四ノ二

文字数 5,876文字

 午後になると、史生さんがやってきた。しず姉様と一緒に玄関で出迎えると、少し驚いたように目を丸くして、すぐに相好を崩した。
「やぁ、董子さん。久しぶり。どないですか、身体の具合は」
「……あまり変わりおません」
「そう、ですか」
 困ったように眉を下げる表情は優しい。しず姉様は史生さんに目配せして、居間に通した。お茶を煎れに立ったしず姉様を待つ間、史生さんは強ばった笑みを浮かべながら、ほんまに久しぶりや、松尾は緑が多くて董子さんにはよさそうやとか、どうでもいいことを一人で喋っていた。
 史生さんはわたしが家にいたことにがっかりしているだろうに、にこにこと喋ってくれて人が好いのだなと感心した。書生として亀島家に世話になっているから、自然に気遣いが身についたのだろうか。
 わたしは他愛のないおしゃべりに頷きながら、史生さんを不躾に眺めた。美男子というほどではないが、さっぱりとした面立ちで清潔感があった。線が細く、色が白くて物腰も柔らかで、男臭さはみじんも感じない。何か男とは別の生き物のような気さえした。
「史生さんの手ぇは、ほっそりして白うて、綺麗やなぁ……」
 思わずそう漏らすと、史生さんは意外そうに目を丸くする。さっと頬に朱が走った。
「頼りない、男の手やないって、母によう言われました」
「そないなことない。綺麗やけど、うちよかずうっと大きぃて……」
 自分の小さく青白い手を怨めしく見つめたあと、史生さんに再び視線を向けた。彼の顔を、喉元を、ほんのりと薄桃に染まる耳朶を、瞬きもせず凝視した。
 十も二十も上のおじさんよりはまし。しず姉様の言葉が脳裏に蘇る。
 しず姉様の言うことは、いつも正しい。
 史生さんはただ、困惑顔のまま畳の縁を見ていた。妾腹で本家からは邪魔者扱いされているとはいえ、わたしも亀島の娘だ。邪険にはできないのだろう。それとも、しず姉様に可愛がられているわたしに嫌われてはなるまいと耐えているのかもしれない。
 ちりり、と胸の中で何かが小さく爆ぜる。微かに高揚するこの気持ちはなんだろう。恋、なのだろうか。この不穏に燻る思いが?
 違う。きっと違う。しず姉様ならば、知っているだろうか。この気持ちを。
 そんなことを考えていると、襖が開いた。おぼんを持ったしず姉様は少し驚いたようにわたしたちを見て、ふふ、と笑う。
「えらい仲よしやん。お邪魔やった?」
 しず姉様が戻ってくると史生さんは少しほっとしたように表情を緩めた。
「お嬢さん、知恩院の市で見つけたんやけど、まだ読んではらへんかったら思て」
 風呂敷包みから出てきた数冊の古書に、しず姉様はさっと視線を走らせ、中から二冊を手に取った。わたしにはよくわからないけれど、他の本は読んだことがあるのだろう。
「おおきに」
 にっこりと笑うしず姉様の表情は、どこか上の空だ。それでも史生さんの頬にはさっと朱が差した。わたしと対峙していたときとは明らかに違う顔だ。気弱そうな顔は変わらないのに、何故だかその目の輝きは増して、じわりと熱が伝わってくる。
 さきほどは清廉として見えたのに、今の史生さんは急に腥く思えた。なんとなく薄気味悪くて、救いを求めるようにしず姉様に目配せをした。もう、部屋に帰っていいかと。
 だけどしず姉様は笑みを絶やさないまま菓子鉢から蕎麦ぼうろを摘まみ、のんびりとお茶を啜った。一方、史生さんは膝の腕で拳を握ったまま、視線を上げたり下げたり忙しい。
「なぁ、三人で花札でもしょうか」
 しず姉様の誘いに、史生さんは表情を曇らせる。わたしは所在なく、黙ってぼうろを食べた。
「董子さんもできるんですか?」
「うん、うちが教えた」
 しず姉様が屈託なく言うものだから、わたしは立ち上がる機会を失った。史生さんがちゃぶ台をどけて、三人の中央に座布団を置く。わたしは戸棚に仕舞ってあった花札を取り出した。
「なぁなぁ、董子。なんか賭ける?」
「や、お嬢さん方に賭け事なんかさせるわけにいかしません」
 堅苦しいなぁとため息をついて、しず姉様は札を手にする。特に相談するでもなく、しず姉様が親を担ってくれるようだ。
 史生さんは花札で遊ぶことに乗り気ではない。そもそも、わたしがこの場にいることも本当は気に入らない。
 ――うちかて。
 うちかて、史生さんなんか歓迎してへん。しず姉様と二人きりのほうがずっとええ。ここは、うちの家や。お父様が遺してくれはった、うちの。
 なんだか胸がむかむかしてきて、わたしは手札を睨みつける。手札はあまりよくない。
 だけど一枚、特別な札があった。鬼札だ。激しい雨が地面を叩きつけ、稲光が空を裂く。
 おどろおどろしい絵だけれど、とても頼もしく思えた。
 これは、わたしの味方だ。そう思うとすっと心が静かになった。
 史生さんは、しず姉様にいいところを見せようとしてか、少し緊張した面持ちだ。
 しず姉様も手札があまりよくなさそう。合わないカス札を捨て、山から一枚札を取る。悔しそうに場に曝されたのは、桜に幕。三月の光札だ。満開の桜に、紫紺と赤の幕が垂れ下がっている。とても綺麗で華やかな札だ。
 暖かな春に一斉に咲く、豪華絢爛で、だけど儚い花。美しく、特別な花。
 史生さんは息を呑んでわたしの手を見つめていた。
 彼も欲しいのだろう。一等綺麗な桜の花が。
 だけど、次はわたしの番だ。
 これは、わたしのもの――。
 桜に幕の札に鬼を叩きつける。
 パチンッ、と小気味よい音が鳴り響いた。赤と黒の札が、桜を喰らう。
 続いて引いた山札からは桐に鳳が出て、場札と合わせて取ることができた。そこからは巡りがよく、続いて松と薄の光札もわたしの元にきて、四光が揃った。
 わたしは少し手が震えてしまった。こんなツキ、滅多にない。
 しず姉様はまんが悪かったのかカス札ばかりで、史生さんは青短が揃ったきりだった。
「いや、すごいな董子さん。強いわ」
「まぐれです」
 短く言うとわたしは立ち上がり、ちゃぶ台に残っていたお茶を片した。
「ほんな……わたしはこれで」
 その一言に、史生さんがほっと息をついたのを、わたしは聞き逃さなかった。早く二人きりになりたかったのだろう。そのために彼はこの家を訪れたのだ。一目を忍んでしず姉様と逢い引きするために。
 あのときのように、しず姉様に触れるのだ。それを思うと、腹の中に得体の知れない虫が這い回る。一時もこの場にいたくなかった。
 しかし、立ち上がったわたしの手を、しず姉様はきゅっと掴む。
「待って。董子」
 汗ばんだ指先に力が籠もる。少し痛かった。そのまま引っ張られて、わたしはよろけてその場に座り込んだ。しず姉様はそれでもわたしの手を離さない。
「董子。さっき……言うたやろ」
「え……」
「な。うちの言うたこと……わかるやろ」
 さっと血の気が引く。さきほどのしず姉様の声が耳の中で蘇る。
 ――十も二十も上のおじさんにこんなんされるより、史生のほうがなんぼかましやない? 
 史生さんは鳩が豆鉄砲をくらったような間の抜けた顔をして、ことの成り行きを見守っている。
 この人と、契りを結ぶ。いや、契りなんて綺麗なもんやない。
 ただの遊びや。こっそりと母の目を盗んで紅を引いてみたときと同じ。後ろめたさに仄暗い熱が心の裡に燻る。どうせ叱ってくれる親はもういない。笹本さんは――しず姉様と史生さんの関係を知って、黙認している。わたしにはお嫁に行く当てなどないのだから、何を迷うことなどあろうか。
 わたしはしず姉様に向かって、小さく、本当に小さく頷いて見せた。史生さんにはわからないくらい。しず姉様は少し悲しそうに微笑んで、史生さんに向き直った。
「史生、董子と寝て」
「な、な……、何を言うてはるんですかっ」
 史生さんの狼狽ぶりは気の毒なくらいだった。わたしはなんとなくそんな予感がしていたから、驚きはしなかった。
「董子はな、史生が好きなんやて。な、董子」
 違う、とは言えなかった。しず姉様の目には仄暗い炎が灯っていたから。わたしは曖昧に頷き、恥じらう素振りでそのまま膝に置いた自分の手を見つめていた。
「どうせ董子も、いずれは色街に売るように嫁に出される。うちと同じや」
 いつも柔和なしず姉様が、珍しく険のある声を出す。怒りとも悲しみともつかないため息をつき、じっと史生さんを見る。
「けど、董子さんはまだ十四歳やろ。早すぎるんとちゃうか……」
「もうすぐ十五や。女の十五は、男の十五とはちゃう」
 強い口調に史生さんは怯み、居住まいを正す。その視線は畳みの上としず姉様の目を行ったりきたり。しず姉様は痺れを切らしたのか、躙り寄って史生さんの肩を揺する。
「せめて初めてのときくらいは好いた人と……て気持ち、史生かてわかるやろ」
 好いてはいない。だけどしず姉様と同じになれるなら、それもいいかと腹をくくった。確かに、史生さんのほうが『十も二十も年上のおじさんよりはなんぼかまし』だ。
 わたしは三つ指をついて頭を垂れる。しず姉様が梳いてくださった髪がさらさらと流れた。
「よろしゅうお願いします」
「董子さんがそれでええていうんやったら……」
 そう言ったあとも、史生さんは拳を膝の上に置いたまま、微動だにしなかった。酷く動揺しているのだろう、部屋の中は肌寒いくらいなのに額にはびっしりと汗をかいている。
 やっぱり、わたしなんかを抱くのは嫌なのだろう。史生さんはしず姉様を愛していらっしゃるのだ。真剣な表情で逡巡を抑え込もうとしている様は気の毒で――なのにまた、わたしの中では暗く炎が燃ゆる。
 わたしは眉を下げ、沈んだ声で史生さんに告げた。
「あの、やっぱりうちなんかとは……」
「や、嫌とかそんなんやのうて」
 焦って首を振る顔は真っ赤で、鼻先と顎にはうっすらと汗をかいていた。
「史生。女の子に恥かかせるような男、うちは嫌いや」
 痺れを切らしたしず姉様が、いつもより低い声で言う。それに気圧されたように、史生さんは戸惑いながらもわたしに手を伸ばしてきた。細くて長い指がわたしの頬に触れる。少し震えていた。
 衿元を開かれ、わたしの青白い肌が曝される。秋の陽射しは障子ごしでも明るく部屋を照らしている。視界の端にはいつものちゃぶ台、さっき遊んだ花札が見えた。
 紛れもないわたしたちの日常であるのに、この違和感はなんだろう。非現実的で、男の人の前で裸になっているというのに恥ずかしいという気持ちは薄かった。
 史生さんは困ったような顔をして、わたしの貧しい乳房に触れた。どんな顔をしていいのかわからなくて少し微笑んで見せると、彼の苦悶は深まり、乳房をまさぐる手は同じ動きを繰り返す。しず姉様の豊かな膨らみと比べたら、ずいぶんとつまらないだろう。
 それでも史生さんの頬が徐々に紅潮し息が荒くなるのは、憐れな男の性か、それともそばにしず姉様がいるせいか。
 史生さんは座布団を並べてわたしを横たえる。着物の裾はあられもなく乱され、肉のあわいに指が忍び込む。異物の感触に思わず顔を顰めた。
 こないなとこ弄くり回されるやなんて、なんて滑稽なのだろう。男の人はこんなことの何にそれほど興奮するのか。さっぱりわからない。
 気色悪いなぁ。はよ、終わらんかなぁ。
 そんなことを考えながらじっと耐えていると、擦れた声で訊ねられた。
「ほんまに……ほんまに、ええんですか。その……」
「かましません」
 きっぱりと言うと史生さんはしず姉様をちらりと見たあと、わたしに覆い被さってきた。
「――ひっ」
 みし、と肉が音を立てたような錯覚。引き裂かれるかと思った。
 世の中の大人の女はみな、こんな酷い目に遭っているのか。
 お母様も、笹本さんも、しず姉様も――?
 わたしの引き攣った声に怯んだのか、史生さんが身を引こうとする。慌てて彼の手を掴む。
「あきまへん……史生さん」
 せっかくここまで耐えたのだ。途中でやめられては甲斐がない。
 史生さんの目は昂揚と躊躇いに揺れる。
 ここまできて引くのは優しさなどでない。ただ意気地がないだけだ。人を傷つけ奪うことに怯えているのだ。そう思うとなんだか腹が立ってきて、ぜったいに離すまいと史生さんの腕に爪を立てる。
 そのわたしの昏い熱に寄り添うように、そろ、と指先に柔らかいものが触れた。
「董子、辛抱し。うちが手ぇ繋いでるさかい」
「しず姉様……」
「怖いことあらへん。史生、あんじょうしたってや。なるたけ痛うないように、な」
 史生さんはわたしの髪をそうっと撫でてくれたけれど、その目が捉えているのはしず姉様だった。破瓜に耐えるわたしを慈しむように見つめている慈母のようなしず姉様を。
 白い肌は紅潮し、目は潤んで光を湛えて、きゅっと結んだ唇は赤い果実のよう――いつだったか、縁側で食べた柘榴を思い出す。艶やかで瑞々しい。歯を立てたら柘榴のような甘酸っぱい味がするのかと想像すると、おなかの奥がきりきりと痛くなった。
 しず姉様は本当にお綺麗。どこもかしこも柔らかくていい匂いがする。賢くて、優しくて……。
 だけど、お嫁に行ってしまう。好いてもいない、うんと年上の男のものになる。
 あんなに嫌だと言っていたのに。どうしてお嫁になんか行かなくてはいけないのだろう。
「姉様……しず姉様」
 お可哀想に。そう、いつか老婆が言っていた。女の子はみんな可哀想だと。本当に、本当にそうだ。
 感傷に、痛みは薄れ麻痺していく。
 史生さんは規則正しくわたしに杭を打ち続けていた。あまりに規則正しくて、そういう機械になってしまったのではないかと思った。
 わたしはただ、しず姉様のお姿をこの目に留めておきたくて、じっと見つめていた。
 不思議。こんな破廉恥なことをしているのに、しず姉様が手をつないでくださっているだけで、とても神聖な行為のように思えてしまう。しず姉様に近づくための儀式。
 その夢想が気に入って、わたしはしず姉様の手をぎゅっと握り返す。
 ふいに、視界に灰色の花びらが舞う。いや、違う。いつもの羽虫だ。灰色の羽根を震わせ、しず姉様とわたしの間を行ったりきたり。
 ――虫けらが。
 湧き上がる苛立ちに抗えず、わたしは乱暴に腕でそれを払った。
「……董子?」
 心配そうなしず姉様の声。だけどお顔が見えない。蝶の数は夥しく、視界を遮る。わたしはしず姉様の手を握り締めながら、もう方方の手で虫を払う。
 邪魔だ。薄汚い蝶。前に見たときには可愛いなんて思った自分が怨めしい。
 しず姉様をもっと見つめていたいのに、どうして邪魔をするの。
 その灰色の羽根でしず姉様を穢さないで。
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