第21話 ツーブロック
文字数 1,365文字
逃げる。
とにかく逃げる。
テニスバックを担ぎ、秀一 は雑木林の中を走った。
コートが見えてきた。
ボールを打つ音も聞こえる。

秀一の足音が聞こえたのか、フェンスの向こうでベンチに座っていた人物がこちらを振り返った。
にっこり笑って手を振ってくる。
涼音 だ。
秀一は思わず大声を出した。
「涼音!」
滑 りの悪いかんぬきに苦労していると、涼音が中から開けてくれた。
「……秀ちゃん、どうしたの?」と心配そうにきいてくる。
秀一は息を切らしながら中に入り、ベンチに座った。
涼音はバックから、ペットボトルに入った紅茶を出してきた。
「……誰かに追いかけられたの?」と、秀一に紅茶を手渡しながら辺りを見回す。
微かにオレンジの味がする紅茶をゴクゴク飲んで、秀一はやっと落ち着けた。
今来た道を振り返る。
『あの女』はいなかった。
「それで足りる? 冷たいの買ってこようか?」と涼音はバックから猫の模様が入った財布を出しながら言った。
「大丈夫。ありがとう」と秀一はまたペットボトルに口をつけた。
テニスコートでは武尊 が試合をしていた。
「武尊、押されてるね」
「そうなの」と涼音が声をひそめた。「前のゲームも取られてるの」
コートを挟んだ向こうのベンチに野球帽を被った女がいた。女はサングラスにマスク姿。日傘まで差している。
女がこちらに向かい、ペコペコ頭を下げてきた。
秀一も女に向かって頭を下げた。
「あの人、誰?」と秀一。
「柏木 さんですって。武尊君と試合してる子のお母さん」
「武尊の相手、高校生?」
「中学生だって。背、高いよね。東京から来たんだって」
「わざわざこの講習会受けに来たの?」
「さあ……最近移住してくる人、増えてきてるし、下見かな」
武尊の対戦相手がサービスエースを決めた。
「賢人 ! すごい!」と、母親が手を叩いて歓声を上げた。
武尊は昔から運動神経はかなり良い。
子供の時は秀一と一緒に岩田のテニス教室に通っていたが、武尊の方が圧倒的に上達が早かった。
マナーにうるさい岩田に嫌気がさして武尊はテニスをやめてしまったが、たまに一緒にテニスをすると真面目に練習している秀一と変わらない腕前だった。
その武尊を負かすのだから大した中学生だ。
(ずいぶん練習したんだろうな)
と秀一は心底感心した。
母親からケントと呼ばれたその子は、サイドと後ろを短く刈り、トップを無造作に立たせた髪型をしていた。
秀一はそこにも感心した。
(この子も、ハルみたいにマメに美容院に行くんだろうなあ)
秀一のダブルスのパートナー、ハルは常に自分の容姿を気にする男だった。
部室の姿見の前でフォームのチェックをしているのかと思えば、真剣な顔で髪を直しているし、厳しい合宿の間でさえ、毎朝髪をセットしてから練習に参加するのだ。
秀一はといえば、服にも髪型にも全く無頓着だった。
母親が生きている間、秀一の髪は母親が切っていた。
母親が亡くなり、秀一を引き取った光子 から床屋に行くように言われたが、一人で店の中に入る勇気がなく、自分で切った。
それ以来、だいたい伸ばし放題。邪魔な髪は後ろで結び、長くなりすぎたら自分で切ってきた。
『ハーフアップ、可愛いな』
と、ハルは頭を撫でたり、勝手に編み込みしてくるが、自分の髪型に名前がつくのかと、秀一は目が点になった。
とにかく逃げる。
テニスバックを担ぎ、
コートが見えてきた。
ボールを打つ音も聞こえる。

秀一の足音が聞こえたのか、フェンスの向こうでベンチに座っていた人物がこちらを振り返った。
にっこり笑って手を振ってくる。
秀一は思わず大声を出した。
「涼音!」
「……秀ちゃん、どうしたの?」と心配そうにきいてくる。
秀一は息を切らしながら中に入り、ベンチに座った。
涼音はバックから、ペットボトルに入った紅茶を出してきた。
「……誰かに追いかけられたの?」と、秀一に紅茶を手渡しながら辺りを見回す。
微かにオレンジの味がする紅茶をゴクゴク飲んで、秀一はやっと落ち着けた。
今来た道を振り返る。
『あの女』はいなかった。
「それで足りる? 冷たいの買ってこようか?」と涼音はバックから猫の模様が入った財布を出しながら言った。
「大丈夫。ありがとう」と秀一はまたペットボトルに口をつけた。
テニスコートでは
「武尊、押されてるね」
「そうなの」と涼音が声をひそめた。「前のゲームも取られてるの」
コートを挟んだ向こうのベンチに野球帽を被った女がいた。女はサングラスにマスク姿。日傘まで差している。
女がこちらに向かい、ペコペコ頭を下げてきた。
秀一も女に向かって頭を下げた。
「あの人、誰?」と秀一。
「
「武尊の相手、高校生?」
「中学生だって。背、高いよね。東京から来たんだって」
「わざわざこの講習会受けに来たの?」
「さあ……最近移住してくる人、増えてきてるし、下見かな」
武尊の対戦相手がサービスエースを決めた。
「
武尊は昔から運動神経はかなり良い。
子供の時は秀一と一緒に岩田のテニス教室に通っていたが、武尊の方が圧倒的に上達が早かった。
マナーにうるさい岩田に嫌気がさして武尊はテニスをやめてしまったが、たまに一緒にテニスをすると真面目に練習している秀一と変わらない腕前だった。
その武尊を負かすのだから大した中学生だ。
(ずいぶん練習したんだろうな)
と秀一は心底感心した。
母親からケントと呼ばれたその子は、サイドと後ろを短く刈り、トップを無造作に立たせた髪型をしていた。
秀一はそこにも感心した。
(この子も、ハルみたいにマメに美容院に行くんだろうなあ)
秀一のダブルスのパートナー、ハルは常に自分の容姿を気にする男だった。
部室の姿見の前でフォームのチェックをしているのかと思えば、真剣な顔で髪を直しているし、厳しい合宿の間でさえ、毎朝髪をセットしてから練習に参加するのだ。
秀一はといえば、服にも髪型にも全く無頓着だった。
母親が生きている間、秀一の髪は母親が切っていた。
母親が亡くなり、秀一を引き取った
それ以来、だいたい伸ばし放題。邪魔な髪は後ろで結び、長くなりすぎたら自分で切ってきた。
『ハーフアップ、可愛いな』
と、ハルは頭を撫でたり、勝手に編み込みしてくるが、自分の髪型に名前がつくのかと、秀一は目が点になった。