第1話

文字数 3,574文字

 私がこの老人ホームに勤め始めてもう何年になるだろうか。

「これでも結構夫婦円満のつもりでしてね。妻に会わない日っていうのは5割引きくらいの感じがするんですよ」

 田中さんは50歳を少し過ぎたくらいだ。701号室に入居している彼は問診に来た看護師の私にそう惚気る。連れ添って過ごす日と比べれば何をしてても半分ほどの充実感でしかないと。

 彼が老人ホームに入居している理由は深刻な記憶障害を患っていることだ。ガスの消し忘れ、取った食事の回数がわからず何度も食べてしまう過食、自身の喪失と共に判断能力が鈍り車の運転もおぼつかない。奥さん一人の自宅介護などでは対処が間に合わず一般的には随分早いと思える年齢でここに入った。
 交通事故で頭部を負傷したのが原因らしいが、特に事故以降の新たな出来事を記憶していくことが非常に苦手でつい前日あった出来事もほとんど覚えていない。

「そんなこと言ったら彼氏もいない私は毎日半額の女じゃないですか、もう」

 自虐気味に突っ込みながら私は視線を窓際に流す。
 彼の部屋の窓際、テレビの脇の棚には青色の封筒に入れられた手紙が何十通も綺麗に収められている。日に何度も読み返している奥さんからの大切な手紙だ。夫妻は子供は設けなかったらしくずっと二人暮らしであった田中さんにとって、それは部屋の外の世界とつながる大切なコミュニケーションの一つになっている。

 私には、その手紙についてとある日課があった。

 深夜になると個室の巡回ついでにそこから1通抜き取っていくのだ。日付の古い方から棚に収まる量になるよう1通ずつ回収していくのが毎日の決めごと。ライトを照らしてこっそり棚を眺めて、音を立てないよう青い封筒を拝借する。ポケットに滑り込ませたらナースステーションの奥にある段ボール箱にしまう。
 わかりやすくいびきをかいて寝るタイプだったので咎められたことは一度もない。

 そして翌朝になると、出勤すると同時に施設の郵便受けを確認して郵送されてきている同じような青い封筒を取り出す。ロッカーで着替え終わり、タイムスタンプにチェックを入れると朝の挨拶代わりに701号室に届けに行くのだ。

 朝食を運ぶよりも早い時間、アラームで規則正しく起床している田中さんはいつも照れたように手紙を受け取る。

「田中さん、いつものお手紙です。奥さんから」
「ありがとうございます。なんてことない世間話しか書いてないんですけど、お手間を取らせますね」
「いえいえ、趣があって素敵じゃないですか」
「まあこっちはこっちで助かるんですけどね。電子機器を通したメッセージでは操作方法が分からなくなってしまう事がよくあるので」
「それは田中さんに限りませんよ。私ももう最新機器にはついていけないです」
「そんなもんですか。じゃあどれどれ失礼して……今日はお友達と会う予定が入っています。病院食みたいなのばかりの貴方には悪いけどお洒落なランチを食べてくるわだって。僕もステーキなんか食べたいなあ、ここの食事じゃ出ないでしょ」
「お洒落とはいかないかもですが、田中さん個室ですし多少融通聞きますよ。あとでメニュー持ってきますね」

 月曜日はそんな話だった。血圧を測ったり脈を取ったりする間、彼が雑談代わりに書き出しを読み上げるのも毎日の事だ。

「パートが忙しくて。勤め先のカフェが最近繁盛してるんです。私の淹れる珈琲のおかげかしら、ふふふって……自信持っちゃって。妻の淹れる珈琲なんてなんともなく今まで飲んでたと思うけど、結構値打ちものだったのかねえ。不思議なものですよ。最近の事は全然覚えていられないのに、そういう昔のちょっとした思い出はこびり付いてるんです」
「いつだったか、写真見せて頂いたことありますよ。珈琲にミルク入れてハートとかお花とか描いちゃうやつ。奥さん中々の手練れですよ。ふふ」

 それが火曜日。

「うちの電灯が切れてしまって交換に四苦八苦した午前中でした、こういうときは女一人じゃ心許ないわね。あとそっちで看護婦さんにご迷惑をかけないようにね、だそうです。僕結構いい入居者でしょ?それなりに元気でクレーム付けるでもなし」
「それわかります!電球交換って独身の心にずしんと来る瞬間ですから!暗い部屋で心細く椅子とかに立ってこんな事助けてくれる人もいないのか私はって……。あ、田中さんは勿論いい入居者ですよ」

 これが水曜日。

 だが時には、大きく心臓が波打つこともある。

「あの手紙の束を見るともう一か月くらい妻と会っていないんだな」
 
 ある日の朝、テレビ脇の棚を見やって彼はそう零した。 

「……ここ、遠いですからね。忙しい月はなかなか足が向かない事もありますよ」
「大事な旦那だってのに独り身を満喫してますかなあ」
「一人もたまにはいいもんだと思いますけど、時間が空けばすぐ来られますよきっと」

 室内から廊下まで空調の行き届いた一定温度の空間、私の額にたらりと冷や汗が一筋通る。
 彼は設備の整った遠方の手厚い老人ホームに入居したため、妻は通うのが中々に負担で毎日のようには面会に来られないんだと理解していた。入居費用が嵩んだし車の運転だって交代無しに一人で来るんじゃ楽じゃない。もう若い訳ではないし無理は利かないんだろうと。

 でもそれは間違いだ。

 この病院のある場所は彼の故郷で住まいも車でほんの15分ほどでしかない。経済面についても田中さんは十分な蓄えがある。

 実は彼の奥さんはもう1年以上も前に亡くなっている。治療法が確立していない難病にかかり、病気が発覚してから半年ほどしか生きられなかった。それを覚えていないのだ。

 毎日私が回収して、そして届けている手紙は生前の奥さんが用意しておいた最後の手紙たちだ。奥さんは寿命が判明してから自分の死後に備えて夫への手紙を書き続けたのだ。半年かけて365日分。

 自分が死んだことを夫が忘れてしまう度にもう一度死を伝えてショックを与えるよりも、自分が訪れないだけの普通の一日を過ごす方が幸せだろうと考えこの老人ホームに手紙を残した。なんてことない日常生活を綴り夫を気遣う手紙。生存を偽る手紙を残した。

 つまり私は天国からの配達人よろしく亡き奥さんからの手紙を、さも前日に筆を走らせたばかりだろうという態度で毎日届けている。

 妻が亡くなったというのは本来は伝えなければならないとても大切な出来事。それを隠すというのは医療関係者として、医療介護施設として難しい判断だった。だが記憶が抜け落ちる彼に毎日のように最愛の人の訃報を伝え、ふさぎ込む一日を連鎖させるのが正しい対応だと考える者は多くなかったのだ。

 当時既に田中さんを担当していた私は、1年間日替わりの手紙が詰まった段ボール箱を覗いたときに嘘をつく覚悟を同僚に先んじて決めていた。

 勿論、業務である以上簡単に実行はできなかった。施設としての決定をしたのは奥さんの死から数週間後だ。

 必要な段階として、一度は彼に伝えたのだ。奥さんが亡くなったことを。遺言に近い手紙の箱を開けるためにも避けてはならない試練だった。

 看護師が付き添う形で葬儀もちゃんと行った。

 訃報を報せた時の彼の打ちひしがれた様子と言ったらなかった。肩を落とし床をひたすら凝視しているかと思えば天を仰ぎ口をあんぐり開けっぱなし。ソファに腰掛けても首が座らず、すぐに身の置き所がない様にだらりとベッドに自身を投げる。突然跳ね起きると自分の記憶は確かかと周囲の人間に奥さんの所在を涙ながらに聞いて回る。そんな様子を一通りのお別れが済むまで昼夜問わずに繰り返した。

 そして幾日たった日か。

 しかしやはり、それでもだ。彼の抱える深刻な記憶障害は最初の知らせから葬儀までの一連の出来事をすっかり忘れさせた。

「あの手紙の束を見るともう一か月くらい妻と会っていないんだな」
 
 やがてその言葉を聞くと、我々は奥さんの遺志を実行に移した。

 繰り返すなんて残酷が過ぎる。

 だから私は帰りがけに新しい青い封筒をポストに投函する。段ボール箱から取り出した本物の手紙。それを包む外側の青封筒を入れ替えて、郵便局に本物の消印を入れてもらって、確かめようもない差出人だけが違う。朝日が昇ればそんな1通が施設に届いている。

 田中さんの奥さんは今も生きていて、今日はたまたま都合がつかなくて面会に来られないから代わりに愛する夫に手紙を出した。

 それでいい。

 だから365日続くラストレターを今日も私は届ける。これからも、手紙が何周巡ろうとも。

 願わくば青封筒、5割引きの日を。

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