第5話

文字数 1,172文字

 谷の夕暮れは早い。周囲が山に囲まれているため、平地に比べて随分と早く日が沈む。首塚の横では男がかつて山城があった山の稜線をじっと見つめていた。

「わしはなぜこの土地に縛られているのだ」そう言いながらやはり目線はじっと山の稜線に釘付けられたままだった。それから男は山に向かって歩き始めた。

 しかし男が歩いても足音はせず、男が歩いた後には僅かな微風が起きた。畑を横切った男はそのまま山の稜線へと続く斜面を登っていった。斜面は灌木や雑草が空間を隙間なく埋め尽くし、かき分けなければ進めない程の隆盛だったが、男の体はスルスルとそれらをすり抜け、滑らかに斜面を進んでいった。

 山の斜面を登り始めるとすぐに、帯状に広がる赤茶けた色の凝灰岩が男の行先を阻むように左右へと広がった。男はその岩場よりさらに先に進むため岩場の基部を右へと進んだ。少し行くと、人工的に削岩された岩壁が階段状となって山の山頂へと続いていた。男はその階段状の岩場を登りながら、記憶の奥底に漂う懐かしさに似たような得体の知れない感覚を感じていた。その感覚は男が歩みを進めるほどに強まった。

 やがて山頂にたどり着いた男は眼下に広がる谷を見下ろした。谷の底は緑で溢れ、目を細めて見ると緑色の大河が谷を流れているような錯覚に陥った。その大河の脇に寄り添うように家屋が立ち並んでいる。山頂は、村の人々が頻繁に訪れているためか灌木は刈り払われていて、青々とした芝が地面を埋め尽くしている。その芝生の上に、大きなケヤキの木が数本樹立している。樹立したケヤキは男を取り囲んで男の周辺の空気を威圧した。男は木々に向かって静かに両手を合わせた。

 男は自分が谷に現れたことを考え始めていた。しかしどう記憶を辿ってもそこに繋がる記憶がなく、というより、そもそも過ごした時間と経験が辻褄のあった連続した情報として男の内部に残留しないことに気がついた。谷から来たということと、他の人間に出会ったということ、周囲の気候など、匂いや音や肌触りとしての感覚だけが男の内部に漂う。それはまるで春の微風に乗った花の香りのようにゆらゆらと男の感覚世界を満たしていった。

 男は自分自身が一度死んで、現世に漂う魂としていま在るということを一つの感覚として理解していた。そこには悲しみも怒りも憎しみもなく、平穏に限りなく近いものではあるが、比べる対象のない不思議な感覚だった。記憶として情報が残らないこと、死んでしまったという事実、それらが男の内部で負の感覚として作用しないことに男は少なからず驚いていた。

 やがて谷を囲む山脈に太陽が姿を隠し、谷に点在する家々の窓が明るく染まった。それらの灯りは谷の中を伝染して広がっていき、小さな星群となって谷を彩った。

 そうして完全に夜が谷に訪れると同時に男の姿は漆黒の闇に溶けるように消えた。
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