氷月 風音

文字数 4,064文字

 三か月がすぎた。標準語だと〈さんかげつ〉と読むこれを、この辺の人は〈さんかつき〉と読む。高校を卒業するとわたしはこの店でアルバイトを始めた。それから三か月。もともと中学生の頃から通っていたお店だから、なんだかもうずっと長いことここで仕事をしているような気がする。でもまだ三か月。仕事にもだいぶ慣れたけれど、まだまだ駆け出し。

 この店はコーヒー屋さん。喫茶店風のお店だけれど、食事のメニューがない。コーヒーのおともにはクッキーとかマドレーヌみたいなものがあるぐらい。そういうものは近くのケーキ屋さんから仕入れていて、このお店ではコーヒーしか作っていない。去年まではそのコーヒーだって一種類しかなかった。わたしがあれこれ言って少しずつ種類が増えて、今はバリエーション・コーヒーが7種類ぐらいある。それでも食事のメニューはやっていない。

 今日の最初のお客さんは須田さんだった。須田さんはよくしゃべるおじさんで、ここのマスターのケンさんと知り合ってから趣味でラジコンを始めたらしい。朝から隣町の模型屋さんへ行き、その隣のおそば屋さんでお昼を食べてからここへ来る。犬の散歩みたいに毎回決まったコース。毎回決まったコースをたどってここへ来るのに、来るたびにその流れを説明してくれる。
「そんでひとしきり遊んだらすぐとなりにそば屋があるもんだからよ。めしよ。」
 ほら、今日も。模型屋さんのとなりにおそば屋さんがあることも、須田さんがいつもそこでなめこおろしそばを食べることもわたしはよく知っている。もう何度も聞かされているから。でも須田さんはいつだって、今初めて話しているみたいに新しい顔をする。三回目ぐらいまでは「またその話?」って思ったけれど、今はその同じ話をちょっと期待している。毎回同じことをしていてもぜんぜん飽きることもなく、それを初めてのことみたいに嬉しそうに話す須田さんを見てると、退屈なんてことはないんだなと思う。「またその話?」って思ってたわたしはつまらない状態だったなって今は思う。

 ケンさんなんてわたしより長く同じ話を聞かされてるけれど、適当にとぼけたりしながら聞いてる。わかってるのにわざと勘違いしたようなことを言ったりする。須田さんは「そうじゃねえよ」って楽しそうに説明してる。

 ドアにつけた風鈴が鳴るとわたしは接客しに行く。
「いらっしゃいませ。カウンターになさいますか? それともテーブル席がよろしいですか?」
 わたしがアルバイトで入るまで、この店はケンさんが一人でやっていた。だからお客さんが入ってきてもカウンターの向こうから「いらっしゃい」って言うだけで、席へ案内したりメニュー渡したりとかもなかった。コーヒー一種類しかやってなかったからメニューなんてものが無かったし。

 入ってきたお客さんはテーブル席を希望して、「一人なんですけどテーブル席でもいいですか?」と聞いた。そんなことを気にするお客さんは珍しいから、ちょっと印象に残った。これまで見かけた覚えがないから、きっと初めて来てくれた人だと思う。
「かまいませんよ。どうぞ」
 わたしはその人をお店の中ほどにあるテーブル席へ案内した。わたしはこのお店ができてすぐのころから通っているけれど、去年少しずつメニューが増える頃までは、ほとんど常連さんしか来ていなかったと思う。わたし自身もお客さんだったからそんなにずっといたわけじゃないけれど、居合わせるお客さんはだいたい決まった顔だった。それがアルバイトで入ってみたら初めて見かける人とよく見る人は半々ぐらい。しょっちゅう来る須田さんみたいな人もいれば、たった一度だけでもう二度とこない人もいる。旅行中に寄ってくれた人もいると思うと、そのたった一度を楽しんでもらいたいなと思う。自分がそんなことを思うんだっていうのも、このアルバイトをして初めて知った。

 ケンさんがミルクにはちみつを入れてスチームしたものにコーヒーを注ぐ。一番人気のハニーラテ。これはわたしが軽い気持ちで提案したものだけれど、ここに使うミルクとはちみつを選ぶのにとても時間をかけた。わたしはその辺の牛乳とはちみつでやるものだと思っていたのに、「それいいね」と言ったケンさんと最初にしたことは牧場めぐりだった。はちみつの方は道内で扱っているところがほとんどないからすぐに決まった。コストはかさむけどどうせなら道産で、と。

 氷を満載したグラスに熱いラテを注ぐ。氷は次々に融けて崩れながらラテの中に浮かぶ。ホットがたちまちアイスになる。居ずまいを正すみたいに融けていく氷を見るのがわたしは好きだ。

 お客さんにアイスのハニーラテを出すと次のお客さんが入ってきた。背の高い男の人。知っている人だった。お店に来たのは初めてだけれど、町の広報誌によく載っている人だ。
「いらっしゃいませ。カウンター席になさいますか?」
 わたしが聞くと、お客さんはわたしを値踏みするみたいに見て「テーブルの席はある?」と言った。
「ございます。どうぞ」
 そのお客さんをわたしはお店の一番奥のテーブル席へ案内した。
「お決まりになりましたらお声がけください」っていつものセリフを言おうとしたら、全部言い終わらないうちに「アイスコーヒー」って言われた。そう。こういう感じで特に飲み物にこだわりがないタイプの人は初めてでも最初から注文が決まってて、面倒を省略して注文したがる。もうあと数秒待てばよかったと反省。

 こういうのって難しくて、声を出すきっかけを相手に作ってほしくて待つ人もいるし、自分のペースで声を出したい人もいる。須田さんみたいにずっとしゃべり続けてる人は放っておくと何も注文しないまましゃべってたりもする。店員なんて同じ言葉を同じように繰り返してるだけみたいだけれど、実際はお客さんを見ていろいろ予想しながら少しずつタイミングとか言い方を変えたりする。それがうまくいくこともあるし、失敗することもある。この仕事もとても奥が深い。

 そのお客さんにアイスコーヒーを出すと、また次のお客さんが来た。見事なタイミング。同時に何人も来ると待たせてしまうことになるけれど、今日はうまくバトンがつながっていく感じ。

 入ってきたのは細身の男性だった。見るからに暑さに弱そうで、今日の気温で参っているのか、だいぶ疲れた顔をしていた。
「カウンターになさいますか?」と聞くと「はい」と言った。入口のドアに一番近いカウンター席には須田さんが座っていたので、わたしはこのお客さんをカウンターの一番奥側の席へ案内した。この人は店内流れている音楽に合わせて頭を揺らしながらカウンター席に座ってメニューを眺めた。きっと何か楽器をやる人だろう。こういう音楽を好きな人はだいたい自分も何か演奏するような人だ。ケンさんもギターを弾くし。

 この人もアイスのハニーラテを注文して、カウンターの上にあったジャズ・ライフを読み始めた。ジャズ・ライフというのも楽器をやる人向けの雑誌だろう。

 次に入ってきたのは優美だった。優美とは高三のときに同じクラスになった。友達と呼ぶほど仲が良かったわけではないけれど、なんとなく波長が合った。はみ出し者どうしとして。
「いらっしゃいませ」と言いながら微笑んで見せると、優美も少しニコっとした。どこに案内しようかと思っていたら、奥のテーブル席にいた男の人が声をかけてきた。
「あれ? 優美じゃない? 優美」
 わたしが優美を振り返るよりも先に、優美が応えた。
「え、うそ。霧谷さん?」
 優美はわたしを追い越して奥のテーブル席に行き、男性の飲んでいるアイスコーヒーを指して「あれと同じのを」と言った。優美を接客していたらまた次のお客さんが入ってきた。

 入ってきたのは西島さんだった。わたしが高校生の頃、町のはずれの方の家で車の写真を撮らせてもらった。レトロな感じの車が気に入って、写真を撮らせてもらいたくてインターフォンを鳴らした。車の写真を撮らせてほしいって言ったら、西島さんは「そんなの勝手に撮っていいわよ」って言いながらも出てきてくれて、わたしが写真を撮っている横で「この車の名前知ってる? この車はわたしと同じ名前なのよ」って言っていたのをよく覚えている。西島さんはそのころからずっとこの店に来ている常連さんだ。

 西島さんはいつものように自分の座る席を指さして指定し、いつものように水出しコーヒーを注文した。水出しコーヒーは前の晩に作ってボトルに入れてあるから、わたし一人でも出すことができる。

 優美のところへアイスコーヒーを持って行ったら相手の男性がさらに追加でアイスコーヒーを注文してくれた。長居するときにこうして追加注文をしてくれる人はありがたい。

 西島さんに水出しコーヒーを出した後、カウンターの奥の席にいた男性が何か思い出したみたいにあわただしく出て行った。代金はカウンターに置いてあった。お店に来る理由がみんな違うように、急に出ていく理由もいろいろだろう。

 出ていく男性と入れ替わりに女性が入ってきた。その顔を見て、わたしは自分が底の方から喜ぶのを感じた。思えば彼女と出会ったのもこの店だった。わたしの人生を変えた親友。春から遠くの専門学校へ進学して一人暮らしをしながら美容師になるための勉強をしている。
「いらっしゃい。夏休み?」
「うん。帰ってきたよ。んー。やっぱここは落ちつくね。実家より落ちつく」
 わたしはカウンターの一番奥の席を急いで片付けた。そこが彼女の選ぶ席だから。
「どう? 学校は」
「つもる話、いっぱいあるよ」
「あたしも」
 いつだって、会えばあっというまにあの頃に戻れる。思い出ってこういうときのために作っておくものなんだなって思った。あたりまえだった日常はいつしかあたりまえではなくなり、いつも顔を突き合わせていた友達は別々の道を歩き出してめったに会えなくなる。それでも共に過ごした日々はなくならない。戻ってはこないけれど、なくなってしまうことも、ないんだ。

《了》
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