-serpiente-
文字数 4,582文字
これは、夢だ。
真っ暗な空間を見つめ、俺はすぐに自覚した。
明晰夢。
夢を夢と自覚し、しばしば自分で操ることのできる夢。
せっかくの夢だというのに暗闇とは、我ながら味気ない。
そう思っていると、何処からか不意に声が聴こえた。
――蛇 が、居る…。
「…じゃ? …。」
邪か。それとも――蛇か。
すぐには判らなかったが、何となく、後者が正解だと感じた。
――蛇のせいだ。漸くそれが判った…。
どちらでも構わない、とでも言いたげな様子で、声は続ける。
――どうか、邪を祓っておくれ。
目が覚めた。
明晰夢にしては、なかなか不可解な夢をみてしまった、ような気がする。――いや、夢なんて、そんなもんだけどな。
声が聴こえたのは、ともかく。
それがどんな声だったのか。――男の声だったのか、女の声だったのか。それすらもよく分からなくなってしまっている…。
――蛇を、祓う。
…ただの夢のはずなのに妙に気にかかって、その日は朝から気が重かった。
休み時間。
「…おい、狐塚。お前何か今日、元気ないぞ?」
「…んなこたねぇよ。お前がいいかげんうざいから、辟易してんだよ」
朝礼の前に――先輩のことでとはいえ――あれだけ絡んでおきながら、まだ何か用かと、俺は呆れて答えた。
「うわ、ひっでぇ! 心配してやってんのに、その言い草はねぇだろ…」
「…。何でもねぇよ。…それより、いい加減俺に何かとしつこく絡むのやめろよ。…本がちっとも読めやしねぇ」
「…。つーかさ、それ、何の本?」
「………。鹿園、お前…、暇なのか?」
「休み時間に暇してて何が悪ぃんだよ。」
「悪かねぇけど。…人が熱心に趣味に取り組んでんのを、わざわざ邪魔する事はねぇだろ」
「……。今日は、いつにも増してノリ悪ぃな、お前…。」
「今日中にこれ読まねぇと返却期限がやべぇんだよ。…悪いけど、後にしてくれ。」
「あぁ、そうなのか…。そりゃ、しゃあねぇな。…邪魔して悪かったよ。――じゃな。」
「おう。」――俺がそう答えると、鹿園はすごすごと去っていった。
俺は、まだ半分ほど残っている本の頁を開き、改めて目を落とす。
――蛇、なぁ…。
今読んでいる本によれば。
蛇はどうやら、脱皮の様子から再生の象徴とされ。
また、蛟 ――水の神と近いものだと考えられたこともあったらしい、と知る。
蛟は、長く生きると龍になるのだとか、なんとかいう話もある。
…それを、祓えってか…。
我ながら妙な夢を見たものだと溜息を零さずにはおれなかった。
ただの夢なのに。
――大方、今借りて読んでいる本の影響で、あんな夢を見たんだろうが。
それにしては、妙に現実味があった、ような…。
…って、何で俺は夢なんかを真に受けてんだ。
姉さんならともかく。――そう呆れ、けれども血は争えないなと僅かに笑った。
そうして、どうにか読み終えた本を図書館に返却し終えてから。
尚も、俺は考え込んでいた。
――家の近くに、川ならある。
ひょっとしたらそこに、何かヒントのようなものがあるのかもしれない。
少なくとも、行かないままで悶々としているよりは、多少は気が晴れるだろう。
そう思った俺は、学校帰りの荷物を持ったまま、川の方角へ足を運んだ。
…遠目で見れば、川そのものも蛇のように見えるな。
そんなことをぼんやりと考えながら、俺は何気なく川原へ下りる。
川原とはいえ、今時蛇などほとんど見かけない。
アスファルトやコンクリート、石畳で舗装された道を抜け、ざらりと土を踏みしめた。
昔はここらでよく遊んでたな。
そんなことを思い返し、ぶらぶらと歩き回りながら、ぼんやりと辺りを見回して。
小学生くらいの子供が無邪気にはしゃぎ回るのを横目に、堤防も兼ねた草地へ寝転がる。
空が晴れていて、よかった。――吹き抜ける風が実に心地良い。
…でも、水に関係しているんだったら、雨が降った方が何か分かったりするのか? と、一瞬考え。
――いや、だから、なんで俺は夢を真に受けてんだって。と、苦笑した。
周りの長閑な風景と馴染まない出来事のせいか、不意に馬鹿馬鹿しく思えてきた。
まぁ、少し気が晴れたのでよしとしよう。…と理由をつけると、起き上がり、荷物を持った。
急いで帰らないと、母さんが心配するかな。
やれやれ、と、日常に戻るために堤防をのぼる。
――ぱしゃん。
不意に、背後の川から水音がした。
水の流れる音とはまた違う。魚が跳ねたか、水鳥が降りたか、そんなところだろうが…。
一応、何だろうと思いつつ、目を向けた。
見れば、確かに水面が揺れた痕が幽かに見えた。
水鳥の姿はそこにはない。しかし――何だろう。妙に、大きいような。
首を傾げていると、鼻先にぽつりと水が当たる感覚がした。
――雨だ。
…いや、急すぎる。夕立か?
そう思った瞬間。
深い霧の中。辺りは宵闇の色に染まり、流れる川は小さく。
そして、その川の向こうには人影があった。
『――ひさしぶりにかの気を感じたので出てきたが。そなた、やけにひとくさいな。』
声に驚いて目を凝らせば、妙に幼い少女がそこに居た。しかし、可愛らしいその容姿とは裏腹に、えらく尊大な口調をしている。
俺は面食らった。少女の眼は、まさしく蛇のそれだった。どうやら、人間ではないらしい。
――この手のモノは怒らせると手ひどい目に遭う。…見かけに騙されてはいけない。
『そうだ。よくわかっておるな』
案の定、心を読まれたかのようにそう言われ、にやりと笑われる。
どこか、ひどくうつくしいその表情にぞくりとしたが、それが恐ろしさゆえか、はたまた別のなにかからなのか、わからなくなってくる。
「え…っと、俺は、」
『なるほど。そなた、狐に好かれているのだな。』
ひとまず名乗ろうとすると、それを遮るかのように少女は言った。――どこか不機嫌そうな声色で。
『――あやつとそっくりだ。』
名乗る必要はない、と言いたげな視線を受けて。
「…。誰のこと、ですか?」――疑問を先に、尋ねてみることにした。
『それを知ればそなたもただでは済むまい。…わけを尋ねても、おなじこと。』
「…。」
『…おもしろくないか? そうだろうな。』――くつくつと、少女は如何にも愉快そうに笑った。
解らない話をされるのは面白くない。
なんだか無知を馬鹿にされているような気がして、少し気分が悪い。
――落ち着かなければ。相手の思う壺になりかねない。
「…さきほど。誰かの気を感じたので出てきたと仰いましたが、…、その人に会って、あなたはどうするおつもりなんですか?」
どうにか気持ちが少し落ち着いたところで、別の質問を投げかけた。――答えてくれるとは、あまり、思っていない。
『どうするも何も。…過去のすがたに戻るだけよ』
「過去の、ですか…?」――少女は、意外にも質問に答えてくれたものの、またも俺には解りようのない話だった。
つまらなさそうな俺の様子を見兼ねてか、少女は穏やかな表情を浮かべて更に言った。
『――わたしは、かの者たちの護り神だった。その縁をもつものが戻ったのならば、わたしもまた、かのもとに戻るのだ。――それだけのこと。』
「…。そう、ですか。」
憑かれる、というのは。
通常の状態とは異なった状態、を指す。
なにか病に罹っていることを、嘗ては、憑かれている、と言った。
しかし、神がかりな力を持っている者も、憑かれている、と表現された。
――『普通ではないもの』。
憑かれている。祓ってくれ。…か。
真意をはかりかね、眉をひそめる俺を見、少女は蛇のそれをした目を更に細めた。
『…なるほど。あやつ、終に感づいたか。』
「え?」
『――わたしは流る水のようなもの。木は育むが、火は潰える。』
「…??」
『…外界 からの少年よ。解らずともよい。――わたしはそなたを嘲笑いはせぬ。』
「あ…、はい。」――やけにやさしく微笑んだその笑みは、少女のそれでありながら、慈愛すらも感じられた。
『――わたしを要さぬというのか。…なるほど、そなたらしい。』
少女は尚も俺を見つめ、けれども俺への言葉ではないものをかけた。俺には判らないが、俺のほかに誰かいるのだろうか。
『わたしは老いた。今や、こちらの分が悪い。狐に消されるのも一興だが、そこまでは望むまいな。――ふむ。』
…何やら物騒な話になっているような気がするが、俺は、理解の及ばぬ話に口を噤むより他になかった。
『力ある土に始まり、より力を持った木が育まれ、火は再び灯されようとしている。そうなれば、金は溶かされ、流れぬ水は澱むばかりとなろう。…そうなる前に、わたしに報せてくれたのだな。』
水を司るものはなおも、俺を見ながら誰かと話をしている。
『――そなたのことを嫌うていたわけではない。…折が合わなかった、それだけのことよ。そなたが気に病むことはない。』
祟ったつもりはない、という事なのだろうか? なんの話をしているのかさっぱりだが、そもそも俺に言っているわけではないようだから、解らなくて良いのだろうと、自然と思えた。
『感謝しているのはわたしの方だ。…知って尚、わたしを厭いもせず、時を知らせてくれた。…そうか、そんなにも長く眠っていたのだな…。』
少女は少し寂しそうに微笑むと、尚も笑顔で言った。
『――そなたは望まぬかもしれんが、わたしは海の底で祈ろう。そなたのゆくさきに、幸あらんことを。…尤も、あれならばうまくやるだろうがな。そなたが目をかけたのだから。』
「…!!」
そう言った少女の姿は、前触れもなく、やわらかくほどけてゆく。その顔をよく見れば、涙を流したかのように濡れて見えた。
『…少年よ。そなたにも礼を言う。』
さいごに、ひとの口を動かした一言は、確かに俺に言っていた。
「い、いえ。俺は、何も――」
そう言っている間に、少女はおおきな蛇へと姿を変え、それすらもしずかに形をなくしていった。
――水玄蛇葉神 さま。どうぞ、もうお休みください。
唐突に背後から聞こえた声。
驚いて振り向くと、そこは先ほどの場所ではなかった。
此処は。
目の前に拡がった光景は、…先程の川原ですらなく、俺の家の前だった。
先ほどの出来事がそれこそ夢のように感じたが、変わらず立っているのだから、寝呆けていたわけではなさそうだ。
それに…、蛇と話していたときの空気。霧がかかったようにしっとりとした空間のそれが、まだ僅かに、辺りに漂っているような気がする。
「…。」――結局、なんだったんだろう。
そう考えを巡らせながら、清浄なそれを吐き出し、帰る場所へと足を踏み出す。
たちまち消えた瑞々しさは、まるで現実味を感じさせない。
どうやら蛇は、姿を消したようだった。
あれを『祓った』と言っていいものかは判らないが、またしても異界に足を踏み入れていながら、無事に帰って来られたことを、ひとまずは喜ぼう。
「只今帰りました。」
「おかえり。」――出迎えたのは母だった。
――これで漸く、すべて揃った。
真っ暗な空間を見つめ、俺はすぐに自覚した。
明晰夢。
夢を夢と自覚し、しばしば自分で操ることのできる夢。
せっかくの夢だというのに暗闇とは、我ながら味気ない。
そう思っていると、何処からか不意に声が聴こえた。
――
「…じゃ? …。」
邪か。それとも――蛇か。
すぐには判らなかったが、何となく、後者が正解だと感じた。
――蛇のせいだ。漸くそれが判った…。
どちらでも構わない、とでも言いたげな様子で、声は続ける。
――どうか、邪を祓っておくれ。
目が覚めた。
明晰夢にしては、なかなか不可解な夢をみてしまった、ような気がする。――いや、夢なんて、そんなもんだけどな。
声が聴こえたのは、ともかく。
それがどんな声だったのか。――男の声だったのか、女の声だったのか。それすらもよく分からなくなってしまっている…。
――蛇を、祓う。
…ただの夢のはずなのに妙に気にかかって、その日は朝から気が重かった。
休み時間。
「…おい、狐塚。お前何か今日、元気ないぞ?」
「…んなこたねぇよ。お前がいいかげんうざいから、辟易してんだよ」
朝礼の前に――先輩のことでとはいえ――あれだけ絡んでおきながら、まだ何か用かと、俺は呆れて答えた。
「うわ、ひっでぇ! 心配してやってんのに、その言い草はねぇだろ…」
「…。何でもねぇよ。…それより、いい加減俺に何かとしつこく絡むのやめろよ。…本がちっとも読めやしねぇ」
「…。つーかさ、それ、何の本?」
「………。鹿園、お前…、暇なのか?」
「休み時間に暇してて何が悪ぃんだよ。」
「悪かねぇけど。…人が熱心に趣味に取り組んでんのを、わざわざ邪魔する事はねぇだろ」
「……。今日は、いつにも増してノリ悪ぃな、お前…。」
「今日中にこれ読まねぇと返却期限がやべぇんだよ。…悪いけど、後にしてくれ。」
「あぁ、そうなのか…。そりゃ、しゃあねぇな。…邪魔して悪かったよ。――じゃな。」
「おう。」――俺がそう答えると、鹿園はすごすごと去っていった。
俺は、まだ半分ほど残っている本の頁を開き、改めて目を落とす。
――蛇、なぁ…。
今読んでいる本によれば。
蛇はどうやら、脱皮の様子から再生の象徴とされ。
また、
蛟は、長く生きると龍になるのだとか、なんとかいう話もある。
…それを、祓えってか…。
我ながら妙な夢を見たものだと溜息を零さずにはおれなかった。
ただの夢なのに。
――大方、今借りて読んでいる本の影響で、あんな夢を見たんだろうが。
それにしては、妙に現実味があった、ような…。
…って、何で俺は夢なんかを真に受けてんだ。
姉さんならともかく。――そう呆れ、けれども血は争えないなと僅かに笑った。
そうして、どうにか読み終えた本を図書館に返却し終えてから。
尚も、俺は考え込んでいた。
――家の近くに、川ならある。
ひょっとしたらそこに、何かヒントのようなものがあるのかもしれない。
少なくとも、行かないままで悶々としているよりは、多少は気が晴れるだろう。
そう思った俺は、学校帰りの荷物を持ったまま、川の方角へ足を運んだ。
…遠目で見れば、川そのものも蛇のように見えるな。
そんなことをぼんやりと考えながら、俺は何気なく川原へ下りる。
川原とはいえ、今時蛇などほとんど見かけない。
アスファルトやコンクリート、石畳で舗装された道を抜け、ざらりと土を踏みしめた。
昔はここらでよく遊んでたな。
そんなことを思い返し、ぶらぶらと歩き回りながら、ぼんやりと辺りを見回して。
小学生くらいの子供が無邪気にはしゃぎ回るのを横目に、堤防も兼ねた草地へ寝転がる。
空が晴れていて、よかった。――吹き抜ける風が実に心地良い。
…でも、水に関係しているんだったら、雨が降った方が何か分かったりするのか? と、一瞬考え。
――いや、だから、なんで俺は夢を真に受けてんだって。と、苦笑した。
周りの長閑な風景と馴染まない出来事のせいか、不意に馬鹿馬鹿しく思えてきた。
まぁ、少し気が晴れたのでよしとしよう。…と理由をつけると、起き上がり、荷物を持った。
急いで帰らないと、母さんが心配するかな。
やれやれ、と、日常に戻るために堤防をのぼる。
――ぱしゃん。
不意に、背後の川から水音がした。
水の流れる音とはまた違う。魚が跳ねたか、水鳥が降りたか、そんなところだろうが…。
一応、何だろうと思いつつ、目を向けた。
見れば、確かに水面が揺れた痕が幽かに見えた。
水鳥の姿はそこにはない。しかし――何だろう。妙に、大きいような。
首を傾げていると、鼻先にぽつりと水が当たる感覚がした。
――雨だ。
…いや、急すぎる。夕立か?
そう思った瞬間。
深い霧の中。辺りは宵闇の色に染まり、流れる川は小さく。
そして、その川の向こうには人影があった。
『――ひさしぶりにかの気を感じたので出てきたが。そなた、やけにひとくさいな。』
声に驚いて目を凝らせば、妙に幼い少女がそこに居た。しかし、可愛らしいその容姿とは裏腹に、えらく尊大な口調をしている。
俺は面食らった。少女の眼は、まさしく蛇のそれだった。どうやら、人間ではないらしい。
――この手のモノは怒らせると手ひどい目に遭う。…見かけに騙されてはいけない。
『そうだ。よくわかっておるな』
案の定、心を読まれたかのようにそう言われ、にやりと笑われる。
どこか、ひどくうつくしいその表情にぞくりとしたが、それが恐ろしさゆえか、はたまた別のなにかからなのか、わからなくなってくる。
「え…っと、俺は、」
『なるほど。そなた、狐に好かれているのだな。』
ひとまず名乗ろうとすると、それを遮るかのように少女は言った。――どこか不機嫌そうな声色で。
『――あやつとそっくりだ。』
名乗る必要はない、と言いたげな視線を受けて。
「…。誰のこと、ですか?」――疑問を先に、尋ねてみることにした。
『それを知ればそなたもただでは済むまい。…わけを尋ねても、おなじこと。』
「…。」
『…おもしろくないか? そうだろうな。』――くつくつと、少女は如何にも愉快そうに笑った。
解らない話をされるのは面白くない。
なんだか無知を馬鹿にされているような気がして、少し気分が悪い。
――落ち着かなければ。相手の思う壺になりかねない。
「…さきほど。誰かの気を感じたので出てきたと仰いましたが、…、その人に会って、あなたはどうするおつもりなんですか?」
どうにか気持ちが少し落ち着いたところで、別の質問を投げかけた。――答えてくれるとは、あまり、思っていない。
『どうするも何も。…過去のすがたに戻るだけよ』
「過去の、ですか…?」――少女は、意外にも質問に答えてくれたものの、またも俺には解りようのない話だった。
つまらなさそうな俺の様子を見兼ねてか、少女は穏やかな表情を浮かべて更に言った。
『――わたしは、かの者たちの護り神だった。その縁をもつものが戻ったのならば、わたしもまた、かのもとに戻るのだ。――それだけのこと。』
「…。そう、ですか。」
憑かれる、というのは。
通常の状態とは異なった状態、を指す。
なにか病に罹っていることを、嘗ては、憑かれている、と言った。
しかし、神がかりな力を持っている者も、憑かれている、と表現された。
――『普通ではないもの』。
憑かれている。祓ってくれ。…か。
真意をはかりかね、眉をひそめる俺を見、少女は蛇のそれをした目を更に細めた。
『…なるほど。あやつ、終に感づいたか。』
「え?」
『――わたしは流る水のようなもの。木は育むが、火は潰える。』
「…??」
『…
「あ…、はい。」――やけにやさしく微笑んだその笑みは、少女のそれでありながら、慈愛すらも感じられた。
『――わたしを要さぬというのか。…なるほど、そなたらしい。』
少女は尚も俺を見つめ、けれども俺への言葉ではないものをかけた。俺には判らないが、俺のほかに誰かいるのだろうか。
『わたしは老いた。今や、こちらの分が悪い。狐に消されるのも一興だが、そこまでは望むまいな。――ふむ。』
…何やら物騒な話になっているような気がするが、俺は、理解の及ばぬ話に口を噤むより他になかった。
『力ある土に始まり、より力を持った木が育まれ、火は再び灯されようとしている。そうなれば、金は溶かされ、流れぬ水は澱むばかりとなろう。…そうなる前に、わたしに報せてくれたのだな。』
水を司るものはなおも、俺を見ながら誰かと話をしている。
『――そなたのことを嫌うていたわけではない。…折が合わなかった、それだけのことよ。そなたが気に病むことはない。』
祟ったつもりはない、という事なのだろうか? なんの話をしているのかさっぱりだが、そもそも俺に言っているわけではないようだから、解らなくて良いのだろうと、自然と思えた。
『感謝しているのはわたしの方だ。…知って尚、わたしを厭いもせず、時を知らせてくれた。…そうか、そんなにも長く眠っていたのだな…。』
少女は少し寂しそうに微笑むと、尚も笑顔で言った。
『――そなたは望まぬかもしれんが、わたしは海の底で祈ろう。そなたのゆくさきに、幸あらんことを。…尤も、あれならばうまくやるだろうがな。そなたが目をかけたのだから。』
「…!!」
そう言った少女の姿は、前触れもなく、やわらかくほどけてゆく。その顔をよく見れば、涙を流したかのように濡れて見えた。
『…少年よ。そなたにも礼を言う。』
さいごに、ひとの口を動かした一言は、確かに俺に言っていた。
「い、いえ。俺は、何も――」
そう言っている間に、少女はおおきな蛇へと姿を変え、それすらもしずかに形をなくしていった。
――
唐突に背後から聞こえた声。
驚いて振り向くと、そこは先ほどの場所ではなかった。
此処は。
目の前に拡がった光景は、…先程の川原ですらなく、俺の家の前だった。
先ほどの出来事がそれこそ夢のように感じたが、変わらず立っているのだから、寝呆けていたわけではなさそうだ。
それに…、蛇と話していたときの空気。霧がかかったようにしっとりとした空間のそれが、まだ僅かに、辺りに漂っているような気がする。
「…。」――結局、なんだったんだろう。
そう考えを巡らせながら、清浄なそれを吐き出し、帰る場所へと足を踏み出す。
たちまち消えた瑞々しさは、まるで現実味を感じさせない。
どうやら蛇は、姿を消したようだった。
あれを『祓った』と言っていいものかは判らないが、またしても異界に足を踏み入れていながら、無事に帰って来られたことを、ひとまずは喜ぼう。
「只今帰りました。」
「おかえり。」――出迎えたのは母だった。
――これで漸く、すべて揃った。