祝杯まで1秒前

文字数 1,901文字





 小牧原は、頭から薄紫色の血を流している体で、茫然と立ち尽くし、美咲に至っては、頑是ない幼子のように、肩を震わせて泣きじゃくる始末だった。

 そして、こんなことを言った。

 「酷いわ、綾乃さん。どうしてこんなことをするの?」

 綾乃はそれを聞いた時、彼女のことを不憫に思った。

 確かに美咲には、永遠に理解出来ないだろう。

 けれど、人生の谷底に落ちたことのある者にしか見えてこない、暗闇の楽園というものも、確かに存在するのだ。

 そうして村瀬はと言うと、他のメンバーと同様に、顔面蒼白になったまま、その場に凍り付いていた。

 綾乃はそんな彼に向かって、余裕のある仕草で、ワイングラスを掲げてみせた。

 「村瀬さん、これ、お借りしていきます。

 後でお返しに上がりますから」

 こうして、片手にワイングラス、片手に高級ワインのボトルを抱えると、美咲の泣きじゃくる息遣いだけが響き渡るイタリアンレストランを、後にした。

 時刻は、午後九時を回ったところだった。

 薄暗い路地裏を通り抜けて、表通りへと出たものの、通りの両側にずらりと建ち並ぶブティックの殆どは、閉まっていた。

 それでも、華やかな初夏の新作を展示してあるショーウインドウに限っては、店によっては、照明が灯されている所もあった。

 綾乃は、ロマネ・コンティの重厚な味わいを、舌の上で転がしつつ、白々とした人工的な光に包まれたショーウインドウの中身を、見るともなしにそぞろ歩いた。

 ロマンティックなパールビジューで飾られた、上品で可愛らしいサンダル。

 個性的でハードな存在感を醸し出す、パイソン革のシャープなハンドバッグ。

 黒地に鮮血のような真紅の糸で、繊細な花刺繍が施された、シックなミニドレス。

 いずれも普段ならば、目を輝かせて眺めていたアイテムばかりだ。

 ところが今は、何も感じられない。

 まるで鉄の塊を飲み込んでしまったかのように、胸の奥に、鈍い痛みがつかえていた。

 その切ないほどの鈍い痛みは、綾乃に、しっとりと照り輝く真珠を育成する、阿古屋貝を連想させた。

 阿古屋貝は、真珠の元となる核を、その身に引き受けた瞬間から、悶え苦しむほどの苦痛に、苛まれ続けると言う。

 なんとも皮肉なことだが、月の雫のように美しい真珠を生み出すためには、阿古屋貝の苦悶というエネルギーが必要なのだ。

 そしてそうであるならば、自分が今、身に引き受けている鈍い痛みも、後々、美しい何かを生み出す礎であって欲しい。

 綾乃はそう切望せずにはいられなかった。

 照明がすっかり落とされ、ひっそりと静まり返ったショーウインドウの前に差し掛かった時、ふと足を止めた。

 そこは、ピアノのように黒光りする鏡面となり、佇む綾乃の姿を、静謐に映し出していた。

 そんな漆黒の世界の中から、まじまじと見返してくる、もう一人の自分の顔を覗き込んだ瞬間、綾乃は息を呑んだ。

 そこに見出だしたのは、今まで見た覚えのない、凛とした力強さを放つ、自分自身の表情だった。

 てっきり意気消沈して、暗く翳っているものと思い込んでいたのに、その予測は見事に裏切られた。

 そこに湛えられていたのは、大型の鳥に見られる、力強く伸びやかな羽ばたきや、しなやかな鹿の跳躍といったものだった。

 そんな野性味溢れる強靭さが、自分の奥底では、密かに息づいていたのだ。

 綾乃はそのことに、心底救われた想いがした。

 もうこれからは、人生の新たなステージが幕を開けるのだ。

 その門出を祝して、ぜひとも祝杯を上げておきたいところだった。

 幸い、手許にはワイングラスと、残り少ないものの、まだ中身の入っているロマネ・コンティのボトルがある。

 綾乃は、漆黒の世界の住人である、もう一人の自分に微笑み掛けると、極上の美酒で満たされたワイングラスを彼女と合わせ、乾杯をした。

 カリン、と涼やかな音が響く。

 早速、グラスに口を付けようとしたその瞬間、深い葡萄色の液面に、金色の満月が、海月のように漂っていることに気付いた。

 今宵は、月が満開に花開く夜なのだ。

 綾乃は、この上なく満ち足りた気分に浸りながら、月の雫入りのワイングラスを、ゆっくりと傾けた。


     ~~~ 完 ~~~


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