第2話 スナック凛にて

文字数 1,810文字

秋も深まってきた。路地の木々がもうすっかり葉を落としている。今日は販売店からのクレーム対応に表参道まで来た。打合せは店を閉めてからの時間だったので、こんなに遅くなってしまった。一緒に来た部下は帰った。

もう10時を過ぎている。でもこのまま帰る気にならない。帰ってもアパートの部屋には誰もいない。細い路地にスナックの看板、入ってみる気になった。

以前ならスナックなんかには入らない。金の無駄使いだと思っていた。この4月に次長に昇進したので、給料も上がって、お金に余裕が出てきたせいもあるが、最近はこんな店があるとぶらりと入ってみている。ちょっと一杯飲んで小一時間で帰るくらいなら料金は知れている。

中に入ると客がいない。

「いらしゃいませ」

この店のママとおぼしき女性が声をかける。

「お客さんがいなくて暇そうだね」

「少し前にグループのお客さんが帰られたところです。初めていらっしゃいましたよね」

「そう、この前を通りかったから、ちょっと寄ってみたくなった」

「そういう方が多いんですよ。ここの場所のせいでしょうか?」

「そうかもしれないな。懐かしい雰囲気の店だね、表も」

「先代は随分昔から開いていたみたいです。私は半年前にここを引き継ぎました。ママの凛りんです」

名刺をくれた。寺尾(てらお)(りん)と書いてある。俺も名刺を渡した。ママは嬉しそうに受け取った。

「私は山内といいます。ママ、何か食べるもの作ってくれる。さっき仕事を終えたばかりでお腹が空いているので。それと水割りを作って下さい」

「山内さん、メニューから選んでください」

「オムライスをお願いします」

ママは水割りを作ってくれてからオムライスを作りにかかる。俺は水割りを飲んでそれを見ている。オムライスはすぐに出来た。

「誰かいい人とでも別れたんですか? お寂しそうですから」

「えっ、分かるの?」

「お顔に書いてありますよ。長い間、客商売していますから分かります」

「顔に書いてあるか? 俺も修業が足りないね」

「そんなことありません。誰にでも悲しい思い出はありますから」

「好きな娘がいたんだが、俺には幸せにしてやれる自信がなかったので別れた。この4月に結婚した。もう俺の手の届かないところへ行ってしまった」

「別れたことを後悔しているんですか?」

「いや、彼女のためにはそれで良かったと思っている」

「お好きだったんですね」

「好きだった。身体だけの関係だったけど、うまくいかなくなって、別れる決心をした。でも一緒にいて抱き締めているだけでいつも心は癒されていた」

「身体だけの関係でも身体のつながりができると自然と心も癒されるんです。そして身体のつながりができると情が移るものですよ」

「情が移るか?」

「男女の仲ってそういうものでしょう。好きになって、抱いて抱かれて、また好きになる。そして絆が段々強くなっていく。情が移るってそういうことだと思います」

「俺は彼女を愛していたんじゃないかとこのごろ思っている」

「私には愛するということがどういうことなのか今もよく分かっていません」

「そうか、経験豊富なママでも分からないか? 俺は別れてはじめて分かったような気がする。好きと愛するとは違う。うまく説明できないけど」

「彼女は山内さんのことをどう思っていたのですか?」

「好いてくれていたと思う。お嫁さんにしてほしいと言われたことがあった」

「じゃあ、どうして」

「幸せにしてやる自信が持てなかった。それに俺自身もこのままでは不幸になるのではないかと怖かったからだ」

「彼女も山内さんを好きだったんじゃないでしょうか? しかたなく別れた。なんとなく分かります」

「そうかな」

「私は抱いてくれた人が私をどう思ってくれているか分かります。それにその人の性格も」

「どうして分かるの?」

「終わった後にどうしてくれるかで大体分かります」

「なるほど、そうかもしれないね」

「悲しい思い出もそのうちに時間が癒してくれます」

「聞いてもらってありがとう。帰ります。また寄せてもらいます」

店を出ると雨が降り出した。急いで大通りまで出て駅へ歩いて行く。大通りの向こう側を女性が歩いている。未希に似ていると思った。

そういば、未希の勤めているホテルはこの辺りにあったことを思い出した。寂しそうに駅へ歩いていた。

確かめるために声をかけようかとも思ったがやめた。未希であったとしても、もう遠い存在だ。時間が癒してくれるか? 昔と同じように誰もいないアパートに帰る。
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