第15話 奇跡の薬

文字数 4,323文字

 障子が開け放たれ、縁側から裏庭が覗いている。小さいが鹿威しがあり美しく纏まった庭の様子が眩しく見えた。
 蔦屋さんは少し痩せたように見えた。俺の視線を感じたのか
「食も細りましてな、体も幾分か細くなりもうした。さ、お座り下され」
 そう言って僅かに口角を上げた。この時代は例え来客でも座布団を出すということはしない。畳自体が敷物という感覚だからだ。ありがたく座らせて貰うと山城さんが
「本当に今日は具合が良さそうですな。本日は光彩が一緒に来ていることからもお判りの通り、例のモノを持って来ました。これを服用すれは『江戸患い』も完治するものと思われます」
 山城さんは横に居る俺に目線でビタミン剤の入った紙包みを出すように促した。俺は懐から出すと山城さんに手渡した。
「これが例のモノでございます。早速開けて飲んでみてくだされ」
山城さんから包を受け取った蔦屋さんは、包を一つ開いてみる。その中には黄色い粒が一錠入っているだけだった。
「はて、薬と伺いましたが、この錠剤を煎じるのですかな?」
 目の上に右手の親指と人差し指で摘んで掲げてしげしげと眺めていた。
「いえ、そのまま白湯か真水でお飲み下さい」
 思わず俺は声を出して飲み方を言ってしまった。この時代の薬は煎じ薬が殆どで今のように飲む薬は殆どない。
「おお、飲むのか、それは知らなかった」
 隣では山城さんが驚いている。そうか、この人も知らないんだなと改めて思った。
「上手く飲めるか判りませんが。丁度ここに白湯があります。それで飲んでみましょう」
 蔦屋さんはそう言って黄色い錠剤を口に運び、続いて湯呑みを口にあてがい白湯を飲み込んだ。どうやら上手く飲み込めたようだ。あの錠剤にはビタミンB1誘導体が百ミリグラム入っている。その他にも色々なビタミンやミネラルも含んでいるのだ。
「蔦屋さん。その薬を十日間ほどは朝晩服用してください」
 俺は飲み方も告げるように言われていたのだ。
「朝晩の二回だけですか? それでこの幾人もの人が亡くなる病が治るのでございますか?」
 確かにこの時代の蔦屋さんや山城さんには不思議だろう。この時代の薬は薬缶などで煎じてそれを一日何回も飲むのだ。それも漢方薬だから効くにしても時間がかかるのだ。
「飲んだらどうすれば良いのですかな」
「それは体が動くなら無理をしない範囲で、動きづらいなら安静にしていて下さい。恐らく二日もすれは効果は出て来ると思います」
 実は俺の中学時代の友達が脚気になって、ビタミン剤で治したことがあり、それを間近で見ていた。友達の場合は完全な偏食で親も甘やかしていたのだ。その時も二日程度で見違えるようになった。その経験からだった。
「判りました。信じて養生しましょう」
 蔦屋さんはそう言って布団に横になった。
「蔦屋殿、病が治った暁には……」
 山城さんが言いかけると蔦屋さんは
「大丈夫です。私もこの世界に長く居ます。もしあなた達のように時代を戻ったり過ぎたり出来るならば、未だ見たことのない絵も見たいし、絵師にも会ってみたい。それに私の知識や人づてが役に立つならこんな嬉しいことはありませぬ。表向きには来年亡くなることになっているなら、そうしてしまいましょう。それなら、それからの私は蔦屋重三郎ではなくなる。面白いではありませぬか」
 そう言って嬉しそうな顔をした。それを見て山城さんも安心したのか
「また明日にでもお伺いします」
 そう言って俺と山城さんは蔦屋さんが寝ている部屋を後にした。手代さんがお茶を持って来てくれた所だったが、別の部屋でご馳走になった。相変わらずこの時代のお茶は最高に旨い!

 裏口の所まで見送りに出て来てくれた手代さんに礼を言って蔦屋さんの店である耕書堂を後にした。
「ちゃんと飲んでくれれば一月余りで大分良くなりますね」
 俺は素人ながら簡単な見通しを口にすると
「そうなってくれれば本当にありがたい。なんせ今度の事はワシの発案だからな。今後の美術マフィアに対するにはやはり蔦屋殿のような存在が必要じゃて」
 確かに、今度のことでもいったいどのような工作をして一枚しかない肉筆画を書かせたのか皆目判らないのだ。蔦屋さんなら判るだろうか?
 それと俺にはもう一つ心配なことがあった。それは
「蔦屋さんが無事に回復したとして、他の人間にも飲ませて命を助けたい。って言いませんかね?」
 俺の心配事を推測していたのか山城さんは
「それは無い! 蔦屋殿がそのことを言わないように釘を刺しておいた。残酷なようだが致し方無い」
「どんな事を言ったのですか?」
 俺達は裏通りを出て表通りに出て来ていた。今川橋まで戻って来ると
「腹が減らないか? この近くで旨い飯屋がある。そこで飯でも食いながら続きを話そう。気軽に往来で話せる内容でもないしな」
 確かにそうだ。この時代の一番の病に関することなのだ。気軽には話せない。山城さんは今川橋を渡ると日本橋の方に向かって歩き出した。
「河岸の傍に旨い飯屋があるんだ。ちぃと歩くが平気だな」
 山城さんは俺が最初の買い付けの頃に神田から芝まで歩いて音を上げたのを坂崎さんから聞いていたのだ。そのことを皮肉ったのだ。
「今は大丈夫です。あれは雪駄が馴染まなかっただけです」
 そう返答をすると山城さんは笑っていた。

 店は思ったより小さな店だった。魚河岸にある店だからもっと大きいと勝手に思っていたのだ。
 既に昼近くなので河岸の中は片づけられていて、日本橋川の水を汲んで場内を掃除していた。魚河岸が見られるならもっと早く来ても良かったと思い直したが、それはこの次でも良いだろう。
「邪魔するぞ」
 山城さんが声をかけて店の中に入って行く。店の中は仕事を終えた人たちでかなり混雑していた。それぞれが長椅子のようなものに腰掛けて食事をしている。当然ながらテーブルなぞはない。座敷の上り口に腰掛けて食べている者もいた。
「山城の旦那、どうぞ奥へ」
 店主らしい頭に鉢巻をした親父さんが出て来て奥の座敷を指した。
「おう、悪いな」
 山城さんはそう言って座敷に上がり込むと一番奥に座った。俺もその向かいに座る。そう言えば最初に江戸に来た時には坂崎さんに飯屋に連れて行って貰った事を思い出した。
「適当に見繕ってくれ。酒はいらん」
 注文を取りに来た若い衆にそう言って幾ばくかの小銭を掴ませた。
「ああ、いつも申しわけ……」
 若い衆は恐縮して礼を言って下がって行った。
「ワシが言ったのは、正直にもうすぐ蔦屋殿が死ぬこと。未来の薬ではその病を治せること。我々の仕事に協力してくれるなら、その薬で病を治すことを約束すること。だがこれは本来は未来の世界でも認められていないことなので、表向きは蔦屋殿は亡くなったことにすること。そんなことを約束させたのだ。蔦屋殿は頭が良い。直ぐに我々の胸の内を理解してくれた。だから自分が特別な存在だと認識したと言うことじゃ」
「特別な存在ですか……まさか神に選ばれた存在とか?」
 俺も半分は冗談で言ったのだが
「ま、そんなことも口にした。嘘も方便じゃ」
 山城さんがそう言って笑った時に膳が運ばれて来た。
 大盛りのどんぶり飯に小松菜の味噌汁。焼かれた鯵の開きに大根の糠漬けと言うものだった。
「先日、鯵のいいやつが入ったそうで、それを開きにしておいたんですよ。脂が乗って旨いでござんすよ」
 親父さんが直接持って来てくれたのだ。
「そうか、ならばさぞ旨かろう」
 山城さんはそう言って味噌汁に口をつけてから鯵をひとつまみ箸でちぎると口に運んで
「おう旨いぞ食べてみろ」
 言われて俺も同じように味噌を飲んでみる。旨い! 味噌の味も俺の時代とは全く違う。それに入っている小松菜が実に風味豊かなのだ。これも俺の時代とは全く別物だと思った。ちゃんと小松菜が青菜だと認識させてくれた。続けて鯵を食べてみる。鯵の開きは俺も好物だ。
 結果として全くスーパー等で買えるものとは別物だった。脂の乗り方が半端無く、それでいて魚臭さが全くない。後から判ったのだが刺し身に出来るようなものを開きにしたからだそうだ。現代なら冷蔵でもするのだろうが、この時代はそんなことは出来ないので開きにしたのだろう。思えば贅沢だと思った。

 その日は俺は一旦帰ることにした。本格的な捜査は蔦屋さんの回復を待たねばならない。それに今日は蔦屋さんに薬を飲ませればそれで良いのだった。それにこの年千九百七十六年なら春章は既に「美人鑑賞図」を完成させていて亡くなってしまっている。捜査をするならもう一度タイムスリップをしなければならない。
「明日も来ます神田の長屋でいいですか?」
 明日の場所を山城さんに伝えると
「ああ、判った。時間はお前たちの時間で10時ごろが良いだろうな」
「判りました。その時間に転送します」
 俺はそう約束をしてタブレットを操作して、一旦センターに帰って来たのだ。
 センターではさきが待っていてくれた。
「おかえりなさい。暫くはセンター暮らしですね」
 そう言ってニコニコしている。さきにしてみればここで暮らすなら、炊事やその他の家事から開放されるのでありがたいのだろう。
「薬は上手く行きました?」
「ああ、ちゃんと飲んでくれた。取り敢えず一安心だ」
 センター長に報告に行く。センター長は俺の上司の五月雨さんに連絡をしてくれる手はずになっている。
「一応、状態を確認するために明日も行ってみます」
 センター長は俺の報告に頷きながら
「劇的に回復してることは無いだろうから幾らかでも回復の傾向が診られれば良いな」
「そうですね。それも含めて確認してきます」
 それから俺と仕事が終っていたさきは同じ部屋に宿泊するこことになった。原則として男女は同室になれないが夫婦の場合は別である。組織もそこは気を利かせてくれる。
 そんな楽しい夜を過ごすはずだったのだが、五月雨さんから、その夜にとんでもない連絡が入ったのだ。
「光彩、とんでもないことになった。オークション会社が期限を通告してきた。来月には『美人鑑賞図』をオークションに出すと」
「そんな……真贋も判らないのに……そんなことされたら出光にある本物の価値が暴落します」
「そうだ。だから悠長な行動はしていられない。期限はあと四週間だ!」
「判りました」
 恐らく何処かの金持ちにでも下見させたのかも知れない。アイツラならやりそうだと思った。
 事態は思ったより早く進行して行きそうだった。
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