第八話 気高き者たち

エピソード文字数 6,948文字

暫く歩いていると、ふと妙な匂いがオリビアの鼻を包んだ。
(……獣の匂い?)
オリビアの住む家はすぐ裏手が森ということもあり、しばしば獣たちが姿を現していた。特に春先になると、ヤマネコたちが、自分たちの縄張りを主張するため、家の裏手にある木などに匂い付けをしていたのだが、その独特な鼻をつく感覚にそれはすごく似ていた。何かの動物が同じように匂い付けしているとなると、今自分たちがいる空間は彼らの領地であり、無断で足を踏み入れていることになる。
思わずオリビアはグリンデの顔を見つめた。彼女は一瞬目を細めたが、すぐに表情を取り戻した。
「匂いがわかるのか、小娘。うむ。……やや警戒したほうが良いかもな。念のため、我に寄ってろ」
グリンデは、炎を放つことができる、魔女と呼ばれた存在である。並みの獣では、まず相手にはならないだろう。しかし仮に群れを成している生き物ならどうなろうか。当たり前だが、彼女も腕力は人間と同じだ。猛獣のそれととても比べられたものではない。周りを囲まれ、隙を突かれたら、炎で太刀打ち出来ずに食い殺されてしまうかもしれない。いくら冷静な表情を浮かべられても「寄れ」と言う言葉には息が詰まる。オリビアは黙って、グリンデの傍に数歩近づいた。
風に靡く草木の音が、やけに耳に響く。もしかしたら向こうは、既にこちらの存在に気づいており、物陰から様子を伺っているのかもしれない。オリビアの手が、そっとグリンデの二の腕に触れた時だった。それは突然聞こえた。
「ヒヒーン」
二人の視線は声の方へ翻った。その発生源は前方の茂みの先から放たれており、あまり遠くはなさそうだった。
グリンデは駆け出し、二の腕を掴んでいたオリビアもそれに付き合わされた。二、三回、草の塊を抜けたとき、先を行くグリンデの瞳に、小さくぼんやりと白っぽい姿が映し出され、その存在を認知すると同時に、彼女は低くしゃがみこんだ。同じくオリビアもそれに習い、草木の陰からその姿を確認する。予想以上の生き物だったらしい。囁きでありながらも、発せられたグリンデの言葉には強い高揚を含んでいる。
「……おぉ!あれはシルキーではないか」
(馬……?)
しゃがみ込んでいる、この場所のやや少し下の斜面の木々の隙間から、白い生き物がぶるぶると顔を震わせているのが、オリビアにもうっすらと確認出来た。
その生き物は馬の姿をしているが、どこか違和感がある。遠目からでもわかるほど、美しい白い毛並みはまさに白馬そのものなのだが、額に何か突起物が見えるのだ。それは何だろうと目を凝らすが、流石にこの距離からではわからない。
その生き物は嫌々そうに後ずさりしているようだが、背にある大きな木々たちに邪魔され、思うように身動きが取れないようだ。その場で前足を擦り、地を鳴らしている。暫くそのまま、足でかつかつと音を立てていたのだが、もう後ろへは行けないと悟ったようで、白馬はピタリと動きを止めた。そして頭を低く下げたと思った瞬間、勢いよく前方へと駆け出した。先ほどの怖気ようが嘘のようである。
見とれていると、隣から草が擦れる音が聞こえた。オリビアが「あっ」と思った瞬間には、グリンデはもう目の前の斜面を、さっと滑るようにして下ってしまっていたのだった。
「流石に我もシルキーを前にしては見過ごすわけにはいかん」
この言葉は誰に向けたものでもない。勿論オリビアにも聞こえていないだろう。とっさに無意識のうちに出た言葉であった。
このシルキーという生き物はグリンデが生まれた頃より、伝説と謳われていた白馬だった。グリンデも一度か二度ほど目にかけた事はあったのだが、どれも遠くから走り去る背中を見た限りだった。
シルキーは誇り高く、風より速く走るとされている馬で、大昔から王族たちが手なずけようと試みていたのだが、どれもあまり上手くいかなかったそうだ。やはりその理由の大きな一つに、気高き性格が強く関係しているようで、触れようとした者だけでなく、周囲にいた人間を辺り構わず蹴り殺してしまったという話が多く残されている。背に乗せた者もいたそうだが、どれも歴史に残る豪傑たちだけのようで、片手で数えられるほどの例しかないようだ。ただでさえ数が少なく、出会うことすら難しい。あげく、ようやく捕らえ、懐かせようと試みると命を奪われる。王族たちの間でももはや、飼いならそうと思う者はおらず、まさに伝説の存在となっており、今では紋章の中に憧れを見るだけとなっていた。
グリンデも勿論、シルキーに跨りたいと思って駆け出したわけではない。ただ一度、間近でその美しい姿を、しっかりと目に焼き付けたいと思っただけであった。
あれはまるで雪原を照らす朝日のようだった。グリンデは幼い頃、走り去るシルキーの後ろ姿に遭遇した事があったのだが、その時に遠目から見た、日光を反射させて、きらきらと光るあの毛並みを今だに忘れられずにいるのだった。その光景は百年以上経った今でも色褪せてはいない。近くで見たらどれほどに美しいのだろう。その好機を逃すつもりは、伝説の魔女にも更々なかった。
しかしグリンデが斜面を下った時、まず目に入ったのはシルキーではなかった。
(これは……)
流石のグリンデもその光景に少し息を呑んだ。オリビアにはあまり見せられたものではない。そう思ったのも束の間、すぐに背後の地面が音を立ててしまった。
オリビアは膝に付いた泥を落とし、前を向くと同時に絶句した。
(な……)
目の前で何かが二つ転がっている。辺りには真っ赤な鮮血が飛び散り、鉄のような生臭さが漂っている。
「……リリオンどもに追われていたのか。それで返り討ちに……」
リリオンと呼ばれた獣の死体は、目を見開いたまま舌を出し、天を仰いでいる。よほどの一瞬でやられたのだろう。絶命を上げる間もなかったようだ。一匹は腹を潰され、もう一匹は蹴られた際に衝突したのか、近くの木の根元に横たわっている。
その獣たちの額には磨かれた宝石のような角があり、とても変わった風貌をしていた。リリオンも、シルキーほどでもないが、なかなかに希少な生き物で、もちろんオリビアも一度も見たことがなかった。生きていたらさぞ美しいだろうが、流石に亡骸をまじまじと見る気にはなれない。
「ガルルルルル」
今度は明らかにシルキーの鳴き声ではなかった。その声は前方から聞こえ、驚くほどに近い。
二人は顔を見合わせる間もなく、その声のするほうへ駆けていった。すると、すぐにあの白い毛並みが草むらを隔てて姿を現した。
二人は木の陰からその姿を見つめた。先ほど絶命していた者の仲間か、シルキーの目の前には二匹のリリオンが対峙しており、彼らは歯をむき出し、憤怒の表情で白馬を威嚇している。シルキーの足の付け根には、リリオンの爪痕が赤々とくっきり記されていたが、動じる気配はない、相手を向かえ討つ気か、頭を低くし、今にも突進を繰り出しそうな姿勢を見せている。まさに一触即発だった。
「……森林の皇帝の誇りを傷つけたか」
グリンデが呟いたように、リリオンも“森林の皇帝”と呼ばれるほど気高く、この森周辺の食物連鎖の上部に属する生き物だった。額にある、神々しい宝石のような角を持つ外見もあってか、シルキー同様に貴族の紋章に使用されるほど人々から親しまれている存在でもあった。
四、五匹からなる小さな群れを作り、それぞれ協力しながら狩りをして生活しているのだが、どうやら今回は少し相手を欲張りすぎたようだ。だが彼らも、仲間二匹がやられてしまったまま、逃げ去るという選択肢は選べないのだろう。腹の虫がとうてい収まりそうにはない事を、鋭く尖った八重歯がはっきりと伝えている。
(二対一か……流石にリリオンに軍配が挙がるか)
グリンデの胸の内には、シルキーを間近で見たい欲求が強くあったのだが、助けるつもりはなかった。自然の中でこのような争いは日常茶飯事で、この森の外から来た生き物……まして人間である自分が手を下すのは無礼だと感じたからである。
終わりが近くなったら、オリビアの目を塞いでやればいい。自分は少しでもシルキーの姿を焼き付けよう、そう思い目を細めた時だった。
「もう止めなさい!お肉なら私のをあげるから!」
(こ、小娘……!)
なんと、オリビアが戦場の真ん中に勢いよく飛び出し、大声で叫びだしたのである。片手には今朝自分が食べた物と同じ、あの干し肉が握られている。
二匹のリリオンたちの目の前にその肉が放り投げられた。無論、激昂した森林の皇帝がおとなしくその肉を受け取り、立ち去る訳がなかった。むしろリリオンたちは、突然現れた部外者に、決闘の邪魔をされたとしか思えなかっただろう。
リリオンは、オリビアと同じか、少し大きいくらいの大型の猫科の生き物である。オリビアがこの場に飛び出せた理由は、思いたったら後先考えずに行動してしまう、この無鉄砲な性格によるもの以外に見当たらない。まずはお前から殺してやろう。そう言わんばかりに、リリオン達の怒りの矛先はオリビアへと向かった。
「いやぁぁ!」
物凄い勢いで駆けてくる二匹から目を反らしかけた時、オリビアの脇で光が舞い、辺りに影を作った。グリンデが手の平から火球が放ったのである。火球はどぉんという大きな音と共に、リリオンの足元の地面に直撃し、辺りに小石が飛んだ。
予想外の事態にリリオン達は驚き、その場にたじろんだ。息をする間もなく、再びグリンデは手のひらを宙に向け、辺りの草木を燃やさない程度に火柱を放った。
自然界で火を見ることはあまりに少ない。リリオンたちも誇りだの、仲間を失った怒りだの思っていられなくなったのだろう。本能的に、勝てないと察したのか、二、三歩後ずさりすると、そのまま後ろを向き、草むらへ逃げ去っていった。
「おんし──」
リリオン達が完全にいなくなったのを確認し、オリビアを一括しようと時だった。本来そこにいるはずのオリビアが、グリンデの目の前にいなかった。辺りを見回すと、右手側……シルキーがいた側の木々の隙間から、彼女が立ちすくんでいる姿が目に入った。オリビアはこちらに目も暮れず、何かをじっと見つめている。
グリンデはオリビアの方へ駆け寄った。その途中、瞳の脇に白い何かが映り、驚いた。てっきり、リリオン同様に逃げ去ったと思っていたシルキーが、足を折り地面に座り込んでいたのである。左足の付け根には、先程リリオンにつけられた深い傷跡がくっきりと残されている。
シルキーの目線の先にはオリビアがいて、お互いが見つめ合っているような状態だった。オリビアは何を思ったのか、シルキーにゆっくり近づいてゆく。
「おい!止めろ!蹴り殺されるぞ!」
そばにいたなら手を掴んで止めていただろう。この僅かな距離がもどかしい。グリンデは大声で忠告したが、彼女はそれを聞こうともしない。むしろだんだんと速足でシルキーの元へ駆け寄って行った。
こうなったらもう構えるしかない。グリンデは手のひらをシルキーに向けた。オリビアがそろそろシルキーの眼前に辿り着き、襲われるであろう時だった。
(……っ)
確実に火球を当てる為にも、グリンデはシルキーの立ち上がり様を狙おうとしていたのだが、予想外の事態がその行為を中断させた。シルキーは襲うどころか、その場に座り込んだまま彼女の方へ頭を近づけ、鼻を動かし匂いを嗅ぐだけだったのである。オリビアはその鼻の前に手のひらをかざし、シルキーが少し落ち着いたのを見計らって、目の前にしゃがみ込んだ。
(……小娘、嘘だろ!)
自分が聞いていた伝承はまやかしだったのか。グリンデは目の前に起きていることが信じられなかった。なんと、次にはオリビアがシルキーの足に触れたのである。流石に触れる際、シルキーも一瞬びくりと驚きを見せたが、そのあとは暴れる様子もなく、ただじっとオリビアを見つめている。
「待ってて。今手当してあげるから」
オリビアはそういうと、鞄を開け、水筒を取り出し、シルキーの傷口へと水をかけた。シルキーは水がかかる瞬間、ぶるるっと少し大きな声を上げたが、それも一度きりで、後は大人しくオリビアの手元を見つめるだけだった。オリビアは続いて、家から持ってきていた綺麗な布で傷口の血と水をふき取ると、別な布でその傷口を圧迫した。この間もシルキーは何も動じはしない。
グリンデは手のひらをかざしつつ、ただ呆然と息を呑みながら、続くその行為を見つめていた。

オリビアは、今できる簡易的な処置を施し、血が止まったのを確認すると、包帯をその傷口へくるくると巻き始めた。シルキーも処置が終わったのを察したのか、無傷の左足に力を入れ、むくりと立ち上がった。
(……大きい)
オリビアを見下ろす眼差しは、一般的な馬より一回り程高い位置にあった。くりっとした二重、吸い込まれるような黒い瞳は純粋さを語り、ただ静かに優しさを伝えていた。
シルキーは少しの間オリビアを見つめると、くるりと反転し、森の方へゆっくりと歩いて行った。とりわけ駆け出す様子もない。
オリビアはそのまま背中を見つめていると、シルキーが再び反転しこちらを向いた。今まで必死だったのもあるだろう。この時、草むらの陰からぼんやり見えた突起物が、二つの白い角であることがわかった。その角は夜光貝のように淡く日光を反射している。それだけでなく、額を蜥蜴のような固い皮膚で覆われていることにも気が付いた。リリオンの攻撃による怪我も、足の一つで済んだのはこの皮膚のおかげなのかもしれない。純白の鬣をなびかせ、美しく、威風堂々たるシルキーの立ち姿は、まさに伝説と謳われる所以を見せつけていた。
シルキーは暫くじっとオリビアを見つめると、再び背を向け森の奥へと帰っていった。今度は少し駆け足気味で、すぐにその背中は木々に隠れていった。
「おんし……」
ここでようやくグリンデは口を開いた。放たれる言葉は強い威圧感を含んでいた。
「おんし、何をしておる!無事だったからこそ良かったものの、何故飛び出したのだ!流石に我の気も少しは考えてくれ!」
オリビアはうつむきながら答えた。その声は少し震えている。
「……だって、みんな理由を見失っていたから」
「理由?」
「……最初はきっと、リリオン達は食欲を満たしたい気持ちだけだったと思うの。それが仲間をやられて……その怒りからシルキーを報復したい気持ちだけで襲いかかってた。怒りで何も見えなくなってた」
声はより震えを強める。
「シルキーも本当は戦いたくなかったと思うの。でも、戦わなければ自分が殺されてた……だから仕方なく攻撃してた……もしあのまま戦ってたら、リリオンは隣にいた仲間も失ってたかもしれない。今ある、残された大切なものまで失ってたかもしれない。そう思ったら黙っていられなかった。見ていられなかった」
オリビアは顔を上げグリンデの目を見つめた。グリンデの瞳に映し出された緑色の湖面は、今にもあふれだしそうな程に水位が上昇している。
「お腹が空いててシルキーを襲ったなら、私の持ってる肉で食欲を満たせば良い。たった一時の怒りの後に何が残るんですか?誰も得しない争いなんて、止めないでどうするんですか?」
そう言い終えると、オリビアはとうとう堪えられなくなったのか、嗚咽を上げながら大粒の涙をこぼした。
(なるほど。この小娘からしたら、獣も人も変わらぬか)
グリンデは、シルキーがオリビアに襲い掛からなかった理由が少しだけわかった気がした。野生動物というものは勘が鋭い。人間、動物……そういった類に捉われず、わけ隔てなく、対等に命に接しようとする姿勢をどこかで察し、心を許したのかもしれない、と。
だが同時にグリンデは、甘さも感じていた。争わないで解決する方法、そんなもの誰だって望んでいる。それができない理由をまだ知らないのだろう。戦わなければ守れないもの、満たされないものが沢山あるという事、そんなに世の中が単純でない事を知らないのだろう。
(そう。争いを避けて生きられるなら、我はこんなにも苦しみを知らぬ)
グリンデはそっと目を閉じ、胸で呟いた言葉を飲み込むと、ローブの内に手を伸ばした。そして薄手の布を取り出すと、それをオリビアへと差し出した。
「あの小さな肉で、リリオンどもの食欲が満たされる訳なかろう。馬鹿にもほどがあるわい……まぁ良い。どうだ?自然の中を旅するとは、中々に苦しかろう?今なら引き返せるぞ」
オリビアは差し出された布で涙をふくと、赤く腫れた瞼を向け言葉を放った。その声は震えているが、短く力強い。
「帰りません」
グリンデは鼻で大きく笑い「ならもう飛び出したりするなよ。死んだら旅も糞もないわい」と言葉を足すと、下ってきたあの斜面に向けて歩き出した。ずっとここで泣いている訳にもいくまい。オリビアもその背に続いた。
途中、オリビアがどうしてもと言うので、あのリリオン達の亡骸に軽く土を被せ、手を合わせると、二人は再び目的地へ向けて足を進め始めた。
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み