7、ウエスカの修道院

文字数 1,818文字

いよいよ今回の旅行の目的地の1つでもあるウエスカの修道院の紹介です。作品集は下の写真から入ってください。
ウエスカはサラゴサから電車で1時間ほどの場所にあります。朝9時の電車に乗って10時ごろウエスカに到着、修道院はホテルから歩いてすぐの場所にあるので10時半ごろに到着しました。
入り口はこんな感じです。入り口がわかりにくくて、周りをグルグルまわってしまいました。
余が生きていた時に見た回廊の柱の彫刻がそのまま残っている。
このサン・ペドロ・エル・ビエホ修道院は中世に作られた柱の彫刻がそのままの形で残っていることで有名です。私がいる間に何組かのスペイン人グループが来て、ガイドの説明を聞きながら柱の彫刻を見上げ、写真を撮っていました。
でも私がこの修道院に来た目的は中世の柱の彫刻ではなくて、ここがアラゴン王ラミロ2世が生涯の大半を過ごした場所で、アラゴンの初代から5代目のラミロ2世までの王家の霊廟があった場所でもあるからです。
現在は霊廟は別の場所に移されていますが、石棺がある部屋には王家の家系図とそれぞれの王様について説明が書いてあるパネルが展示されていました。
アラゴン初代の王ラミロ1世です。
余の祖父である。実際に会ったことはなかったが、このようなお顔をしていたのか。
ラミロ1世はナバラ王国のサンチョ3世大王の庶子として生まれました。他の兄弟に比べて与えられた領土は狭かったけど、それでもここからアラゴン王国が始まります。
余の時代、アラゴンは大国になっていた。そのことを祖先のラミロ1世に報告したい。
ラミロ1世の長男、サンチョ・ラミレス王です。
余の父上だ。父上には子供の時に実際に会っている。
サンチョ・ラミレス王は父から引き継いだアラゴン王国の軍隊を強化し国の制度を整えました。またローマに巡礼の旅に行き、教皇やフランスとの関係を強め、教会の儀式にローマ式を取り入れ、たくさんの教会や修道院を建築しました。アラゴン王国の基礎を作った非常に優れた王でした。
アラゴン3代目の王ペドロ1世です。
余の1番上の兄上である。
当時のアラゴンでペドロという名前は珍しかったのですが、サンチョ・ラミレス王がローマに行き、サン・ペドロの家臣になると誓ったことから長男にペドロという名前を付けました。その後、アラゴンにはペドロという名前の王様が何人も出ています。
余もペドロと名付けられ、ペドロ2世となった。
私の父上はペドロ4世でした。
ラミロ1世、サンチョ・ラミレス、ペドロ1世までは長男が王位を継ぎ、引継ぎはとてもうまくいっていました。最初から王の後継者として帝王教育を受け、10代で王国の1部の統治も任されていたからです。ペドロ1世も優れた王でしたが、跡継ぎの子が王より先に亡くなったため、王位は弟のアルフォンソ1世が継ぐことになりました。
アルフォンソ1世、戦士王です。
余の2番目の兄上である。
余の父上はアルフォンソ2世という名前であった。
アルフォンソ1世は戦士王と名前が付くぐらいなので戦争ではメチャクチャ強く、サラゴサもこの王様の時代にアラゴンのものになりました。でもカスティーリャの女王ウラカと結婚するも跡継ぎは生まれずに5年で離婚してしまい、死ぬ前にアラゴン王国の領土と財産はすべてテンプル騎士団などに寄進するという遺言を残しました。
戦士王は極端ですね。
サンチョ・ラミレス王は長男ペドロ1世が王、次男アルフォンソ1世が戦士、三男ラミロ2世が聖職者という形でそれぞれ国を支えることを望んだのだと思います。でも長男ペドロ1世が後継者がいないまま亡くなってしまい、アラゴン王国は存亡の危機に立たされます。
アラゴン王国5代目の王ラミロ2世です。
パネルで紹介されている余の姿だ。
ラミロ2世は子供の頃に修道院に入れられて修道士として生きていましたが、47歳の時に王位を継ぐことになり修道士王と呼ばれています。
ラミロ2世は修道院育ちだったので政治にも疎く、馬に乗ったり剣を握ったりすることもできませんでした。貴族たちは王を馬鹿にして各地で反乱が起き、ついにラミロ2世は『ウエスカの鐘』と呼ばれる粛正を行います。
僕がニコラス先生に聞いた話ですね。あの話がきっかけで僕はラミロ2世などアラゴン王家の亡霊たちと知り合いになりました。
ここで紹介しているチャットノベルや小説のほとんどが、ウエスカにあるサン・ペドロ・エル・ビエホ修道院で見たパネルがもとになっています。
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

背景色
  • 生成り
  • 水色