第1章

文字数 13,280文字

 それは正に、青天の霹靂であった。
 朽木良太が知らせを聞いたのは、バイトをしているコンビニから、帰る途中の事だった。
 季節柄もう日は落ち始めていて、寒風に煽られていたこともあり、最初は無視をしていた。一度は切れたものの、再び胸ポケットの中で振動し始めたスマートフォンに、走らせていたバイクを路肩に停める。
 ヘルメットを脱ぎながら、その画面を確認すると、母・洋子からの電話だった。
 大手企業に勤めている洋子は、役職に就いてから毎日残業に明け暮れ、帰りも遅い。こんな時間に連絡が来るのは、めずらしかった。
『あんた、今どこにいんの!?』
 いきなり怒鳴りつけられ、良太は咄嗟に電話から右耳を外した。
「いきなり何だよ!」
 こちらの言い分を無視して、洋子は甲高い声で話を続ける。
 鼓膜の奥でキーンと音が響く上に、すぐそばを通り過ぎていく車の排気音で、何を言われているのか、さっぱり分からない。左耳へと電話を持ち替えて、良太は右耳を指先で塞いだ。
「あ? だから何だって?」
『ちゃんと聞きなさいよ!』
 元々気が強い母だが、年の所為で年々ヒステリックになっているような気がする。しかしそれにしても、いつもとは違う緊迫感のようなものを、声に纏っている。何らかの緊急事態が起きた事は、明白であった。
『良太、落ち着いて聞くのよ』
「……落ち着いてるけど?」
 落ち着くのはあんたの方だと言いたかったが、良太はグッと堪えた。
『お父さんがね、職場で倒れたって、今、連絡があったの』
「父さんが?」
『今から市立病院に行くから、あんたも急いで来なさい。いいわね?』
 洋子はこちらの返事も待たずに、一方的に電話を切った。続けて「ツーツー」と不通音が聞こえてきて、良太はフッと我に返る。
 父、一郎が職場で倒れた。
 わざわざ自分に連絡してくるほどなのだから、多少なりとも症状は重いのであろう。それぐらいは、今の電話一本で想像はついた。
 今朝、バイトに行く前に、父と顔を合わせた時の事を思い返す。いつも通り「おはよう」と挨拶をしただけだが、具合が悪そうだとは感じなかった。
 一郎は今年五十歳で、市役所に勤めている公務員だ。二十歳になってもフリーターでフラフラしている良太とは違い、毎年きちんと健康診断も受けている。つい先月、受診したと聞いていたが、メタボリックの予備軍であるという以外は、問題なかったと言っていたはずだ。
「マジか……」
 何となくだが背筋に悪寒が走って、良太は肩をブルリと震わせた。なるべくならば、予感だけで済みますように。そう願いながら、良太はヘルメットを被り直すと、バイクに跨りエンジンを掛けた。
 何度も途中で、胸に渦巻く不安を打ち消す必要があった。張り詰めた緊張感が、アクセルを握る手を滑らせそうになったからだ。
 大丈夫、大丈夫。
 幾度もヘルメットの中で呟いた。そうでなければ、ドクリドクリと騒ぐ鼓動に、負けてしまいそうだった。
 何とか病院の前には着いたものの、病院自体には駐車場がなく、急いでいる良太を苛立たせた。
「バイク停めるとこ、どこっすか!」
 ヘルメットのシールドを上げて、門扉の前に立っていた警備員に、張り上げた声で尋ねた。
「あちらに通用門があります。その左手です」
 警備員が指し示した方向を見ると、ここから二十メートルほど離れた所に、駐輪場の案内らしき看板が見えた。会釈だけで礼を告げると、良太は真っ直ぐに駐輪場を目指す。バイクならば僅かな距離だというのに、苛立ちが先走ってしまい、ひどく遠く感じた。
 駐輪場の手前のエリアは原付で埋まっており、仕方なく奥へと進んでいく。ようやく中ほどに空いている場所を見つけて、キキッとタイヤを軋ませながら、バイクを停めた。
 エンジンを止めて鍵を掛ける時間すらも、もどかしい。良太はヘルメットを被ったまま、駐輪場を一気に駆け抜けた。
 籠った熱い呼吸が、シールドをほんのりと白く曇らせ、視界の邪魔をする。それが鬱陶しくなってヘルメットを脱いだ時も、歩みを止める事はなかった。
 ようやく病院の入り口に着いた時、どこに行けばいいのか聞いていないことに気付く。
「どこだよ……」
 慌てて連絡を取ろうとスマートフォンを取り出すと、新着メールが一件入っていた。
 洋子からだった。
『二階のICUにいます』
 二階ならば、エレベーターを待つよりも、階段を昇った方が早そうだ。良太は数年振りに一段抜かしをしながら、階段を駆け上った。
 息を切らしながら二階に着き、辺りを見回し、ICUへの案内を見つけ急いで走る。遠くに見慣れた人の姿が見えて、良太は思わず叫んだ。
「母さん!」
 その声に振り向いた洋子は、もう既に泣き腫らした顔をしていた。
 間に合わなかったのか。
 そう覚悟せざるを得なかったが、駆け寄ってきた母の口から出たのは、別の絶望の言葉だった。
「お父さん、死んじゃうんだって」
「……え?」
「心筋梗塞だって。もう多臓器不全になってるんだって。だからもう、駄目なんだって。今晩が山だって」
 父はまだ、生きている。
 しかし間もなく、父は死ぬ。
 その現実に、頭がついて行かなかった。夢を見ているとしか、思えなかった。
「姉ちゃんは?」
 ふと回りを見渡し、姉・恭子がいないことに気付く。五つ年上の姉は、二年前に同級生と結婚しており、隣町に住んでいた。
「会社に連絡入れたから、もうすぐ来ると思う。あんた、先に父さんに会ってきなさい」
「母さんは?」
 ぼんやりとした不安と恐怖に、一人で行くのが躊躇われた。だから尋ねたのだが、洋子は首を横に振った。
「さっき会ってきたし、会社から直接来ちゃったから、おじいちゃん連れて来ないと」
 同居している父方の祖父・喜一郎を、家まで迎えに行くと言う。他にも準備があるのだろう、自分が戻ってくるまでは必ず待機していてくれと言い残し、洋子は去っていった。
 仕方なく、良太は一人で看護師に声を掛け、病室に入る手続きや準備を済ませた。
 一郎らしき男性が横たわっているベッドまでが、ひどく遠く感じられる。それは一歩ずつ、現実へと近付いている証拠でもあった。
 何本もの管で医療機器を繋がれた身体が、はっきりと見えてくる。ピクリとも動かない身体は、その半分を緑色のシートで覆われていた。
「それ」は確かに、一郎の形をしていた。けれど良太には、まだ実感がなかった。
「父さん」
 思い切って、呼び掛けてみた。すると一郎の形をした「それ」は応じるかのように、ゆっくりと目を開いた。
「良太」
 弱々しいものの、それは確かに父の声だった。頼りない響きが、一気に現実味を帯びさせる。
 これから、この人は逝ってしまう。自分たちを置いて、死んでいくのだ。死を確信させられて、良太は足が竦んだ。
「俺は、死ぬのか?」
 一郎は何でもないことのように、静かに尋ねてきた。そこには覚悟も恐怖も、何一つ感じられなかった。
 思わず絶句した良太だったが、ふと我に返り、何とか探し出した言葉を口にする。
「何言ってんだよ。大丈夫に決まってんだろ」
 医療機器の音だけが響き渡る病室で、自分の声が少し響いた。ムキになって言った分だけ、説得力が欠けたような気がしてくる。動揺を父に気付かれないように、出来るだけ小さい声で、再び語り掛ける。
「大丈夫だから。しっかりしてよ」
 それは一郎に対しての励ましでも、虚言でもなかった。単に自分自身を、鼓舞するために口にしたようなものであった。すぐそこにある現実に、油断していれば足下を掬われそうな気がしていた。
「ちょっと、眠いな」
 一郎は良太の言葉には返事せず、ポツリと呟いた。しかしその目には、うっすらと涙が滲んでいた。もしかしたら、死を悟らせてしまったのかもしれない。ハッとして、良太が別の言葉を探し掛けるより先に、一郎は目を閉じてしまう。
 居心地の悪さを感じながら、良太がベッドから離れ背を向けた、その時だった。
「どうせ死ぬなら、ユカちゃんに、会いたかったなあ」
 ユカちゃん? 誰のことだ?
 今まで聞いたことのないほどの頼りない父の声に、すぐに振り向いた。けれどもう一郎は既に寝息を立てていて、聞き直すことも出来ない。言い訳をする時間も与えられなくて、トボトボと病室から出る。
 見知らぬ人物の名は気になったが、自分の反応で父に死という現実を知らせてしまったことの方が、今の良太には衝撃だった。
 病室の前にある固いソファーに座り、これから先のことをグルグルと考える。父が死んでいくこと、父がいなくなること、その全てを一気に想像しなければならなかった。
 父方の祖母、母方の祖父母は良太が幼い頃か生まれる前に亡くなっており、葬式を体験したことはあるものの、ここまでの悲壮を味わうのは、今回が初めてだ。
 フラフラとフリーターをしている身とは言え、長男としてしっかりしなければ。そう考えれば考えるほど、胸の奥に圧迫感が生まれてきた。
 そう言えば、と仕事のことを思い出す。明日からしばらく、休みを貰わなければならないだろう。良太はスマートフォンを取り出し、店長へメールで連絡を入れる。
 父が危ないこと、恐らく亡くなることを伝えると、すぐに返信が来た。シフトはどうにでもなるから、心配するなという返事だった。
 そうこうしているうちに、遠くから駆け寄ってくる足音が聞こえてくる。顔を上げると、それが姉のものだと分かった。縋るような気持ちで、良太は立ち上がる。
「姉ちゃん」
「良太、父さんは?」
 取るものもとりあえず来たのだろう、恭子は化粧もしていなかった。そしてその後ろには、姉の夫である鈴木和夫の姿もあった。
「良太くん」
「姉ちゃん、和夫さん、さっき父さん、寝ちゃったんだけど」
「もう駄目って、本当なの?」
 洋子から連絡を受けた際に粗方聞いていたのか、恭子は良太に詰め寄ってきた。姉は母に似て、気が強い。その迫力に何も言い返せないでいると、和夫が「まあまあ」と恭子の両肩をポンポンと叩いた。
「良太くんは、もうお義父さんと会ったのかい?」
 問い掛けに頷いた良太の横を、恭子は無言で駆け抜けていった。和夫はこちらに軽く会釈をしながら、その後ろを追い駆けていく。
 ICUに入っていった二人を見送りながら、良太は再びソファーに腰を下ろした。
 二人が来たことで心の負担は僅かながらに軽くなったが、死に対するリアリティーは更に増した。つい一時間前まではいつも通りコンビニで、振り撒きたくもない笑顔で接客していたのが、嘘のようだった。
 場所が場所だけに人通りはほぼなく、自分の溜息が情けないほどに響く。しっかりせねばと思えば思うほど、溜息の数は増えた。
 何故、父さんが。
 自分より親が先に死ぬのは当たり前だとは分かっていたし、自分と同世代の友人たちの間でも、親を亡くしている者が何人かはいた。
 中には不治の病に身体を侵されている親を、持つ友人だっている。そしてそういった話を耳にするたびに、他人事ではないと考える機会はあった。
 けれどやはり、所詮は他人事だったのだ。
 こうした立場になって、初めて分かる。他人事どころか、絵空事としか自分は捉えていなかった。
 そうして今までのことを、振り返る。どちらかと言えば寡黙な一郎とは、ここ最近、挨拶以外にまともに話した記憶すらなかった。
 コンビニバイトで満足している自分に母が叱ることもあったが、父は何も言ってはこなかった。幼い頃からしつけに関しては厳しい人であったが、進路や将来については、自由にさせてくれていた。
 それは母に対する態度も同じで、父が母に怒っている場面を、良太は見たことがない。
 大抵は仕事や家庭への不満を母が口にし、それを静かに受け止める。そんな印象が強かった。気性が荒い姉に対しても、同じだった。
 決して馬鹿にしていた訳ではないが、軽んじていた部分はあったかもしれない。家族全員がリビングで揃う時も、父はいつも隅に追いやられていた。
 たまに話すことと言えば、一郎が機械に強いことから、パソコンやスマートフォンに関する相談を、持ち掛けるぐらいだろうか。そういう時の一郎は、活き活きとした目をしていた。
 そう考えてみると、自分は何一つ親孝行と呼べるような行為をしていない。姉は結婚したことで父を安堵させただろうが、自分は就職すら碌に出来ず、そうかと言って夢がある訳でもなく、独り立ちからは程遠いところにいる。
 親より先に逝くよりはマシかもしれなかったが、それにしても良太は、余りにも親に甘え過ぎていた。薄々自分でも思っていたが、痛烈に思い知らされた。そんな気分になった。
 病院の真っ白い壁を睨みつけながら考えに耽っていると、恭子と和夫がICUから出てきた。恭子の目は、真っ赤になっていた。
「父さんと話せた?」
 隣に座ってきた姉に尋ねると、何度も首を縦に振ってきた。口を手に当て嗚咽を漏らし始めた恭子の肩を、和夫が抱く。
「呼び掛けたらね、お義父さん、目を覚ましてくれたよ。わざわざ来てくれて済まない、恭子を宜しくってね……」
 和夫の言葉で、自分が一郎に死を突き付けたのが、確実となった。どうして自分は、上手く振る舞えなかったのだろう。後悔の念がグルグルと渦を巻いて、軽い眩暈さえ覚えた。
 自分の立場に置き換えてみれば、まだ何も知らないまま逝く方が、マシな気がしてならない。突然身体の自由が利かなくなって倒れて、その日のうちに覚悟を決めさせてしまったことを、良太は悔いた。悔いるぐらいしか、出来なかった。
 恭子が落ち着き始めた頃、大きな荷物を左肩に掛け、右腕は祖父・喜一郎の腰を支えた状態で、洋子が戻ってきた。先に気付いたらしい和夫が立ち上がって、洋子から荷物を引き受ける。喜一郎は、今までになく厳しい顔をしていた。
「お義父さん、しっかりして下さいね」
「……分かっとる」
 生まれつき右足が悪く、杖をついている喜一郎のそばで、歩幅を揃えて歩く洋子を、良太は久々に見た気がする。
 二人は折り合いが悪く、普段は全くと言っていいほど、話をしない。孫である自分や恭子のことは可愛がってくれているが、嫁に当たる母とは、まともに挨拶すらしないぐらいだ。
 二人はそのまま通り過ぎて、直接ICUへと入っていった。喜一郎にとっては、一郎は一人息子であり、我が子を産んで間もなく亡くなった祖母の、忘れ形見でもある。
 どんな思いでいるのか想像もつかないが、いつも足下を見て丸くなっている祖父の背中は、しっかりと前を見据えてシャキリと伸びていた。まるで戦いの場へと向かうようなその後ろ姿から、戦前生まれの人の強さが伝わってくる。
「おじいちゃん、大丈夫かな」
 心配そうに、恭子が呟いた。幼い時からおじいちゃん子だった姉は、死んでいく一郎との対面を控えた喜一郎を、不安げに見送っている。
 病室前に残された三人の間に、重い空気が圧し掛かっていたが、ふと何かを思い出したらしい恭子が、良太の肩を叩いてきた。
「あんた、喪服ってちゃんと持ってるの?」
 まだ父が生きているというのに、何を言い出すんだと思ったが、恭子の表情は真剣そのものだった。
「……黒のスーツと白のシャツは持ってる」
「それ、ちゃんとした礼服なの?」
「成人式の時に買ったやつだから……」
 じゃあネクタイさえ買えば大丈夫ね、と恭子は一人で納得していた。さっきまで目を真っ赤にしていたくせに、今後のことを先廻りして考えている姉が、少しばかり冷たい人間に見えた。
 五分ほどして、喜一郎と洋子がICUから出てきた。さっきまでシャキリとしていた祖父は、肩を落としている。一人息子が死を控えている現実を見て、やはりショックを隠し切れなくなったらしい。
 洋子の方はと言うと気丈に振る舞い、喜一郎がソファーに座る補助をしていた。そしてその隣に腰を掛け、祖父の背中を何度も何度も撫で下ろす。
 どれぐらい時間が経ったのだろうか、しばらくすると、担当の医師が顔を出した。
「これでご家族全員、お揃いですか」
 話し掛けられた洋子が頷くと、別室へと行くように促される。その足取りは全員、重く引きずったものだった。
 その中で聞かされたことは、洋子から聞いていた話と寸分の違いもなかった。心筋梗塞で倒れたこと、それが重度のもので、既に多臓器不全の状態であること。そして今晩が山であること。ただ単に医師によって、駄目押しをされただけに過ぎなかった。現実は何一つとして、変わることはない。
 早くて今晩、遅くても明日の朝には、父は死ぬ。ただそれだけを伝えて、医師は病室へと戻っていった。
 全員が沈痛な面持ちでいると、医師と入れ替わりで来た看護師に、隣にある家族用の待機室に案内される。今日はなるべく待機していて欲しいと言われて、壁に掛かっていた時計を見上げた。夜の七時であった。病院に来て、二時間ほど経つ計算になる。
 待機室は和室で、簡単なキッチンや布団も備え付けられていた。自由に使って構わないと言い残し、看護師は去った。
 とりあえず布団を敷いて、意気消沈している喜一郎を寝かせた。洋子と恭子は、二人でこれからのことを話し始める。
「母さん、何時間いなきゃいけないか分かんないし、今のうちにご飯の用意でもした方がいいんじゃない?」
「そうね、食べられるうちに、食べておかないと……」
「じゃあ私、和夫と一緒に買い物行ってくるわ。急変したら、連絡して」
 こんな時に飯の話かと思ったが、言われてみれば確かに腹が減っている。女だからこその、気の回し方だった。
 恭子が和夫を連れて待機室を出ると、先に座り込んでいた良太の隣に、洋子が腰を下ろしてきた。
「あんた、喪服あるわよね?」
 座って早々聞いてきたのは、さっきの姉と同じことだった。やはり母娘は性格だけでなく、心配するところも似ている。
「姉ちゃんにも聞かれたけど、礼服は持ってるよ。ただネクタイは、どっかで買わないと駄目かな」
「黒のネクタイならお父さんのがあるから、それ使いなさい。じゃあ靴も大丈夫ね?」
「一回しか履いてないから、大丈夫」
「帰ったら出しとくのよ。磨いてあげるから」
 病院から帰るということは、一郎が死んだ時を意味するのだと考えると、良太は憂鬱になった。ここにいるのは嫌だったが、ここから帰るのはもっと嫌だった。
 洋子は続けて、喜一郎に話し掛ける。
「お義父さん、とりあえず私の実家には連絡を入れたんですけど、朽木の方はどうしましょうか」
「……連絡入れんでいいじゃろ。どうせ誰も来んだろうし、何より一郎が嫌がる」
 祖父は生まれつきの障害者、そして祖母は子供を産んで早世したという理由から、それぞれの親戚とは絶縁のような状態になっていた。
 今まで親戚に不幸があった時は、止むを得ず一郎だけが顔を出していたが、いつも疲れた顔をして帰ってきていた。何があったかまでは知らないが、毎回嫌な思いをしていたらしい。だから洋子ですら、まともに親戚の名前を知らずに来た。
「そうですね……来て頂いても、気を遣うだけですしね」
「後で葉書出しときゃ、それでいい。何か言ってきよったら、わしが相手するから」
 簡単に話を終わらせると、喜一郎は大きな溜息を吐いた。洋子も遅れて同じように溜息を吐き、気が抜けたのか静かに項垂れる。
「……何でこんなことに」
 その一言は恐らく、家族全員の気持ちを代弁していた。誰もが一番、思っているであろうことだった。
 泣いているのかと思った良太はその横顔を見たが、洋子は泣いてはいなかった。ただ今まで見た中で、一番疲れ切った表情をしていた。誰よりも常に強く、力に満ち溢れている母の姿は、そこにはない。ほどほどに肉厚の肩でさえ細く映るほど、頼りなく見えた。
 父より二つ年上の母は、典型的な姉さん女房であったし、大手企業で係長を任されていることもあって、大層気が強い。文句を言うことはあっても、弱音を吐いたところは見た記憶がなかった。
 思わず良太が洋子の背中を擦ると、今度は身体から力が抜け切ったような、溜息が零れる。夫の死を待つばかりの時間に、さすがの母も緊張していたらしかった。
 夫婦仲は決して悪くはなかったが、そうかと言って仲が良い風にも見えなかった。五十代の夫婦としては典型的だったのかもしれないが、息子からしてみれば、少しばかり二人の間に距離を感じていた。
 そうだとしても、姉を妊娠したことをきっかけに、結婚をして二十六年。自分の気付かないところで、両親には両親なりの絆があったのだろうと、今更ながらに思う。
 弱々しく俯くばかりの洋子を見ながら、良太はこんな時になって見えてきたものの多さに、後悔ばかりしていた。
 恭子と和夫が買い物から戻ってきた時も、部屋の中はシンと静まりかえっていた。二人が持つビニール袋だけが、カサカサと音を立てている。
「適当に買ってきたから、好きなもの食べて」
 そう言いながら恭子がテーブルに並べたのは、コンビニの寿司やらおにぎりの類だ。それぞれが手を伸ばし、黙々と食べ始める。自分の咀嚼音すら耳の奥で響くほどに、静かすぎる食事だった。
 皆が食べ終えゴミを片付け終えた頃、廊下から複数の足音が、バタバタと聞こえてきた。
 まさかと顔を見合わせ、腰を浮かせたと同時に、待機室の扉が激しく叩かれる。返事をしないうちに、ドアが開かれた。
「朽木さん、ご主人の容態が!」
 看護師はそれだけ叫ぶように告げると、すぐにICUの方向へと走っていった。洋子と恭子が慌てて出て行ったため、残された和夫と良太で、喜一郎に靴を履かせた。
 両側から喜一郎を支えるように、ゆっくりとICUに入ると、担当の医師らが一郎のベッドを取り囲んでいた。母と姉は互いを支え合うようにして、その外側から父を見守っている。
「ご主人、今ならまだ意識がありますから」
 先程の看護師が、小声で洋子にそう告げるのが聞こえた。もう出来ることはないのだろうか、医師たちは自分たちの存在に気付くと、そっと輪を解いて、一郎のそばを空けてくれた。
「お父さん」
 まず声を掛けたのは、洋子だった。繋がれた管の邪魔にならない場所を探し、横たわっている一郎の身体にそっと手を置いた。
「父さん」
 洋子に寄り添うようにしていた恭子が、次に声を掛ける。涙声になっていたが、懸命に耐えているようだった。
 和夫に促される形で、良太は喜一郎を連れて、二人とは反対側に回る。改めて見る父の身体は、もう既に生きている人の肌の色とは違っていた。
「父さん」
「……一郎」
 良太と喜一郎の声に反応した一郎は、目だけでゆっくりと辺りを見回した。自分の家族が揃っていることは、分かったらしい。一郎は満足げに笑ってみせると、ゆっくりと口を開いた。声は聞こえなかったが、象った唇の形で、何と言ったのかは分かった。
『ありがとう』
 恐らくそれが一郎に残された、最後の力だったのであろう、たった五文字を遺すことに全力を注いだかのように、表情から力が抜けていく。
 その途端に、一郎の身体に繋がれていたモニターが、異常な数値を知らせる警戒音を鳴らし始める。すると医師の一人が、洋子に近付いた。
「奥さま、先程のお話通りで宜しいですか」
 その言葉に、洋子は唇をギュッと噛み締めた。さすがに鈍い良太でも、何の話か察することが出来た。
「母さん」
「延命措置は、取らないで下さい。何かあった時の、この人との約束ですから」
 良太の制止は無視をして、洋子ははっきりと口にした。もう一度考え直すように言おうとしたが、その目には確固たる覚悟が宿っていて、良太はそれ以上、何も言えなくなる。
 全員が見守る中で、身体に繋がれていた管が、一つずつ外されていく。死出の旅に向かおうとする一郎の身体から、重荷が一つずつ解かれていく。
 それだけでも楽になったのか、一郎の呼吸は一旦、規則正しいものへと変わった。しかしそれは長く続かず、次第に一つ一つが大きなものへと変わっていく。
「父さん」
 恭子が泣きながら呼び掛けたのを合図に、皆がそれぞれ一郎を呼んだ。何度も何度も、旅に出ようとしている一郎を呼び止めるがために、名前を呼んだ。
 良太も今までにないほど、父を呼んだ。一分でも一秒でもいいから、まだここに居てほしかった。生まれて初めて湧き上がってきた感情が一気に押し寄せ、そして涙が滂沱として止まらなかった。いつの間にか、自分は泣いていた。
 しかし無情にも、その時は来た。
 一郎は三回、大きく深呼吸をした。その後、生きてきたうちに抱えてきた憂い全てを一気に吐き出すかのように、ひときわ大きい息を吐いた。それから、胸の動きが止まった。鼻に繋がれたチューブから、酸素が送られる音だけが微かに聞こえるだけになった。
「お父さん……」
 最初に現実を認めたのは洋子で、膝から崩れ落ちて一郎に縋りついた。ボロボロと涙を零しながら、動かなくなった身体を何度も揺すっていた。
 それを見て、離れて見守ってくれていた医師が近付いてきた。脈を取り、瞳孔を調べると、腕時計を確認してから俯いた。
「午後八時四十五分、ご臨終です」
 その言葉によって、一郎の死は確実なものとなった。逃げられない現実として、受け止めなければならなくなった。良太は情けないほどに、嗚咽するしかなかった。
 朽木一郎、享年五十一。
 死に顔は良太が知る父の人生と等しく、穏やかなものであった。

 一郎が亡くなった後は、それまでの陰鬱な数時間が緩徐だったと思えるほどの、慌ただしさに追われた。
 遺体に清拭を施し、搬送するまでに二時間ほど欲しいと病院側から言われ、その間に洋子が葬儀社や親戚に連絡を入れる。
 葬儀社は元々共済に入っていた関係もあってすぐ決まり、遅い時間帯にも関わらず、担当者が病院に駆けつけてきた。そして淡々と葬儀までの流れの説明を受ける。自宅は一戸建てだが葬儀をするには手狭ということで、一番近い葬儀場で執り行うことになった。
 一郎は直接葬儀場へ搬送される手筈が整えられ、洋子が遺体に付き添うと決まった。その間に良太を含め他の家族は全員が自宅に戻り、通夜や葬儀に向けての準備をすることになった。良太はバイクで先廻りをして、タクシーで一人戻ってきた祖父を家で出迎えた。
 疲れを見せていた喜一郎はとりあえず寝かせたが、良太には仕事が残っていた。母からの頼まれごとを、幾つか引き受けていたからだ。
 子供たちは知らされていなかったが、父は数年前から、万が一のために色々と準備をしていたらしい。自分の礼服などをクローゼットから出した後、頼まれた物を探すために、一階にある父の書斎へと良太は入った。
 整理整頓の類が苦手だった一郎の部屋は、雑然とした状態になっていた。通り道はあるものの、服や本が床にも散らばっている。
 そろそろ日付が変わろうとしている時刻で、主を失った部屋は、シンと静まり返っていた。
「えっと……机の引き出しの三番目……」
 独り言を呟きながら、良太は書斎の奥にある机へと向かう。そして言われた通りの引き出しを開けると、そこにはプラスティックの書類ケースだけが、ポツンと入っていた。
 どう見てもこれしかないが、念の為に中身を確認する。紙の束とCDが一枚入っており、紙の方をパラパラと捲ると、住所録のようなものが出てきた。恐らく連絡するべき人のリストであろう。
 一郎は労働組合の本部の役員もしていた関係で、普通の公務員より知り合いが多く、業種も多岐に渡った。そこには人名だけでなく、会社名や役職まで細かく記されていた。
 CDはその場で確認することが出来ず、良太は自分のノートパソコンと書類ケースを持って、バイクで母が待つ葬儀場へと向かう。
 葬儀場に着くと、既に恭子と和夫も揃っていた。葬儀の打ち合わせの途中から参加する形で、良太も同席した。
「良太、これ、中に写真なかった?」
 書類ケースから中身を取り出した母に尋ねられ、首を横に振る。そしてハッと思い出す。
「母さん、そのCD貸して」
 持ってきたパソコンを取り出し、洋子からCDを受け取る。再生してみると、それはデータCDだった。フォルダは「希望」「会葬者リスト」「写真」の三つあった。「希望」と「会葬者リスト」に関しては、紙にプリントアウトされているらしいとすぐ分かった。
 残るは「写真」だった。
 良太を中心にして、ノートパソコンを皆で覗き込む形になる。写真は全部で六枚あった。
 その一枚ずつを拡大しながら、ゆっくりと眺めていく。そのほとんどは、何らかの形で撮影された記念写真の類だった。三枚目の写真を眺めていると、黙っていた和夫がポツリと呟く。
「これ、俺たちの結婚式の時のさ、記念撮影の写真じゃない?」
 モーニング姿でピシリと背を伸ばしたその写真を見て、恭子は懐かしそうに画面を指でなぞった。穏やかに微笑む姿からは、その直前まで娘を嫁に出す寂しさから、泣いていたとは思えない。ドッシリと構えた花嫁の父を、一郎なりに演じていたのかもしれない。
 何となしにこの写真で決まりという雰囲気が流れたが、残りの三枚も見てみることにした。二枚は職場か組合での集合写真の一部のようで、笑顔は見せているものの、結婚式の時の写真に比べると見劣りした。
「やっぱりさっきの写真かな……」
 良太は小さく呟きながら、最後の一枚をクリックした。どこで撮影されたか分からないが、畏まったものではなく、普段着姿のスナップ写真だ。
 けれどもそれは、一郎がとても幸せそうに破顔している一枚だった。家にいる時でも滅多に見られないような、そんな笑顔だ。
「これ、良い写真じゃないの」
 少し驚いた様子を見せつつ、洋子が写真を指差した。
「これ、何の写真だろうね?」
「いや……分からないわね」
 恭子と洋子は首を傾げてはいたものの、この写真が最も一郎らしいのでは、という話で落ち着く。良太もこの写真には、全く覚えがなかった。
 そしてふと突然に、思い出したことがあった。
『どうせ死ぬなら、ユカちゃんに、会いたかったなあ』
 自分に向けられた、父の最期の言葉。
 他の誰かも、聞いていたのだろうか。
「ねえ、そう言えばさあ」
 皆が席に戻ろうとしていたタイミングで、良太は話し掛けた。
「ユカって人、知ってる?」
 そう尋ねると、全員が首を傾げる。洋子ですら知らない様子ということは、一緒に父を見舞った喜一郎も、聞かされていないはずだ。
「知らないけど……誰?」
「いや、何でもない」
 良太の中の勘のようなものが、その言葉をここで口にしてはいけないと言ってきた。それが何故だかは全く分からなかったが、気が付けば母からの問い掛けに対して、何でもない風を装い誤魔化していた。
 死ぬ間際に会いたいと思ったほどの、父の知り合い。それが会葬者の中にいることを期待しながら、良太は誰にも言わず、CDからデータの全てを、そっとパソコンに記録させた。
 翌日の午後に納棺を終えてからの通夜から葬儀は、葬儀社に言われるがまま、ただ粛々と執り行われた。父が希望として残していた通り簡素なものにはなったものの、それでも会葬者が多く、目まぐるしい忙しさだった。
 自宅で行うような葬式よりは遥かに時間の余裕があったのであろうが、それでも遺族である自分たちは、あちらこちらへの挨拶や、葬儀社との打ち合わせに追われる。
 正直、嘆き悲しむ暇さえ、余りなかったと思う。それでも出棺の時と火葬の直前は、自然と涙が溢れてたまらなかった。
 僅か二十年しか一緒にいられなかった父との記憶が、走馬灯のように流れては消えてゆく。良太の中の一番古い記憶は、幼い頃、父が風呂に入れてくれているものだった。棺桶で眠っている姿よりももっと若い父が、湯船の中で泣く自分をあやしてくれていた。
 父の遺体が納められた棺桶が、ゆっくりと炉へと入っていく。縋りつくように泣く洋子と恭子、そして歯を食いしばって泣かんとしている喜一郎の姿を見ていると、亡くなった直後よりも泣けて、どうしようもなかった。
 溢れる涙を止めることは出来なかったが、それでも毅然としていたかった。良太は炉の扉が閉められるのを見ながら、両手を合わせて背中をピンと伸ばし、しっかりと見送った。
 今までありがとうございましたと、小さく呟きながら。
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