タバコの夢

文字数 1,591文字

 彼女とケンカしたことをきっかけに一年以上辞めていた煙草を口にした。ベランダ。夜空の薄い雲が星を隠している。目の前には煙草を買ったセブンイレブンが煌々と輝いていた。箱を叩いて一本だけを器用に取り出す。その感覚が懐かしく、火をつける前に葉っぱの匂いを嗅いでから、慣れた手つきで火をつけた。
 なにも変わっちゃいない。目の前の景色も、自分を取り巻く環境も、貯金の残高も、仕事の愚痴も、夢へと続く遠い道のりも、彼女に対する惰性的な愛情も。
 煙が揺れている。久しぶりのニコチンが頭を絞めつける。タールが肺に重たく感じる。それでも身体は覚えているようで、咳込みながらでも自然とそいつを受け入れようとする。彼女の冷たい視線を背中越しに感じ、俺は嫌味のように白い煙を空に吐く。
 不味い。だからこその煙草であり、だからこその煙草なのだ。頭がクラクラする。脳みそが麻痺してくる。立て続けに吸っては吐いて、吸っては吐いて、先端の火がジジジッと音を立て、この一年間頑張ってきた筋トレとか瞑想とか身体に良い食事なんかをすべてぶっ壊していく。
「殺してあげようか?」
 ふと、声が聞こえた。
「私、あなたが好きなの」
 甘い声。いつの間にか可愛らしい女の子が目の前にふわふわと浮かんでいた。煙草に幻覚作用なんてないはずなのに。
「きみ、誰?」
 半透明で幽霊みたいだが、幽霊ではないことだけは分かった。
「ああ、きみか」
 彼女はふわふわと浮かびながら風に乗って俺を抱きしめる。生ぬるい風。ひどい体臭。俺はゲロを堪えながら、彼女を抱き返す。
「あなたはなにも変わっていないのね」
「おい、辞めてくれよ、久しぶりなんだから」
 彼女はクスクスと笑う。
 そうして、俺たちは語り合った。
 仕事のこと、上司のこと、彼女のこと、お金のこと、宇宙のこと、地球はいつか必ず滅びるのにどうして地球上の生物は本能に従って種を残しているのかということ、彼女以外の女性に性欲を抱くことがなぜ悪いことなのか、神の起源や人間の起源について、お金と承認欲求について、親と子の愛情の差異、思春期にできる謎のニキビ、お尻が痒くなる原因、屁の匂いがいい感じに臭いときの食事について、フグが自身の毒では死なないという不思議、ゆで卵を剥いたときの腐ったような匂いの謎、雨、稲妻、深海、手の届きそうで届かない背中の一部分をきちんと洗えているのかどうか、もしいま股間を切り取られたらムラムラしたときにどうなるのか……。
 いつの間にか月が出ていた。
「愛してるよ」
 そっとつぶやく。
「嬉しいわ」
「そうか、いま分かったよ。きみは神なんだ。神は神でも、女神というやつか」
「だとしたらどうする?」
 俺は込み上げてくる吐き気を我慢して、彼女に口づけをする。
「夜は長い」
「もう朝よ」
「バカにしてらあ」
「バカになってほしいの」
 俺は彼女を抱きしめたまま、残りの本数を静かに数え、すっと立ち上がる。階下をのぞき込むとまるで深淵。落ちたらひとたまりもないだろう。
 頭が朦朧とする。俺はいますぐ横になりたい衝動に駆られた。このまま死んだらどれだけ楽だろうか。そんな考えが頭をよぎった。
 部屋の中をちらと見る。彼女の姿が見えない。俺は煙草を見つめて、なんだかすべてが嫌になって、荒れ狂う胃に力を入れた。思わず股間にも力が入った。そうして、ちょっとの間煙草を見つめてから、彼女を裏切ることにした。
「さようなら、愛しき女神さま」
 煙草が真っ逆さまに落ちていく。闇夜が俺たちを包み込む。部屋に入ると彼女はもう眠っていた。俺は洗面台に急いで向かうと、勢いに任せて大量に嘔吐した。顔を上げる。目は真っ赤に腫れ、涙の跡が痛々しい。
「またね」
 ふと、彼女の声が聞こえた気がした。
 俺はポケットのライターを水浸しにすると、そのまま服を全部抜いで、シャワーを浴びながら股間をまさぐった。
「またな」
 夜が更けていった。
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