九 雪明りの道

文字数 6,704文字

 真由美がいてくれた夏の間は、久しぶりに気持ちが晴れたつもりでいたが、真由美が帰ってしまうとその反動はその分だけ大きかった。急に静かになってしまった室内で、一人で食事を作っては食べるだけの生活がまた始まった。それでもまだ掃除や洗濯をしている時間は良かったが、一人暮らしではそれもすぐに終わってしまう。そして、この心の落ち着きのなさは何なのだろう。居所が無い感じでじっとしていられないのに、かと言って動いて何をしたら良いかもわからない。忙しい気分なのに、何もしていない。いったい自分は何をしているんだろうと、フーとため息が出る。仏壇に水をあげては哲史の写真を見上げ、どうしてこんなに早く逝ってしまったのかと、その死を十分に受け入れられず、答えのない問いかけをするばかりだった。
 そんな暮らしの中でも何とかやってこられたのは、モモがいつも傍にいてくれたからかもしれない。静香がうす暗い仏壇の前でボーっとしていても、夕方になれば必ずニャーニャー鳴いて夕ご飯を催促するので、その声にハッとして立ち上がることが幾度もあった。朝はまだ暗いうちから枕元で朝ご飯を催促するし、昼は昼で外から虫を捕まえて帰ってきてはひと騒動起こすこともたびたびだった。もっとも、近所のたくましい猫は、スズメやモグラを捕まえてくると聞いていたのに、都会育ちのモモはせいぜいトンボやチョウチョくらいだった。それでも虫が嫌いな静香は大騒ぎして片づけに走り、それが数少ない生活の中での変化だった。
 哲史が生きているうちは、居間のソファで哲史の膝に乗っていたモモも、このごろは静香の膝に乗って眠るようになっていた。自分が世話をしているのに哲史にばかりなついていると、ちょっぴり嫉妬していた静香には、膝の上でゴロゴロと喉を鳴らしているモモの存在はうれしくもあり、同時にそこに哲史のいないことを思い出させる、悲しいことでもあった。

 猛暑と豪雨の両方に襲われた長い夏がやっと終わったかと思うと、秋はあっという間に駆け足で過ぎていった。前年の夏は水不足で、近所では多くの庭木が枯れたというのに、今年はもう結構ですというくらいに長雨が続き、台風も直撃した。水に浸かった田畑も一部にはあったが、なんとか大部分の田んぼで無事に収穫にこぎつけたのは幸いだった。しかしそれも、豊作とは言えず、米の甘みも今一歩ということだった。
 夏の暑さと秋の急な冷え込みが重なると紅葉はきれいになると言われるが、今年は暑いだけで日照時間が十分でなく、また秋の冷え込みもなかったので、木々の葉の色はパッとせず、ぐずついた曇天の下で山全体がくすんで見えた。どこかの国の大統領が何と言おうと気候変動は確実に起こっており、それはこれからも毎年のように繰り返すことになるのだろうと静香は思った。

 夏の終わり頃からモモの食欲が落ちてきているのが気になっていた。今までペロリと片づけていた缶詰一缶の夕食を残すようになり、心なしか床にうずくまっている時間が増えているようだった。最初は夏バテだろうくらいにしか思っていなかったが、食欲不振が続くので心配して体重を量ってみると、毎週のように五十グラムずつ減っていることがわかった。わずか五十グラムといっても、人間の大人に例えれば一月に三キロくらい減るペースである。さすがにびっくりして、いやがるモモを無理矢理ペット用のキャリーバックに押し込み、車で町中にある「ほがらか犬猫病院」に連れて行くと、すぐに血液検査をしてみましょうということになった。
 検査の結果は後日知らせてくれるものだとばかり思っていた静香は、ちょっと待合室で待っただけで検査結果が出てきたのにはびっくりした。人間の健康診断よりも多いのではないかと思うような様々な記号と数値が打ち出された紙を見せられたが、多少鼻水が出ているほかには、どこも悪いところはなさそうということだった。
 モモもいい歳なので老猫がよくかかる腎臓病も心配したが、幸いその検査数値も問題なかった。「体重が減り続けているのが心配なので、念のために栄養剤と強壮剤を合わせたものを点滴しておきますね」と言われ、そんなものかと思って言われるままにした。極端に人見知りで、興奮して逃げようとするモモの背中に点滴針を刺すのに少し手間取ったが、静香がずっと首をなで続け、モモもなんとか我慢して点滴を受けていた。
 診療後に支払窓口で請求明細書を見せられた静香は二度びっくりしてしまった。人間と違い健康保険のきかない猫の診療は眼が飛び出るほど高く、老猫の身体に良いからと勧められるままに買うことにした薬と合わせた値段は、二万円を超えていた。

 どこもなんともないと言われたわりには、モモの食欲は秋になっても戻らないどころか、ますます細くなってきているようだった。心なしか足を引きずっているようにも見える。動き回る時間も少なく、横になってじっと目を閉じている時間が長くなってきた。食欲が少しでも増すようにと、スーパーから刺身を買ってくると喜んで食べるので、静香はぜいたくだとは思いつつも毎日のように鯛やサーモンの刺身をちぎって与えていたが、やがてモモはそれにも反応しなくなっていった。
 それは秋も深まり、ちらほら雪の便りも聞こえてきていた十一月末のことだった。前年は記録的に雪の少ない年で、除雪車出動で得られる収入を当てにしていた建設業者や農家の人には気の毒なくらいの冬だった。今年も気象庁は暖冬予想を報じており、市役所の広報が早めの冬用タイヤ装着を勧めているのを気にしながらも、静香はついつい後回しにしてしまい、その日の午前中にようやく近くの自動車工場に、車検を兼ねて車を出してきたばかりだった。代車が無いと言われていたが、特に出かける用事もないからと帰りは家まで送ってもらった。
 午後になると天は厚く曇り、冷たい風と共に少し柔らかめの大ぶりの雪が舞い始めた。「タイヤ交換はぎりぎり間に合ったみたいだわ」と安堵した静香だったが、どんどん密度を増して眼前の空間を埋めていく雪の勢いに、これはもしかしたら大変なことになりそうだと不安がよぎった。暖冬の年ほど、庭の木が折れるようなドカ雪が降ることを静香は知っており、今年は庭の雪囲いも未だだったのだ。

 夕方になり、モモに夕食をあげようとしたときにその異変は起こった。床の上で足を投げ出して寝ていたモモが立ち上がってこないのだ。「モモ、ご飯だよ」と呼ぶと、顔をあげて静香を見上げてニャーと鳴き、なんとか起き上がろうとするのだが、前足をひっかくようにするだけで後ろ足は投げ出されたままだ。いわゆる腰が抜けた状態で、助けを求めるように鳴くその鳴き声だけがだんだん大きくなり、モモのまん丸い眼は何が起こっているのかわからない不安でいっぱいに見開かれていた。助けてあげようと、抱き上げようとしても、モモは痛いのか前足の爪を静香に出してくる。そんなことは今までなかったのに。
 このままでは手遅れになってしまうと思った静香は「ほがらか犬猫病院」に電話した。「七時までなら開いていますからすぐ連れてきてください」ということだったが、時間はすでに六時を回っていた。今日は車が無いということに気付いて、慌ててタクシー会社に電話したが、何回かけてもつながらない。急な大雪で出払っているのだろうか。除雪車だってまだ出動していないかもしれず、そもそも車では大渋滞するかもしれない。いてもたってもいられなくなった静香は、五キロの道を自転車で行くことに決めた。雪国育ちの静香は高校時代には雪道でも自転車で学校まで通っていたし、タイヤのゴムと雪は意外に相性が良く、コツさえつかめば結構いけるものだと知っていたからだった。
 自転車の前かごに入れられるよう、小ぶりのソフトタイプのキャリーバッグを押し入れから引き出すと、動けないモモをタオルでくるんでその中に入れ、バッグごとタオルケットでぐるぐる巻きにして、使い捨てのカイロを何個も隙間に挟み込んだ。そのキャリーバッグを自転車の前かごに入れ、雪で濡れないように上からビニールをすっぽりかぶせた。
 静香も暖かい服をしっかり着込んで、その上にダウンジャケット、帽子、マフラー、手袋の重装備を整えると「モモ、寒いだろうけど我慢してね」と言って、雪の中に漕ぎ出した。こんな状況でも、なんとか早くモモを病院に連れて行かなければという必死の気持ちの一方で、自転車の前かごにモモを乗せて走る姿は、ETのラストシーンみたいだなと思った自分がおかしくて、少し笑った。でもこの自転車は残念ながらETみたいに空を飛んでくれない、そう思って降りしきる雪をかき分けるように頭を低くし、滑らないように慎重に自転車を漕ぎ続けた。

 さすがに雪の日に国道を自転車で行くのは危ないと思って、田んぼの中の裏道に回ったのがいけなかった。少し狭いながらも片側一車線の道が、降り積もる雪のために道幅が狭まり、車がすれ違うのがやっとの状態になってきていた。静香は(わだち)の上をぐらつきながらもなんとか走っていたのだが、後ろから車が来ると自転車を道端に寄せ、その車をやり過ごさなければならなかった。後ろの車が静香の自転車を追い越すには対向車線に出れば良いのだが、止まない雪に轍はどんどん深くなってきて、四輪駆動で冬タイヤの車でないとスリップする恐れがあったからだ。暖冬の気配にタイヤ交換が遅れた車もあるのだろう、スリップしないようにそおっと走りながら、それでも静香の自転車を追い越しにかかる車があると危なくてしょうがなかった。しかし、こんなことをしていては間に合わないかもしれないと、静香は途中から後ろを気にしないで、轍の上を黙々と走り続けることに決めた。追い越したいなら車線変更して追い越していけばいいじゃないか、と挑むような気持だった。
 雪が降ると音も雪の中に消えてしまう。しんしんと降り積もる雪の中、弱々しく泣き続けるモモの鳴き声だけしか静香の耳には聞こえず、「がんばれー、モモ」と自分の方こそ泣きそうになりながら声をかけ続けた。もうだいぶ走ったかなと思い、後ろを振り返った静香は、その光景に驚いた。モモを前かごに乗せた静香の自転車を先頭に、その後ろを数台の車が列になってゆっくりと付いてきていたのだ。とうに日は暮れていたが、雪に覆われた田んぼは雪自身の放つ明かりで闇の中に白い世界を広げている。その真ん中を通る一本道は、車のヘッドライトに照らされてさらに白く浮かび上がり、オレンジ色の街灯が作る縁取りは滑走路の誘導ライトのようだった。何ときれいなんだろうと思ったのも束の間、とにかく漕ぎ続けるしかないと静香はまた前を向いた。後ろの車の人たちには申し訳ないとも思ったが、どうせこれほどの急な雪で除雪車も来ていなければ、車だって徐行運転しかできないだろうと気にしないことにした。それでもやっぱり一度も警笛を鳴らすことなく、必死に自転車を漕ぐ静香の後ろを黙って走ってくれた先頭の車の運転手の優しさには、ありがたくて涙が出そうだった。

 そんな静香の心配もすぐに不要になった。案の定、スリップしたのか対向車にぶつけてしまった車が二台、前方で道をふさぎ、後続車が走れなくなっていたのだ。静香は後ろに付いてきていた先頭車の運転手に頭を下げると、事故車の横をすり抜け、そのまま自転車を走らせ続けた。もう寒さは感じず、ダウンジャケットの下で身体じゅうから汗が噴き出しているのを感じた。
 「ほがらか犬猫病院」に着いたとき、時間は七時を少し過ぎていて正面の看板の明かりは消えていたが、ドアは開いていて、中では静香の到着を待っていたと思われる受付の女性がすぐに診察室に案内してくれ、先生を呼んできてくれた。
 すでにモモの血液検査の結果も知っている医者は、首をかしげながら静香に言った。
「これは後ろ足の手前の動脈で血栓が詰まったか、あるいは悪性の腫瘍ができて脳で悪さをしているのかもしれないですね」
 そういわれても、静香にはそれがどれほどの病気かもわからず、ただ
「ああ、そうなんですか」
 と言うしかなかった。それでも悪性の腫瘍という言葉から、これは楽観できるような病気ではないということだけはわかった。
「ともかく今晩は血液をサラサラにする薬と、元気になる栄養剤を点滴して様子を見ましょう。時間がかかるのでうちで預かりますから、明日の十時くらいに引き取りに来てください」
 そう言われた静香は、不安でいっぱいになりながらも医者の指示に従うしかなかった。
「何かあったら連絡をもらえるんでしょうか」
 そう言って携帯電話の番号を渡すのがやっとで、あとは不安そうに静香を見つめてニャーニャー鳴いているモモに
「ごめんね、モモ。がんばってね」
 と声をかけ、後ろ髪をひかれる思いで病院を後にし、再び雪の降りしきる道を戻り始めた。

 心配で眠れない夜を過ごしていた静香だったが、朝の四時ころに家の外を除雪車がゴーゴーと走りすぎる音をきいた後、スーッと引き込まれるように深い眠りに落ちたので、最初はその振動音が何なのかわからなかった。ハッと思って枕元のスマホを開けた静香は、着信者名に「ほがらか犬猫病院」とあるのを見て、悪い予感に心臓が止まるかと思った。時間を見るとまだ五時半だった。
「モモちゃんの具合が大変悪くなっているので、急いで来てもらえますか」
 その声が事務的で有無を言わせないように聞こえたので、静香はどういう状況なのかを詳しく聞くこともできずに、取り急ぎ病院に向かうことにした。昨晩帰ってから干しておいたダウンジャケットや帽子はまだびしょ濡れのままだったので、クローゼットから別の服を出し、キャリーバッグには新しいタオルを敷いて自転車にセットした。
 日の出までにはまだ間があり、辺りはほの暗かったが、幸い雪はすっかりやんでいた。積もった雪で空気が冷やされ、寒いことは寒いが、季節外れのドカ雪だったので凍てつくほどではない。除雪車がきれいに雪をどかしてくれ、走る車もまだ少ない道は、昨晩とは別の道かと思うほど走りやすかった。「モモが死んじゃいませんように」、「何とか元気になりますように」と、繰り返し心の中でつぶやき、祈りながら走り続けた。
 ふと目を上げると、遠くの山の端がうっすらと赤みを帯び、朝の光が生まれてきていた。走るにつれ、空は次第に茜色の濃さを増し、竹林の風に光が揺れた。一瞬、影絵のように浮かぶ黒い山の稜線に向かって、明けきらぬ空を切り裂くように、一筋の閃光がヒューっと走った。流れ星が、まだ上らぬ太陽の光を受けて赤く輝いたのだった。その星に祈ることができなかった静香は、それがモモの最後の叫びだったのではないかと思った。

 「ほがらか犬猫病院」の医者は、こういう時にはいつもそうしているであろう、しかつめらしい表情で静香に伝えた。
「残念ですが、先ほど息を引き取りました。苦しんではいませんでしたよ」
 静香には、先生がいろいろ説明する言葉も、全く頭に入ってこなかった。まだ温かみの残るモモの頭や背中の毛をなでてやりながら「かわいそうなモモ、一人で死んでしまって寂しかったろうね、苦しかったろうね、ついていてやれなくてごめんね、本当にごめんね」、ただそれだけを泣きながら繰り返していた。「先生は昨日、どうしてもっと強く、モモが死ぬかもしれないって言ってくれなかったのですか、もしそう教えてくれたら、私は絶対に帰らないで一晩中ここでモモについていたのに」と、静香はその医者を咎めたい気持ちだった。だが口にはしなかった。もともと動物が大好きな先生なのだろう、きっとモモの具合が心配で夜中じゅう気にかけていてくれたに違いない。だからこそ朝の五時半に電話をかけてきてくれたんだ。そう思って、医者にぶつけたい数々の言葉を呑み込んだ。
 その医者が小さな箱を用意し、「完全に硬直する前に」と言って、モモの身体を、丸まって寝ている姿勢で横たえてくれた。そして花瓶から何本かの花を抜くと、その上にそっと置いてくれた。静香はそれを見て、また一段と涙があふれてくるのを止めることができなかった。
 自転車で来たと聞いて驚いた先生は、車で送ってあげましょうかと言ってくれた。これではとても一人で家まで帰れない、と思った静香は、その言葉に甘えることにした。先生の運転する車の後部座席で、モモの箱を膝の上でしっかりと抱いて、ああ、これで本当に一人ぼっちになってしまったと、しみじみと思った。
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