第2話 ハッピーハロウィン、本格派
文字数 4,576文字
骨董屋『にかい堂』は今日も今日とて暇である。出勤から三十分で店内掃除を終えた私は、信楽焼のたぬきと、壁に掛けのアンティーク時計をお供に、『女子大生 藤木アリス』という女性時価総額のボーナスタイムを浪費していた。
「さあ、今日も張り切ってまいりましょう」
この乳白色の半裸マッチョと共に――。
「ダヴ、やる気出してるとこ悪いけど……もう掃除終わってるから」
一日に五組も来客があれば大盛況と呼ばれるくらい『にかい堂』は暇である。これ以上の仕事などない。
「ええ、知っておりますとも。ですから、オセロをやりましょう! 白と黒、ホルスタインカラーです」
「好きだよね、それ……別にいいけど」
「やったー!」
ギリシャ彫刻を思わせるミルク色の魔神様だが、こう無邪気に喜んでいる姿を見せられると、ちょっと陽気な『うごくせきぞう』に見えてくるから不思議だった。
普通の女子大生である私が、こんな神(様と)トークをしているのかと言えば、話は一か月前にさかのぼる。
その日、私は『にかい堂』の店主である坂井のおじいちゃんが仕入れてきた牧場グッズを、お店に陳列していた。
その中に容器の魔神ダヴが宿るミルクタンクが混入しており、知らずに雑巾で拭いたところ、アラビアンナイトよろしく、ご主人さま認定されてしまったのである。
ほぼ万能な力を持つ本家とは異なり、ミルクタンクの魔神であるダヴには、牛乳に関わる願い事しか叶えられないという制限があり、早々に無能の烙印を押した私は適当な願い事を言って彼を解放した。
こうしてダヴは忌まわしき容器の呪縛から解放されたのだ。
一方、解放時の紆余曲折でダヴに気に入られてしまった私は、件の魔神様につきまとわれる呪いを受けてしまっている。
なんというか、腑に落ちない結果である。
別に悪い奴ではないから構わないんだけども。
*
夕方になり、お店の前に小学生たちが集まり出す。かぼちゃのワンピースや、魔女っ子、プリンセスなど思い思いの仮装をしている。
「ふふ、可愛い」
微笑ましい気持ちになりながら店の戸口へ向かう。
「「トリックオアトリート!」」
「ハッピーハロウィン! はい、どうぞ。いたずらしないでね」
藤かごバッグに入れておいたミルク飴を渡す。ちなみにこの飴はダヴが用意してくれたものだ。一つ味見させてもらったが舌がズンとなるほどおいしい。
この商店街では、毎年十月最終週の土曜日に、近所の子供たちを集めてハロウィン祭りを開催している。子供たちに仮装した子供たちに商店街の各店舗を回ってもらい、お菓子を渡すのだ。まれにちゃっかりお店の宣伝を兼ねた商品を渡すお店(魚屋の干物、肉屋のコロッケなど)もあって、なかなか豊富なランナップとなっている。
「うわ、なんだコイツ!?」
「吾輩はダヴ。ミルクタンクの魔神です」
「変な名前ー!」
牛乳色の魔神様は案外、子供好きのようで、魔神印の牛乳を配って交流を深めようとしていた。
「なにこれ、うめぇ――!!」
「ははは、そうでしょう。飲むヨーグルトもありますよ!」
子供たちを牛乳漬け、もとい、餌付けしながらダヴが笑顔を見せる。
「嬉しそうだなぁ」
ちょっとだけ安堵する。ダヴは不気味な骨董店に出入りする謎の半裸外国人として近隣住民から警戒されていたので、これを機に街に馴染んでくれればいいと思う。
いや、日本の四季折々を半裸のまま楽しむ異人さんを受け入れていいのか、という問題はあるのだが。
子供たちが商店街を回り終え、家に帰ったところで店じまいを始める。ダヴと二人で店外に出していた叩くと頭が揺れるペコちゃん人形を運び込む。
シャッター棒を取り出し、端に引っ掛ける。
「アリスさん、すっかり日が暮れるのも早くなりましたね。もう月が出ていますよ」
逢魔が時の群青色の空に、まあるいお月様がとんと乗っている。
「本当だ……ダヴ、綺麗な月だね」
「……死んでもい――」
「あ、ごめん。今のは普通にお月様が綺麗だと思っただけ」
「……吾輩、貝になりたい」
「缶に入ってなよ」
「少し、いいかしら?」
雑談していると、どこからともなく女性が現れる。鮮やかなプラチナブロンド、蒼白い頬、黒いゴシック調のドレスを着た、いっそ恐ろしいくらいの美人さんだった。
「はぁ、こんばんは」
「ええ、こんばんは、お嬢さん。いい夜ね」
人外の美貌の持ち主は真っ赤な瞳を細める。
ニタリ、と弧を描いた唇から二本、鋭い牙がこぼれた。
*
「どうしよう、ダヴ」
「ええ、これは困りました……」
私が横を見ると、ダヴも困惑顔で頷く。
これは大変だ。寂れた商店街が開催する子供向けのハロウィン祭りに本格派の方 が迷い込んでしまった。
「あの、お、お姉さん? 多分、降りる駅、間違ってますよ?」
「いいえ、間違ってないわよ」
おっとりとした口調でコスプレお姉さんが言う。
「渋谷に行くなら田端で乗り換えないと……」
「だからここでいいの。私はあなたの甘い香りに誘われて来たのだもの」
コスプレさんは可愛らしく片目を瞑る。
「あー、なるほど……ハッピーハロウィン?」
私は藤かごバッグを差し出す。コスプレさんは小首を傾げ、中身を取り出す。
「ありがとう……飴?」
「はい、とってもおいしいですよ」
「あのね、お嬢さん」
「残念でしたね、あと三十分、早く着いていたら色々もらえたのに」
「そうじゃなくて!」
「多分、お肉屋さんはまだ営業してますから、行けばコロッケとか貰えると思いますよ」
「だから違うの。もうっ、埒が明かないわ!」
コスプレさんはヒールの踵で地面を踏みつけた。
破砕音が響く。
「え?」
「これで分かってもらえたかしら?」
足元を見れば踵を中心に、蜘蛛の巣上のヒビが入っている。
「アリスさん、下がってください……奴は、本物です」
ダヴが私を隠すように前に出た。
「凄い……これがプロのコスプレレイヤーの実力……」
確かにとんでもないクオリティだ。本物の吸血鬼なんて見たことないけど、実在するなら彼女みたいな感じだろうと確信するくらい真に迫っている。
「いえ、そうではなく、彼女は本物の吸血鬼なのです」
「……吸血鬼? コスプレじゃなく?」
「ふふ、そうよ。普段は闇に隠れて過ごす私たちも、今宵だけは外に出られるのよ」
なるほど、ハロウィンの日なら素のままで外に出ても問題ない。
「それで吸血鬼よ。この店に何の用があるというのです」
「特にないんだけど……強いて理由を上げるなら、この子の香りに誘惑されてしまった感じね」
吸血鬼さんが流し目を送ってくる。同性ながらぞくっとするほどの艶やかさだ。
「ど、どど、どういうことですか?」
「私たち吸血鬼は乙女の血が大好物なの。それなのに貴女ったら、穢れを知らぬ乙女の匂いと、乳飲み子めいた甘いミルクの香りを同時に漂わせている。こんな上物の匂いを嗅がされたら我慢できなくなってしまうわ」
うっとりとした表情でコスプレさん改め吸血鬼さんが舌なめずりをする。ちなみにミルクの香りは、今舐めているミルク飴のせいだと思う。
「やはり、吸血が目的ですか」
「ふふ、吸血鬼が女の子に声をかけるのにそれ以外の理由があると思って?」
背中に冷たい汗が流れる。
「トリックオアトリート」
吸血鬼さんが微笑む。月夜の中にあって、彼女の周囲だけがぽっかりと穴が開いている。まるで降り注ぐ月明かりを全て食い尽くしているかのように。
「いたずらされたくなかったら、その血を分けてくださいな?」
私は知らず、ダヴのズボンを握っていた。
恐ろしかった。彼女の私を見る目は完全に捕食者のそれで、だからこそ、絶対に逃げられないことが本能的に分かってしまう。
「アリスさん……」
震える私を見て、ダヴは覚悟を決めた表情を浮かべる。
「ふふ、やる気なの? いかな容器の魔神とはいえ、満月の夜に吸血鬼である私に勝てるかしら?」
「だ、ダヴ……無理しないで……最悪は、私が……」
「大丈夫です、アリスさん。私に考えがありますから」
ダヴは力強く頷くと、吸血鬼さんに向き直った。
「残念でした! アリスさんは穢れを知らぬ乙女ではございません! 何ならお子さんさえおります!」
「ふぁ!?」
「そ、そんなはずはないわ! この匂い、この雰囲気! 彼女は間違いなく穢れを知らぬ乙女よ!」
「いいえ、穢れてます!」
「穢れてないわ!」
「だから穢れてるって、痛ぁ!」
「私はあれか、腐海か何かか!」
「し、失礼しました」
「あと、お姉さんもですからね! オブラートに包めば何を言ってもいいわけじゃないんですから!!」
「ごめんなさい、それは謝るわ」
「はぁ……もうやだ……帰りたい……」
私が真っ赤になった頬を抑えている間にも、二人の話し合いは続く。
「とにかくアリスさんはあれではありません」
「嘘よ」
「証拠をお見せしましょうか? もしもあなたが間違っていた時は、もう二度とアリスさんに近づかないでください!」
ダヴが自信ありげに言うと、吸血鬼さんが頷いた。
「いいわ、その証拠を見せて」
「分かりました、準備がありますので少々お待ちを」
「ど、どうするのよ、ダヴ……こんな大嘘ついて……」
「大丈夫です、アリスさん。吾輩たちには魔法があります」
「ま、魔法?」
「左様です。吾輩と初めてお会いした時のこと、覚えていますか?」
「ああ、あの時は……願い事を叶えて貰おうとして……あ、」
「そうです、ミルクの魔法です」
ダヴが授けられる唯一の魔法。それはどんな人間でも母乳が出せるようになる、というものだ。育児に積極的に参加したいイクメンなら垂涎ものの魔法だろう。いや、イクメンの場合は父乳か? 音読みするとチチチチ、小鳥さんみたいである。
「な、なるほど、その魔法を使って見せれば、赤ちゃんがいるって騙せる……」
「はい、吾輩が魔法を使えるようにしておきますから、今から言う呪文を奴の前で唱えてください」
「わかった、その呪文は?」
「『
「この本家へのリスペクトのなさ!」
「よし、準備はできました。今なら人通りもありません。奴に見せつけてやりましょう!」
「いい加減にしろ、このセクハラ大魔神!」
「安心してください! 吾輩、後ろ向いてますから!」
「そういう話じゃない!」
「あー、あのね、アリスちゃん、ちょっといいかしら?」
私が抗議をしていると、吸血鬼さんが申し訳なさそうな表情で手を上げる。
「待たせたな、吸血鬼! うちのアリスさんを舐めるなよ! 貴様なぞ、ミルクの海に溺れればいい!」
ダヴが声を荒げる。正直、吸血鬼より血の気の多い奴である。
「さあ、アリスさん、ぶっ放してやってください!」
「無理無理、そんな量、物理的に出ないから!」
「吾輩が授けた魔法なら可能です! さあ、アリスさん、やっておしまいなさい!」
「黄門さまの言い方すな!」
私は頭を抱えた。血は吸われたくないし、乳も出したくない。二律背反、アンチノミーというやつだ。
「あーうー……でも……」
「ごめんなさいね、アリスちゃん。結論を出す前に、一言だけいいかしら?」
「あ、はい、なんでしょう?」
「あのね、二人の話なんだけど……」
吸血鬼のお姉さんは気まずそうにこう前置きして、続けた。
「全部、丸聞こえだったわ」
「「あっ」」
ダヴと見つめ合う。夜空に浮かんだ青白い光が、私たちを冴え冴えと照らしていた。
了
「さあ、今日も張り切ってまいりましょう」
この乳白色の半裸マッチョと共に――。
「ダヴ、やる気出してるとこ悪いけど……もう掃除終わってるから」
一日に五組も来客があれば大盛況と呼ばれるくらい『にかい堂』は暇である。これ以上の仕事などない。
「ええ、知っておりますとも。ですから、オセロをやりましょう! 白と黒、ホルスタインカラーです」
「好きだよね、それ……別にいいけど」
「やったー!」
ギリシャ彫刻を思わせるミルク色の魔神様だが、こう無邪気に喜んでいる姿を見せられると、ちょっと陽気な『うごくせきぞう』に見えてくるから不思議だった。
普通の女子大生である私が、こんな神(様と)トークをしているのかと言えば、話は一か月前にさかのぼる。
その日、私は『にかい堂』の店主である坂井のおじいちゃんが仕入れてきた牧場グッズを、お店に陳列していた。
その中に容器の魔神ダヴが宿るミルクタンクが混入しており、知らずに雑巾で拭いたところ、アラビアンナイトよろしく、ご主人さま認定されてしまったのである。
ほぼ万能な力を持つ本家とは異なり、ミルクタンクの魔神であるダヴには、牛乳に関わる願い事しか叶えられないという制限があり、早々に無能の烙印を押した私は適当な願い事を言って彼を解放した。
こうしてダヴは忌まわしき容器の呪縛から解放されたのだ。
一方、解放時の紆余曲折でダヴに気に入られてしまった私は、件の魔神様につきまとわれる呪いを受けてしまっている。
なんというか、腑に落ちない結果である。
別に悪い奴ではないから構わないんだけども。
*
夕方になり、お店の前に小学生たちが集まり出す。かぼちゃのワンピースや、魔女っ子、プリンセスなど思い思いの仮装をしている。
「ふふ、可愛い」
微笑ましい気持ちになりながら店の戸口へ向かう。
「「トリックオアトリート!」」
「ハッピーハロウィン! はい、どうぞ。いたずらしないでね」
藤かごバッグに入れておいたミルク飴を渡す。ちなみにこの飴はダヴが用意してくれたものだ。一つ味見させてもらったが舌がズンとなるほどおいしい。
この商店街では、毎年十月最終週の土曜日に、近所の子供たちを集めてハロウィン祭りを開催している。子供たちに仮装した子供たちに商店街の各店舗を回ってもらい、お菓子を渡すのだ。まれにちゃっかりお店の宣伝を兼ねた商品を渡すお店(魚屋の干物、肉屋のコロッケなど)もあって、なかなか豊富なランナップとなっている。
「うわ、なんだコイツ!?」
「吾輩はダヴ。ミルクタンクの魔神です」
「変な名前ー!」
牛乳色の魔神様は案外、子供好きのようで、魔神印の牛乳を配って交流を深めようとしていた。
「なにこれ、うめぇ――!!」
「ははは、そうでしょう。飲むヨーグルトもありますよ!」
子供たちを牛乳漬け、もとい、餌付けしながらダヴが笑顔を見せる。
「嬉しそうだなぁ」
ちょっとだけ安堵する。ダヴは不気味な骨董店に出入りする謎の半裸外国人として近隣住民から警戒されていたので、これを機に街に馴染んでくれればいいと思う。
いや、日本の四季折々を半裸のまま楽しむ異人さんを受け入れていいのか、という問題はあるのだが。
子供たちが商店街を回り終え、家に帰ったところで店じまいを始める。ダヴと二人で店外に出していた叩くと頭が揺れるペコちゃん人形を運び込む。
シャッター棒を取り出し、端に引っ掛ける。
「アリスさん、すっかり日が暮れるのも早くなりましたね。もう月が出ていますよ」
逢魔が時の群青色の空に、まあるいお月様がとんと乗っている。
「本当だ……ダヴ、綺麗な月だね」
「……死んでもい――」
「あ、ごめん。今のは普通にお月様が綺麗だと思っただけ」
「……吾輩、貝になりたい」
「缶に入ってなよ」
「少し、いいかしら?」
雑談していると、どこからともなく女性が現れる。鮮やかなプラチナブロンド、蒼白い頬、黒いゴシック調のドレスを着た、いっそ恐ろしいくらいの美人さんだった。
「はぁ、こんばんは」
「ええ、こんばんは、お嬢さん。いい夜ね」
人外の美貌の持ち主は真っ赤な瞳を細める。
ニタリ、と弧を描いた唇から二本、鋭い牙がこぼれた。
*
「どうしよう、ダヴ」
「ええ、これは困りました……」
私が横を見ると、ダヴも困惑顔で頷く。
これは大変だ。寂れた商店街が開催する子供向けのハロウィン祭りに
「あの、お、お姉さん? 多分、降りる駅、間違ってますよ?」
「いいえ、間違ってないわよ」
おっとりとした口調でコスプレお姉さんが言う。
「渋谷に行くなら田端で乗り換えないと……」
「だからここでいいの。私はあなたの甘い香りに誘われて来たのだもの」
コスプレさんは可愛らしく片目を瞑る。
「あー、なるほど……ハッピーハロウィン?」
私は藤かごバッグを差し出す。コスプレさんは小首を傾げ、中身を取り出す。
「ありがとう……飴?」
「はい、とってもおいしいですよ」
「あのね、お嬢さん」
「残念でしたね、あと三十分、早く着いていたら色々もらえたのに」
「そうじゃなくて!」
「多分、お肉屋さんはまだ営業してますから、行けばコロッケとか貰えると思いますよ」
「だから違うの。もうっ、埒が明かないわ!」
コスプレさんはヒールの踵で地面を踏みつけた。
破砕音が響く。
「え?」
「これで分かってもらえたかしら?」
足元を見れば踵を中心に、蜘蛛の巣上のヒビが入っている。
「アリスさん、下がってください……奴は、本物です」
ダヴが私を隠すように前に出た。
「凄い……これがプロのコスプレレイヤーの実力……」
確かにとんでもないクオリティだ。本物の吸血鬼なんて見たことないけど、実在するなら彼女みたいな感じだろうと確信するくらい真に迫っている。
「いえ、そうではなく、彼女は本物の吸血鬼なのです」
「……吸血鬼? コスプレじゃなく?」
「ふふ、そうよ。普段は闇に隠れて過ごす私たちも、今宵だけは外に出られるのよ」
なるほど、ハロウィンの日なら素のままで外に出ても問題ない。
「それで吸血鬼よ。この店に何の用があるというのです」
「特にないんだけど……強いて理由を上げるなら、この子の香りに誘惑されてしまった感じね」
吸血鬼さんが流し目を送ってくる。同性ながらぞくっとするほどの艶やかさだ。
「ど、どど、どういうことですか?」
「私たち吸血鬼は乙女の血が大好物なの。それなのに貴女ったら、穢れを知らぬ乙女の匂いと、乳飲み子めいた甘いミルクの香りを同時に漂わせている。こんな上物の匂いを嗅がされたら我慢できなくなってしまうわ」
うっとりとした表情でコスプレさん改め吸血鬼さんが舌なめずりをする。ちなみにミルクの香りは、今舐めているミルク飴のせいだと思う。
「やはり、吸血が目的ですか」
「ふふ、吸血鬼が女の子に声をかけるのにそれ以外の理由があると思って?」
背中に冷たい汗が流れる。
「トリックオアトリート」
吸血鬼さんが微笑む。月夜の中にあって、彼女の周囲だけがぽっかりと穴が開いている。まるで降り注ぐ月明かりを全て食い尽くしているかのように。
「いたずらされたくなかったら、その血を分けてくださいな?」
私は知らず、ダヴのズボンを握っていた。
恐ろしかった。彼女の私を見る目は完全に捕食者のそれで、だからこそ、絶対に逃げられないことが本能的に分かってしまう。
「アリスさん……」
震える私を見て、ダヴは覚悟を決めた表情を浮かべる。
「ふふ、やる気なの? いかな容器の魔神とはいえ、満月の夜に吸血鬼である私に勝てるかしら?」
「だ、ダヴ……無理しないで……最悪は、私が……」
「大丈夫です、アリスさん。私に考えがありますから」
ダヴは力強く頷くと、吸血鬼さんに向き直った。
「残念でした! アリスさんは穢れを知らぬ乙女ではございません! 何ならお子さんさえおります!」
「ふぁ!?」
「そ、そんなはずはないわ! この匂い、この雰囲気! 彼女は間違いなく穢れを知らぬ乙女よ!」
「いいえ、穢れてます!」
「穢れてないわ!」
「だから穢れてるって、痛ぁ!」
「私はあれか、腐海か何かか!」
「し、失礼しました」
「あと、お姉さんもですからね! オブラートに包めば何を言ってもいいわけじゃないんですから!!」
「ごめんなさい、それは謝るわ」
「はぁ……もうやだ……帰りたい……」
私が真っ赤になった頬を抑えている間にも、二人の話し合いは続く。
「とにかくアリスさんはあれではありません」
「嘘よ」
「証拠をお見せしましょうか? もしもあなたが間違っていた時は、もう二度とアリスさんに近づかないでください!」
ダヴが自信ありげに言うと、吸血鬼さんが頷いた。
「いいわ、その証拠を見せて」
「分かりました、準備がありますので少々お待ちを」
「ど、どうするのよ、ダヴ……こんな大嘘ついて……」
「大丈夫です、アリスさん。吾輩たちには魔法があります」
「ま、魔法?」
「左様です。吾輩と初めてお会いした時のこと、覚えていますか?」
「ああ、あの時は……願い事を叶えて貰おうとして……あ、」
「そうです、ミルクの魔法です」
ダヴが授けられる唯一の魔法。それはどんな人間でも母乳が出せるようになる、というものだ。育児に積極的に参加したいイクメンなら垂涎ものの魔法だろう。いや、イクメンの場合は父乳か? 音読みするとチチチチ、小鳥さんみたいである。
「な、なるほど、その魔法を使って見せれば、赤ちゃんがいるって騙せる……」
「はい、吾輩が魔法を使えるようにしておきますから、今から言う呪文を奴の前で唱えてください」
「わかった、その呪文は?」
「『
チチデバブバブー
』です」「この本家へのリスペクトのなさ!」
「よし、準備はできました。今なら人通りもありません。奴に見せつけてやりましょう!」
「いい加減にしろ、このセクハラ大魔神!」
「安心してください! 吾輩、後ろ向いてますから!」
「そういう話じゃない!」
「あー、あのね、アリスちゃん、ちょっといいかしら?」
私が抗議をしていると、吸血鬼さんが申し訳なさそうな表情で手を上げる。
「待たせたな、吸血鬼! うちのアリスさんを舐めるなよ! 貴様なぞ、ミルクの海に溺れればいい!」
ダヴが声を荒げる。正直、吸血鬼より血の気の多い奴である。
「さあ、アリスさん、ぶっ放してやってください!」
「無理無理、そんな量、物理的に出ないから!」
「吾輩が授けた魔法なら可能です! さあ、アリスさん、やっておしまいなさい!」
「黄門さまの言い方すな!」
私は頭を抱えた。血は吸われたくないし、乳も出したくない。二律背反、アンチノミーというやつだ。
「あーうー……でも……」
「ごめんなさいね、アリスちゃん。結論を出す前に、一言だけいいかしら?」
「あ、はい、なんでしょう?」
「あのね、二人の話なんだけど……」
吸血鬼のお姉さんは気まずそうにこう前置きして、続けた。
「全部、丸聞こえだったわ」
「「あっ」」
ダヴと見つめ合う。夜空に浮かんだ青白い光が、私たちを冴え冴えと照らしていた。
了