第5話

文字数 1,773文字

 城島(きじま)は大いに悩んでいた。
 妹が三年ほど前から『クルム心眼教』という新興宗教にのめり込み、先月から家に帰ってこないという事態になっていたからだ。
 母親の話によると、妹はこれまで三百万円もの大金をお布施として教団に納めているらしい。警察に相談したが宗教の自由を盾に、まともに取りあってくれず、追い返される始末。弁護士にも相談してみたのだが、本人の意思が明確である以上、退会させるのは難しいという話だった。
 困ったあげく、城島は九龍(クーロン)研究所を訪れていた。友人の松丘から、以前マーガッレット天海のトリックを見破ってもらった件を聞かされていて、思い切って打ち明けてみると、困っているなら相談してはと紹介してくれたのだ。

 地図を頼りに目的地に着くと、七階建てビルに入り屋上を目指す。この蒸し暑さのなか、運悪くエレベーターが使用できないようで、ひたすら階段を昇る羽目になった。
 体力には多少自信のある城島だったが、それでも玉のような汗が止まらない。
 屋上の扉を開けると、目の前にあるのは今にもつぶれそうなプレハブ小屋。他にそれらしいものは無く、ここで本当に大丈夫なのだろうかと不安がよぎる。松丘はその人物を指して、変わり者だが信用できると言っていた。が、城島はどうしても、湧き出る危惧を縫いきれない。

 引き戸を開けて中に入ると、そこに人の気配は無く、表以上に蒸し暑い。話には聞いていたが、本当にエアコンも扇風機も無かった。残暑の残る九月にこの仕打ちは厳し過ぎると、汗でぐっしょり濡れたハンカチで額を拭く。階段を昇り切ったあとなので余計に疲弊し、喉もカラカラだった。できれば冷たいコーラが欲しいところだ。
 入り口で立ちすくんでいると、
「邪魔なんだけど」
 突然女の声が聞こえた。振り向くと黒頭巾の少女が藪にらみの目で佇んでいる。この少女が噂の九龍奈々子なのだろう。聞いてはいたが、やはり幼子にしか見えなかった。
「あの、昨日電話した城島ですけど」思わず声が裏返った。
「だから、邪魔なんだって!」声に押された城島は、たじろいで黒装束の娘を通す。彼女はソファーを指さして座るよう促すと、奥の冷蔵庫から水差しに入った茶色い液体をガラスのコップに入れた。
「麦茶よ」九龍奈々子と思われる少女はすまし顔で言った。
 有難い。案外、気が利くじゃないか。松丘は彼女の事をサドだと言っていたが、きっと誤解しているのだろう。もしくは目の前の少女は九龍奈々子ではなく、別の娘なのかもしれない。
 早速口に運ぶ――思わず吹き出しそうになった。麦茶は常温で生ぬるい……いやむしろ熱湯に近かった。冷蔵庫が壊れているのだろうかと目を向ける。もしかするとスイッチを切っていて、サウナ効果で温度が上昇しているのかもしれない。
 少女を見ると鼻を鳴らし、ニコニコしながら楽しそうな目で頭を振っていた。
「初めまして、私が九龍奈々子よ。今日はどういった要件なのかしら?」
 奈々子はつんと澄ました顔で麦茶を飲んだ。よく見れば彼女のコップにだけ氷が浮いている。
 あるならこっちにも入れればいいのに。松丘の言う通り、やっぱり九龍奈々子はサドだった。
 しかし、今さら帰るわけにもいかず、城島は頭を傾げながら妹の件を事細かく説明した。
「実は妹の件でご相談したいのですが……」
 話を聞いている間、奈々子は城島を弄ぶかのように、麦茶をお代わりした。もちろん氷入りだ。
 気を取り直し、城島は事の顛末を語る。
「……という訳でして、その教祖というのが預言者らしいんですよ。妹の話では、これまで起きてきた天災を次々と予言して来たらしいんです。詳しいことはよく判らないですけれど、専門家が分析してもトリックの痕跡はなかったというのです。どう思いますか?」
 すると奈々子はテーブルをバンと叩くと、身を乗り出して城島を睨みつける。
「私に解けないトリックは無い!」力強くそう言い切った。
 気迫に押されて声の出ない城島は思わず息を呑んだ。
「……引き受けてもらえますか」
「動かないで!」奈々子はいきなり立ち上がり、唖然としている城島に向かって、左頬を思い切り平手打ちした。しかも続けて七発。
 目を丸くした城島は、腫れあがった頬を押さえる。華奢な見た目と違い、腕力が相当強い。
 訂正しよう。九龍奈々子はサドではない。
 ドSだ。
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み