峰を逝く雲 夢の中の男(壱)

文字数 20,024文字

                           NOZARASI 12-1
   峰を逝く雲
   夢の中の男 (一)                      

 また同じ夢を見た。
 血まみれ姿の目に優しい光を宿した若い男が、雄之進の喉元に刀を突き付け、じっと目を見つめている。
 男は瞬時の躊躇いを見せた後、次第にその目に哀しみの色を浮かべ、一筋の涙をその頬に流すのであった。              
 ただそれだけの短い夢である。
 何故であろうか、いつ見ても、恐怖心と云うものは無かった。
 あれは誰だ。遠い記憶の中で出遭ったことのある男のような気もするのではあった。
 いつの頃からだか定かな記憶は無いのではあるが、雄之進は、その夢を、幼き頃から幾度となく見てきたようにも思うのであった。
 そして、その夢から醒める時、幼き自分の傍らに、優しい母の眼差しが、いつもあったような気もするのであった。     
 如意輪観音様を祀った古い祠の陽溜りで、遠く雪を頂く峰を見やりながら、故郷の山河を思い出している内に、いつの間にかぐっすりと眠りに入ってしまったらしい雄之進は、吹く風の梵に、その浅き夢から目覚めた。
 武者修行の旅へ出て十年と少し、帰る事はもう叶わぬ故郷の山河が、雄之進の心から消えることは無かった。

 十六の冬のある夜、あの夢を見た。
 喉の渇きを覚え、台所で水を飲もうと廊下に出た。行灯の灯された父母の部屋から、小さな声が漏れ聞こえて来た。
「もう直に元服の日ですよ、どうなされるのですか」
「……」
「まだ心がお定まりにならぬのでございますか、直に十六にございますよ。同い年の方達はもう皆式を挙げられています、これ以上は、本人も落ち着かないのではありませぬか」
 どうやら延び延びになっている自分の元服の亊らしい。
「跡を継がせるのでしたら、名もそのように、当家の嫡子の元服名をお与え下ださい」  
「……」
「雄之進は素晴らしい子でございます。今更私がこんな事を言うのもおかしなものとは思いますれぞ、剣は藩の若い者たちの中では抜きん出ていますし、学問も同じように秀で、他を寄せ付けません。かといって驕ることも無く、友からも慕われ、当家の跡継として、この上なき授かりものでございます。姉や義兄が生きておれば、さぞかし喜びましたでしょうに……」
「儂はな、小太郎を跡継にしたくて迷うておるのでは無いぞ」
「私とてそれは解っております」
「実子である小太郎を養子に出し、お前の姉の子、雄之進をと、いつ小太郎の耳に、事情を知る世間の口性なき者から、あの亊が耳に入らぬとも限らぬ。その時小太郎は悩むであろう。雄之進とて同じであろう。あの事件の二の舞にならねばいいがと……」
「姉の時と今とは違います、雄之進とあの子を一緒になさらないで下ださい」     
「分っておる。雄之進も小太郎も、儂には可愛いい自慢の息子たちじゃ。二人もあのように仲が良いし、因果な亊じゃのう」
「……」
 雄之進は気付かれぬよう静かに床へ戻った。
 自分は父母の実の子では無かったのか。
 姉と云うのが自分の母なのか……、その父も母も死んで、今は生きていないのか……。あの事件とは……、あの子とは……、因果とは……。
 雄之進の頭の中を様々な思いが駆け巡りゆき、眠れぬままに朝を迎えた。
 恐らく、それからの雄之進は変わった。いや、他人目には常を装ってはいたが、悩み苦しみ続け、死なんと思い詰めもした。が、死すと云う畏怖に勝つ事は出来なかった。
 やがて、自分はこの家を出なくてはならないと、それだけを強く思うようになってゆくのであった。
 元服式の日が決まり、もう間もなくと迫った日、雄之進は父母の前へ座ると、深く低頭したまま申し出たのであった。
「父上、母上、雄之進は武者修行の旅へ出とうございます。どうかお許しを」
 父母の顔に、驚きと戸惑いの色が走った。
 が、数日を掛け、首を縦に振ってはくれぬ父母を、やっとの思いで説き伏せたのであった。
 元服の式も終わり、武者修行の旅へ出る別れの朝、
「武者修業の旅であれば、何が起こるかは知れませぬ、若し私が小太郎の元服の時までに戻らなければ、小太郎を跡継とし、私の亊はお忘れ下ださい」と、父母に自分の決意を伝えた。
「何を言うか、別れの時に不吉な亊を言うでない。我が家の跡を継ぐのは雄之進、お前ぞ」
「そうですよ、代々の名、源佐衛門をあなたに与えたのは、そう云う事なのですよ」
「ありがとうございます。が、その名、今は一旦お返しさせて戴きます。武者修行の旅なれば、如何なることが起こるよも知れませぬ、雄之進の我が儘、どうかお赦し下ださい」
「……」
 母は悲しみを押し殺すかのように黙って俯いていた。
「これは我が家の当主に伝える父祖伝来の名刀ぞ。我が家の跡継である証として、雄之進、今、これをお前に与える。その生命とともに大切にし、そして無事戻って来るのだ、よいな。母と小太郎と共に待っておるぞ」
 父は、自分の刀を雄之進の前に置き、雄之進の刀を大事そうに取ると母に渡した。
「それは……」
 雄之進の刀を確とその胸に抱き、「雄之進」と、一言言った母の目に、悲しみの涙の止めどなく溢れゆくのを見、雄之進は黙って刀を受け取り、その腰に差し、あの故郷を離れたのであった。
 父母は雄之進の決意の固さを解していた。だが、まさかあの夜の話しを雄之進が聞いていたなんぞとは夢にも思ってはいなかったであろう、これで良いのだと、雄之進は思うのであった。

 颯爽と行こうと思った。父母の心に、これ以上の憂いを残したくはなかった……。
 実の子である小太郎以上に、自分は二人に可愛がられ、大事に育てられてきた。そんな二人に出来る、精一杯の恩返しのつもりであった。
 もう直八歳になる小太郎が後を追う。
「兄さま」
 抱き上げて頬摺りをし、自分を慕ってくれた可愛い弟に別れを告げる。
「いつまでも元気でな小太郎。この間約束したであろう、父上や母上を頼むぞ」
「はいっ、兄さま、小太郎にお任せ下ださい。うんと強くなって、早く帰ってきて下ださい」
 何も知らぬ小太郎は、元気にそう応えるのであった。
 見送りに来てくれた友たちとも、峠の麓で別れを告げた。
 一人峠を登り、ここからはもう城下も見えなくなる一本松の下で振り返る。
 遠く高く雪を頂く山の懐に抱かれ、城下は薄く春霞に霞んでいた。もう生きて再び帰ることは無いであろうその城下に、深く頭を垂れ、別れを告げたのであった。               

 今、この峠に立ち、あの故郷の山々に別れを告げた時と同じように、白く雪を抱いた高き嶺の麓に望む、見知らぬ城下を眺めている。
 峠を下り、澄み切った清流に沿う街道から城下へ入った。
 どこか懐かしい匂いのするようで、行き交う人々も、なぜか親しげに感じられるのであった。
 その思いに誘われるがままに城下をそぞろ歩く。
 あの故郷に似たその風情に、いつに無く落ち着いてゆく己が心を感じ、雄之進は、ここにしばらく留りたいと思うのであった。
 ここまでの流離うが如き旅路、荒んだ旅では無かったとは思う。それなりに充実した十年余りだったのではないだろうか。だが、この旅に出て初めて感じるその思いに、今はゆったりと身を委ねたいと思うのであった。幸いなことに、今は懐も少し潤っていた。       
 道で遭った人に尋ねると、城下の外れに小さな湯治場のあると言う。
 教えられた渓流沿いの道を行くと、そよ風に乗って微かに硫黄の臭いを漂わせ、その湯治場は柔らかな春の緑の中に佇んでいた。
 小さな沢のせせらぎの音が耳に心地よい。
 案内を請うと、若い女が出てきた。                     
「しばらくご厄介になりたいのですが」
「御湯治でございますか」
「いえ、そう云う訳でも無いのですが、許せば何日かと思っておりますが」
「はい、大丈夫でございますよ。お食事は朝と夕だけで宜しいですか、それともお昼も……」
「うーん、昼は要りませぬ、少し城下を歩いてみたいと思いますので」
 朝飯を食えば昼飯は要らぬ、朝飯を食わねば昼飯を食うといったような旅であったが、食べる機会が無かったり、懐具合が寂しかったりすれば、空きっ腹のまま幾日も過ごすことも多くありはした。
 武者修行の旅、稽古場の門を敲けば、慣例のようにいくらかの志は戴けたし、何日かは泊まり込むようなこともあり、面倒も見てくれた。
 そんな旅である、朝夕の飯にありつければ、それだけでもよかった。
「一番奥のお部屋で宜しいですね、その方が静かでのんびりと寛げますよ」
 案内された部屋は、二階の長い廊下の奥で、狭くはあったが、意外と小奇麗な部屋であった。   
 沢沿いの障子を明けると、すぐ目の下に澄み切った二間程の幅の渓流が流れ、下流の彼方に城下の屋並が望まれた。その家並の向こうに城、そしてまたその背後に、あの高く白い嶺々が聳え立つ。
 山育ちの雄之進には、心落ち着く風情の湯治場であった。
「好い処ですね」
「はい、皆様そのように仰しゃって下さいます。お湯も良いですよ」
「湯にはちと早いですかね」
「良いのではございませんか、この節はのんびりと入れますよ。もう畑も田んぼも忙しくなって、湯治のお客様はひと組もいらっしゃいませんよ。夕刻になれば近所の人たちもやって参りますが、皆様は一段下の大きなお風呂で、手前の湯は、この宿のお客様だけがお入りになられます。別にどちらへ入られても良いのですが、村の人たちの心遣いでしょうね、何となくそのようになっています」
「では入らせて戴こうかな」
 肌がすべすべとし、少し微温いが良い湯であった。手の届きそうな処に澄み切った小さな渓流があり、心地よいせせらぎの音を奏でながら流れ下ってゆく。その向こうの雑木林の若葉が、少し傾きかけた陽に照らされ、目に眩い。その眩しさを厭うかのようにじっと目を瞑ると、その柔らかな緑の優しさの中に包み込まれゆく自分を感じ、忘れかけていた心の安らぎのようなものが蘇りくるのであった。
 半刻以上も入っていたのであろうか、下流に七、八間離れた少し大きな風呂に数人の人が現われ、楽しそうな話し声が聞こえてきた。
 それを汐に湯から上がって廊下を歩いてゆくと、先程の女が、
「少し早うございますが、お食事になさいますか」と声を掛けてきた。
「頼みます」
「お酒もお付け致しますか」
「そうして下ださい」
 質素な膳であった。野菜の煮物、そして山菜であろうか、そのお浸しと漬物。七寸ばかりの川魚らしき魚の甘露煮。                      
 だが、味付けも良く、一つ一つ口に入れる度に、口中にそれぞれの風味が広がり、思わぬ美味しさに驚かされるのであった。
「こんな山の中で、なーんにもございませんが」と、自分の名は梅だと言い、湯治の客で忙しい季節以外は父と母の三人で切り盛りしているのだと女が笑顔で言う。
「いやいや、武者修行の旅、都合のつかぬ時は場末の宿で沢庵と麦飯に味噌汁の一膳飯か、野宿で糒を齧るのが関の山、久しぶりに美味しいものにありつけました」
「美味しゅうございますか」
「うん、中々に美味い」
「ここいらの山や畑で採れる物ばかしですよ。これなんて、ほら、そこの川原の蕗でございますよ。この魚もこの川の山魚女」
「味付けが良いのかな、私には頗る美味しい」

 そんなに大きな城下ではなく、町内に限れば三日程で大体のところは歩いてしまったように思えた。
 故郷の城下によく似たその風情は、そぞろ歩いていると、不思議と心が澄み逝き、昔からここに住んでいたような錯覚に囚われ、心落ち着いてゆくのであった。
 山の中の城下は好い、山を背負っていると云う安堵感のようなものに包まれてゆき、心馴染む穏やかな時の流れを感じさせてくれる。海辺やだだっ広い平野が嫌いと云う訳では無いのであるが、山の中で育ったためか、雄之進は山を背負っていないと、どこか落ち着けない自分を感じる時が、この旅の土地々々でしばしばあった。
 城下には稽古場が二つあった。
 狭い通りに竹刀の音が漏れ聞こえ、ちょっと武者窓から覗いて見たが、今の雄之進の心は、敢えて門を敲こうと云う気にはならなかった。
 夕刻前、宿に戻ると、入口の脇に質素な造りの延べ竿が立て掛けられてあった。
 台所に続く土間に、今しがた来たばかりであろうか、竿の持ち主らしき年寄りが、少し野太い声で宿の者たちと話していた。
「今日は良いのが揃ったよ。昨日の夜のひと雨で、川の水が少し増えたのが良かったんだな、大漁だ」
「お客様はお一人だけど、残りは味噌漬けと甘露煮にすればいいから、全部戴くわ。塩焼きにすれば坂本様も喜ぶわね。あれっ、坂本様、もう御戻りですか」と、人の気配に振り返った梅が笑う。
「今戻りました。ほう見事な魚ですね。それに、とても奇麗だ。これがあの甘露煮の魚ですか」
「はい、やまめですよ。山の女の魚って書くらしいですよ」
「山の女ですか。そう云われてみれば梅さんのように奇麗ですね」              
「上手言ったって、なーんにも出ませんからね」と、梅が目をきつくして見せ、お道化て返す。
「ははははは」「ふふふ」
「今日はこれを塩焼きに致しますからね、お酒が美味しいですよ」
「それは有り難い。では楽しみにして、先ずは湯に入って参ります」
 湯に浸りながら思いっきり身体を伸ばす。
「ふうーっ」と思わず大きく息の出、気が安らいでゆく。目には四囲の柔らかな緑、耳には小鳥の囀り、何とゆったりとした時の流れであろうか。
 あの夜以来、自分にこのような時は一度も無かったのではないだろうかと、雄之進はあの時を思い、此処までの旅を振り返るのであった。

 悩み、苦しみ、そして死のうとさえ思い悩んだ。
 父や母の苦悩を見るのは辛かった。一度たりとも真の父母では無いと感じるような亊は無かったし、実の子、小太郎以上に愛情を注いでくれたのではなかったのかとさえ思えるのであった。
 自分さえ死ねば、父や母をこれ以上苦しめる亊は無いのだ、可愛い小太郎を養子に出すことも無いのだ、さすれば全てが解決するのだと……。
 一人刀を抜き、幾度となく腹や首を傷つけては見た。が、死ぬと云う亊への畏怖を越えることはできなかった。
 己を苛み、その弱さに泣いた。
 死ねぬか、ならば去るしか術は無いのだ。
 そう思い至った時、故郷を捨てる決心をしたのであった。
 剣の修行に出たいと云う憧れとその思いは、以前から強くあり、何となく父母にその話しをした事も幾度かあった。そのためもあったのか、父母は格別何かを疑う事もなく、心配から反対はしたが、なんとか説き伏せることが出来たのであった。
 己が心に蟠るものを拭い去る亊は出来なかったが、旅先の見知らぬ風物、出遭いし人々の優しさは、傷ついた心を、思いの外癒してくれたのであった。
 強き使い手の居る稽古場を見つけると、藩が設けた旅の武芸者の為の宿所に幾日も泊まらせてもらい通ったり、時には稽古場に逗留させてもらったりし、教えを請うた。
 剣に打ち込む時、それは何もかもを忘れさせてくれた。
 やがて月日の流れは心の傷を柔らかく包み込み、消え去る亊は無いのではあろうが、その痛みを胸の片隅へと追いやってくれた。 
 だが、故郷の父母は、小太郎は、元気にやっているのであろうかと、今でも思い出さぬ日は無い。そして、真実も告げず故郷を捨てた事を赦してくれと云う思いは、心の静まりを感じることが出来るようになった今の方が、あの時よりも遥に強く感じられるのであった。
 己の我儘では無かったのか。事情は分からぬが、十六の時まで育てあげてくれた恩を思うと、優しい思い出しか浮かばぬだけに心は痛んだ。だが、あれはあれで良かったのだ、今は、そう思えるようにもなって来てはいた。
 行く宛とて無い放浪の旅ではあったが、馴れてくれば、それも又気楽なものである。       
 違いなく、死に場所を求めての旅ではあろう。が、寒風吹き荒ぶ夜の祠に、暖を取る火とて無く、凍えた身体を丸めて寝ようとも、夏の川原で身体を拭いて風呂代わり、薮蚊に食われながら星空を眺めて寝ようとも、大して苦には感じなかった。幸い、まだ病らしき病に見舞われた亊も無く、無事今日までの旅を続ける亊が出来たのであった。
 故郷を出る時、父母はニ十両もの大金を持たせてくれた。それ程の金が家にあろう筈は無く、恐らく、親戚中を頼って工面してくれたのであろう。
 その時の小判を一両、今でも雄之進は懐の守り袋に抱いている。この一両は決して使うまいと心に誓っていた。それは、父母と小太郎と自分を繋ぐ唯一の証のように思え、家族の温かさを思い出させてくれ、正にお守りのように肌身離さず、大事に身に着けているのであった。
 各地の稽古場を門を敲き、教えを請う。そしてまた教えを請われる。時には腕を見込まれ食客として滞在し、代稽古などをする事もあった。大槪の稽古場が、別れの折に餞別を包んでくれ、時には過分と思える程の亊もあった。そんな稽古場の主は、必ずと言っていいほど、武者修行の旅をしており、やはり、その旅の苦労が身に沁み、同じ武者修業の者の身を厭い、心砕いてくれたのであろう。最初の内は遠慮もあったが、やがてそれも薄らぎ、この頃では、有り難く素直に戴く亊にしていた。
 人の真心と思い心から感謝し、無為な浪費は慎んだ。時には金に詰まったりもしたが、大概の稽古場は、雄之進の腕と人柄に、粗末な扱いをされる事は無かった。
 雄之進は、無闇に稽古場を訪ねるような亊はしなかった。武者窓から覗き見たり、見えない時は、耳を澄まして竹刀の打ち合う音を聞いたりし、その技量を判断した上で門を敲くのであった。
 同じ剣の高みを求める者、語らずとも事情や心は通じた。ほとんどの稽古場が、請うがままに手合せをしてくれ、そして、よく請われてその門弟達に稽古をつけもした。
 気が合えば、ついつい長逗留になってしまう亊もしばしばであったし、長い時は半年近くも世話になったりすることもあった。

 寺の並ぶ土塀の路を抜け、先日ちょっと武者窓から覗いた稽古場の脇道を抜けようとして、聞こえてきた竹刀の打ち合わせられる音に、ふと先日とは違う気魄を感じ、立ち止まった。
 武者窓から中を覗くと、主らしき五十絡みの男が正面に座し、二人の男が立ち合いを始めたばかりのところであった。   
 一人はこの稽古場の者らしく、稽古着を身に着け、もう一人は、旅の浪人であるのだろうか、自分と同じように、少し草臥れた着物を纏っていた。
「これは強いぞ」と、雄之進は直感した。
 案の定、一撃で勝負は着いた。
 代わって、師範代なのであろうか、一番上座の男が立つ。        
 が、これも短い間の探り合いの後、束の間の打ち合いで、すぐに打ち据えられてしまった。
 見事な剣の捌き、身の熟しであった。
 立ち合いはそれで終わった。道場主と師範代、そして浪人が奥へ消え、その余韻の中、ザワザワと門弟たちの稽古が始まった。
 雄之進は、久し振りに自分の内に燃え上がくるものを感じた。                
 勝てるか。
 歩きながら、師範代らしき男との立ち合いを振り返る。
 右八相に構えた師範代に対し、浪人は上段に構えた。間の探り合いは短く、浪人がすっと足を送ると相手の間合いに踏み込んだ。それを機と見たか、師範代の八相が袈裟斬りに出た。
 浪人は素早く見切った間合いの中で、上段からその竹刀を追う。八相からの袈裟斬りを押さえ込むように左に力強く弾いた浪人の竹刀は速く、懐へ飛び込むように駆け抜け、師範代の胴を払った。
 動いてから一瞬の出来事であった。
 自分なら八相に構えるか。否、得手の右斜下段で、あの速い上段からの斬り下ろしを捌けるか。無理だとすればどうする。自分も上段に構え、相手の動くのを待つか。あの剣の速さを追えるか。それは出来まい。ならば先に出るか、崩せるか。間合いを見切ってからの相手の動きは鋭く速い。
 あれこれと夢中になって考えている内に、宿の前まで来てしまっていた。
 湯に浸りながらも、まだ雄之進は浪人の剣に思いを巡らしていた。

 その夜、またあの夢を見た。
 あの優しく哀しい目の光の奥に潜むものが、何かを自分に訴えているような気がして来たのは、旅に出て三年もした頃であったろうか。それは多分、自分の中に、夢の中の男が漂わせるものと同じような哀しみが生まれたからではないのだろうかとの思いに行き着くのであった。
 旅の途中、その鬱々とした心を背負い生きてゆく亊に少し疲れてきた頃があった。その頃は頻繁にあの夢を見、何をするのも虚しく感じ、ただ背を丸め、それに耐えようとする日々を過ごしながら、再び擡げて来た死への願望が支配してゆく心を持て余し、死に切れぬ己を苛み続けていたのであった。
 己は一体何処へ逝くのだ、逝こうとしているのだ。
 幾度己に問い返してみようとも、死ぬ亊の出来ぬその身には、為す術とても無く、縋るかのようにあの優しく柔らかなる故郷を想い流離えぞ、今はもう帰る事は叶わぬと云う思いに行き着き、独り寂寥の内に苦悩するのであった。
 宛ても無き暗き道を亡霊のようにさ迷い歩く。疲れ果て、どっぷりと水を含んだ布のように眠りに就く時、またあの夢を見る。
 時の流れの齎すものなのであろうか、いつしかあの男の目差しが、己を癒してくれているようにさえ感じられ、その夢を見る事で、穏やかな眠りの中に誘ってくれるようにもなってゆくのであった。
 欝屈した時期は、それからも幾度かありはした。が、その度にあの夢に、いやあの男の目に救われたのではなかったか。
 何故だ、何故あの血だらけの男のあの優しく哀しい目の光は、自分を落ち着かせてくれるのだ。
 悶え苦しむかのように空を掴まんとする時、あの男の血だらけの姿が、その血よりも、もっともっと赤い紅蓮の炎となって己が身を焼き尽くしてくれればいいと、死ぬ事の出来ぬ自分を呪うように強く思い詰める雄之進であった。
 今夜もあの男の目は、優しく哀しい、いつものあの目であった。そしてその目は、雄之進に何かを訴えていように感じられた。
 それは恐らく初めて感じたこと、男はいったい何を雄之進に伝えたいのであろうか、そしてそれは、自身が気付けなかっただけで、もしかしたら、ずっと以前からそうであったのではないのだろうか。

 朝餉の時、給仕をしながら梅が、
「今日は好い日和になりそうですね。お城へ向かい、三つ目の橋の先に流れ込む沢を遡るように岸辺の小径を一刻程登って行くと、小高い山の頂に辿り着きます。そこからの眺めは天下無双ですよ、是非一度登って見られては」と勧めてくれた。
 少し鈍った身体でも解すかと、雄之進は梅に教えられた小径を辿った。          
 やがて流れから逸れ、急激に高さを増してゆく九十九折の道を一気に登り詰めて行くと、少し広く平らかになった山の頂に出た。
「おおーっ」
 思わず感嘆の声を挙げてしまいそうな程、その小さな頂からの眺望は素晴らしいものであった。
 眼下に広がる箱庭のような城下の向こう、頂近く白い残雪を抱いた峰々が蒼く澄んだ空に聳え立ち、圧倒的な迫力で迫る。
 噴き出してくる汗を拭いながらも、目は釘付けにされたようにその景色から離れてはゆかない。故郷の城下のそれとよく似てはいるが、山々の迫力は遥に優っていた。      
 しばらくその感動に浸っていると、急坂を、互いに励まし合いいながら登ってくる人の声が聞こえ、小者を連れた女人が二人、頂に現れ、
「わあーっ、噂の通りね、正に絶景だわ、お弓、早く早く」と、雄之進と同じように感動の声を挙げている。
 平らかな広場の端にいる雄之進にすぐに気付き、一瞬驚いた女人の一人が、
「あっ、これは、大変失礼を致しました」と、少し照れながら微笑み一礼をした。もう一人の女人も小者も、同じように笑いながら頭を下げている。  
「こちらこそ。こんな所に先客が居るなんぞと、誰も思いは致しませぬ。それにしても素晴らしい景色でございますね、あまりの素晴らしさに、久々に感動致しておりました」
「ありがとうございます。生まれ故郷を褒められ、とても嬉しゅうございます」   
「良い所ですね、この城下は」
「はい、江戸なんかよりずっと……」
「江戸にお住まいでしたか」
「はい、十五の時より三度、参勤交代の度に、父のお勤めに従って参りました。やっと先頃帰って来る事が出来ました」
「それでここに……」
「はい、江戸の屋敷の方々は皆、亊あるごとに故郷を偲び、この山からの景色を見てみたいと申します。私は一度も見た亊が無く、帰れたら是非登って見ようと思っていたのですが、今日は父も母も留守で……」
「それで、これ幸いと抜け出して来た」
「ふふふ、お弓が、今日は絶好のお日和です、今日を逃したら、もう御嫁に行くまで登れませんからなんぞと唆すんですもの」
「ははははは、いけない亊をした甲斐がありましたね」
「ふふふ、お弓の言う通り、お天気も良かったし、気分もとっても……」        
「ははは、面白いお方だ」
「失礼ですが、他国のお方でございますよね」
「はい」
「お国はどちらでございますか」
「西国の山奥にございます」
 西国としか応えぬ雄之進の心を慮ってか、女は、
「遠いですね」と、短く言葉を畳むのであった。
「此処の迫力にはとても及びませぬが、私の故郷も、高い山々に囲まれ、此処とよく似て中々の景色ですよ」            
「帰りたいとは……」
 言いかけて、女人は口を噤んだ。
「すみません」
 賢い女人であるらしい。雄之進の心に一瞬過った翳を、その応えの淀み、目の色から素早く察してしまったようであった。
「いえ、御気に掛けられまするな。拙者、坂本雄之進と申しまする」
 女人も、自分は咲と言うのだと名乗ると、連れのお弓と嘉助の二人も紹介してくれた。
「お昼食はお持ちでございますか。宜しければ是非御一緒に……」
「いや、そんな御気使いは戴かなくとも……」
「折角の御縁ですもの、お願い致します。その方が楽しさも増します、ねっ、お弓」
「はい、お中が空くと思い、沢山拵えて来ましたので、二人や三人は増えても大丈夫ですよ」
 少し年上らしいお弓が、笑いながら応えた。
 父母の留守に拵らえて来たにしてはちょっと豪華な、重箱に詰められた馳走が広げられた。
「ふふふ、慌てて拵えたにしては大した馳走ですね。お弓、いつもながら天晴れですね」
「はい、咲さま、こんな亊くらいは朝飯前です」
「朝餉の後で慌てて拵えたんだもの、昼飯前でしょ」
「ははははは」
 四人一緒に笑い打ち解け、親しさの籠もってきた目で互いを見つめ合う。
 食べながら、
「御修行中なのでございますか」と、咲に訊かれる。
「はい、まだまだ未熟ではございますが」
「武者修業の旅と云うものは、大変なのでございましょう」
「いえ、気楽な身の上、のんびりとやっております」
「気楽?なのでございますか」
「剣の道はこれで終わりと云うものはございませぬ。気長に構え、見知らぬ国を旅する事もまた好しと、気楽に楽しんでおります」
「そうでございますね。此の地は始めてのご様子、稽古場も二つございますが、如何でしたか」
「まだ此の地では、立ち合いはやっておりませぬ」
「何でも、上町の稽古場に、とっても強いお方が客分となられているとお聞きしたのですが、もしや貴方様が」と、何処かで聞き込んだのであろう、お弓が雄之進の目を見た。
 あの浪人の亊だなと、雄之進は思った。
「いえ、それは違います。私は湯沢の湯治宿に厄介になっております故」
「えっ、それは羨ましゅうございます。とても良い湯だと聞いておりますが、女の身なれば、湯に行く亊も儘なりませぬ」と、咲が目を輝かせ応える。 
「帰りの道はお気を付け下ださい。山道は下りの方が危のうございます故」と、雄之進が進言すると、             
「ありがとうございます。でも大丈夫、少しは鍛えておるつもりでございます故」と、女人は少し自信ありげに応えるのであった。
 が、山の下りは怖い。油断をすると、疲れた膝に力が入らず、俗に膝が嗤うと云う状態になり、踏ん張りが利かずにガクンと膝が折れ、前のめりに転んでしまい、思わぬ怪我をしたりするのである。
 雄之進は、それに気を付けるよう重ねて言い、馳走になった礼を述べた。
「はい、ありがとうございます。折角の独り占めの絶景に突然無粋に現れ、慌ただしくお騒がせ致し申し訳ございませんでした。父母の戻らぬ内に還らねばなりませぬ故、御先に失礼致しますが、これも何かの御縁、お困りの亊など生じましたら、寺町外れの林如雲の家をお訪ね下ださい」
「気を付けてお行き下ださい。私はもうしばらくこの雄大な景色の中に身を置きとうございます故」
 三人が去ると、頂の広場にちょっとした寂しさが漂った。でも何だかほんのりとした温かさが、その狭い平らかな空間に残っているような気もし、三人に出遭えた偶然に感謝する雄之進であった。
 仰向けに寝そべりながら見る蒼穹の、峰を越し渡り来る風に、生まれては消え、消えては生まれゆく雲の姿に魅せられ、思わぬ時を過ごしてしまった。
 下りの山道を急ぐ。
 鳥の声が少し五月蠅い。足元に纒わり付くのは鷦鷯か。小さいくせに気ばかり強く、巣に近づこうものなら、食いついて来そうな勢いで喚きながら威嚇して来る。恐らく近くに巣があり、それを守らんとしているのであろう、少し微笑ましくも感じられた。
 小鳥なんぞに思いをやるのも随分久しぶりだな、なんぞと思いながら、小径を少し急ぐ。
 城下に戻る頃には、もう陽は西の山に入り、菫色の夕闇が辺りを包みこんでしまっていた。宿の表に明かりが灯され、梅らしき人の影が、うろうろと人待ちげに動いていた。
「今戻りました」
「ああ良かった、心配致しましたよ、あの山で何かあったのではないかと、皆で……」
「済みませぬ。あまりに良い所で、景色に見とれ、ついつい遅くなってしまいました。申し訳無い」
「良かったでしょう、今日はお天気にも恵まれましたから、素晴らしい景色が見られましたでしょう。あそこの景色は天下無双、この城下の自慢です。でも運が良いのですよ、春から夏のこの季節に、空気の澄んだこんな上天気の日は、そう何日とは無いんですから」
「そうですか、良い処を教えて戴き、本当にありがとうございました」
「お疲れになられたでしょ、湯にお入りになられている間に御膳を整えておきますから」
「ありがとう、お蔭で今夜も美味い酒が飲めますね」
 湯に浸りながら目を瞑り、あの雄大な景色を瞼の裏に思い浮かべる。身体中に、故知れぬ力のようなものが湧いて来るような気がする雄之進であった。

 その日は、朝から冷たい春の小雨が降り続いていた。
 部屋から外を眺め無聊を託っていると、梅が御茶を持って来てくれた。
「今日は、何処へも行けませんね」
「そうですね、いつ頃上がりますかねぇ、この雨は」
「御城の向こうの、あの高い山の雲が切れると止む亊が多いのですが、何もすることがない時は、湯にでもお入りになられるのが一番ですよ、如何ですか」
「そうしますか」
「さっき、御侍様が二人下りてゆかれましたので、お一人の方が宜しければ、もう少ししてからの方が良いと思いますよ」
「ありがとう。もう直お昼ですよね、その後にしましょうか」
「それから、御逗留が長くなるようでしたら、宿代の方は、それなりにお安く致しますって。主がそうお伝えするようにと」
「それは有り難い、宜しくお願いします。何だか、すっかりこの城下が気に入ってしまいました」
「はい、ではそのように伝えます。直ぐお昼をお持ち致しますね」
 もう十日近くこの宿の世話になっているが、昼飯を戴くのは初めてであった。       
 昼飯の後、湯へ入ろうと喈下に降りて廊下を行くと、入れ替わりに、梅の言っていた侍らしき二人が向こうから歩いて来た。
 軽く会釈をし擦れ違おうとして、一人の男と目が合った。            
「あっ!」
 雄之進の口から、思わず驚きの声が洩れた。
「何か?」
 相手が、一瞬訝しむような表情を見せた。
「お人違いのようで、申し訳ございませぬ」
 あの目ではないのか。
 あの夢の中の男の目ではないのか。
 あの優しく哀しい目ではないのか。
 まさか、自分の夢の中の男の目に似ているがなんぞと、不躾に問う訳にもゆくまい。
 顔は……。
 顔は、分らない。
 そう云われてみれば、夢の中の男の確とした顔の記憶が無い。
 湯に浸っても、ずっと夢の中の男の顔を追い求めていた。
 何百篇、いや、もっとか。夢の中であの男に会ったのは。なのに、顔は分からない。血だらけである亊と、あの目以外は、どうしても思い出せないのであった。
 夕餉の時になっても、まだ雄之進は擦れ違った男の目と、あの夢の中の男の目を、汒とした記憶の中で重ね合わせ続けていた。
「どうかなされたのですか」と、梅が訝しむ。
「ああ……」と、気の抜けたように応える雄之進に、
「あの御侍様逹のことですか。あのお二人は、上町の稽古場のお方ですよと、梅が気遣いながら教えてくれる。       
「上町の……、ですか」
 あの時、お弓の言っていた稽古場の事か。
「はい、一人の方は、お客様だとか仰しゃっていましたよ」
「ああそうか、あの浪人だ」
 先日、武者窓から覗いた時に見たあの浪人であろう。そして、お弓の言っていた剣客でもあるのだろうと、雄之進は思い当たった。
「町での噂では、かなりのお腕前だそうですよ」
「そのようですね」
「御存じなのですか」
「はい、一度稽古場を武者窓から覗いた時に拝見致しました」
 あの時は、自分と同じような長旅に草臥れた着物であったが、その着物が新しくなり、あの浪人だとは気づかなかったのだ。
 あの目……。         
 雄之進は、自分の頭の中で益々絡み合ってゆく糸に、まるで、薄い蚕の繭の中に居るかのような錯覚を覚えていた。

 春の雨上がり、洗われたような城下は輝く新緑に映え、一段とその好き風情を醸し出し、散策には打って付けの日和であった。
 だが雄之進の心は、昨日の浪人の目が気に掛り、散策とは名ばかり、ただブラブラと歩いているだけと云う有様であった。
 高き峰々の麓から這い上るかのように進みゆく、雨上がりの美しき緑の絨毯に目をやることも無く、雄之進は城下を彷徨う。
「あら、雄之進様では」
「もし、雄之進様」
 二度の女人の呼び掛けにも気付かない。
 見兼ねた小者の嘉助が、雄之進に小走りで近付き声を掛けた。
「あっ、先日の」と応え振り返ると、咲が微笑んでいる。
「これは咲殿」
「歩きながら、何をお考えなのですか。ふふふ」
 もう一つの稽古場の前であった。咲は、どうやらその稽古場から出てきたところらしかった。
「此処が咲殿のお屋敷ですか」
「いえ父の使いです。稽古場に何か御用でもおありですか、お立ち合いを御所望なのでしたら、僭越とは存じ上げますが、懇意にしておりますので御紹介致しましょうか」 
 咲が、ちょっと惡戯っぽく笑って言った。
「いえ、考え亊をしていましたら、偶然」
「そのようでございますね。うら若き女人の声にもお気付きになられないのですもの。ふふふ」と、また咲が悪戯っぽく微笑みながら言う。
「失礼を致しました」と、雄之進も笑みを浮かべて応える。
「何か御心配な亊でもお有りなのですか」
「夢の中の男が……」
「夢の中の男……、でございますか?」と咲が訝る。
「ははははは」
 咲に話しても唐突なだけであろう、雄之進、照れ笑いで誤魔化す。
「これから家へ戻ります、是非御立ち寄りくださいませ。丁度中食時、お召し上がりになられ、お寛ぎ下さいませ」
「それは……」
「御遠慮なさらず、父も母も楽しみにしております故」               
「御父上と御母上が、ですか」
「あの後、雄之進様の御忠告の通り、山を下り切らぬ内に膝が少しガクガクし、気ばかり焦って、もう帰り着く頃は足を前に出すのもやっと。ふふふ、一歩後れをとり、事が露見し、叱られてしまいました」
 咲が、悪びれるでもなく、悪戯っぽく微笑む。
「ははは、悪い亊はすぐにそうなりまする」
「あの折のことを話しましたら、父が是非お会いしたいと。今度お会いしたら、首に縄を掛けてでもお連れしろと言いつけられております故、ご遠慮なく」       
「……」
 雄之進が迷っていると、
「さっ、すぐ近くですので、参りましょう」
 咲は、雄之進の迷いを吹っ切らせるかのようにさっさと歩き出してしまった。
 
 いくらも行かぬ所の、生け垣に囲まれた隠居家のような、戸も無い小さな屋敷の門を潜ると、「只今戻りました」と、咲が中へ向かって声を掛けた。
 奥の方から、お弓であろうか、「はーい」という返事が聞こえ、
「おう、遅かったな、有坂に会えたか」と、庭の方からも男の声がした。
 咲は玄関を上がらず、そのまま庭へ回り込んでゆく。
「いえ、今日は御城だそうでございます。千恵様にお渡し致し、言伝てお願い致して参りました。父上、坂本様をお連れ致しましたよ」
 初老の男が片手に木刀を下げ、額に汗を薄っすらと滲ませ立っていた。襷をしているところを見ると、独り稽古をしていたらしい。
「坂本雄之進と申します、突然の失礼、どうかお赦しを」
「林如雲、宜しく。我が家に於かれては、あまり気を使わんで下だされ。それよりどうじゃな、お近づきの挨拶、一手付き合うては戴けませぬか」
 嬉しそうに雄之進に笑いかけながら、片手の木刀を軽く振る。
「わあ、嬉しい。雄之進様、ちょっとお待ち下さい」と言いながら奥へ消え、戻って来た咲の手に、襷と木刀が三本あった。
「どれが宜しいですか」
 断れない雰囲気になってしまっていた。
 咲は剣の心得もそれなりにあるらしく、前に出された木刀は、それぞれに微妙な違いがあった。
 雄之進は、三本の木刀を軽く振り、感触を確かめ、頃合いの一本を選ぶと、
「宜しくお願い致します」と、如雲に一礼をした。
 静かな探り合いから始まったが、すぐに動きは止まった。
 如雲は晴眼、雄之進は得意の片手右斜下段に構え、二人はピクとも動かない。   
 いつの間にか、咲の母も、縁側から二人の立ち合いを見つめていた。
 雄之進は動けない、動けば必ずや撃たれる。そう感じていた。
 これは遥かに及ばぬ。
 山間の小さな城下に、こんな凄い剣客がいたのか。
「参りました」
 雄之進は木刀を下し、構えを解くと一礼した。
「お強いの、坂本殿」
「いえ、私なんぞの及ぶところではございませぬ」
「いや、お強い。ひょっとしたら有坂より強いかも知れぬな」
「えっ、有坂様よりも、ですか」
「ああ、強い」
「……」
 咲が声を失っている。
「何処で修行なされました」
「故郷で念流を少し。旅に出てからは、あちこちの稽古場にて数多の教えを戴き、それを自分の工夫で取り入れ、稽古を重ねて参りました」
「見事なものじゃな、独り修行で此処までとは……」
「いえ、決して一人ではございませぬ、御教え戴いた方々のお陰でございます」
「さっ、お昼に致しましょう」
 頃合いと見たのだろう、咲の母が声を挟んだ。

「驚かれましたかな、我が家ではいつもこうです。武士の慣習だの格式だのと云うものは、家族の中では要らぬもの。決して礼を失してはならぬが、そんなものは知ってさえいればいい。気心の知れた者同士、仲良う楽しく、今、共に生きている時を大事にする亊の方が大切なのだと、儂はそう思うておる」   
 家族並んで、それも上座は明けて、四人向かい合うように座っての膳である。     
「酒は嗜まれますのかな」
「はい、そんなには戴けませぬが」
「それは嬉しい、今日はゆっくりとしてゆきなされ、今宵は共に酌み交わしましょうぞ」
「是非そうして下さいませ」
 咲も、咲の母も勧めてくれる。
「いえ、宿の方もございますれば」
「おっ、そうか。よしっ、咲、嘉助を湯沢の宿へ使いにやりなさい。坂本殿は、今日は戻らぬとな」
「はい、畏まりました」
 咲が嬉しそうに微笑んで立ち上がる。
「……」
「また驚かれましたか。父はいつでもこうなのですよ、ちょっとせっかち。立ち合いとはまるで違うでしょ」
 先が少し悪戯っぽい笑顔で如雲を見ながらそう言うと、
「何を言うか、儂はいつでも泰然自若じゃ」と、如雲も相好を崩しながら、それに応じた。
「嘘。そのうちお分りになられますよ」と、咲が追い打つ。
「それより、嘉助を早くやらんか」
「ほらね、せっかち」
 咲と母の律が、微笑み合いながら下がって行く。
「故郷へは戻れぬのですか」
 戻れぬのかと訊いてきた如雲に、
「お分かりになられますか」と、雄之進は、戸惑うことも無く素直に応じた。
「儂もゆく宛てとて無い長い修行の旅をした。帰るべき山河さえ無く此処まで辿り着き、運良くこの藩の指南役になる事が出来た。殿から稽古場も戴いて、今は隠居の身じゃ」
「そうでございましたか。今頃、家は弟が跡を継いでおりましょう、私が戻れば、皆の気は落ち着きませぬ」
「そうか、儂は嫡男では無かったからのう、継ぐ家も無かった」
「……」
「ゆっくりしておゆきなされ、何もそんなに急ぐ亊はあるまい、一度だけの人生じゃ、一期一会であろうとも、人との出遭いを大切になされよ」
「はい、心して……」
 咲が戻って来た。
「嘉助は出たか」
「いえ、これからにございますが」
「坂本殿は、今日から我が家に御逗留なされる。宿の方は引き上げて、荷物も頂いて来るように、嘉助にそう伝えなさい」
「それは……。宿代の亊もございますし、長逗留で世話になったお礼も申しあげねばなりませぬ……」
「明日一度お戻りになられてからで宜しいのではございませぬか。坂本様も、宿の方も、それではお困りでございましょう」
「そんなものか」
「そんなものでございます。全く父上と来たら、せっかちなのですから」            
「せっかちでは無い。好き御方に巡り遭えたという己の直感、そしてその縁を大切にしたいのだ。人はな、そうそう好き出遭いに恵まれるとは限らぬ、今この時を逸っしては、生涯の悔を残さんかとも思うてな」
「それをせっかちと云うんです」
「咲、だんだん律に似て来たのではないのか、お前この頃少し五月蠅くなってきたぞ」   
「お飲みになられる前から、もう酔っておしまいになられたのですか、父上」
「ははは、今宵が楽しみじゃ」
 何を訊かれるでも無く、何を問うでも無い、酒を酌み交わし合い、互いの武者修行の旅の苦労話や面白話を語り合いながらの、心底楽しい宴であった。
 十余年の修行の旅で、幾度とは無い、胸襟を開き語り合った夜であった。

「御世話になりました。短い間でしたが、旅の疲れも、心も、すっかり癒す亊が出来たように思います。ありがとうございました」
 翌日、雄之進は宿に戻ると、経緯を告げ、長逗留の礼を言うのであった。
「林様の処なら間違いはございません、とても良いお方です。旅発つ時は、是非最後に、もう一度私どもの湯にお入りになられてからお行き下さいね。それからこれ、今朝源さんが釣って来た山女魚。軽く一塩を振っておきましたので、今夜、皆様でどうぞ」
「うわぁ、これは良い手土産になります。重ね重ねのお心遣い、真にありがとうございます。城下を発つ時は、必ずもう一度参ります。本当に御世話になりました」
 小さい湯治場であったが、家族の匂いのするような良い宿、良い湯であった。

 昨日共に過ごし気心も知れたせいか、その日も楽しい夕餉であった。
 あの日以来忘れていた、いや無くしてしまった家族の温かみが、雄之進を包んでくれた。
 少し酒を過ごしたせいか、翌朝は寝坊をしてしまった。
 明るく照らす陽光に目が覚め起きると、植木の手入れであろうか、鋏を片手に如雲が庭にいた。
「お目覚めですかな。どうです、酔い覚ましに、ひとつ手合せ願えますか」
「はい、喜んで」
「今日は竹刀でやりますか、遠慮は要りませぬ、思い切って撃ち込んで来なされ」     
「はい」と応えたものの、いざ向かい合うと、やはり中々隙は見出せなかった。
「待ちの剣ですか。殺気の感じられない、静かな良い剣ですね。だが、これが試合であれば、如何なされます。何所かで打開しなければならぬ時もありましょう、どうなされます」
「……」
「では、こちらから行きまするぞ」
 晴眼を八相に移すと、如雲はすぐに動いて、袈裟斬り気味に打ち込んで来た。    
 雄之進は、必死でその一撃を躱す。
 竹刀の風が左頬を走った。機と見て雄之進が踏み込もうとした瞬間、如雲の素早く返した竹刀は、雄之進の逆袈裟を上から押え込んだ。そして後ろへ飛び下がり様に、鋭く、小さく、だが重く、雄之進の小手を撃った。
 手が痺れている。まるで木刀で撃たれたような衝撃であった。
「参りました」
 雄之進の動きを計ったのか、初めの一閃は、明らかに外して来た。
 如雲が静かな笑みを浮かべている。
 何かが違う。自分の修めて来た剣とは、何かが違うのであった。

 翌朝もまた、如雲は庭にいた。
「またお願い出来ますかな」
「はい」
 今日もまた晴眼である。
 昨日雄之進は、あの後、一日中朝の立ち合いを振り返っていた。
 あの晴眼を崩すには何を以って攻めれば良いのか。同じく晴眼か、それとも八相か。得意の右斜下段では敵わぬのか。
 今日は撃って出て見よう。
 雄之進が動いた。
 右斜下段から振り上げ様に竹刀を引くと、喉元を狙って突きに出る。勿論それが決まるなんぞとは思ってもいない。要は、如雲がどう出てくるかを見たいのだ。
 彈かれると思っていた雄之進は、如雲の動きを予測だに出来なかった。
 晴眼に構えた如雲は、逆袈裟に来た雄之進の竹刀を、ゆらりと風のように躱すと、次に来る突きを、切っ先で擦るようにし筋を変え、自分の右肩上へ逸すと、そのまま逆に雄之進の喉元にその切っ先をピタリと止めた。
「うっ、参りました」
 この人には、誘いや目眩ましなどと云うものは通じない。なれば何を以って当たれば良いのか。またひとつ深く、迷いの深淵に落ち込んでゆく雄之進であった。
 次の朝も、そして次の朝も、またその次の朝も、二人の立ち合いは続いた。

 ひと月もした頃の夜、飲みながら、
「雲は斬れませぬか」と、唐突に如雲が雄之進に訊いた。
「はっ?」
「雲を斬る亊は適いませぬか」
 雄之進は、しばし応えに窮した。
 雲とは如雲の事なのか、それとも雲そのものなのか……。
「雲の如し。この意味がお解りになりますか」
「……」
「人は剣を以って雲を斬ろうとしても、それは適いますまい。草に臥して雲をご覧なされ。風によって生まれた雲は、風によって千切られ消され、また生まれてゆきます。己が剣もそうある亊が出来れば、雲を斬れるのではありますまいか。また、斬らずに斬れるのではございませんか」
「斬らずに斬れる……」
 雄之進は、あの山の頂で寝転んで見た、風のままに湧いては消え、消えては湧く雲の様を思い出していた。
 この人は、己の持つ強き剣を以って剣を教えようとはしない。何も言わず、一日一度、こうして竹刀を合わせる亊で心を通わせようと、嬉しそうに微笑みながら庭に立つ。己が姿を有りの儘に曝す亊で、何かを伝えてくれようとしているのだ。
 果たして、自分にそれを会得出来るだけの何かがあるのだろうか。
 また明日庭に立つ。その時自分は、昨日よりも幾らかでもこの人に近づくことが出来ているのであろうか。
 そしてまた、幾度か庭に立った。
 そんなある朝。
 今日もまた如雲は晴眼を崩さない。
 そして雄之進も右斜下段を崩さない。
 一度も動くことなく対峙したまま、静かな時が漂うように流れ、二人はどちらからともなく竹刀を収めた。
 雄之進は深々と頭を垂れた。
 如雲の顔に、微かな笑みが浮かんだ。
 季節はいつしか、初夏から秋の気配が濃くなりゆく頃へと移り変わろうとしていた。

「今朝の味噌汁は美味いのう」
「はいっ」
 咲が二人の何かを敏感に察し、嬉しそうに応えた。
 朝餉の後、如雲が雄之進に尋ねた。
「坂本殿、十日程すると、殿の参勤交代に合わせ行われる恒例の御前試合がござる。儂にも前指南役として、一人だけ推挙出来る亊になっていますが、どうでしょうか」
「いえ、とても私なんぞ」
「今年は、とてつもなく強い者が出ます」
「上町の稽古場のお方ですね」と咲が言った。
「そうじゃ。凄い剣客らしい」
「私も一度見たことがございます。見事な剣の捌き、身の熟し……」
「そうですか。如何ですかな、御望みとあらば、その剣客と立ち合えるようお計らい致しましょう」
「宜しくお願い致します」
 あの武者窓から覗いた時、自分の中には、どうしても立ち合いたいと云う、内から込み上げて来るようなものが無かった。それは、故郷に似たこの城下が、自分の餓えたような郷愁を満たしてくれ、今はその穏やかさの中に包まれていたいと云う願望の強く、剣への執着が薄れていたのかも知れなかった。
 だが今は違った。如雲との毎朝の立ち合いは、雄之進の中の剣への執着を、より強いものに昇崋させていた。
 そしてあの男は、あの夢の中の優しく哀しい目の光を持つ男なのかも知れないのだ。
 雄之進は、避けて通る亊の出来ぬ何かを強く感じるのであった。

         峰を逝く雲 夢の中の男(壱)   
                        弐へ続く
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