第5話

文字数 2,526文字

 茅ヶ崎時夫は新たに出演した国産ウィスキーのCMの公開とともにネット上にアカウントを作って発言を垂れ流し始めた。今じゃほとんどのタレントが自らの言葉を発信している。やつもその例に倣ったということか。茅ヶ崎時夫はそのままの名前で頭の悪そうな表情を浮かべたおれの顔とともに登場し、軽薄なコメントを発信し始めた。ソーシャルアカウントでの発信などアルバイトでも雇っていくらでもできるだろうし、なんなら人工知能にやらせたっていい。本人である必要がないどころか、人間である必要さえない。この国産ウィスキーのCMはテレビ放送だけでなくオンラインの動画配信サイトなどでも流れ、一気に多くの人の目に触れることになり、見事なタイミングで作られたソーシャルアカウントは一気に多くの注目を集めた。どうやってこの茅ヶ崎時夫が実体のない存在だということを世間に伝えたらいいのだろう。映画に出演し、CMにも出演し、ソーシャルアカウントで発言をしている俳優。それがはるかに無名な田神修一という会社員のパーソナルを盗んで作られたデジタルヒューマンだなんていう主張に誰が耳を傾けるというのだ。これはあまりにも分のない勝負だ。おれは気が狂いそうになって両手で頭を掻きむしった。けっこうな量の抜け毛が指に絡みついた。

 茅ヶ崎時夫の出たCMは特定のサイトでしか見られないマニアックなSF映画などよりもはるかに幅広い層に浸透し、あっという間に、お茶の間があった時代なら「お茶の間の顔」とでも呼ばれそうな状態になった。ことここに至り、おれはついに会社の役員に呼び出された。

 役員が使う会議室は調度が他の会議室とは違い、重めの色使いで統一されている。おれたちが普段使う会議室にはポップな色のテーブルや椅子が用意されているのだけれど、役員用の会議室は応接室を兼ねたもので、レザーのソファと重そうなローテーブルが置かれていた。
「あー、田神君。まあリラックスして。別に捕って食おうってわけじゃないんだから。っひっひ」
 おれを呼び出した川島常務はレザーのソファに深々と腰かけ、しゃっくりみたいな音をさせて笑いながら言った。川島常務は緩み切った体形の絵に描いたような中年で、でっぷりと恰幅がよく、それを含めてデザインされているみたいに背広がよく似合った。この世代の役員みたいな連中は背広の似合い方が普通じゃない。他のものを着ている姿を想像できないぐらい様になっている。おれなどがスーツを着るとGIジョーをバービーのボーイフレンドにするぐらい場違いなことになるのに、役員連中はネクタイを締めていても堅苦しさがない。

 緊張しながらソファに腰を下ろすとソファは思ったよりもはるかに柔らかく、沈み切った尻はもはやどうすることもできなくなった。おれはなんとか膝の上に乗り出して上半身を支えた。
「見たよ、CM。ひっひ。きみはなかなかほら、いい男だね。ウィスキーの似合う男だっけ。っひ。いいね、あれ。あんなのに出たらほら。ひっひ。モテるんじゃないの? うひひっひ」
「いえ、あれはわたしではありませんで」
「いやいやいいのいいの」
 川島常務は大げさに手を振っておれの言葉をさえぎった。
「なんもべつに田神君を叱ろうと思って呼んだわけじゃないの。まあたしかに就業規則には副業はダメって書いてあるのよ。うひ。だからなんかつじつまを合わせる必要はあるんだけどね。会社としてはね。っひひ。田神君のあの活動については黙認しようというか、支援しましょうという方針になったのよ。ひっひ。先週の役員会議でね。どうやらあのウィスキーのCMに出てるのはうちの社員ですよって話になって。っひっひ。いいんじゃないの、うちのCMもやってもらったらって。ひっひっひ。そこは君、人気が出たらね、うちのイメージアップにもつながるでしょ。うっひ。大いに頑張ってもらったらいいんじゃないかとね。ひっひ。だからほら。撮影で抜けるとかね。っひ。休み取るとかね。ひっひっひっひっひ。そういうの特例で認めていこうってことになったのよ。うほほひひ。とりあえず在宅中心の働き方に変えてさ。頑張ってよ、俳優業。ひひっひ」
 おれは面食らった。面食らったという言葉はどういう時に使うのかなと思っていたけれどまさに今だと思うぐらいに面食らった。冷や汗がにじみ出るのを感じた。怒られてあれはおれじゃないんですよと言い訳をする展開のほうがよほどよかったような気がする。むしろ精力的に俳優業をやってくれという話になったようだが困ったことに茅ヶ崎時夫はおれじゃないのだ。
「でも川島常務、あれは本当にわたしではないのです」
 おれが言うと川島常務は笑うのをやめて三秒ほど真顔になり、再びけたたましい音を立てて「げひひひひひ」と笑い出した。
「そういうことにしてもいいけどね。ひひひ。でも無理があるよ君。もし君じゃないということにするなら会社にいる間はつけひげでもつけておく? ひっひっふー。それでも構わないけど。うひひひ」
 だめだ。もはやおれが茅ヶ崎時夫だということにされてしまった。まさか嘘のない事実をただ主張するだけのことがこれほど難しくなるとは。おれは世界を甘く見ていたのかもしれない。常に嘘をつかず正直でいたら必ず信じてもらえると思っていた。甘かった。真実の方が嘘に見えるとは。おれは完全に堀を埋められたのではないか。おれに勝ち目はもう無いのではないか。

 おれは絶望的な気分になって、目の前のヒキガエルみたいな川島常務のケツに爆竹を詰め込んで吹き飛ばすところを想像した。
「ぎひひひひ」
 自分でも鳥肌が立つような笑い声が出た。川島ヒキガエルはひきつりながら笑うおれを見て大喜びで一緒に笑った。
「げひひひひ」
「ぐひっひひうひひひ」
「わひひひわひわひわひいい」
「ひひひいい」
 
 オフィスの役員用会議室で川島常務と大笑いした翌日からおれはまた在宅勤務中心の生活に戻った。会社から与えられる仕事は日に日に減り、暇な時間が増えたけれど特におとがめもなく、減給されるようなこともなかった。オンライン会議なども目に見えて数が減り、おれは自分がこの世に存在しているということにさえ自信を持てなくなりつつあった。
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