第28話 熱い息

文字数 2,157文字


 キヨが正雄にご飯だと声をかける。正雄は家にいることが多くなり、どうやらハナの家に行くのを控えているようだった。何があったのかは聞かないけれど、キヨの方が気持ちが晴れなかった。

 キヨの夫が帰ってくる時間が近くなっている。まだ薄ら明るい時間ではあったが何気なく玄関に出てみることにした。するとそこにハナが気まずそうな、でも引き返す様子もなく立っていた。その表情を見ると、止むに止まれずここに来たようで、正雄に会いに来たのはすぐに分かった。

「ハナさん」

「キヨさん。私…」

「さあ、入って。お茶でも…お夕飯は? 大したものないけれど」

「いえ。家で食べますので…。あの…山本様はお元気で…」

「えぇ。今家にいるからお会いになる?」

「いえ。あの…お元気だったら…それで」と言って帰ろうとする。

 キヨは慌てて手を掴んだ。

「ねぇ。私に会いに来てくださる約束だったでしょう? 少し…。ほんの少しだけ寄ってってくださいな」

「キヨさん…」

 手を引かれるままに家の中に入る。するとちょうど、階段を降りてきた正雄と鉢合わせた。一瞬、止まったが、正雄は平静さを取り戻し挨拶をする。

「こんばんは」

 ハナは挨拶を返すこともできずに、大きな目を一層大きくして正雄を見た。

「私に会いに来て下さったのよ」とキヨは言って、一階の居間へ案内する。

「そうですか」と正雄は視線を逸らした。

「ご飯、お持ちになりますか? 一緒に食べますか?」とキヨは正雄に聞いた。

「僕は上で。鰹姫も来ますので」

「あの…」とここでようやくハナは口を利いた。

 自分も鰹姫に会いたいと言う。

「あら、じゃあ、私もご一緒させもらっても?」とキヨが言うので、正雄はため息をついて、頷いた。

 三人で上に上がる。正雄はキヨに作ってもらった、ご飯を机に置いた。

「鰹姫が来るまでこうして、三人で顔を付き合わせているのも…ねぇ」とキヨが立ちあがろうとすると、ハナが「キヨさん…私…キヨさんに聞きたいことが」と言った。

 ハナはキヨに夫と出会いを聞いたのだった。思いがけない質問にキヨは少し恥ずかしくなったが、「かつて芸者をしていて…その時のお客だ」と言う。

「それなら踊りがお上手で?」

「まぁ、人前で踊るくらいは…」

「ぜひ教えてください」とハナが言った。

「…? ハナさん、踊りに興味がおありなの?」

「はい」と居住まいを正して、キヨに向かって頭を下げる。

 キヨはハナが何を考えているのかそれで分かった。

「いいわ。お稽古してあげる。ハナさんのいい時間にいらっしゃい」

 そんな二人を見て、正雄が困惑していると、「あら主人が帰る時間だわ」と言って、キヨは慌てて階段を降りていった。

 二人きりになると気まずさは増してくる。

「ご迷惑をおかけして申し訳ありません」とハナは正雄に謝った。

「…花嫁修行は終わりましたか?」と正雄に聞かれて、ハナは思わず涙ぐんでしまう。

「はい」と言いながら、俯いて両手で顔を覆う。

 ダンスの練習で触れたかった正雄の手ではなく、自分は清の手を取ったからだ。

「ハナさん、お帰りなさい。今ならまだ間に合う」

 夜が音もなく近づいている。家族も帰りが遅いと心配するだろう。

「はい」と言って、ハナは立ちあがろうとした。

 腰を浮かしかけた時、正雄は「来て下さってありがとう」と言った。

「先生…私…」

 その先を言わせないようにはもうできなかった。この家で会った時から、玄関でハナの大きな目に見られた時から、どれほどの情熱を持ってここまで来たことは分かっていた。

「先生のこと…お慕い…申し上げておりま…」

 最後まで言い終えない内に、正雄はハナを自分の胸に抱き寄せていた。ハナの柔らかい匂いが、あの夜の残り香が腕の中にある。驚いたようでハナは微動だにしない。

「今日はもう帰りなさい」

 耳元で正雄の声を聞くが、少しも力は緩まらなかった。それどころか、耳に息が当たったかと思えば、柔らかい感触がする。正雄の口がハナの耳に何度も触れていた。恥ずかしさで息が上がる。

「可愛くて…困った人だ」

 体から力が抜けていく。

「でもお帰りなさい」

 そう言われて、腕を解かれた。ハナは正雄を見て、慌てて頭を下げる。そしてちゃんと立ちあがろうとしたけれど、上手く行かない。手を差し出された。

「送って行きましょう」

「大丈夫です」

「もう暗くなりますから。鰹姫は待ってくれますよ」

 そして二人で下に降りた。キヨに声をかけると、主人も一緒だった。

「ぜひ習いにいらしてね」とキヨが言う。

「はい。よろしくお願いします」とハナは言った。

 二人で夜になる手前の紫色の道を歩く。ハナは左の耳がやけに熱く感じた。

「お付き合いはできませんよ。僕は友を裏切ることはできません」と正雄ははっきりハナに言った。

「分かってます」とハナは真っ直ぐ前を向いて言った。

「そうですか」

「踊りは習いに行きます。花嫁修行ですから」

「それはご自由に」

「ではご自由に通わせて頂きまして、ご自由にお慕いさせて頂きます」と正雄に目もくれずにハナは言った。

 几帳面な言い方で、偉く常識外れなことを言っているので、正雄は思わず笑ってしまった。でもハナはニコリともせずに、口をキュッと結んで前を向いたままだった。家が見えてきたら「ではここで」とハナから言って、正雄と別れてさっさと戻って行った。
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