「流転のゆず湯」オノデラヒカリ
ここは東京の下町である。寒さ厳しき年の瀬、家路を急ぐ人の集団からひとり抜けて行く背高な女性がいる。
仮の名をちかこさんとする。
美しくウェーブがかった黒髪が木枯らしに吹かれていた。
”ゆず湯アリ〼”
小さな看板が風に遊ばれてカラカラと音を立てている。足を止め、ふっと小さく息を吐いたちかこさんが暖簾をくぐった。
「はい、今日だけ100円」
気忙しさが額のしわに刻まれた番頭さんがいう。
100円玉を差し出す。ちかこさんはためらわない。
靴箱にブーツをたたみ入れ、ロッカーには手袋とバッグをしまい込み、背に手をまわしてホックを外すとアンダーウェアを丁寧に畳んで脱衣かごに置く。
むわっとした湯気を感じながら、ちかこさんは胸の内でつぶやいた。
日本全国ばあさま図鑑。
扇風機で髪を乾かすばあさまに、水風呂に入るばあさま、腹の贅肉を揺するばあさま。
薄汚れたタイルも、壁のひび割れも、誰かの鼻歌も、壁には富士山ではなく常夏のハワイも、ちかこさんは大好きだった。
”ああ~~~っ!”
ちかこさんは、わざと低いしわがれた声を出す。
至極至福であった。大きな蛇口には布袋に詰まったゆず。
かすかな香りが体内に巡っていく。
『アンタはね、流転の人生よ』、ちかこさんは占い師に言い放たれた言葉を思い起こす。
はぁ、と答えに迷ったちかこさんの気持ちを見透かすよう、にんまり笑った易者のばあさま。
ゆずは布袋の中に沈み、湯にコロコロと弄ばれている。
ちかこさんの故郷といえる場所はすでに記憶のなかだけで今はもう、どの街の人でもない。狭い日本に、どこ行く当てもない。
ちかこさんはもう一度大きく柚子を香った。
香りが零れ落ちぬように息を止めるが、すぐにあふれ出てしまう。
生きるとは思うようにはいかないものさ、そう思い直す。なんきん、にんじん、れんこん、にんじん、かんてん、うどん……。
ちかこさんは天井を仰ぎ見、夕ご飯を考え始めた。
ここは東京の下町である。