花とハサミ

文字数 4,385文字

 あの人は言っていた。きっと君が、もし、また、死んでしまいたくなる時が来るとしたら、それは、辛くて苦しい出来事のせいではないだろう。単調で退屈なこの毎日を終わりにしたいと願った時だろう、と。
 誰も居ない店内で、私はただ黙々と、目の前に広がっている花たちを手に取っては、一つの形に組み立てている。バラ、ガーベラ、ダリア、ラナンキュラス、それ等の間を埋める小花たち。どれも白やピンク系のものたちを揃えている。あと3時間もすれば、私はこれを結婚式場へ届けなければいけなかった。昨日の夜から降り続いている雨は止む気配がない。外はまだ日も出ていないし、店の前を通る人も車もいない。眠気は全くない。ただ、いつもの仕事をするだけ。結婚式場と提携しているから、ほとんど毎日、花嫁が持つブーケを作っていると言っても過言ではなかった。花嫁の要望を叶えるようなブーケを作らなければいけないから大変だ、と言われるけれど、実はそんなことはなかった。大抵は色の指定くらいで、細かいオーダーはないし、あまりにも複雑なものは式場の方できっと断っている。それでも、新鮮な花を選ぶことや、花の管理にはとても気を使う。ブーケ作りやアレンジメントをしている時は、ほとんど勝手に手が動くけれど、それは、思考が先回りしてくれているからだった。もう何年もこの仕事をしていて自然と身に着いた技術だった。そうして、無心で花を束ねている時、私は思いだす。私にも、以前、結婚を約束した人がいたことを。
 私がまだ十代の頃だった。あの頃、私はとにかく荒んでいた。理由は両親の離婚だった。もう何年も父と母がまともに会話しているのなんて見たことがなかった。どちらかが口を開けば必ず喧嘩になった。早く離婚すればいいのに、と思っていたのに、いざそうなってみると、自分でも驚くほどに、心は荒れた。ありがちな理由過ぎて自分でも呆れるくらい。私と弟はお母さんと一緒に暮らすことになった。母は仕事で遅く、弟は高校生で私は大学生だったけれど、私は深夜までバイトした。家に帰りたくなかったから。おかげで午前中の講義は全て出ずに、何個も単位を落とした。それでも、なんとか大学を卒業できたのは、あの人のお蔭だった。
 彼とはバイト先の居酒屋で出会った。すらりと背が高くスーツが良く似合うお客さんだった。トイレはどこですか?と聞かれて、あちらです、と答えると一枚の紙をポケットから出して私に渡した。名刺だった。そこには携帯の電話番号が走り書きしてあって、そこに電話して、と彼は言った。私は断る隙もなく、ただもらった紙を大事にしまった。
 私と彼はそれから始まった。彼は27歳で、転勤でこちらに来ていること。いずれは本社がある大阪に戻らなければいけないこと。
 彼はいつも落ち着いていて、大きな声で笑ったりすることもなければ、声を荒げることもなかった。ただ、いつも同じ顔をしていた。私は、彼の家に泊まりこむようになった。彼と一緒に居たくて、深夜までやっていた居酒屋のバイトを辞めて、20時で終わるスーパーのバイトに変えた。午前中の講義にも出ないとダメだよと言われたから、私は朝、彼と一緒に起きて、真面目に大学へ行った。彼は、記念日には必ず、大きな花束をプレゼントしてくれた。私が卒業したら、結婚してくれる?と彼に聞くと、もちろん、と言って微笑んだ。それでも、私は不安だった。彼が本当は何を考えているのか分からなかった。彼は必要以上に会話をしないし、ほとんど自分の事を話さなかった。表情を変えないでテレビを見る彼の横顔を盗み見ては、何とも言えないざわざわとした気持ちに苛まれた。お花畑の中にいるいつもの恋愛とは違っていた。幼い私は、彼をどんどん好きになっていったけれど、それはずぶずぶと沼に落ちていくような、そんな感覚が付きまとった。
 荷物を取りに、久しぶりに実家に戻ると、そこには知らない男の人がいた。母は、慌てて職場の人だと紹介した。女の顔をしながら。弟はどこか、と聞くと、母は知らないと答えた。もう何週間も帰っていないと。学校には行っているのか、無事なのか、そう言いかけたとき、私には、そんなことを聞く資格はないと悟った。そうして、何を聞いても満足のいく答えは絶対に返ってこないことも分かっていた。家族は空中分解した。私が家に帰っていれば、私が弟と一緒に居てあげれば、私が家のことを手伝ってあげれば、たくさんの、~をしていれば、が浮かんで、でも、その全部が今となっては意味のないものだった。
 何も言わずに家を出たとき、もう、私に帰る場所はないのだと、知った。フリーズした頭を乗せて、歩いている道も分からないまま、身体はいつの間にか彼の家に戻っていた。もう0時を回っていたから、いつも23時には寝る彼は、静かにベットに横になっていた。私はキッチンに立って、お水を一杯飲んだ。彼は料理が得意で、広くないキッチンに道具が所狭しと置かれていた。けれど、雑然としているわけではなく、全てが計算しつくされたみたいに整然と並べられていた。そうして、シンクの横に置かれた包丁スタンドに目が留まった。私は、そこから一本抜き取って、まるでそれが自然なことのように、自分の左腕を切った。血がじわじわと山を作り、こらえきれずにたらりと腕を流れて、シンクへ赤い血がポトリと落ち、黒い点になった。それを見届けると、今度は首の皮膚へ刃を押し当てた。でも、急にふっと力が抜けて、私は思った。どこを刺せば人は死ねるのだろう。私は包丁を持ったまま、彼の寝ている寝室へ向かった。
 手首からはたらたら血が流れては指から落ちて、床にシミを作った。間接照明でほの暗い部屋の中、いつも通り、彼は仰向けに寝ている。彼は寝返りを打ったり、布団を蹴飛ばしてしまったり、そういうことがほとんどなかった。いつも電源を落としたパソコンみたいに動かなかった。
 寝ている彼の横に立つ。掛け布団から出ている首を狙って、私は包丁を振りかざした。その瞬間、ぱっと、彼の目が開いた。彼の瞳は真っ直ぐに私を見つめている。あまりに彼の目が黒く光っていて、射貫くように私に突き刺さり、私は包丁を持った手を降ろせずに、固まった。
 「なにしている?」
 彼が波一つない湖みたいな声で聞いた。
 「…わたしは」
 さっき水を飲んだのに、喉がカラカラで、掠れた声が出る。
 「いいよ」
 「…?」
 「いいよ。君が、それで、満足するならば」
 彼は見たことも無い優しい顔を浮かべて笑っている。彼の言っている意味が分からない。頭が混乱して、心臓が馬鹿みたいに早く動いて、脳みそを騒ぎ立てる。
 「でも自分をやるのは、僕を刺してからにして」
 そう言って、彼は、包丁を持つ私の手をゆっくりと、自分の首元へ持って行った。首の皮膚に当たった瞬間、私は、ばっと跳ねるようにして、ベッドから飛び退いた。身体をベッドの横の壁に強く打ち付けて、ドンと音がした。包丁はフローリングの床に鈍い音を立てて落ちた。彼は体を起こしベッドの淵に座った。
 「どうしたの?怖くなった?」
 本当に不思議だというふうに、私を見上げた。そうして、彼は私に手を伸ばす。さっき、自分の首に包丁をあてたその手を。
 「ひっ」
 私は思わず悲鳴みたいな声が出て、自分の手をひっこめようとした。けれど、それは間に合わずに、彼は私の左手を掴んだ。そうしておいて、まるでひよこを抱き上げるみたいにして、両手で私の左手を包み込むように持った。もう血が固まってしまったその傷跡をまじまじと見て、微かな声で、
 「かわいそうに」
 と彼は言い、その傷跡と血が渇いた黒い跡を優しく指でなぞった。
 「僕も、一緒にいくよ。君さえ準備が出来れば」
 彼はまた、あの優しい笑顔を見せた。その時、全身に鳥肌が立ち、背筋が凍った。
 「どうして?…どうして、そんな簡単に言えちゃうの」
 私の声が震えている。
 「そんなに難しいことではないから。生きていくよりもずっと簡単なことだよ」
 「怖くないの?」
 「じゃあ、君は怖くなかったの?」
 「私は…怖いよ」
 怖いよ、あなたが、そう思ったけれど、言えなかった。彼が何を考えているのか、分からなかった。何か、特別な大きなものを抱えていたのかもしれなかったけれど、私は知らなかったし、知る術もなかった。彼は、自分の中に開かずの扉を持っていて頑丈に鍵をかけて、誰も足を踏み入れられないようにしているし、そのことに触れさせる隙すら与えない、少なくとも当時の私には、そう思えた。長い時間、そうして、見つめ合った後、彼はふわりと立ち上がって、私を抱きしめた。そして、私の頭上で呻くように言った。
 「覚えておいて。自らを死へ追い詰めるのは、特別な体験ではなくて、この永遠にも思えるひたすら長い単純で無意味な毎日なんだよ」
 一つ一つの単語を迷いなく選び取ってそう言った。まるで自分に言い聞かせるみたいに。
 それから、私は、短大を出て事務職に就職したけれど、うまくいかず、転職を繰り返しているうちに、彼は本社勤務になり、私たちはあっけなく終わった。私は今、とりあえずは花屋で落ち着いている。この数年の間にフラワーアレンジメント資格も取った。花屋の主人と奥さんには感謝している。こんな私を雇い入れてくれたこと、社会人として育ててくれたこと。けれど、私はこうして思いだす。花を切っているとき、花を生けているとき、水をあげている時、ブーケを作っている時、ごく僅かな瞬間的にでも、私は思いだす。彼は今何しているだろう、と。
 手にしたブーケはとっくに出来上がっていた。もう後は、配達するばかりだ。私は、最後の調整にハサミを持つ。一本の茎をそのハサミで挟んだ瞬間、もう、私は、耐えられなくなっていた。手にしたブーケを床にたたきつけ、足で何度も何度も踏みつぶした。白やピンクの可愛い花たちがコンクリートに張り付いたり、散らばったりした。手にもったハサミで、机の上にある花たちを片っ端から切り刻む。ジョキジョキ音を立てて、ハサミは動き続ける。綺麗な花たちは真っ二つにされ、ゴミになっていく。何度も何度も切られて、もう花の原型を留めていない。ハサミの刃が当たったのか、バラの棘が刺さったのか、いつのまにか手も腕も小さな切り傷だらけになって、赤い血が出ていた。
 突然、ガラリと音を立てて、店の奥の扉が開いた。お店の奥さんだ。奥さんと目が合う。その目は怯えていた。あの時の私のように。私は手にもったハサミを床に落として、お店をぐるりと見回した。ショーケースの中に並べられたたくさんの花たち。私の居場所。そうして、彼を思った。あぁ今なら分かるよ。あなたの気持ちが。
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