第2章 アビュー屋敷

エピソード文字数 11,487文字

   
 ルシャデールたちがパルレ橋の船着き場で船を降りたのは、日も入相の頃だった。
 日没は礼拝の時間でもある。あちこちの寺院や礼拝所の塔から、ラッパを大きくしたような楽器シルクシュの音が響く。カームニルでも礼拝は同じ時刻だが、シルクシュではなく鐘が鳴らされた。
 船着き場ではアビュー家から迎えが来ていた。そこからは馬に乗って屋敷に向かう。ルシャデールはトリスタンの前に乗せてもらった。
「もう少しだからね。完全に暗くなる前には着くよ」
 トリスタンは彼女の疲れを気遣ってそう言ったが、ずっと船酔いに悩まされてきた彼の方が青い顔をしていた。
 一行は南北の国をつなぐ西街道を北に進んだ。半時ほど行くと、壁道と呼ばれる古い城壁沿いの道に出る。それを東に折れると、カシルク寺院の尖塔が見え、アビュー家の屋敷はそのすぐ隣だった。
 正面の門はカズクシャンで、ルシャデールが遠視したとおりだった。二本の大きなポプラの樹。アーチ型に石を組んだ門。
 門を入ると玄関まではまっすぐだった。玄関前に召使たちが並んで迎えに出ていた。その数四十人以上はいるだろう。
 ルシャデールは眉をひそめた。自分には似合わないところに来てしまったように思えた。
 玄関前の階段を上ったところで、トリスタンが執事のナランと家事頭のビエンディクを紹介した。ビエンディクは五十を過ぎたくらいの神経質そうなやせた男だった。執事のナランはやや小太りで鷹揚でおっとりした雰囲気を漂わせている。
中に入ると、壁は一面青い唐草模様のタイルで飾られていた。吹き抜けの天井から吊るされた何十個というランプで、暖かなオレンジの光に満ちている。
 ビエンディクが二階に用意された彼女の部屋へ案内してくれた。
「こちらが御寮様のお部屋でございます」
 部屋は二間つづきだ。居間と寝室だが、やたらと広い。貧乏人の家なら、居間だけで三、四軒分入りそうだ。
 茶店や酒場は別として、一般にフェルガナの家では椅子を使わない。豪奢な織りの絨毯(じゅうたん)に低いソファが壁二面に沿って置かれている。そのソファにあわせた高さの、螺鈿(らでん)細工を施した低いテーブルが二つしつらえてあった。
 七つの窓には赤と青で彩られたステンドグラスがはめ込まれ、床から天井近くまでの高さがあった。
 ビエンディクはルシャデール付となった侍女を引き合わせた。メヴリダという三十代半ばくらいの女だ。彼女は愛想笑いを浮かべてルシャデールに挨拶した。
ビエンディクは入浴の後トリスタンの部屋で食事だと言って、メヴリダに世話を言いつけ出て行った。
 侍女と二人になったとたんに居心地の悪さが押し寄せてくる。
「お食事の前にお風呂に入ってくださいまし。ほこりだらけでございますよ」
 言われるままに風呂場へ行く。魚を描いた白いタイルの浴槽からは、マジョラムのほのかに甘いかおりが匂っている。申し分のない風呂だが、ゆったりした気分とは程遠い怒号が飛び交った。
「じっとしてください!」
「やめろ、ひっぱるな!」
「暴れないでください!」
「さわるな! ババア!」
 髪や体を洗い終わった時には、侍女も服のまま入浴したかのような姿になっていた。
「人に触れられるのが嫌だとおっしゃるなら、ちゃんとご自分でなさってください!」
「出てけ!」
 ルシャデールは叫ぶと同時に、近くにあったオリーブの石鹸を投げる。それは侍女の額に当たり、青筋たてて侍女は出て行ってしまった。
 脱衣所には大判の体拭き用の布や替えの衣服が用意してあった。適当に拭いているうちにメヴリダが濡れた服を着替えて戻って来た。ルシャデールに服を着せつけてくれるが、今度は二人とも無言だった。
 部屋に戻ると、別の召使がベッドを整えていた。絹のシーツに羽の枕、布団カバーはやはり白絹で白と銀の糸で刺繍がほどこしてあった。召使は整え終わると、ルシャデールに一礼して部屋を辞した。入れ替わりに男の召使が食事だと呼びに来た。
 入浴、着替え、食事……。いったい、今日はあといくつの儀式があるのかと、ルシャデールはうんざりする。
 トリスタンの部屋は廊下の中央にある。当主の居室だからか、ルシャデールの部屋より若干広い。
 先ほどの入浴の時の怒りがまだ収まらず、ルシャデールは無言のまま席につく。浴室の騒ぎはきっとトリスタンにも聞こえていただろう。しかし、彼はそれには触れず、少しやつれてはいるものの、明るい目をむけて彼女をねぎらった。
「疲れただろう、今夜はゆっくり寝るといい」
 ルシャデールは黙ってうなずいた。
 薄いパンを二、三枚食べると席を立つ。
ふと、カズックのご飯のことを思いだし、骨付きの肉を一本持って出た。給仕係が呆れたように見ていたが、気にしないことにした。
 部屋に戻ると夜着に着替えさせられ、寝るように言われた。メヴリダはまだ機嫌が悪い。言葉のはしばしに棘がある。カズックの肉のことももちろん指摘された。曰く、食べ物をそのまま持ってくるなんて、良家のお嬢様のなさることではありません。乞食の子じゃないんですからね。
 『乞食の子』という一語がルシャデールの癇にさわった。失せろ、くそばばあ! と叫んで追い出す。
「えらくご機嫌じゃないか」
 カズックがどこからともなく現れた。眉根にしわを寄せ、への字口でルシャデールは彼を迎える。
「子供がずっといない家なんだろう。召使たちが珍獣のようにおまえを見ているぞ」
「注目の的ってわけか。ありがたいね」
「ま、仕方がないな。あのやかまし屋のねえさんはおまえの世話をすることで金をもらうんだから」
「ほっといてくれるなら、褒美でも出したいくらいだ」
 怒りが少しずつおさまってくると、疲れを感じた。
「おまえの餌、確保しておいたよ」
 ルシャデールは螺鈿のテーブルを指差す。無造作に肉が置かれていた。
「おまえなあ……カズクシャンのぼろい祠じゃないんだからな。この屋敷でこんなことしたら、あの姐さんにまた……」
 カズックは言い止めた。神は人間に介入すべき時を心得ているものだ。そして、そうでない時も。
「ありがとよ」犬は肉をくわえると、壁からすいっと出て行った。
 一人残ったルシャデールは、まだ眠る気にならなかった。部屋の中は静かだ。
メヴリダとは明日からも顔を合わせるのだろう。でも、うまくやっていくのは無理に思える。
 今までは毎日顔を合わせて付きあっていく人間はいなかった。少なくとも母が死 んでからは。これからはそういう人間が何人もいる。気が重かった。
 今日のことはすでに屋敷中に伝わっているに違いない。とすれば、まだろくに知らない召使も彼女のことはよく思わないだろう。
 トリスタンも今頃あきれているだろう。養女にしたことを後悔しているかもしれない。
(そのうち養子縁組はなかったことに、と言い出すんじゃないか。ま、それもいいか……)
 もう、どうでもよかった。ソファにもたれたまま、ルシャデールは意識を飛ばす。
屋敷の上空へ。満天の星の下、広がる街の灯りは小さく頼りなげだ。孤独な鳥のように彼女の意識は夜空をさまよう。就寝前の祈りだろう。石造りの家々の窓から人々の祈りが立ち昇ってゆく。
『子供たちが病気をしませんように』
『家族が幸せで暮らせますように』
『商売がうまくいきますように』
『あの人があたしを好きになってくれますように』
 他愛ない祈りだ。祈りは白やピンク、黄色、緑、さまざまな色で柔らかに煌めきながら柔らかな世界へと昇って行った。
 家族、親戚、友達……昔から手の届かない世界だった。トリスタンが養父になったと言っても、実感はまったくない。たぶん向こうもそうだろう。だが、カームニルからずっと、言葉や態度のはしばしに彼はルシャデールへの気遣いを見せていた。
 心さまよわせて、何を探しているのかもわからなくなる。やがて、ルシャデールは眠りの領域に入っていった。


「御寮様、起きて下さい」
 翌朝はメヴリダの苛立たしげな声で目が覚めた。
「なんてところでお休みになってらっしゃるんですか。朝ですよ。さあ、顔を洗ってお支度をしたら御前様のお部屋でお食事ですよ」
 洗顔と着替えまでは言われるがままになっていたが、寝起きのぼーっとした頭が冴えてくるに従って、彼女の高い声が気に障ってくる。うるさい。
(そういえばカズックの御神体は?)
 夕べ、肉と一緒にテーブルに置いたはずだ。
(ない!)
 テーブルの上にもソファの上にも、床の上にもなかった。寝室も慌てて探すが見当たらない。
「テーブルの上にあった石は?!」
侍女に掴みかかった。
「離してください」冷たい手でメヴリダは彼女を振り払う。「石ってあの黒っぽい石ですか?」
「そうだよ!」
「あの石なら捨てました。」
「捨てた?!」
「申し訳ございません。あのような汚い石、大事な物とは存じませんで。窓から投げただけですから、その辺に落ちていると思います。後で取って参りますわ」
 たいしてすまないという風でもなくメヴリダは答えた。給仕係が食事の用意が整ったと、呼びに来た。
「いらない!」
 叫んでルシャデールは飛び出して行った。
 あの石が割れたりしたら、カズックはもう彼女の前には現れないだろう。彼は唯一の話し相手だ。憎まれ口ばかり叩くが、母を亡くした後、彼女がかろうじて  心を安定させてこられたのは彼がいたからだ。
 玄関を出て庭の方へ回る。屋敷の南側は庭園が広がっていた。咲き匂う花の茂みのあちこちに薔薇のアーチや四阿(あずまや)が配されている。しかし、今はそんなものを眺めているどころではない。自分の部屋の窓を探す。
 が、自分の部屋がどの辺かわからない。夕べ着いたのは暗くなってからだったし、風呂だ、食事だと追い立てられて外を眺める暇はなかった。同じような窓が三、四十は並んでいる。といってメヴリダのいる部屋へまた戻るのは嫌だ。
 ルシャデールはあてずっぽうで位置を決め、探し始めた。
「おはようございます、御寮様」
 顔を上げると、ルシャデールと同じくらいの年頃の少年が木桶を片手に立っていた。
「何かお探しですか?」
 ルシャデールは立ち上がり、少年を見据えた。黒い髪に明るい褐色の瞳をして、たんぽぽの花のような笑顔を向けている。
「おまえは……ここの召使?それとも召使の誰かの子供?」
「召使です。アニスといいます」
 手伝ってもらうべきか、それとも一人で探した方が無難か。ルシャデールは考えを巡らす。しかし、御神体がどの窓から投げられたのかわからない中での探し物は不利だ。
「石……黒い石を探してる。私の部屋の窓から投げられた。」
「大きさはどのくらいですか?」
「手のひらに乗るくらい」
 それを聞いて、彼は東よりの方へ走って行くと、すぐに草花や木の茂みをかき分けて探し始めた。ルシャデールは少年をぼんやり見ていた。初めて会うはずなのに、知っているような気がした。
「これですか?」
 少年は黒い石を掲げて叫び、走ってきた。ルシャデールはひったくるように彼の手から取った。まるで盗まれでもしたものを取り返すかのように。そのふるまいにアニスは、はじかれたように目を見開いたが、すぐににっこり笑った。
「よかったですね、見つかって。失礼します」
 ぺこんと頭を下げ、少年は木桶を持って庭の奥の方へ行った。その後ろ姿から目が離せずルシャデールはそのまま見送った。
 カズックがそばに来ていた。
「おまえ、また癇癪(かんしゃく)起こしたらしいな。召使が話していたぞ」
「これ投げられたんだ」
 ルシャデールは石を見せた。
「大事にしてくれるのは嬉しいが……俺よりも周りの人間をもっと大切にしろ」
「大切にするほどの価値があるのか? 私も、私以外の人間も」
 癇癪はすっかりおさまっていたが、今度は冷え冷えとしたものが心を占める。
「あるさ。あるに決まってる」
「ふん、さすがに神様はご立派なことを言う。それなら、なぜ母さんは私をおいて、勝手に逝ってしまったんだ?」
「あれで、おっかさんはおまえのことを愛していたと思うぞ」
 とてもそうは思えなかった。
「おっかさんにとっては、あれがギリギリ精一杯だったのさ」
「私より、いなくなった父さんの方が大事だったんだ」
「おまえも大人になれば、少しはわかるさ」
「『大人になれば』なんて、そんなごまかしの慰めなんかいらないよ! 今、教えてくれることができないなら、黙ってろ!」
「ほら、おっかさんの代わりに構ってくれる姐さんが来たぞ」
 メヴリダがやってきた。明らかに機嫌が悪い。
「げっ」
 ルシャデールは即、逃走に移った。
 その姿を考え深げに見ながら、カズックはつぶやいた。
「人間は気短だな……。俺が宇宙の果てユークレイシスを発ったのは子犬の頃だったが。何千年、いや、何万年か前。しかし、一週間かそこらぐらいしかたってないような気がする」

「アニース!そろそろ終わりそうかい?お昼ご飯だよ」
 洗濯係のレイダが呼んでいた。
「うん、あと少し!」アニスは井戸端で叫んだ。まだ九歳の彼にとって水汲みは骨の折れる仕事だ。その日一日屋敷で使う水を汲み上げるには、三十回は往復しなければならない。
「あとどのくらい?」
「三回! 大丈夫、すぐ終わるから」
 頼めば手伝ってくれただろう。ちょうど彼の母親ぐらいの年の彼女は、アニスをよく可愛がってくれる。でも、甘えたくはなかった。屋敷の主人は、みなしごとなった彼を、簡単な仕事ならできるだろうと引き取ってくれた。とても感謝していたし、受け入れてくれた他の使用人のみんなにも迷惑はかけたくなかった。

 アビュー家の屋敷は大きく三つの棟に分かれる。本棟と西廊、それに東廊だ。
本棟はおもに主人やその家族、客が使用する部屋が大半を占めている。他には執事など上級使用人の部屋が一階の隅に、数は少ないが女性使用人の部屋が最上階にあった。
 東廊は舞楽堂などがある斎域だ。
それから使用人が出入りする西廊である。厨房や洗い場、日用品や調度品などの収納庫、男性使用人の部屋がある。
 水汲みを終えたアニスは西廊の半地下に向かった。そこに使用人の休憩室があった。
 ここでもテーブルは使われない。床には絨毯が敷かれ、中央には木綿の白布が拡げられて料理が並んでいた。今日のお昼はインゲン豆の煮物に、塩味をつけたヨーグルトの飲み物、酢漬けの野菜、それからトルハナという薄っぺらいパンだ。
 アビュー屋敷の召使は十一時頃から交代で昼食をとるようになっている。二時頃まで常時十人ぐらいが食堂にいた。アニスは一番隅に腰を下ろした。
「御寮様はどんな具合だ」
 庭師のバシル親方が言った。夕べから使用人たちの話題は、アビュー家の跡継ぎの少女のことばかりだ。
「ひどいらしいよ。メヴリダの話は聞いたかい?」レイダが答えた。
「ああ。それにトナヴァンの話もな」
 トナヴァンは給仕係だ。昨夜の夕食の時の話も、すでに使用人に知られている。
「行儀が悪いのはともかく、えらく無愛想で可愛げのない子だな」
 厩番のギュルップが口をもぐつかせながら言った。
「まあね、神和師(かんなぎし)は大貴族と同様の家柄だけど、みんな養子で来るから生まれはあたしたちと同じか、それ以下だからね」
「トリスタン様は漁師の息子だと聞いたな。兄弟姉妹がたくさんいて、口減らしで売られたようなもんだったって」
「その時、親に大枚払って養子にしたとか聞いたよ」
 そんな会話に、アニスはさっき会った御寮様を思い出す。警戒心の強い、野生のけもののようだった。
(でも……知らない大人ばかりのところで、心細いんじゃないかな)
 自分がこの屋敷にやってきた頃のことを思い、彼はひそかに同情した。

 アニスがこの屋敷に来たのは、一年半ほど前だ。雨の多い年だった。
 いつもの年なら夏の日差しが照り出す頃だというのに、雨季が終わる気配はなかった。フェルガナの各地で河の氾濫が相次ぎ、畑は水びたしになって麦も野菜も収穫前に腐り始めていた。
 ピスカージェンの北に位置するネズルカヤ山地の山奥、ハトゥラプル村も例にもれず、すでに不作が案じられていた。
 雨は十日も続いていた。
「アニス、薪を取ってきてちょうだい」
 母に頼まれ、母屋から少し離れた物置小屋へ行く。その直後だった。地の底から響いてくるようなゴゴゴゴーッという音。メキメキと生木が裂ける音。何が起こったのかわかず、物置小屋でただじっとしていた。
 音がおさまって、そっと物置の戸を開けた。むっとする土の匂い。すぐ眼の前は泥山だった。母屋は見えなかった。ところどころから木の枝が、根が突き出ている。
 呆然と立ち尽くしていたのは、どのくらいの時間だったろうか。泥の下に家族がいるのだと気がついて、あわててスコップを手に土砂をかきだす。そのうちに、村人がかけつけ、掘り起こしてくれた。
 家族四人の遺体が見つかったのは翌日だった。
「嘘だ……。母さん……父さん。エルドナ。おじいちゃん」
 アニスは一人一人の顔を見ていった。何か悪い夢の中にさまよいこんだような気がした。
「母さん、起きてよ!」母の体を強くゆするが、目を覚ますはずもない。
 誰かがアニスの横にしゃがみこみ、肩を抱いた。
 亡くなった家族は村の墓地に埋葬された。遺体は泥がきれいにぬぐわれ、マーガレットやひなげし、藪手毬などたくさんの花に被われていた。村の礼拝所を預かるオドレント師の祈りの後、棺に土がかけられた。
 そして時間が通り過ぎていく。
 土砂崩れの後、しばらくはペレニンさんの家で世話になっていた。しかし、この年は穀物も野菜も例年の三割程度しか収穫が見込めず、子供の多い家にやっかいになるのは難しかった。
「そりゃあ、あたしだって世話してやりたいよ。あの年でみなしごなんてあんまりだしねえ。だけど、うちは五人も子供がいるんだ、今年は麦の出来も期待できないじゃないか……」
「俺んとこだってそうだ。うちにゃ気難しい年寄もいるこったし」
「イスファハンさんはピスカージェンから来たって話だが、親戚とかいないのかねえ」
「駆け落ちしてこっちに来たんだろ。喜んで迎えてくれるとは思えないけどな」
「やっぱりこういう時は、お寺とかで面倒見てもらうのが一番かもな」
「大きい街なら、子供でも使ってくれる仕事もあるだろうさ」
「オドレント様に頼めば、紹介してくれるかもしれないよ」
「ここにいるのも辛いだろうしなあ」
 そんな大人たちの会話も他人事のようにアニスは聞いていた。
 ひと月ほど過ぎた頃から、アニスは雨降りを異常に怖がるようになった。布団をかぶって泣き,震える。ひどい時は悲鳴をあげて、雨の中をどこかへ走り出していく。世話をしていたペレニン一家も持て余すようになってしまった。
 葬儀から二ヶ月ほど経った日、礼拝所を預かるオドレント師がアニスのところに来た。「アニス、あさって私とパスローへ行こう。パスローの大きなお寺へ行って、これからの、君の身の振り方を考えてもらおう」
 アニスは困ったようにオドレント師を見た。
「僕……行きたくありません。だって、ここにいなかったら、お墓を守る人がいないし、冬至のお祭りには亡くなった人が帰ってくるんでしょ? ぼくがいないと、迎えてやれない……」
 いい子だね、とオドレント師は言った。アニスだってわかってはいたのだ。自分がここにはいられないということを。
 パスローへ移ってもアニスの落ち着き先は決まらなかった。ここもハトゥラプルと同様、農作物の不作で子供一人を引き受けるのも厳しい状況だった。
 半月もせずに彼は王都ピスカージェンのカシルク寺院へ送られた。そこなら子供でもできる仕事があるだろうと、パスローの寺では考えたのだ。それに隣には寺院を所有するアビュー家がある。その当主は癒し手として高名だ。
 カシルク寺院に来て二週間目だった。やはり雨の日にアニスはパニックの発作を起こし、アビュー屋敷の施療所に連れて来られたのだ。トリスタン・アビューは彼を寝かせ、目を閉じるように言うと、額に手を当てた。
「今、君がいるのは静かで何もないところだ。
誰も、何も君を傷つけたりしない。
恐ろしいもの悲しいもの苦しいもの、
何もここには入り込まない」
 不思議な声だった。少し低めで、剣呑なもの、尖ったものをすべて平らかにしてしまうような。しかも、その声に導かれるように暖かく柔らかな空気がアニスの体と心を包んでいく。
「雨はもう止んだ。
さあ、目を開けてごらん」
 気がつくと涙があふれていた。恐怖感は去っていた。
 それがトリスタン・アビューの治療だった。彼は発作が起こることを心配し、自分の屋敷で働くよう取り計らってくれた。その後、アニスは六回ほど治療を受けている。ここ半年は落ち着いているが、近づく雨季が少し不安だった。
 彼は年のわりによく働いた。ハトゥラプルにいた時から、親の手伝いはよくやっていたし、働くのは苦痛ではなかった。素直な性格で他の使用人たちにも可愛がられている。トリスタン・アビューは顔を合わせると、声をかけてくれた。
 それでも、家族を亡くした喪失感や深い悲しみは、そう簡単に消えそうもない。思い出して眠れない夜は多かった。

 翌日は、昼から薬草摘みだった。
アビュー家の施療所では身分の貴賤に関わらず、けが人や病人を受け入れていた。神和家は財政的にも豊かで、治療費はとっていない。そのため患者も多かった。
 トリスタンが行うのはユフェリの「気」を手かざしで患部に注ぎ込む手法の癒しだった。癒しの技を出し惜しみすることはないが、補助的に薬草も使っている。
薬草摘みはアニスの好きな仕事だった。今日摘むのはカミツレの花だ。心を落ち着かせ眠りを誘う花は少し甘い香りがする。一面に咲く白い花は母や妹を思い出させた。
(坊様がお葬式で言っていたように、父さんや母さんは天空の庭から僕を見ててくれているはず。もう抱きしめてくれることはないけど)
 そんなことを考えていた時、黒っぽい塊が足元に跳ねてきたと思ったら、彼の肩に飛び乗った。
「痛いよ、パシャ!」
 黒灰色の猫の爪が服の上から肌を刺す。猫の来た方を見ると、見たことのない犬がいた。円形状になぎ倒された草むらの真ん中、ふんふんと匂いを嗅いでいた。そして犬の向こうから枯草色の髪の女の子が歩いて来る。
 アニスはにっこり微笑み、一礼する。
 だが、ルシャデールはしげしげと彼の顔を見た後、むっつりした顔のままそっぽ向いた。
 アニスは再び花を摘み始めた。無愛想な可愛げのない子。確かにそうかもしれない。
 と、ルシャデールが再びアニスの方を見る。様子をうかがっているような目だ。餌を差し出した時の野良猫に似てる。そう思って、なぜかおかしく口に笑みが浮かぶ。少女は怒ったようにアニスをひと睨みして、倒れた草に視線を移す。
馬鹿にされたと思ったのかな?
 といって、言い訳するのも変だったから、彼はそのまま花を摘み続けた。
「クホーンだ……」少女が独り言のようにつぶやいた。
 アニスはちらりと彼女に目を向ける。
 円形状に倒れた草むらを庭師のバシルは「雨虫様の足跡」と呼んでいた。雨虫様は大きな蛇で雨を降らしに天から降りてくる。そして時々は柔らかな草地でとぐろを巻いて休むのだという。
 クホーンって何だろう?
「竜だよ」ルシャデールは顔を上げずに言った。
 え? 誰に言ってるんだろう……。犬に? あれは犬? 狐みたいだけど。
 黙っていると、今度こそルシャデールはアニスの方を向いた。馬鹿にしたような表情を浮かべている。
「雨を降らせる竜のことだよ。カームニルでは雨主(あめぬし)様とも言っていた」
 アニスは花を摘む手を止めた。ルシャデールは話しかけるきっかけを探していたのだ。彼女は『雨虫様の足跡』を横切ってアニスのそばにやってきた。「それはおまえの猫?」
「いいえ、迷い猫です」
ルシャデールは手を伸ばし、猫の額を撫でようとした。シュッ。猫は身をひるがえして草むらを走って行った。
「ふん、普通の猫だ」
普通じゃない猫っているのかな? どういう猫?
「あれは普通じゃない犬」ルシャデールは狐顔の犬を指差した。「半分精霊なのさ」
「えっ……精霊?」
 本当に? 母から聞いた昔話が、どくん、と脈打ち、アニスの頭に展開していく。召使としての礼儀作法より好奇心が勝ちをおさめた。
「じゃあ……じゃあ、一つ目の巨人に化けたり、山のような金貨を出したり、きれいなお姫様を連れてきたりできるんですか?」
 少女の口に浮かぶ冷ややかな笑みにアニスはちょっとたじろぐ。
「できるかい、カズック?」
 ルシャデールは犬の方を振り返る。
「大昔、おまえたちのひい爺さんのひい爺さんの、そのまたひい爺さんがまだ生まれてもいないような昔だったらできただろうな。精霊(本当は神なんだが)も浮き沈みがあるのさ、坊や。晴れる日もありゃ、土砂降りの日だってあるさ。がっかりさせて悪いが」
 しかし、アニスはがっかりするどころか、大きく目を見開き声を上げた。
「すごい! 犬の妖精がしゃべっている」
 好奇心丸出しでカズックの横にまわったかと思うと、後ろから見たりしている。その素朴な喜びように、犬は困惑気味でルシャデールを見る。
「単純だね。だから子供は嫌いだ」
 バカにしたような言いようだった。が、アニスの笑みは崩れなかった。
「おまえ、アニス……だったっけ?」
「アニスです。アニサード・イスファハンといいます」
 彼女は少し大仰にうなずくと、屋敷の方へ歩いて行った。精霊がその後を追いかけていく。
 アニスはその後、小一時間ほど花を摘み、籠をいっぱいにして表門の方へ向かった。施療所へ持っていくのだ。
「ロビナさん、カミツレ摘んできました。」施療所の裏で修道尼に籠ごと渡す。
「ありがとう、アニス。明日はたちじゃこう草とゼラニウムを採ってきてくれますか?」
「はい」
 屋敷へ戻ろうとして、侍女のメヴリダが施療院の方へ向かっているのが見えた。
「アニス、御寮様見なかった?」
「御寮様なら、さっき薬草園からお屋敷の方へ行きましたよ」
 メヴリダは深く溜息をついた。
「お部屋にいたと思ったら、急に走って出ていくし……。とても追いつけないわ」
 四十過ぎのメヴリダはアビュー屋敷での勤めも長い。
 しかし、もう二十年以上子供がいない屋敷で、その世話係になるのは、貧乏くじをひいたようなものだった。
「あんたみたいに、言われたことちゃんと聞くような子だったらいいんだけど……。汚い石をかたづけたら、えらい騒ぎを起すし。部屋に飾ってあった高価な壺を二つも投げつけてきたんだから! それに朝から追いかけっこばかり。勝手に出歩かれて迷子にでもなられたら、またあのハゲ執事に怒られるじゃない……」
 すでにメヴリダは執事から注意を受けているらしい。大きなしくじりをしでかすと、給料を減らされることもあるという。悪くするとお屋敷を出されるかもしれない。アニスにも世話係の大変さは察することができた。
「何か言っても、ろくすっぽ返事もしやしない。どういう育ちしてきたのかしら」
「はあ……」
「あんたに愚痴言ってもしょうがないわね」メヴリダは気を取り直して、屋敷正面の玄関ホールへ向かっていった。
 アニスは西廊へと歩きながら、また御寮様に精霊の話が聞ければいいな、と思っていた。皮肉っぽい目つきで見られると緊張するが、好奇心の方が勝った。
幽霊や妖怪などの話は好きだったが、彼にその類の体験はなかった。不気味な気配がするという、四階の女中部屋の一室に入らせてもらった時も、何も感じなかった。
 幽霊でもいいから見たかった。赤の他人の幽霊はどうでもいい。死んだ父さんや母さん、おじいちゃん、妹のエルドナに会いたい。もしできるなら、話もしたい。鼻の奥がつんとして、アニスは思いを振り払い、西廊棟へ走りだした。
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み