Episode1:ビアンカの憂鬱

文字数 4,686文字

 ワシントンDC。偉大なる(グレート)アメリカの首都であるこの街の更に中心にある、この国を象徴する建物、ホワイトハウス。

 合衆国大統領官邸であるこの建物は、大統領だけでなく副大統領や首席補佐官、(いる場合は)大統領夫人のオフィスなどもあり、その他にも様々な政府の要人や各国の大使、外交官なども出入りする政治の中枢でもある。

 現大統領であるダイアン・ウォーカーも外交で世界を飛び回ったり、視察などでアメリカ各地に出向いている時を除いては、基本的にこの建物で執務を行っている。

 合衆国の最重要人物である大統領の住まう官邸たるこの建物は、当然有事(・・)に備えた様々な設備が揃っている事も特徴だ。そしてここでいう有事には単に暴動やテロ、災害だけでなく……戦争、それも核戦争(・・・)も含まれているという点が重要だ。


 ホワイトハウスには地下(・・)に『もう一つのホワイトハウス』があると言われている。核の爆発にも耐えうるような頑丈な壁と扉、そして分厚い岩盤に遮られた巨大な地下シェルター……。

 エマージェンシールームを備えるこの地下シェルターには、自家発電による予備電源や他にも様々な設備や部屋が完備されており、1つの巨大な要塞を形成しているとも言えた。

 その『裏のホワイトハウス』は平時には誰も使用する者がおらず眠っているが、ここ最近になって何人かの住人(・・)が移り住むようになり、最小限の設備が稼働するようになっていた。

 そんな設備の1つ、大きなトレーニングルーム。地下の住人の運動不足を解消する為の部屋で、一通りの屋内スポーツが楽しめるような造りになっていたが、球技などを行う為のだだっ広い多目的スペースも用意されていた。

 そこでは現在2人の人物が向き合い、球技ではなく格闘技(・・・)が行われていた。



「まだだ! まだ無意識の癖が抜けきっていないぞ! 俺を本気で殺すつもりで掛かってこい!」

 鋭い掛け声で相手を促すのは、2メートル近い筋骨隆々の体格を誇る黒人男性……陸軍中尉のアダム・グラントであった。モスグリーンのカーゴパンツと軍用パーカーの上からでもその恵まれた体格が見て取れた。

「く……うおぉォォォォッ!!」

 そしてそんな彼に……筋骨隆々の軍人相手に果敢に打ち掛かるのは、比較すると小柄とさえ言っていい、しかも女性であった。

 明るいブラウンの長髪を髪留めで束ねてスポーツブラとショートパンツ、運動用シューズにソックスという軽装の若い白人女性……。最近になってこの地下シェルターの住人となったビアンカであった。

 気合を込めて、言われるように本気で相手を殺すつもりで、急所という急所に全力の打撃を打ち込む。しかしアダムはその巨体に似合わぬ素早さで、その打撃を全て軽々といなしてしまう。

「駄目だ。狙いが解りやすすぎる。フェイントを交えろ。相手の虚をつくんだ!」

「くっ……!」

 ビアンカは歯噛みする。特訓(・・)を開始してから、まともに一撃も当てられていない。全て軽々と躱されいなされて、逆に自分は寸止めで数えきれないくらいの攻撃を喰らっていた。もし寸止めでなかったら彼女は全身打撲と複雑骨折でとっくに死んでいるだろう。

 既にビアンカは全身汗まみれで肩で息をしている状態だった。対照的にアダムは厳しい指導(・・)を続けながらも呼吸1つ乱れておらず落ち着いたものであった。

 尤もサイボーグ(・・・・・)である彼が汗をかいたり、呼吸を乱したりするのかはよく分からなかったが。

 いずれにせよこれまでの人生で同性は勿論、男相手でも負けなしである事が自慢だった彼女としては、得意の格闘戦で全く手も足も出ずに子ども扱いされている現状は、到底素直に受け入れられる物ではない。


 屈辱に歯軋りした彼女は冷静さを欠いて、怒りに任せた大振りなハイキックを蹴り込む。だが当然今までの攻撃が全く当たらなかったのに、そんな雑になった大振りな蹴りが当たるはずもない。

「ふぅ……」

 溜息混じりにアダムがあっさりとその蹴りを躱して、がら空きになった軸足を払う。

「あ……!?」

 ハイキックで片脚が上がっていたビアンカは足払いに対処できずに無様に転倒する。呻く彼女だがアダムは容赦なく追撃してくる。

「ほら、実戦では敵は待ってくれないぞ」

「う……!」

 アダムの大きな拳がビアンカの剥き出しの腹に撃ち込まれる寸前で停止する。再びの寸止めだ。いや……

「これで何度目かもう数えきれんな」

「……っ! くそ……!」

 恥辱に顔を赤らめたビアンカは強引に立ち上がってアダムに殴りかかる。だがただでさえ当たらないのに、疲労でふらつく今の状態ではもう反撃して下さいと言っているような物だ。

 アダムは楽々と彼女の腕を掴み取ると、そのまま逆を向いた勢いを利用して背負い投げを決めた。

「――――」

 膂力と体格、そして技術でも圧倒的に上を行くアダムの投げ技に、ましてや今の消耗しているビアンカは全く対処できずに綺麗に投げられてしまう。視界が反転する。天井の照明が流星のように流れて……

「――あうっ!!」

 勢いよく背中から叩きつけられた。勢いよくとは言っても床がフローリングな事もあって、実際には相当手加減しているのだろう。しかしそれでも全身に伝播する衝撃でビアンカは一瞬息が詰まって身体が痺れて、手足を大きく投げ出した仰向けの姿勢のまま動けない。


「……今日はここまでにしよう」

「…………」

 アダムが手を差し出してくるが、ビアンカはまだ痺れが残っているのと気分的にくさしているのとで、素直にその手を取らずに顔を背けた。アダムが溜息を吐く。

「徹底的な特訓を望んだのは君だぞ?」

「…………ええ、そうね。ごめんなさい、アダム」

 客観的な事実を指摘されて、ビアンカも溜息を吐いて渋々アダムの手を取った。


*****


 カバールと戦う事を決意したビアンカだが、同時に自分の力不足で散々ユリシーズに迷惑を掛けた事も自覚していた。カバールの構成員達は人間ではなく悪魔であり、文字通り人知を超えた力を持っている。彼等とまともに戦えるのは、やはり人間離れした能力を持つユリシーズやアダムのような戦士だけであろう。

 ましてや今の彼女ではカバールの連中が使役する雑魚悪魔にさえ敵わず、一人でいる所を襲われでもしたら即人質か殺されるかしてしまう。そんな状態では奴等と戦うどころではない。

 また彼女自身のプライドも、ただ助けられたり守られたりするだけのお姫様(・・・)でいる事を良しとしなかった。

 なのでどうせ新しい身分証(・・・・・・)が出来るまではやる事がないので、アダムに頼み込んで護身術の特訓を始めたのであった。

 だが結果は今日のように自分の無力さを思い知らされてばかりであった。しかし一度始めた事、それも自分から頼んで始めた事を途中で投げ出すのはやはり彼女のプライドが許さなかったので、石に齧りつくような気持ちで特訓を続けていた。

 しかし頭では解っていても愚痴は言いたくなるもので……



「……もうホントに嫌になっちゃいますよ。私って才能ないのかなぁ……」

 ビアンカは憂鬱な口調で目の前の相手に愚痴を零しながら机に突っ伏した。その机の向かい側に座る人物は苦笑しながらかぶりを振った。

「はは、君に才能がないのなら、世の中の人間は皆才能がないという事になってしまうよ」

 落ち着いた口調でそう諭すのは、30代後半と思しき物静かな雰囲気の男性であった。やや赤みがかった髪はきっちりと整えられて、完璧に着こなしている白いスーツ姿と相まって、落ち着いた所作の紳士という印象を与えた。線の細い面貌と縁の黒い眼鏡もその印象を補強していた。

 アルマン・ヤコブ・ヴィーゲルト。このアメリカ議会図書館(・・・・・・・・・)の現館長の職にある人物。ビアンカの母親であるダイアン・ウォーカー大統領が、ローマ教皇庁から呼び寄せたという腕利きの退魔師(・・・)でもある。

 いや、退魔師だった(・・・)というべきか。ビアンカも見せてもらったが、彼の右脚は半ばから義足(・・)になっていた。他にも見た目からは解らないが内臓に深刻な障害を負っているらしく、それで退魔師としては一線から退いたのだとか。

 脚も内臓も、退魔師として悪魔との戦いの中で喪ったらしい。相当に激しい戦いだったのは想像に難くない。

 しかし彼は「元々フィールドワークよりもデスクワークの方が好きだったんだ」と肩を竦めて、内心はどうなのか分からないが今の境遇に全く不満はないらしかった。

 ただ一線は退いたと言っても当然、その内に宿した霊力も退魔師としての知識や技術も健在であり、その能力を活かしてカバールとの戦いにおいて様々な補助をしてくれている。

 彼は見た目通りのとても穏やかで理知的な性格であり、また聞き上手でもあったのでビアンカもすぐに彼と打ち解けて、今のように気軽に悩みを相談したり愚痴を聞いてもらったりする間柄になっていた。


「焦ってはいけないよ。悪魔と戦う力なんて誰でも一朝一夕に身に着けられる物じゃない。僕だって、そして君のお父上(・・・・・)だって、皆最初は素人だったんだ」

「……! 私の……お父様(・・・)、も?」

 ビアンカは顔を上げた。彼女の実母はウォーカー大統領であり、それだけでも驚愕物であったが、実父は更に現実離れした存在……何と現ローマ教皇マクシミリアン4世であるというのだ。

 マクシミリアン4世は教皇になる前はダンテという名前の凄腕の退魔師であったらしく、このアルマンも元はその弟子であったのだとか。

 因みにビアンカは養父母のコールマン夫妻と呼び方を分ける為に、心情的にはほぼ他人である実父母の事は「お父様」「お母様」と若干の皮肉を込めて呼ぶ事にしていた。


 アルマンは当然という風に頷いた。

「勿論だよ。ただ猊下は生まれながらにして『神の心臓』の持ち主だったから、その意味で僕ら一般の司祭とは条件は異なっていたけどね」

「なぁんだ、やっぱり生まれながらの才能ってわけじゃない」

 ビアンカは少しふてくされて溜息を吐く。彼女の実父であるマクシミリアン4世が生まれながらに備えている『神の心臓』は、外気から無限に霊力を吸収して蓄えておける霊力の貯蔵庫であり、尚且つその膨大にして無限の霊力を自在に引き出して戦う事ができるらしい。

 その強さはまさに反則級であり、ルールを無視した文字通りの「チート能力」であったようだ。

 そしてその『神の心臓』の力は、娘であるビアンカにも一部(・・)が受け継がれていた。だがそれは『天使の心臓』と呼ばれ、霊力を吸収して溜め込む貯蔵庫としては『神の心臓』と同等クラスの容量があるらしいが、肝心の出力(・・)する機能が備わっておらず、戦いには何の役にも立たない宝の持ち腐れとなっていた。

 いや、ただの宝の持ち腐れならまだいい(・・・・)。『天使の心臓』に蓄えられた膨大な霊力は悪魔にとっては最高のご馳走(・・・)であるらしく、何の役にも立たないのに悪魔に命を狙われる要因にはなるという、現状厄介なお荷物でしかなかった。

 尤も悪魔にとって美味しい餌になるという特性を利用した囮としての役割をユリシーズが提案する事で彼女はここに残る事が出来たので、文句ばかり言う訳にも行かない複雑な状態であった。

 ただ現実として『天使の心臓』が戦闘の役に立たないお荷物でしかない以上、ビアンカはユリシーズやアダムと異なりあくまで何の力もない普通の人間でしかなく、これからカバールと戦っていくに当たって支障があるのは明らかだった。

 このままでは彼等に守られるだけのお姫様になってしまう。自分の手でカバールの悪魔達を倒したいビアンカにとって、そんな状態は受け入れられるものではなかった。

 解決策の見いだせない問題に、彼女は再び深く嘆息した。
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