだということ。
ここは乾いていて、ほどよく明るくて、暖かい。ここにいれば怖いことは何もない。
ふう、と鼻から小さな息が漏れた。もう安心だ。ごろごろと喉を鳴らし、彼女は深い眠りに落ちた。
目が覚めると、大きな生き物が自分を見下ろしていた。その生き物は、藍色の目を細めて心地の良い音で彼女に話しかけた。
「シャトン」、と。
* * *
一人の少年がいた。名はアリルという。
彼はダナン王の長子で、『王子』と呼ばれる身分であった。
十五歳になった年、ウィングロット公がダナンの王に
ところが彼はしくじった。
道中、急激な天候の変化に見舞われて、軍からはぐれた。
奇妙なことに、同行の騎士たちは誰も王子の姿が消えたことに気づかなかった。
皆が王子の不在に気づいたのは、戦が終わり、勝利の知らせを持って王と共に
――王子が行方知れずになった。
勝利の喜びに沸きかけた王宮は、騒然となった。
混乱のただ中に、当の王子が姿を現わした。騎馬で城を
王子の姿を見た者たちは、あまりの変わりように声を失った。
アリル王子は語った。
嵐に
ウィングロットとはまるで方向が違う。にわかには信じがたい話だった。
ところで、イニス・ダナエには古い言い伝えがある。
女神ダヌは、ときに気に入った人間をひょいと手のひらにつまみ上げる。選ばれた者は女神から愛と特別な恩恵を受け、それと引き換えに大切なものを失う。
アリルは、王の長子として皆の期待に応える絶好の機会を失った。
しかし女神は、彼が自分に選ばれた者であるという証しに、
人々は『
――女神は確かにおわすのだ。
――不可思議な力は、まだ生きているのだ。
人ならぬものは存在する。不可解な事象はどこでも転がっている。
――自分もいつ遭遇するか知れないのだ。
人々は王子から一歩距離を置いた。
王宮で大勢の人間に囲まれながら、王子は今までに感じたことのない孤独を覚えた。胸に抱いたちっぽけな猫の温もりが、心に吹き込もうとする冷たい隙間風から彼を守ってくれた。