第1話

文字数 2,069文字


僕は深淵(しんえん)(のぞ)き込んでいる。
そこには濃密な闇しかなく、静寂で、何かがうごめく気配や苦痛にうめく声なども一切ない。
生温かく(ほの)かに血の匂いがする空気のなかで、僕は君を想いながら深淵の闇を見つめ続けている。

いつか深淵に()ちることができたら。
その底にあるものは僕を楽にしてくれるだろうか。





 いつものように、何食わぬ顔をして表通りに出る。

 駅から吐き出された人々の群れが速やかに僕を隠してくれる。
 周囲に溶け込むように気配を消して歩きながら、フレームの細い黒縁眼鏡をかける。
 誰一人として僕に注意を払いはしない。
 反対方向から接近してきた黒い影が、すれ違いざまに僕からモノを受け取って消える。

 任務完了。

 最初の頃と違って、もうドキドキすることもホッとすることもない。
 すべて仕事として割り切る。
 僕はそのために育てられたのだから。


「おはよう」
 昇降口で、同じクラスの女子に声をかけられた。
「おはよう」
 僕は小さく挨拶を返して背を向ける。
「ね、三島くんってコミュ障なの?」
 女子は追いかけてきて無遠慮な質問をした。
 僕は無視して足を速める。
「逃げなくたっていいじゃん」
 しつこいな。
「あたし友達になってあげるからさ、ちゃんとお話できるように練習しようよ」

 こいつは何を言っている?

 僕は立ち止まり、まじまじと女子を見た。自分の申し出を親切と信じて疑わない傲慢(ごうまん)さの裏に、(よこし)まな下心が見え隠れしている。だらしなくゆるんだ口元が不潔そうで思わず眉をひそめた。
「いらない」
 冷たい声ではっきり告げた。
「そういうの必要ないから」

 女子の顔色が変わり、醜く歪む。僕は目を背けた。

「はいはい、そこまで」
 後頭部を叩かれたのと同時に、聞き慣れた矢野大地(やのだいち)の声が降ってきた。
「海斗、女の子にそんな言い方しちゃだめだろーが」
 大地は僕の髪の毛をもみくちゃにした。この男とは幼馴染の腐れ縁、ということになっている。家が近所で、幼稚園から高校までずっと同じ学校だ。
「ごめんね、こいつ人嫌いなんだ」
 女子は大地に声をかけられて赤い顔になる。

 ほら、やっぱりそういう魂胆(こんたん)。僕は心の底からこの女子を軽蔑した。

 大地は何でもそつなくこなせてしまう優等生で、生徒会の役員を務めながらテニス部でも活躍している。そもそも、整った顔立ちと高い身長だけでも十分に目立つ存在だ。当然よくモテる。こんな風に僕を大地への足がかりに利用しようと近寄ってくる女子は、今まで何人もいた。

「余計なこと言っちゃって……ごめんね」
 女子は()びを含んだ表情を作って僕を見たが返事をするつもりはない。
 大地に乱された髪を手ぐしで直しながら、僕は教室に向かった。
「おまえ、高校もずっとそれで通すわけ?」
 すぐに追いついた大地が(あき)れ声で言う。
「別にいいだろ。誰に迷惑かけるでもなし」
「迷惑とかそういう問題かよ。彼女とか欲しくね?」
「欲しくない」
 大地はフンと鼻を鳴らし、僕の耳に口を近付けた。
「まさか蒼空(そら)が好き、とか?」
 温かい吐息が耳にかかり、僕はぞくっとして身を震わせた。
「感じてんじゃねーよ」
 大地は可笑(おか)しそうに破顔(はがん)して僕の肩を叩いた。
「違うよ、ばーか」
 僕も笑って誤魔化し、大地のわき腹を小突く。
「蒼空に惚れてんのはおまえの方だろ」
「まあな」
 しれっと言ってのける大地は(まぶ)しかった。
 原田(はらだ)蒼空(そら)は隣家に住んでいる同級生で、僕が口をきく唯一の女子だ。小さい頃から大地と三人でいることが多かったが、最近この二人が付きあい始めたため、僕はあまり近寄らないようにしている。

「なんてったって、蒼空は命の恩人だしな」

 僕の胸の奥深いところでベリッと、かさぶたの()がれる音がした。

「俺、よく(おぼ)えてんだよな」
 大地は僕の変化には全く気付かず耳元で(ささや)き続ける。
「人工呼吸とは別に、やたら濃厚なキスされたの」

 かさぶたの剥がれた傷口から、どす黒くねばつく熱い血が流れ出す。

「蒼空が俺にとって特別になったのって、あのキスのせいかも」

 耐えがたい苦痛により、僕は歩を止めた。
「どうした?」
「トイレ」
 後ろで大地が何か言っていたが、僕の耳はもう限界を超えてシャットダウンしている。
 急いで個室に駆け込み、洋式の(ふた)の上に突っ伏した。涙腺が決壊する。嗚咽を漏らすまいと(こぶし)を噛んで耐えた。
 胸の奥から噴き出す熱い血が、僕を内側から焼いている。

 どうして?どうして?どうして?

 外側に向かって吐き出すことのないどろどろした感情が、下腹部へと集中し痛いほどに熱く脈打つ。
 ホームルームの始まりを告げるチャイムを聞きながら、僕は泣きながらベルトに手をかけた。 

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登場人物紹介

三島海斗。黒い翼を隠し持つ人外だが、ヒトの世界にとけこんで闇の任務をこなせるように育てられ、学校にも通っている。養い親はかつて神だったモノで、気まぐれに拾って育てたと聞かされている。

矢野大地。テニス部のエースで生徒会役員もつとめる優秀な生徒。小学生のころ池で溺れたことがあり、そのとき命を救ってくれたのは蒼空だと思いこむ。黒く染まった裏の顔を持つが、蒼空に対してだけは昔のまま純粋な気持ちで接している。

原田蒼空。平凡で目立たない小柄な女の子。誰にも嫌われることのない柔らかな空気をまとっている。一緒にいるだけで癒されるような、やさしく素直な性格の持ち主。

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