箱入り男はご執心!
文字数 5,862文字
テレワーク1か月目に突入。
「ふう……」
朝のZoomミーティングが終わり、
私はキッチンから梅酒の瓶を持ち出した。
在宅ワークだと、人目を気にせずサボれてしまう。
いけないことだと思っていても、つい朝から酒浸りだ。
こんな毎日がもう3週間は続いていた。
最初のうちは真面目に、家でもしっかり仕事をと思っていたが、
ストレスというのは溜まってくるみたいで。
グラスに梅酒を注ぐと、パソコンの横にさっそく置く。
イケナイコトというのはどうにもクセになる。
三十路前の二十七歳。
彼氏もいなければ友達も少ない。
最初は引きこもり生活なんて楽勝だとは思っていたが、
1か月経験してみてわかった。
私はなんだかんだ言って、会社の人たちに救われていた。
「あぁ……実家に帰りたいけど、それも無理か」
ため息を飲み込むのと同時に酒を飲む。
ストレートの梅酒は空腹に効く。
このままじゃ私、本当にクズになっちゃう。
ただでさえ陸上をやめざるを得なくてダメ人間になったのに……。
そのとき、インターフォンが鳴った。
***
私はお酒のグラスを置くと、玄関に向かった。
お取り寄せグルメ、なんか頼んだっけ?
それか好きなバンドのライブに行けなくて買ったグッズか、服か……。
どれにせよ、ストレスで買ったことには間違いがない。
宅配業者のお兄さんにはいつもご迷惑をおかけしている。
扉を開けると、誰もいなかった。
もしかして、ピンポンダッシュ?
って、こんなご時世にそんな元気な子が外で遊んでいるわけがない。
おかしいなと思って一応外に出てみる。
すると、そこには大きなチェロケース。
「……え!? こんなの買った覚えない……」
ケースをよく見ると、「粗大ごみ」のシール。
これ、私のじゃないのに、誰か勘違いした!?
だからって大家さんには言いにくいし……。
自治会長とはほぼ面識がないし……。
これっていつも酒浸りの生活をしている私への罰だったりして。
仕方ないか……。
私はキャスター付きのケースを引きずり、玄関に置くことにした。
***
「さてと」
一仕事すると、パソコンの前に戻ろうとした。
すると……。
ガタッ、ゴトッ。
え?
ガタッ! ガタガタッ!!
「う、うそ、ケースが動いてる!?」
ガチャガチャ音がした後、中から小さな声が聞こえる。
「誰か! 開けて!!」
「誰か入ってるの!? 嘘でしょ!?」
びっくりしてても、このままにしては置けない。
私は急いでケースを開ける。
「いててて……狭かった……」
私はその場で腰を抜かしそうになった。
出てきたのは、短髪でそこそこ身長も高い、細身のイケメンだったからだ――。
***
「あなた、誰!?」
「……すみません。助けてくれてありがとうございました」
って、これは桃太郎?
私はおばあさんか!!
ずいぶんと今風でおしゃれな恰好な桃太郎だな!?
と、心の中でセルフツッコミをするが、そんな場合ではない。
「助けて……って、やっぱり誰かに……いたずら、とか?」
いたずらにしても、運が悪かったら死ぬぞ!? これ。
顔面蒼白の私とは反して、男は私に明るく話す。
「なんか……どういうわけか、こんなことになってしまいまして」
「どういうわけも、こういうわけもないでしょ! これは犯罪じゃ……警察を呼びます!」
私がスマホを取りに行こうとしたところ、肩をぐっとつかまれる。
「……だめ」
「えっ」
男の顔が近づき、私はドキリとする。
長いまつげにミステリアスな茶色い瞳……。
なんだか吸い込まれそうで、思わず動きが止まる。
「ダメ。俺はあなたに助けられたの。だから、恩返ししないと」
「恩返し!?」
……って、むちゃくちゃじゃないか!?
***
とりあえず、お茶を出して部屋に上げたはいいが……。
「まずは名前を聞いてもいい?」
「はい。清田歩です。年は22。でもそれ以外覚えてなくて……」
「5つ年下か。私は……」
あ、やべ。
油断した。
今気づいたことがある。
すっかり在宅ワークで気を許しまくった。
今、ドすっぴんやん。
年下イケメンくんの前なのに。
Zoomミーティングはメイクしなくてパソコンが加工してくれるから……。
まぁ、いいか。
相手も素性の知れない怪しい人間だし……。
『恩返し』すれば帰ってくれそう……ではないか。
記憶喪失だもんなぁ。
とりあえず、名前は教えるか。
「私は春宮杏。今は在宅ワークで家にいるけど、普段は……」
「アンコさんでいいですか?」
「は?」
「いいですよね? お酒、ダメですよ?」
テーブルにあった私のグラスを、にっこり笑顔で奪い去り、中身を流しに捨てる。
おいおい、ちょっと待て。
いきなりあだ名呼びで酒没収って……。
「アンコさん。俺の恩返しは、『あなたをまっとうな人間に戻す』ことです。
そう決めました。わかりましたか?」
はいぃぃぃ!?
***
「あなた、相当クズな生活送ってそうなので、これが一番ベストな恩返しかと」
謎の記憶喪失青年・歩くんは、記憶喪失だというので
私が追い出せないのをいいことに勝手に家事をやり始めた。
「アンコさん、掃除してます? ビールの空き缶と空ビンすごいですよ? お酒はいいかげん控えましょう。部屋もほこりっぽいし……服を買ってはそのまんまって感じですね」
「う、うっさい! 仕事するから……っていうか、一応私、恩人なんでしょ? 放っておいてよ、あとでやるから!」
「いえ、俺がやりますから仕事に集中していてください。これが俺の恩返しです」
「…………」
何、これ……。
私はすっぴんにメガネ、ヘアバンドという恰好でパソコンに向かうが、落ち着くわけがない。
イケメンが勝手に上がり込んで、なんで私の部屋の掃除なんて……。
「アンコさん、結構かわいい下着選ぶじゃないですか」
「!?」
服の下から出てきた、新品のブラジャーをつかんでいる歩くんから、私は急いでそれを奪う。
「掃除、やめてよ! あんたはお客さんみたいなもんなんだから、じっとしてて!」
「お客さんのわりにはもてなされてないし……大体俺が恩返し勝手にしてるだけだから、アンコさんは仕事に集中して!」
こんなんで集中できるか!!
とりあえず下着だけタンスにしまうと、歩くんはジロジロとその様子を見つめる。
「ふうん、下着はそこですか」
「!!」
なに、このエロ野郎!!
黙って茶でもすすってろ!!
***
「はぁ……つっかれたぁ……」
「お疲れ様です」
茶でもすすってろと言った私が、仕事終わりにハーブティーを出される。
なんだ、この状況。
「ところで歩くん、君、お金は?」
「持ってませんね、多分」
「本当に?」
「ええ」
……本当だろうか。
胡散臭いんだよな、こいつ。
私は夏近いのにホットで出されたハーブティーを、ふうふうしながら飲む。
っていうか、なんで私の好きな銘柄を知ってるんだ。
偶然か?
「信用してないなら、ここで全裸になりますが」
「ならんでよろしい」
「でもアンコさん、無理やり追い出そうとはしませんね」
「そら、まぁね。記憶喪失っていうし」
それもあるが、私自体、心の中で少し浮かれていたのかもしれない。
なぜなら久しぶりの「人」だからだ。
仕事先の人とも、遠方の両親とも画面越しの会話。
友達とも。
そんな現状で、生身の人間と会話できる喜びって、すさまじい。
「私も寂しかったんだな……」
「でしょ? だから俺が『宅配』されたんだよ」
「……ん? 宅配? 粗大ゴミでしょ?」
「……本当に、俺のこと知らないの?」
……なんか……ヤバい。
歩くんの目つきがさっきまでと違う。
普段部屋に男の人なんて彼氏になった人以外呼ばない。
そうだ、今私、部屋の中で男の人とふたりっきりじゃん!
***
「知らない……って?」
「覚えてない? 俺のこと」
向かいでハーブティーを一緒に飲んでいた歩くんが、じりじりと私の方に寄ってくる。
目をつぶって、首を左右に振ると、はあ、と大きくため息をつく。
「そっか、覚えてないか」
苦笑いする歩くん。
……よかった。
近寄るのをやめた。
嫌に緊張しちゃうじゃん。
5つも年下のくせに。
……そうだよ、5つも年下の子と、接点なんてない。
どこで歩くんと会ったっていうの?
名前も初めて聞いたし……。
「私たち、どこかで会ったっけ?」
「……晩ご飯も取り寄せしてるくせに作ってないみたいですね。今夜は俺が作りますよ」
私の質問は、歩くんにはぐらかされた。
***
「あなたはこれだけの材料をため込んでたんですよ。取り寄せるだけ取り寄せて」
「う、反省……はしてない。経済回してるんだから」
「そうでしょうね。でも、宅配業者は大変だ」
「悪いとは思ってるけど……」
夕飯はやけに豪華だった。
今まで取り寄せしていた食材を徹底的に使ってくれたらしい。
ステーキに、地方の珍しい野菜を添えたものに、某ホテルのスープ。
それとデザートはチーズケーキだった。
正直めちゃくちゃおいしかった。
そりゃそうだ。
どれも高かったものばかり。
でも、これじゃあ余計太っちゃうな。
ただでさえ陸上をやめてから、10㎏太っちゃったのに。
「……余計に太りますね」
「うるさい!」
たぷたぷのお腹を見た歩くんがほくそ笑む。
本当に意地悪なんだか、なんなんだか。
恩人に対して、この態度って……。
「そろそろお風呂たきましょうか」
「え!? え、う、うん……」
「大丈夫ですよ、背中を流すとか言い出しませんから」
「ならいいけど」
「あ、お望みでしたら……」
「望んでない」
「ですよね」
***
しかし……。
ようやく本当に一人の時間を手に入れた私は、
お風呂につかりながら考えていた。
私は歩くんと会ったことがあるのか?
「うーん……」
「タオル外に置いておきますよ」
「入ってくんな!!」
「は~い」
浴室前の脱衣所にまで入ってくるか!
なんでここまでずうずうしいんだ、こいつは!
だけど、本当にどうしよう。
歩くんの記憶を取り戻さないといけないよなぁ。
そうでないと、謎の若い子と二人暮らしが続くってことで……。
それは非常にまずい。
彼氏でもなんでもないっつーのに。
私が上がったあと、とりあえず歩くんをお風呂に入ってもらう。
……今だ。
警察に電話しよう。
スマホを持ち上げると、私はどう説明するか悩んだ。
「えーと……家の前にチェロケースが捨てられていて、それを開けたら男が……意味がわからんし、警察も困るな」
こういうときの、助けて検索先生。
「変質者 通報」
私がスマホにそう語りかけた瞬間……。
「あなたはいつもそうだ」
***
「ぎゃっ!」
「そんな驚かないの」
「驚くよ……」
上半身裸の歩くんが、怒った様子でスマホを取り上げる。
まずい、この距離は……近い。
私の腕をつかむと、歩くんはまっすぐに瞳を見つめた。
「あなた、歩きスマホしてて事故に遭ったの忘れましたか? 家の中ですらスマホ!
スマホに人生狂わされてどーすんだ!」
「な……なんでそのことを……んっ!」
突然のキスに戸惑う。
おかしい、こんなの変だ。
なんで初対面だったのに、こんなにむさぼるような口づけなんてするの?
「……はぁ」
ゆっくりと唇を離しても、歩くんの唇は私の首筋へと移動する。
……本当にまずいことになったなぁ。
なんでこんなことに……。
お酒も入ってない。
なのに、私……流されてる。
こんなの……。
「やっぱダメ!! あんた、何者なの!!」
***
ゴチン!!
私はげんこつを歩くんの頭にぶつけた。
「いった……」
「説明をしなさい! なんで5歳も年上で、太った私なんか襲うの!! あんた、目ぇおかしいでしょ!! 大体ね、意味がわからないのよ! 本当に記憶喪失なの!? 私の子と知ってるでしょ!!」
私が本気で怒ると、歩くんは涙目になる。
え、えぇっ……泣くぅ~!?
「ごめんなさい!! 昔から好きでした!! 独り暮らしのあなたの生活が心配で、自分からチェロケースに入ってました!! ストーカーです、こんにちは!!」
「す、ストーカー? 誰の?」
「あなたしかいないでしょ……」
「だ、だって、5歳年上で太ってるでしょ?」
「年齢は関係ないでしょ。太ったのだって、事故で陸上をやめてからだ」
「そんなことまで知ってるの?」
「ストーカーですから」
歩くんはようやく説明を始めた。
清田歩。これは本名だし、年齢も本当に22歳。
ただ、記憶喪失っていうのは嘘。
本当は……。
「宅配便の?」
「そうです。あなたの家は俺のエリアで……いつも酔っ払いながら出てきたから、最初は心配だった。名前を見たら、昔から憧れていたアンコさんって知って……」
昔から。
ああ、その頃からか。
だから、当時のあだ名の「アンコちゃん」か。
私は陸上をやっていた。
五輪メダルも狙えるほどの選手で、陸上の評価で今の会社に就職した。
が、スマホを見ながら歩いていたせいで、事故に遭った。
そのせいで、陸上はやめざるを得なくなってしまい……。
「俺は、陸上をやっていたあなたが好きだった。でも……」
「ぶくぶく太って、酒浸りになっていたアンコちゃんです、こんにちは」
私がいうと、涙を腕で拭いながらつぶやく。
「うん……だから俺が生活改善をしないとって。俺にとってアンコさんは……人生を変えてくれた人だから」
***
「どういう意味?」
「アンコさんの走り見て、俺も陸上始めたんだ。それで今は社会人ランナーやってる。そんな人がどんどんダメになっていくのを見て、これじゃダメだって。そのとき気づいたんだよ。俺、アンコさんが好きだって」
「……え」
「だから、好きだって」
ちょっと待て。
ということは最初からこれは……。
「これぞ、完全犯罪ですね! 家に上げたのはアンコさんですよ」
「あんた、家は!?」
「今ひとりで寂しいんでしょ? 俺が一緒に住んであげます。お世話もしてあげる。いいですよね? 決定!」
……え?
えぇっ!?
答えになってない。
決定って……。
私はどうすれば……。
「と、いうことで、続き。しませんか?」
「しーなーい!!」
「俺の気持ちは伝えましたよ? そうなると……あとはアンコさんの気持ちが傾くまで待つ、長期戦ですね」
長期戦って……こいつ、ここに居座る気か!?
「やっぱり警察ッ……」
「ダーメ。スマホが原因で睡眠不足にもなるわけだし……。これはしばらく没収。昼夜逆転の生活がなおるまでね」
「あんたがいるとなおらなさそうなんですが……」
「え? それってどういう意味……」
「危険人物の近くで眠れるわけがない!」
「でも、俺ここから出る気ないですし。今外出自粛ですし、警察もコロナでてんやわんやですよ? 俺はとりあえずアンコさんの決心がつくまで無害ですから」
「前科者!!」
「それはそれ」
あーっ!! もう!!
こんな感じで私の日常、どうなっちゃうの!?
私の頭はパニックで、いつの間にかつけられていた
首筋のあざには気づいていなかった。
「ふう……」
朝のZoomミーティングが終わり、
私はキッチンから梅酒の瓶を持ち出した。
在宅ワークだと、人目を気にせずサボれてしまう。
いけないことだと思っていても、つい朝から酒浸りだ。
こんな毎日がもう3週間は続いていた。
最初のうちは真面目に、家でもしっかり仕事をと思っていたが、
ストレスというのは溜まってくるみたいで。
グラスに梅酒を注ぐと、パソコンの横にさっそく置く。
イケナイコトというのはどうにもクセになる。
三十路前の二十七歳。
彼氏もいなければ友達も少ない。
最初は引きこもり生活なんて楽勝だとは思っていたが、
1か月経験してみてわかった。
私はなんだかんだ言って、会社の人たちに救われていた。
「あぁ……実家に帰りたいけど、それも無理か」
ため息を飲み込むのと同時に酒を飲む。
ストレートの梅酒は空腹に効く。
このままじゃ私、本当にクズになっちゃう。
ただでさえ陸上をやめざるを得なくてダメ人間になったのに……。
そのとき、インターフォンが鳴った。
***
私はお酒のグラスを置くと、玄関に向かった。
お取り寄せグルメ、なんか頼んだっけ?
それか好きなバンドのライブに行けなくて買ったグッズか、服か……。
どれにせよ、ストレスで買ったことには間違いがない。
宅配業者のお兄さんにはいつもご迷惑をおかけしている。
扉を開けると、誰もいなかった。
もしかして、ピンポンダッシュ?
って、こんなご時世にそんな元気な子が外で遊んでいるわけがない。
おかしいなと思って一応外に出てみる。
すると、そこには大きなチェロケース。
「……え!? こんなの買った覚えない……」
ケースをよく見ると、「粗大ごみ」のシール。
これ、私のじゃないのに、誰か勘違いした!?
だからって大家さんには言いにくいし……。
自治会長とはほぼ面識がないし……。
これっていつも酒浸りの生活をしている私への罰だったりして。
仕方ないか……。
私はキャスター付きのケースを引きずり、玄関に置くことにした。
***
「さてと」
一仕事すると、パソコンの前に戻ろうとした。
すると……。
ガタッ、ゴトッ。
え?
ガタッ! ガタガタッ!!
「う、うそ、ケースが動いてる!?」
ガチャガチャ音がした後、中から小さな声が聞こえる。
「誰か! 開けて!!」
「誰か入ってるの!? 嘘でしょ!?」
びっくりしてても、このままにしては置けない。
私は急いでケースを開ける。
「いててて……狭かった……」
私はその場で腰を抜かしそうになった。
出てきたのは、短髪でそこそこ身長も高い、細身のイケメンだったからだ――。
***
「あなた、誰!?」
「……すみません。助けてくれてありがとうございました」
って、これは桃太郎?
私はおばあさんか!!
ずいぶんと今風でおしゃれな恰好な桃太郎だな!?
と、心の中でセルフツッコミをするが、そんな場合ではない。
「助けて……って、やっぱり誰かに……いたずら、とか?」
いたずらにしても、運が悪かったら死ぬぞ!? これ。
顔面蒼白の私とは反して、男は私に明るく話す。
「なんか……どういうわけか、こんなことになってしまいまして」
「どういうわけも、こういうわけもないでしょ! これは犯罪じゃ……警察を呼びます!」
私がスマホを取りに行こうとしたところ、肩をぐっとつかまれる。
「……だめ」
「えっ」
男の顔が近づき、私はドキリとする。
長いまつげにミステリアスな茶色い瞳……。
なんだか吸い込まれそうで、思わず動きが止まる。
「ダメ。俺はあなたに助けられたの。だから、恩返ししないと」
「恩返し!?」
……って、むちゃくちゃじゃないか!?
***
とりあえず、お茶を出して部屋に上げたはいいが……。
「まずは名前を聞いてもいい?」
「はい。清田歩です。年は22。でもそれ以外覚えてなくて……」
「5つ年下か。私は……」
あ、やべ。
油断した。
今気づいたことがある。
すっかり在宅ワークで気を許しまくった。
今、ドすっぴんやん。
年下イケメンくんの前なのに。
Zoomミーティングはメイクしなくてパソコンが加工してくれるから……。
まぁ、いいか。
相手も素性の知れない怪しい人間だし……。
『恩返し』すれば帰ってくれそう……ではないか。
記憶喪失だもんなぁ。
とりあえず、名前は教えるか。
「私は春宮杏。今は在宅ワークで家にいるけど、普段は……」
「アンコさんでいいですか?」
「は?」
「いいですよね? お酒、ダメですよ?」
テーブルにあった私のグラスを、にっこり笑顔で奪い去り、中身を流しに捨てる。
おいおい、ちょっと待て。
いきなりあだ名呼びで酒没収って……。
「アンコさん。俺の恩返しは、『あなたをまっとうな人間に戻す』ことです。
そう決めました。わかりましたか?」
はいぃぃぃ!?
***
「あなた、相当クズな生活送ってそうなので、これが一番ベストな恩返しかと」
謎の記憶喪失青年・歩くんは、記憶喪失だというので
私が追い出せないのをいいことに勝手に家事をやり始めた。
「アンコさん、掃除してます? ビールの空き缶と空ビンすごいですよ? お酒はいいかげん控えましょう。部屋もほこりっぽいし……服を買ってはそのまんまって感じですね」
「う、うっさい! 仕事するから……っていうか、一応私、恩人なんでしょ? 放っておいてよ、あとでやるから!」
「いえ、俺がやりますから仕事に集中していてください。これが俺の恩返しです」
「…………」
何、これ……。
私はすっぴんにメガネ、ヘアバンドという恰好でパソコンに向かうが、落ち着くわけがない。
イケメンが勝手に上がり込んで、なんで私の部屋の掃除なんて……。
「アンコさん、結構かわいい下着選ぶじゃないですか」
「!?」
服の下から出てきた、新品のブラジャーをつかんでいる歩くんから、私は急いでそれを奪う。
「掃除、やめてよ! あんたはお客さんみたいなもんなんだから、じっとしてて!」
「お客さんのわりにはもてなされてないし……大体俺が恩返し勝手にしてるだけだから、アンコさんは仕事に集中して!」
こんなんで集中できるか!!
とりあえず下着だけタンスにしまうと、歩くんはジロジロとその様子を見つめる。
「ふうん、下着はそこですか」
「!!」
なに、このエロ野郎!!
黙って茶でもすすってろ!!
***
「はぁ……つっかれたぁ……」
「お疲れ様です」
茶でもすすってろと言った私が、仕事終わりにハーブティーを出される。
なんだ、この状況。
「ところで歩くん、君、お金は?」
「持ってませんね、多分」
「本当に?」
「ええ」
……本当だろうか。
胡散臭いんだよな、こいつ。
私は夏近いのにホットで出されたハーブティーを、ふうふうしながら飲む。
っていうか、なんで私の好きな銘柄を知ってるんだ。
偶然か?
「信用してないなら、ここで全裸になりますが」
「ならんでよろしい」
「でもアンコさん、無理やり追い出そうとはしませんね」
「そら、まぁね。記憶喪失っていうし」
それもあるが、私自体、心の中で少し浮かれていたのかもしれない。
なぜなら久しぶりの「人」だからだ。
仕事先の人とも、遠方の両親とも画面越しの会話。
友達とも。
そんな現状で、生身の人間と会話できる喜びって、すさまじい。
「私も寂しかったんだな……」
「でしょ? だから俺が『宅配』されたんだよ」
「……ん? 宅配? 粗大ゴミでしょ?」
「……本当に、俺のこと知らないの?」
……なんか……ヤバい。
歩くんの目つきがさっきまでと違う。
普段部屋に男の人なんて彼氏になった人以外呼ばない。
そうだ、今私、部屋の中で男の人とふたりっきりじゃん!
***
「知らない……って?」
「覚えてない? 俺のこと」
向かいでハーブティーを一緒に飲んでいた歩くんが、じりじりと私の方に寄ってくる。
目をつぶって、首を左右に振ると、はあ、と大きくため息をつく。
「そっか、覚えてないか」
苦笑いする歩くん。
……よかった。
近寄るのをやめた。
嫌に緊張しちゃうじゃん。
5つも年下のくせに。
……そうだよ、5つも年下の子と、接点なんてない。
どこで歩くんと会ったっていうの?
名前も初めて聞いたし……。
「私たち、どこかで会ったっけ?」
「……晩ご飯も取り寄せしてるくせに作ってないみたいですね。今夜は俺が作りますよ」
私の質問は、歩くんにはぐらかされた。
***
「あなたはこれだけの材料をため込んでたんですよ。取り寄せるだけ取り寄せて」
「う、反省……はしてない。経済回してるんだから」
「そうでしょうね。でも、宅配業者は大変だ」
「悪いとは思ってるけど……」
夕飯はやけに豪華だった。
今まで取り寄せしていた食材を徹底的に使ってくれたらしい。
ステーキに、地方の珍しい野菜を添えたものに、某ホテルのスープ。
それとデザートはチーズケーキだった。
正直めちゃくちゃおいしかった。
そりゃそうだ。
どれも高かったものばかり。
でも、これじゃあ余計太っちゃうな。
ただでさえ陸上をやめてから、10㎏太っちゃったのに。
「……余計に太りますね」
「うるさい!」
たぷたぷのお腹を見た歩くんがほくそ笑む。
本当に意地悪なんだか、なんなんだか。
恩人に対して、この態度って……。
「そろそろお風呂たきましょうか」
「え!? え、う、うん……」
「大丈夫ですよ、背中を流すとか言い出しませんから」
「ならいいけど」
「あ、お望みでしたら……」
「望んでない」
「ですよね」
***
しかし……。
ようやく本当に一人の時間を手に入れた私は、
お風呂につかりながら考えていた。
私は歩くんと会ったことがあるのか?
「うーん……」
「タオル外に置いておきますよ」
「入ってくんな!!」
「は~い」
浴室前の脱衣所にまで入ってくるか!
なんでここまでずうずうしいんだ、こいつは!
だけど、本当にどうしよう。
歩くんの記憶を取り戻さないといけないよなぁ。
そうでないと、謎の若い子と二人暮らしが続くってことで……。
それは非常にまずい。
彼氏でもなんでもないっつーのに。
私が上がったあと、とりあえず歩くんをお風呂に入ってもらう。
……今だ。
警察に電話しよう。
スマホを持ち上げると、私はどう説明するか悩んだ。
「えーと……家の前にチェロケースが捨てられていて、それを開けたら男が……意味がわからんし、警察も困るな」
こういうときの、助けて検索先生。
「変質者 通報」
私がスマホにそう語りかけた瞬間……。
「あなたはいつもそうだ」
***
「ぎゃっ!」
「そんな驚かないの」
「驚くよ……」
上半身裸の歩くんが、怒った様子でスマホを取り上げる。
まずい、この距離は……近い。
私の腕をつかむと、歩くんはまっすぐに瞳を見つめた。
「あなた、歩きスマホしてて事故に遭ったの忘れましたか? 家の中ですらスマホ!
スマホに人生狂わされてどーすんだ!」
「な……なんでそのことを……んっ!」
突然のキスに戸惑う。
おかしい、こんなの変だ。
なんで初対面だったのに、こんなにむさぼるような口づけなんてするの?
「……はぁ」
ゆっくりと唇を離しても、歩くんの唇は私の首筋へと移動する。
……本当にまずいことになったなぁ。
なんでこんなことに……。
お酒も入ってない。
なのに、私……流されてる。
こんなの……。
「やっぱダメ!! あんた、何者なの!!」
***
ゴチン!!
私はげんこつを歩くんの頭にぶつけた。
「いった……」
「説明をしなさい! なんで5歳も年上で、太った私なんか襲うの!! あんた、目ぇおかしいでしょ!! 大体ね、意味がわからないのよ! 本当に記憶喪失なの!? 私の子と知ってるでしょ!!」
私が本気で怒ると、歩くんは涙目になる。
え、えぇっ……泣くぅ~!?
「ごめんなさい!! 昔から好きでした!! 独り暮らしのあなたの生活が心配で、自分からチェロケースに入ってました!! ストーカーです、こんにちは!!」
「す、ストーカー? 誰の?」
「あなたしかいないでしょ……」
「だ、だって、5歳年上で太ってるでしょ?」
「年齢は関係ないでしょ。太ったのだって、事故で陸上をやめてからだ」
「そんなことまで知ってるの?」
「ストーカーですから」
歩くんはようやく説明を始めた。
清田歩。これは本名だし、年齢も本当に22歳。
ただ、記憶喪失っていうのは嘘。
本当は……。
「宅配便の?」
「そうです。あなたの家は俺のエリアで……いつも酔っ払いながら出てきたから、最初は心配だった。名前を見たら、昔から憧れていたアンコさんって知って……」
昔から。
ああ、その頃からか。
だから、当時のあだ名の「アンコちゃん」か。
私は陸上をやっていた。
五輪メダルも狙えるほどの選手で、陸上の評価で今の会社に就職した。
が、スマホを見ながら歩いていたせいで、事故に遭った。
そのせいで、陸上はやめざるを得なくなってしまい……。
「俺は、陸上をやっていたあなたが好きだった。でも……」
「ぶくぶく太って、酒浸りになっていたアンコちゃんです、こんにちは」
私がいうと、涙を腕で拭いながらつぶやく。
「うん……だから俺が生活改善をしないとって。俺にとってアンコさんは……人生を変えてくれた人だから」
***
「どういう意味?」
「アンコさんの走り見て、俺も陸上始めたんだ。それで今は社会人ランナーやってる。そんな人がどんどんダメになっていくのを見て、これじゃダメだって。そのとき気づいたんだよ。俺、アンコさんが好きだって」
「……え」
「だから、好きだって」
ちょっと待て。
ということは最初からこれは……。
「これぞ、完全犯罪ですね! 家に上げたのはアンコさんですよ」
「あんた、家は!?」
「今ひとりで寂しいんでしょ? 俺が一緒に住んであげます。お世話もしてあげる。いいですよね? 決定!」
……え?
えぇっ!?
答えになってない。
決定って……。
私はどうすれば……。
「と、いうことで、続き。しませんか?」
「しーなーい!!」
「俺の気持ちは伝えましたよ? そうなると……あとはアンコさんの気持ちが傾くまで待つ、長期戦ですね」
長期戦って……こいつ、ここに居座る気か!?
「やっぱり警察ッ……」
「ダーメ。スマホが原因で睡眠不足にもなるわけだし……。これはしばらく没収。昼夜逆転の生活がなおるまでね」
「あんたがいるとなおらなさそうなんですが……」
「え? それってどういう意味……」
「危険人物の近くで眠れるわけがない!」
「でも、俺ここから出る気ないですし。今外出自粛ですし、警察もコロナでてんやわんやですよ? 俺はとりあえずアンコさんの決心がつくまで無害ですから」
「前科者!!」
「それはそれ」
あーっ!! もう!!
こんな感じで私の日常、どうなっちゃうの!?
私の頭はパニックで、いつの間にかつけられていた
首筋のあざには気づいていなかった。