始まりはサイアクに
文字数 3,069文字
市ヶ谷駅を降り立ち、防衛省の本部正門へと続く並木通りはいつも粛然としている。この道を行き交うのは防衛省職員か出入り業者が少なくない。自衛隊の制服を着用した士官たちや、隊員を乗せたジープなどが頻繁に出入りし、東京でもっとも軍の存在を身近に感じる場所だった。
隣を陽気に歩く部下――健城由佳里は、不思議そうに俺を見上げてきた。
ようやく仕事にも慣れてきた由佳里は蒼通に入社して二年目、まさに二三歳である。二三歳が少女に該当しないことには異論の余地などないが、ピンポイントに自分の年齢を指定してくるあたり、由佳里の飾り気のなさが窺える。
蒼通は、日本最大の総合広告代理店だ。広告事業単体の企業として見れば、世界最大でもある。蒼通の社員自らが広告に出るなんて聞いたことがない。
ほうほう、そうですかそうですか。先輩がそんなに頼むなら、考えてあげなくもないですね。ミス早稲田クイーンの座に輝いた私としては、会社のために、この身を削ってご奉公せざるを得ないということでしょう。なんという社員を酷使するブラック企業。うん、でも、それなら仕方ない。
今、先輩は全国の早稲田OBを敵に回しました。ロックオンです。これでも一万数千の女子学生のなかで頂点に立ったんですからね。先輩の目は節穴ですか? それとも脳ミソの方ですか? ……あ。なるほど、そっち系の、女性に興味を持てない人ですね。わかります。
由佳里は高校時代、強豪で知られるテニス部に所属していたと聞いている。そもそも早稲田にも、テニスでの活躍が評価された推薦入学だったらしい。だから人一倍、上下関係には厳格なのだ。ただ、会社にまで部活動のマナーを持ち込むのはどうかと思う。
俺――織葉颯斗は蒼通に入社して五年目。二六歳だ。由佳里は三つ下で、俺が初めて受け持った部下だった。
俺たちは公官庁の営業を担当する事業部にいる。官庁が公示する一般競争入札案件を整理し、適切な企画と価格を提案していくことが仕事だった。今日は、すでに受注している防衛省の広報ビデオ制作のための打ち合わせにやってきたのである。
もうすぐ防衛省の正門入り口に到着しようという頃――。
ふいに、女の子の朗々とした声が響いてきた。
俺――織葉颯斗は蒼通に入社して五年目。二六歳だ。由佳里は三つ下で、俺が初めて受け持った部下だった。
俺たちは公官庁の営業を担当する事業部にいる。官庁が公示する一般競争入札案件を整理し、適切な企画と価格を提案していくことが仕事だった。今日は、すでに受注している防衛省の広報ビデオ制作のための打ち合わせにやってきたのである。
もうすぐ防衛省の正門入り口に到着しようという頃――。
ふいに、女の子の朗々とした声が響いてきた。
真正なる右翼は、日本に私ただ一人である。有権者諸君、我が国は今、大きく舵を切るべき瞬間を迎えている。日本が取れる指針はもはや少なく、残された時間には猶予もない。それ故、真に国家を愛する私――神楽日毬は、日本の独裁者となり国家を正すことに魂を尽くす所存である。
行く手には、拡声器を持って叫ぶ女の子。防衛省を囲む小高いコンクリートの壁沿いに、高校のブレザーを着て、軍人のように少女が直立していた。
俺たちの前を行く通行人は、女の子と視線を合わせないようにして、そそくさと前を通り過ぎてゆく。
俺たちの前を行く通行人は、女の子と視線を合わせないようにして、そそくさと前を通り過ぎてゆく。
真正なる右翼は、日本に私ただ一人である。有権者諸君、私は決断したのだ。政治家になってこの国を正すのだと。たしかに一六歳の私には被選挙権はない。それでも、今までの常識に縛られないでほしい。もはや過去の常識を引きずっていては、将来の安寧を手にいれることはできない。未来のため子供たちのため、日本は今、変わるべき時にある。自友党を廃し、民政党を放逐し、私が日本の独裁者になることでしか、この国の未来は開けない。
由佳里は毒気を抜かれたようだった。俺たちは肝をつぶし、少し離れたところで思わず立ち止まった。
真正なる右翼は、日本に私ただ一人である。有権者諸君、近年ウィキリークスは、ある他国高官が語った言葉を暴露した。『日本は肥満した敗者だ』と。現在の日本を鑑みるに、悲しいかな、的を射ている表現だと言わざるを得ない。大東亜戦争に敗れて以来、我が国は牙を抜かれ、丸々と肥え太ってきた。だがしかし、宴は終わりの時を迎えたのだ。肥満した自らの身体を持て余す私たちは、思うように身動きが取れず、動脈硬化に陥ってしまった。日本は今、かつてない危機の渦中にある。
立ち止まって演説を眺め入る俺たちに気づいたのか、女の子はこちらへ熱い視線を注いでスピーチを繰り広げ始めた。
有権者諸君、どうか私を支持してほしい。どうか私と共に、日本を一新する大業へと乗り出してほしい。我々が力を合わせれば、いかなる困難があろうとも、日本は何度でも立ち上がることができるだろう。優秀なる大和民族の子孫である我々は、奥底に計り知れない力を秘めているのだ。今こそ力を解き放ち、太平の未来を描き出す必要がある。
もはや女子高生はこちらに身体ごと向き、俺たち二人に狙いを絞って演説していた。
有権者諸君、私が総帥を務める政治結社日本大志会は、国民の力を結集し、我が国の復権を志向する正しき政治団体だ。我々は広く結社員を募集している。その心に熱い想いを宿したならば、いつでも私に声をかけてほしい。入会資格は日本国籍所有者であるということだけだ。私は、諸君らを同志として温かく迎え入れたい。
演説少女と俺は、視線がガッチリとかち合った。少女は激しい身振りを交えて、俺に切々と語りかけ続けている。
――やばい。演説を聴いているとは思われたくない……。
俺はサッと視線を背け、足早に歩きだした。後を追うように由佳里も付いてくる。
できるだけ視線を合わせないように……かといってあからさまに視線を背けず、無関心を装って小走りに前を通り過ぎたのだった。
拡声器を通した演説少女の声は背中に追いすがってきた。
振り返れば負けなような気がする。ただただ俺たちは無心に歩き続けた。
あんな少女がいるのかと茫然自失としながら、俺と由佳里は言葉も交わさず、急ぎ足で防衛省正門へと向かったのだった。