第一話 「現代より、あなたの始まりを添えて」

文字数 7,253文字

 物理学、それは宇宙に存在する万物の事象を紐解こうとする学問である。あらゆる現象は多くの物理学者により解明され、多くの理論に裏打ちされたその学問は、数学によって事細かに記述されている。
 数学は物理学者にとって最大の武器である。それは、物理現象そのものが数式により自然法則を表現できるという点で、最適な道具であることを意味している。
私は小学生のころから物理現象が好きで、なぜそうなるのかが不思議でならなかった。高校に入学するころになると、万物の事象が数式で表現できる世界が美しいと感じる一人となった。
 例えば、なぜ物体が地上に落下するのか、なぜ金属表面は光沢を帯びているのかなどに
ついて考え、常日頃から観察して思考するほどである。
もちろん、私にとって物理学を専攻することは確かな夢だ。だから、高校の理系コースに進学することにしたのは、当然のように決心したと言っていい。いまではすっかり物理学に夢中になって、分からないことがあれば時々高校の物理の先生に聞きに行くことが増えている。
 その先生というのが大学時代に物理学科に所属していた講師で、名を井上杏子という。彼女は基礎物理の授業を請け負う先生で、怜悧な佇まいと玲瓏な黒髪の美人教師として知られている。
 その手腕たるや初学者でも分かりやすい授業と、イメージしやすいように実験を披露したりするなど、学校内では人気のある講師として評判だ。
そして、今日もまた井上先生に質問に行こうとしているのだが、今回はとある相談も兼ねていた。というのは、最近妙に現実感のある夢を見るようになった。
 それはいつもの虚像でもない夢。所謂、体感してきたかのような夢である。まるで、巨大なスクリーン越しに見る、臨場感のある映画のようであった。
 知らない言語、知らないはずの人物、知らないはずの専門用語を知りつくしているという事実に、私は驚きを隠せないでいた。それは誰かの記憶ではないかと疑うほど正確に思い起こせるぐらい鮮明に覚えているのは、私自身不思議でならなかった。
 とある人物の記憶が私の中に存在することは、確かに非科学的なものではあるのかもしれないが、あらゆる可能性を考慮に入れなければならないというのが私の信条であった。実際、とある有名な物理学者も超常現象を信じてさえいた。私としては、半ばオカルト的な何かに縋ってみたくなったのである。
 さて、授業も終わり図書室で幾分時間を過ごすした。既に日は傾き、屋外の世界は朱色に染まっている。私はいつものように職員室を訪れると、扉をノックした。すると、中年の背の高い男が扉を開けて姿を現した。教頭の橘先生だ。
 「ああ、東野かえでさんね。井上先生に何か用があったのかな?」
 橘先生はにこにこしながら私に尋ねた。私は首肯しながら、
 「はい。分からないところがありまして……」
 「そうかい。東野さんはいつも勉強熱心だねえ。井上先生ならいつものデスクにいるから、行ってくるといい」
 私は、はいと景気よく答えると、教頭先生に頭を下げ、井上先生のもとに足を運んだ。井上先生は本棚の整理をしていたらしい。足組みをしながらデスクの上に散らばっていた本を綺麗にまとめているところだった。
 井上先生は私を見るといつもの口調でこう答えた。
 「東野か。今日も分からないところがあったのか?」
 「というより、少しばかり相談がありまして」
 私は夢の内容について子細にわたって説明した。炎とがれきの中で佇む自分、知らないはずの単語についていくらか知っているなどについてである。
 先生は腕組みをしながら考え込んでいる様子だった。先生は笑うでもなく、真摯に私の話を受け止めているようである。
 「誰かの記憶と思えるほどに鮮明な夢……、なんとも信じがたい話ではあるが。しかしながら、面白い話ではある。……例えば君がさっき言ってたチャープ振動についてとかね」
 「なにか心当たりがあるんですか?」
 ふむ、と井上先生は唸るように言うと、本棚に手を伸ばしてカラー図解されたとある科学雑誌を取り出し、あるページを広げて見せた。それは、重力波研究についての資料だった。
 「ひょっとするとではあるが、それは重力波についてのことかもしれない。……東野は一般相対性理論という言葉に聞き覚えがあるだろうか?」
「名前だけなら……。あの現代物理学の父と呼ばれたアインシュタインが、友人とともに構築した理論のことですよね?」
 「そうだ。実は一般相対性理論からアインシュタインが予測したものの中に、重力波の存在についてのものがあってだね。いまからすると、約百年前の論文で予測されたものだ。日本と米国、そして欧州を含む世界各国がそれを観測するのに躍起になるくらいには面白い物理現象でね。それは、宇宙の深淵からとどく声といったほうがいいだろう」
 先生はそういうと、その専門誌を私に差し出した。私はたどたどしい手つきでそれを受け取ると、その雑誌にかかれていた最初の方のページの説明文を読んだ。
 その文献によると、重力波は時空の歪みから来る波と説明されている。そして、それは巨大な質量が亜光速で動くときに発生し、その波はさざ波ほどの非常に小さなものと書かれていた。
 「これを東野に貸してやるから、好きに読むといい。そうだな、次に私のもとに来た時の宿題としようか。この本を読んだ感想を聞かせるという簡単な宿題だがな」
 結局のところ、私の心の裡では、重力波とは一体なんだろうという面持ちになった。時空の波が伝わっていくというのは、女子高校生の私には想像しがたいことだった。
 私が困ったような表情を見せると、彼女は僅かに笑みを浮かべながらこう返した。
 「まあ、無理して理解する必要はないさ。大学に入学してから勉強すればいい。いずれにせよ、君の夢とやらに興味がある。実にオカルト的な話ではあるがな」
 「信じてくれるんですか?」
 「いや、信じたわけではないが、君が持つ知識がいくらか事実をとらえていたのでな。いずれにせよ、この記憶が本物だとするなら、いくらか裏付けをとる必要があるだろう」
 結論から言うと先生は件の夢について肯定も否定もしなかったが、幾分晴れ晴れとしたような気持ちだった。それはきっと、私が心のどこかでは、笑われるのではないかという不安があったからであろう。同級生にも相談できないような話を先生は受け止めてくれたのだと、私は心の底から安堵したのであった。


 次の夜が明けるころになると、私は科学雑誌を広げたまま机に突っ伏していた。どうやら、重力波に関する記事を読んだまま寝ていたらしい。私は眠い目をこすりながら大きく背伸びをして、時計を見やる。時刻は午前七時ちょっとすぎ。そろそろ学校に行く時間である。
 私は準備をしようと思い、今日の授業の教科書を手に取って鞄にしまい込んでいた。そして、ふと思いがけず机にある写真たての自分の写真を見る。それは高校入学時に撮られた写真であった。両親から私の肩に手を乗せられて、気恥ずかしさからか、ぎこちなく笑う自分の写真。
 ああ、このころの私は両親に対して不器用だったなと感じると同時に、違和感を感じていた。ありふれた家族との写真にも関わらず、私自身の顔を見て何かが頭の中でつっかえていた。一体私自身に何があるのか。その違和感の正体が何なのかについて訝りながらも、この時の私はあまり深く考えず、写真からすぐに目を離すと制服に着替える準備にとりかかったのであった。
 学校に着くと、親友の田島真衣が後ろから声をかけてくる。
 「おっはよー、かえでー!」
 いつものように元気に声をかけてくる彼女は、クラスのムードメーカーだ。私はいつもの淡白な口調で答える。
 「おはよう」
 「眠そうだね。またいつもの難しそうな物理学の本とか読んでたんでしょう」
 「ん、まあね。けど、結局何か分からないまま夜が明けちゃったな」
 ふむふむと親友は興味深そうに、私が小脇に抱えてたその雑誌を取り上げると、その本の背表紙にかかれていたトピックに目を向けた。
 「なになに、じゅーりょくなみが切り拓く宇宙像? 何それ。また小難しいことを勉強してるの?」
 「重力波だね。井上先生にこれ読んでおけって言われて、目を通してたんだけど、結局何もわからず仕舞い。まず時空のさざ波っていうのがよくわからなくてね。いつの間にか椅子に座ったまま寝ちゃってた」
 彼女はしばらく雑誌を読んでいたが、面白いように字が滑っていくのか、お手上げとい
うような感じで、
 「ふんふん、そっかー。なるほどー、わからん!」
と言って私に雑誌を返した。
 真衣は元々勉学ができる方ではなく、とりわけ数式は宇宙人が書いたような難解な象形文字に見えるらしく、特に苦手としている。具体的には、鉛筆転がしで数学の答えを解いてる始末なのでお察しである。むしろ、彼女がいかにして数学の解答を、鉛筆転がしで解いてるのかは宇宙一の謎かもしれない……。
 そうして、いろいろと考えていると、真衣は思い出したように私に向き直り、こう言い放った。
 「そういえばさ、進路調査票はもう書いたの?私はもう書いて提出しちゃったけど」
 「進路調査票はもう書いて提出しちゃったかな。北都大学に行って物理学を勉強したいって書いたんだけど」
 「北都大学って、たしかノーベル賞受賞者を輩出した名門大学だよね?さすが優等生は違
うなー。流石に学年トップを争うだけはある」
 「んー、でももうちょっと勉強しないと、大学受験に一抹の不安はあるかな。特に国語は
は私の苦手科目だからね」
 「私は大学受けずに、就職しちゃうからなー」
 「真衣は将来どうするんだっけ?」
 「将来的には、実家が書店だからその店を継ぐつもりかな。まあ最低限、高校は卒業しないとね。というわけで、私が卒業できるかどうか君にかかってるのだよ」
 「うーん、そういわれてもな。前にも言ったけど私は人に教えるのは苦手だしな」
 「そういわず、定期テストも近いし、数学の赤点回避のためにどうか一つお願いしますだ」
 「それじゃあ、放課後に私の家で数学教えてあげるね」
 「ありがとう、かえで。いつも助けられてばかりだから、今度お礼するね。…おっと、隣
の席の友達に呼ばれたからこれで」
 そう言って彼女は自分の席へと戻っていった。
 このように、真衣は私にとって暖かな部分だったように思う。人見知りな自分でも、私の心にいつも闖入してくる光のようなイメージだ。誰にでも優しく接し、分け隔てなく意思の疎通をとる人間性。私はそのような真衣がとても羨ましかった。どのような私の光と影の一面性を知っていても、真衣はそれを真摯に受け止めてくれた。とりわけ彼女は私のことを気に入っているらしく、いつでも私の相談にも乗ってくれたのだから。
 授業が終わり放課後になると、私はいつものように井上先生のところに赴いた。先生は書類の整理をしていたらしく、デスクの上はいつもより散らばっていた。
 私は井上先生に声をかけると、彼女は私に向き直って口を開いた。
 「東野か。ちょうどいいところに来た。ちょっと君に耳寄りな情報があってな」
 「耳寄りな情報ですか?」
 「ああ、そうだ。東野は知っているとは思うけど、今度北都大学でオープンキャンパスをやるのだが、その時畑上先生っていう人が重力波のスピーチをやるのだそうだ。畑上先生は、私が大学生だったころの同期でな。重力波で悩んでいる教え子の話をしたら、そのオープンキャンパスの日に個人的に面談の機会を設けてくれるのだそうだ。どうだ、なかなかない機会だとは思うが」
 「私のために貴重な時間を割いてくださるなんて…。本当にいいんですか?」
 「ああ。さっき言った君の夢の話も含めて興味深い話だそうだからな」
 「畑上先生にも夢の話を?」
 「あー、この件に関しては本当に申し訳ない。だが、畑上先生にも知ってもらえれば、何かしらの情報を得られると思ってな。本当にすまないとは思っているよ」
 井上先生が申し訳なさそうに頭を下げると、私はかぶりを振って、
 「いえいえ、そんな、とんでもないです。むしろそのような機会を設けてくださったことに本当に感謝しています」
 「そうか、ならいいのだが。そういえば例の雑誌、読んでは来てもらえたかな?」
 「読んでは来たんですけど、分からない記述が多くて。例えば、観測地点に重力波が到達すると、波の振動のモードのクロスモードとプラスモードにより縦横斜めに空間が伸縮するとか、そこらへんですね」
 「そうだな。さっき例に挙げた振動のモードについてだが、重力波が地面に対して垂直に観測地点に到達したとすると、地面に円状に点が並んでいるとして、それらの点が空間的にプラスの形状に伸びるプラスモードと、斜めに伸びるクロスモードが存在する、という風に説明できるんだが理解はできるかな?」
 「はい、なんとなくは。それによって質点間の距離が伸びたり縮んだりするってことですよね?」
 「そうだ。例えば先の例のように重力波が東京都の地面に対して垂直に到達したとすると、空間の伸縮によって東京駅と上野駅の間の距離がほんの極わずかに伸びたり縮んだりするっていう言い方もできるな」
 「その方がぴんときますね。それじゃ、重力波の正体は時空のさざ波というのもなんとなく理解はできました。ではもう一つ質問いいですか?」
 「どうぞ」
 「重力波の直接観測のためには、レーザー干渉計がいいとは書いてはいましたが、一体どのような仕組みなんでしょうか?」
 「米国がやってるマイケルソンレーザー干渉計のことならそんなに難しい話ではないぞ。あれは単一のレーザーを直交二方向に分離して照射してやって、その二方向より先に鏡を置いといて光を反射させ、戻ってきた光同士で干渉させることで重力波を直接観測するっていうシンプルな装置だからな。例えば、戻ってきた二つの光の波の山と山が重なって光が強め合うなら重力波によって距離が伸び縮みしたということだし、光の山と谷が重なり合うならば距離の伸縮は起きず、重力波は到達していないっていう意味合いを持つからね」
 「なるほど。となると二つの光の干渉こそが、肝となるということですね?」
 「そういうことだ。まあ、詳しい構造が知りたければマイケルソン干渉計をネットで調べればわかるので知りたければ調べるといい。それはともかく、この雑誌を読んだ感想としてはどうだったかね」
 「はい、非常に興味深い内容でした。重力波によって初期宇宙の起源がわかるとか、宇宙に存在する金やプラチナなどのレアアースの起源がわかるとか、いろいろ書いてあって面白かったです。電磁波など以外の宇宙の観測方法に、新たに重力波が加わることで別の姿の宇宙像が見えてくるというのは、宇宙物理学上非常に意味のある方法だと思いました」
 「そこまでわかっているのなら上出来だね。まあ、その雑誌は君にあげるから好きに読むといい」
 「本当にいいんですか?」
 「もともと君に読ませるために買ったような本だからな。それに、私自身もその雑誌をほとんど読んだから問題はない」
「ありがとうございます。この雑誌は大切に読ませていただきますね」
「ああ、じっくり読むといい。さて、難しいことはさておき、君の進路調査票は見させてもらったよ。北都大学に行くとなると、それなりの基準を満たしてはいないと薦めることはできないのだがそこは問題ないから大丈夫としても、立地条件的には多少の不安があるな。坂道が多いし、なにより家賃とかそういうのが高めだが、そこらへんはご両親には相談したのか?」
「はい。両親と相談したところ、奨学金制度を利用するということと、バイクで通学とい
う意見で落ち着きました」
「そうか。ならあとは大学受験に向けての勉強だな。まあ、東野はともかく田島の数学の
成績が危ういからそこらへんが心配だ。数学に関しては私も兼任している都合上、手助け
することも可能だから、暇を見て補講をいれてやろうとは思っているが」
 「いいんですか?生徒一人のために時間を割いてくださるのは、私としては大助かりですが」
 「別に構わんよ。教師として一人の教え子を見放すようなことはしたくないのでな。まあ、東野がつきっきりでサポートできるというのであれば話は別だが。私としては東野の受験のこともあるから、暇なときに私も教える風にはしたいのでな。で、どうするんだ?」
 私は幾分先生に迷惑をかけるのではと思ったが、少し悩んだ末首肯して、
 「私としてもぜひお願いします」
と答えた。井上先生は微笑を浮かべながら、
 「ならばよろしい。さて、私も職員会議があるし、そろそろ行くよ。オープンキャンパスの当日の日程についてはメールで知らせるからよろしく」
 そう言って、井上先生はデスクの上の書類をまとめると、急ぎ早に職員室をでていったのであった。
 自宅について夜寝る前になると、夢の中の記憶が写真のように思い起こされて、私は戸惑いを覚えていた。
 なぜこんなにも大衆に囲まれているかのように落ち着かないのか。なぜこんなにもうに哀しみと喜びが入り混じったような感情が波のように押し寄せるのか。それがわからなかった。まるで誰かと心情が同期していて、それに撫でられているかのような感触に違和感が募っていた。そうだ、今朝の写真見た時のようなあの違和感。私はきっとどこかで…。
 そこまで考えに至ると、もやもやと揺れる蜃気楼のような人影に抱かれて、私はベッドに体を横たえた。そして、私はそれに身を委ねながら静かに眠りについたのであった。

ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み