第八章
文字数 7,397文字
第八章
一方そのころ、製鉄所では。
いつも通り、水穂が布団の上に横になっていた。最近はひどい頭痛が容赦なくやってくることが多く、静かに眠れるのはまれである。時々、吐き気がして布団に座り、せき込んで内容物を出すだけの余裕はあったが、このままだと、それすらできなくなってくるのではないかなと不安な気持ちにもなった。
その時も、目は閉じていたものの、眠るということは、薬品に頼らないと無理であったため、誰かが廊下を歩いてくる音とか、話している声なども聞くことができた。もちろん、頭痛と常に隣り合わせであるので、詳細な内容を聞きとるまではいかなかったが。
なんとなく、玄関先で誰かが話しているのが聞こえてきた。片方は恵子さんで、もう片方は誰だろうと思われる。一生懸命頭痛と闘いながら思い出そうとしていると、なんだか押し問答のような口調になって、玄関ドアはピシャンとしまってしまった。
まあ、強引なセールスマンでもきたのかな、くらいにしか考えていなかったが、小さな子供が鴬張りの廊下をどどどっと走ってきた音がするのには驚いてしまう。あれ、誰だっけと考えていると、いきなり四畳半のふすまが開いて、
「おじさん、こんにちは。」
枕もとに一人の少年が座っていた。そういえば先日、進学先のことで、以前利用者の一人だった、土谷晋太郎が、妻と一緒にやってきたことを思い出す。その時一緒にいた少年に間違いはなかった。
「えーと確か、土谷雅美君だね。ちょっと変な名前とか言って話題になったね。」
そういって、水穂はよいしょと起きて布団に座った。きゃは、と笑い声を立てて、かじりついてくる雅美君は、やっぱり普通の五歳児に比べると、体が小さいなと思われる。
「寒いね。」
布団から出れば、そういう言葉が出る季節になっていた。急いで枕もとにたたんであった羽織を着た。
「寒くないの?」
思わずそう聞いてしまう。雅美君の服装は、子供用のジャージで、一応長袖長ズボンということになっていたが、靴下も履いてないし、やはり寒いのではないだろうか?
「強いから平気だよ。」
そういう答えを出すが、雅美君の顔は鼻水が出ている。
「ちょっと待ってな。」
水穂は、机の上からチリ紙を取って、それで雅美君の鼻を拭いてやった。それを本当に面白そうな顔をして見つめる雅美君。そこが不思議だった。
「どうしたの?鼻水が出たら、拭いてもらわないの?」
思わず聞いてしまうのだが、
「だって、やってくれないもん。僕がいくら寒いといっても、鼻水が出ても、何もしてくれないよ。」
と、答えが出る。あれ?おかしいな、そのくらいの年頃であれば、鼻水が出て、親が顔を拭くのは当たり前のことである。多少ませた子であれば、自分でやりたがることもあるが、大半の子はそれで当然のようなものである。
「じゃあ、寒かったらどうしろという?」
つまり、教えようとしているのかなと思って、そう聞いてみた。
「何にも言わない。」
と、答える雅美君。もし、鼻を拭くことを教えようとするのなら、手本を見せたり、言葉で伝えたりして、何か指導をするはずだろう。
「わかんないから、そのままでいるの。ママはいつも仮面みたいな顔して、ぼーっとしてるの。」
「ぼーっとしてどうしてる?」
「テレビの砂嵐をじっと見つめている。何もしない。」
「砂嵐?アニメもドラマも何もみないの?」
「うん。どっちも傷つくから嫌なんだって。」
理由がよくわからなかったけど、テレビを見ると嫌な気分になるため、コンセントを引っこ抜いて、いわゆる砂嵐の状態にしてしまい、それをぼーっと見つめているのが連想できた。
「じゃあ、困るでしょう。好きなテレビも何も見れなくて。」
「うん。だからパパが仕事から戻ってくると、直してくれるの。その時だけ一緒に下町ロケットが見れるんだ。それが終わって、またパパが仕事に行くと、ママがまた抜くんだ。」
「そうなのね。じゃあ、ママに言っておくといいよ。電源を頻繁に入れたり抜いたりすると、テレビが壊れるからやめておくようにと。」
水穂がそういうと、嬉しそうににこっと笑う雅美君。
「本当?そのほうがいいの?」
「うん。」
また雅美君はにこっとした。
「じゃあ、いつでも下町ロケットが見えるようにしていいの?」
「そうだよ。テレビは有害というわけじゃないから。」
水穂が当たり前のこととしてそういうと、天真爛漫な喜びを見せる雅美君。
「雅美君の家ではテレビを見てはいけないの?もし、下町ロケットが見たかったら、遠慮なくテレビを見たいって言っていいんだよ。」
どうも変な家だな。テレビが嫌いという人でなければ、テレビは誰でもみるものであるが。
「ママがね、テレビはうるさすぎて、かけちゃいけないっていうの。だから、パパはテレビをいちいち直してみてるけど、そうすると、ママが隣の部屋からうるさいからやめてって、鬼みたいな顔して怒るんだ。だから、僕も下町ロケット見たくても、そうなるのはもっと嫌だから、我慢してるんだ。パパは、美紀ちゃんと話ができなくなるから、見ていいぞって言うんだけど。」
「それなら、パパのいう通りにすればいいんだよ。ママのいうことは間違いなんだから。」
「そ、そうなのかな、、、。」
雅美君は考え込んでしまった。
「じゃあ、ママはテレビの代わりに映画のほうが好きとかそういうこと?」
「ううん、映画なんて、全然見に行ってないよ。」
それでは何を娯楽としてみているのだろうか、見当がつかない。
「じゃあ、音楽がすごく好きだとか?」
「ううん、それもない。」
と、いうと別の意味で特殊な暮らしを強いられているのかなと分かったので、慎重に聞いてみることにする。
「雅美君、正直に話してくれないかな。そのジャージはどこで買ったの?いつも服はどこで買うの?」
「アピタで買ってきたの。服はお祭りで買ってきたりとか、、、。」
ということはつまり、古いものをお祭りで買ってくるということか。
「君のママも、そこで買っているの?」
そういうと雅美君は、小さな声になった。
「正直に言って。」
「ママは、美紀ちゃんのママとデパートで、、、。」
「本当にそうなんだね。」
と、いうことはその可能性は高くなる。
「おじさん、どうしてそんなこと聞く?」
「それは虐待というものになるんだよ。そういうことなんだよ。だから、お巡りさんに捕まえてもらって、ちゃんと偉い人に裁いてもらう必要があるんだ。」
「で、で、でも、、、。」
直接この言葉を言っても彼には通じないと思うが、そうしなきゃいけないのだと、ちょっと心を鬼にして、そう伝えなければならなかった。
「とにかくね、これは大事な問題だから、しっかりお巡りさんに知らせて、生活を調べてもらってから、ママはちゃんと、悪いところを直してもらうんだ。だって、君も嫌だったでしょう?ママがしっかりと百貨店で洋服を買っているのに、自分は的屋の人から安い値段で買ってきたものを無理やり着せられるのは。」
「僕、いやじゃないよ。」
意外な答えが返ってきた。
「嫌じゃないじゃなくて、ちゃんと、いやなものは嫌だって、ママに言わないと、ダメなんだよ。大事なことなんだからね。」
もう一度彼を戒めると、
「でも、ママは悪くないんだよ。僕が頭が悪いからいけないんだよ。」
また正反対の答えが返ってきた。きっと自分のことを邪険に扱う母親に対して恨み辛みの言葉を口にすると思ったが、そうではなかった。
「いいんだよ。だって、君のママは本来ママとしてしなきゃいけないことを、やってないんだから、それは立派な悪事になるんだ。だから、ママのことを庇ったり、変に守ろうとか、そういう態度はとらなくてもいいの。もし、君のママがまた、見栄をはってへんなことをいったら、ちゃんと、新しい服を買ってと、はっきり怒鳴っていい。」
水穂は、子供の権利として守られていることを、伝えようとしたつもりだったが、雅美君は、一方的に自分が悪いと思い込んでいるようだった。こういうことを教えるには、年齢的にまだ早いかな、と思った水穂は、それよりも子供らしい天真爛漫さをもってほしいと思った。
「そうか、おじさんと遊びにいく?」
雅美君は、部屋をぐるっとみわたして、
「なにか弾いてよ、おじさん。」
といった。
「あ、ピアノね。いいよ。」
いつのまにか頭痛を忘れて水穂は、布団から立った。といっても、本箱の中にある楽譜はゴドフスキーの曲ばかりで、小さな子供には、難易度が高すぎて、ちょっと理解に難しいと思った。ショパンのワルツでも弾こうかな、と考えていると、机の上に置いてあった、モーツァルトのきらきら星変奏曲の楽譜が目についた。それは先日、演奏会に行ったときに、小川さんから記念にもらってきたものである。
「じゃあ、やってみようかな。」
楽譜をとって、ピアノの前に座って、きらきら星変奏曲を弾き始めた。テーマを弾くと、すぐにタイトルがわかったらしい。
「あ、保育園で教えてもらったきらきら星だ!」
透明感のあるいい声で、きらきらひかる、お空の星よ、なんて歌い始める雅美君は、やっぱり五歳児そのものであった。つづいて第一変奏を弾き始めると、それに便乗してきらきら星のテーマを歌い始めるので、決して頭が悪いと言うこともなさそうである。第二、第三変奏に至っても同じで、拍子が変われば体を振って喜んだ。短調に変わる第八変奏は、陰気臭くて嫌だというのもやはり子供であった。さらに、もっとも華やかな最終変奏に至っては、すごいすごいと感動して聞いてしまっているようである。
全曲弾き終わると、もう一回やって!と何回もせがんだ。やればやるほど、にこにこしているので、水穂も、もう疲れたよ、なんて、言えるはずがなく何度も続けた。これを読み取る能力にはまだかけているようであるが、それはある意味仕方ないというか、それこそ子供らしいということなのであるから、水穂にもうれしいことであった。一回弾いて、雅美君の顔が少しずつ明るくなっていくと、何よりもほっとしてしまうというか、こちらも緊張が解けてしまうような気がする。
恵子さんに至っては、食堂で利用者たちのご飯の支度をしていたが、きらきら星変奏曲が何回も続いて聞こえてくるので、初めはよかったと思っていたものの、次第に不安になってきてしまう。大丈夫かなあ、と思っていると、雅美君が笑っている声がする。
しばらく、部屋の中を行ったり来たりしていると、玄関の戸がガラッと開く音がする。慌てて、玄関口に行ってみると、
「どうも、ありがとうございました。大事な買い物で、静岡まで行ってまいりましたの。すみません。お預かりいただきまして。」
と、立っていたのは富貴子である。やっと何かから解放された、とでも言いたげな顔をして、彼女はにこやかな顔をしている。これを見て、恵子さんはちょっと安心した。
「あら、何かご不安なことでもありましたか?」
と、軽い口調で質問する彼女に、恵子さんは、
「どこへ行っていたんですか?」
と聞いてみる。
「いいえ、ただ、買い物に静岡の百貨店に行っただけですよ。ほら、これ。百貨店で買ってきた、タオルです。」
と言って、彼女は紙袋を持ち上げた。確かに、静岡市内にある百貨店、静岡パルコの袋であるので、たぶん行ってきたことは本当なのだろうと思われた。中身も入っているのか、袋は膨らんでいた。
「迷惑かけてしまうといけないから、雅美はどこにいますか?」
「あ、今、ピアノで遊んでいますけど?」
恵子さんが答えると、一瞬だけ顔が曇る。
「そうですか。じゃあ、もう帰ります。長居をしすぎるといけませんものね。水穂さんは、おからだが不自由なのですもの。」
富貴子はその時は明るく言ったが、どこか皮肉めいていた。
「不自由というわけじゃないんですけどね。別に歩けないというわけではありませんから。」
「そうなのですか。でも、あの時、教授と話をしているとき、外へ出るようにと指示されたりしているくらいでしたから、かなり不自由なところもあるのかなと、思いましたが?本当は、ピアノなんか弾いていらっしゃるよりも、体を休めて横になっているほうが良いのではないかしら?」
「まあ確かにそうだけど、寝たきりというわけではないですから、気にしないでくださいませ。」
と、恵子さんは言い返した。
「とにかく、もう帰りますので、雅美をこっちまで連れてきてください。」
「あ、わかりました。じゃあ、一緒に来てくれますか?」
恵子さんは、とりあえずそういって、四畳半に富貴子を連れて行った。その間でどうも、富貴子の態度が大きく変わったなと思ってしまった。
「雅美、帰るわよ。どうも、相手をしていただいてありがとうございます。お体のお悪いなか、こんなダメな息子と付き合っていただいてありがとうございました。」
ちょうど、きらきら星変奏曲の第十二変奏を弾いていた水穂は、彼女のその、変わった態度と、派手な服装に驚いてしまって、途中で演奏を止めてしまった。でも、彼女は、良い方向に変わったわけではないなとも思った。明るくなった、というわけではない。確かに態度が変わったというのは確かだが、それはたぶん、うつ状態が改善したということではなさそうである。
「あ、そうですか。でも、ダメな息子ということはまずありませんので、そこはやめてくださいね。それから、彼に対して、差別的に扱うこともやめてください。もし、百貨店に行くのでしたら、彼の洋服もしっかり買ってあげるようにしてあげてください。」
水穂は淡々と応じたが、これが富貴子には癪に障る。
「ええ。それはちゃんと心得ています。しっかり買ってきますから、気にしないでください。」
「ママ、今日ね、おじさんがね、保育園の先生が歌ってくれた、きらきら星をピアノで弾いてくれたんだよ。すごく楽しかったよ。」
雅美君は、子供らしくそう楽しそうに言った。その顔は、彼女の前では全く見せたことのない、いかにも楽しそうなかわいらしい顔だったため、富貴子はさらに憎らしくなる。
「じゃあ、もう帰りましょうね。あんまり長居をすると、水穂さんの病気に良くないのよ。」
「ええー、もうちょっと、ここにいさせてよ。うちで砂嵐みるよりも、楽しいもの。」
お、子供らしくなった。親に反抗するようになったか、と恵子さんは、思わずほほえましく見てしまった。こういうことがいえるのが、本来の子供というものでもある。
「あ、確かに故障したテレビでは、下町ロケットも見れないもんね。」
恵子さんは、彼の反抗をもっとやってほしいという意味で、そういってみた。
「下町ロケット見たいもんね。今はやりのアニメだもんね。」
確かに、下町ロケットは、今の子供であれば、だれでも知っているテレビ番組である。たぶん、この番組を知らないという子供は、たぶん日本語をあまり知らないとか、そういうことだと思う。と言われるほどの人気ぶり。
「ママに言ってごらん。下町ロケット見せてって。」
恵子さんとしては、この言葉を、早く雅美君に口にしてほしいものであるが、雅美君はそこまで自己主張はできなかったようだ。ちょっとはにかんで、水穂の座っている、ピアノ椅子の後ろに隠れてしまった。
「いいのよ。下町ロケット見せてって言っても。」
と、言ってもそれはできなかったようだ。
「とにかく、帰るわよ。もう、晩御飯も食べないと、明日保育園にも行けなくなっちゃうでしょうに。」
富貴子は、ちょっときつい口調で言い返すと、
「ご飯だって。ママに何を作ってもらうのかな。」
水穂がにこっと笑って、雅美君の頭をなでてくれた。
「何を作ってもらいたいのか、言ってみてごらん。」
「豚汁。」
静かに答える雅美君だが、その時は、水穂に話しかけたような、楽しそうな感じではなかった。
「あ、いいわよ。作ってあげる。」
つっけんどんに答える富貴子。
「じゃあ、必ず作ってあげてくださいよ。出来合いとか、カップラーメンとかそういうものはだめよ。」
恵子さんが、そういって対抗すると、
「わかりましたよ、おばさん!」
と、富貴子はまたきつく言った。
「まあいいわ、私は明らかにおばさんだし、雅美君のママほどきれいな人じゃないって、誰が見てもわかりますから!」
わざと明るい声で対抗する恵子さん。確かに、女性的な魅力では、富貴子のほうが勝るが、果たしてどちらのほうが、比べられるだろうか、、、?という気がした。
「帰ろうか。」
水穂に促されて、静かに富貴子のほうへ向かう雅美君は、どこか名残惜しそうというか、ちょっと悲しそうだった。雅美君が近づくと、富貴子は強引に彼の手をぐいと引っ張って、さっさと玄関先に向かって歩いて行ってしまう。雅美君は、後ろを振り向こうとしたが、富貴子の手に抑えられてしまって、それはできなかった。そのあと、雅美君は振り向くことは許されなかったので、水穂も恵子さんもどんな顔をしているのか、を見ることはできなかった。
ただ、確実にせき込む音は聞こえてきた。
「ママ。」
道路を歩きながら、雅美君は富貴子に確認したいことがあったが、ママはものすごく怖い顔をしていて、それを確認することはできなかった。口にしたら、げんこつが飛んでくるような、そんな怖い顔だった。
富貴子自身は、この体験を本当に屈辱的と思ったようだ。そして、彼女自身は、雅美君を製鉄所に預けていた時に、静岡市内で体験したこと、つまり、その時の快楽を思い出して、何回もそれを味わいたいという、欲望だけがのし上がってきて、もうどうしようもない気持ちでいっぱいだった。
道路を歩きながら、彼女はある作戦を考え始めた。これが実現できれば、もう最高!という喜びしかなかった。
一方そのころ、製鉄所では。
いつも通り、水穂が布団の上に横になっていた。最近はひどい頭痛が容赦なくやってくることが多く、静かに眠れるのはまれである。時々、吐き気がして布団に座り、せき込んで内容物を出すだけの余裕はあったが、このままだと、それすらできなくなってくるのではないかなと不安な気持ちにもなった。
その時も、目は閉じていたものの、眠るということは、薬品に頼らないと無理であったため、誰かが廊下を歩いてくる音とか、話している声なども聞くことができた。もちろん、頭痛と常に隣り合わせであるので、詳細な内容を聞きとるまではいかなかったが。
なんとなく、玄関先で誰かが話しているのが聞こえてきた。片方は恵子さんで、もう片方は誰だろうと思われる。一生懸命頭痛と闘いながら思い出そうとしていると、なんだか押し問答のような口調になって、玄関ドアはピシャンとしまってしまった。
まあ、強引なセールスマンでもきたのかな、くらいにしか考えていなかったが、小さな子供が鴬張りの廊下をどどどっと走ってきた音がするのには驚いてしまう。あれ、誰だっけと考えていると、いきなり四畳半のふすまが開いて、
「おじさん、こんにちは。」
枕もとに一人の少年が座っていた。そういえば先日、進学先のことで、以前利用者の一人だった、土谷晋太郎が、妻と一緒にやってきたことを思い出す。その時一緒にいた少年に間違いはなかった。
「えーと確か、土谷雅美君だね。ちょっと変な名前とか言って話題になったね。」
そういって、水穂はよいしょと起きて布団に座った。きゃは、と笑い声を立てて、かじりついてくる雅美君は、やっぱり普通の五歳児に比べると、体が小さいなと思われる。
「寒いね。」
布団から出れば、そういう言葉が出る季節になっていた。急いで枕もとにたたんであった羽織を着た。
「寒くないの?」
思わずそう聞いてしまう。雅美君の服装は、子供用のジャージで、一応長袖長ズボンということになっていたが、靴下も履いてないし、やはり寒いのではないだろうか?
「強いから平気だよ。」
そういう答えを出すが、雅美君の顔は鼻水が出ている。
「ちょっと待ってな。」
水穂は、机の上からチリ紙を取って、それで雅美君の鼻を拭いてやった。それを本当に面白そうな顔をして見つめる雅美君。そこが不思議だった。
「どうしたの?鼻水が出たら、拭いてもらわないの?」
思わず聞いてしまうのだが、
「だって、やってくれないもん。僕がいくら寒いといっても、鼻水が出ても、何もしてくれないよ。」
と、答えが出る。あれ?おかしいな、そのくらいの年頃であれば、鼻水が出て、親が顔を拭くのは当たり前のことである。多少ませた子であれば、自分でやりたがることもあるが、大半の子はそれで当然のようなものである。
「じゃあ、寒かったらどうしろという?」
つまり、教えようとしているのかなと思って、そう聞いてみた。
「何にも言わない。」
と、答える雅美君。もし、鼻を拭くことを教えようとするのなら、手本を見せたり、言葉で伝えたりして、何か指導をするはずだろう。
「わかんないから、そのままでいるの。ママはいつも仮面みたいな顔して、ぼーっとしてるの。」
「ぼーっとしてどうしてる?」
「テレビの砂嵐をじっと見つめている。何もしない。」
「砂嵐?アニメもドラマも何もみないの?」
「うん。どっちも傷つくから嫌なんだって。」
理由がよくわからなかったけど、テレビを見ると嫌な気分になるため、コンセントを引っこ抜いて、いわゆる砂嵐の状態にしてしまい、それをぼーっと見つめているのが連想できた。
「じゃあ、困るでしょう。好きなテレビも何も見れなくて。」
「うん。だからパパが仕事から戻ってくると、直してくれるの。その時だけ一緒に下町ロケットが見れるんだ。それが終わって、またパパが仕事に行くと、ママがまた抜くんだ。」
「そうなのね。じゃあ、ママに言っておくといいよ。電源を頻繁に入れたり抜いたりすると、テレビが壊れるからやめておくようにと。」
水穂がそういうと、嬉しそうににこっと笑う雅美君。
「本当?そのほうがいいの?」
「うん。」
また雅美君はにこっとした。
「じゃあ、いつでも下町ロケットが見えるようにしていいの?」
「そうだよ。テレビは有害というわけじゃないから。」
水穂が当たり前のこととしてそういうと、天真爛漫な喜びを見せる雅美君。
「雅美君の家ではテレビを見てはいけないの?もし、下町ロケットが見たかったら、遠慮なくテレビを見たいって言っていいんだよ。」
どうも変な家だな。テレビが嫌いという人でなければ、テレビは誰でもみるものであるが。
「ママがね、テレビはうるさすぎて、かけちゃいけないっていうの。だから、パパはテレビをいちいち直してみてるけど、そうすると、ママが隣の部屋からうるさいからやめてって、鬼みたいな顔して怒るんだ。だから、僕も下町ロケット見たくても、そうなるのはもっと嫌だから、我慢してるんだ。パパは、美紀ちゃんと話ができなくなるから、見ていいぞって言うんだけど。」
「それなら、パパのいう通りにすればいいんだよ。ママのいうことは間違いなんだから。」
「そ、そうなのかな、、、。」
雅美君は考え込んでしまった。
「じゃあ、ママはテレビの代わりに映画のほうが好きとかそういうこと?」
「ううん、映画なんて、全然見に行ってないよ。」
それでは何を娯楽としてみているのだろうか、見当がつかない。
「じゃあ、音楽がすごく好きだとか?」
「ううん、それもない。」
と、いうと別の意味で特殊な暮らしを強いられているのかなと分かったので、慎重に聞いてみることにする。
「雅美君、正直に話してくれないかな。そのジャージはどこで買ったの?いつも服はどこで買うの?」
「アピタで買ってきたの。服はお祭りで買ってきたりとか、、、。」
ということはつまり、古いものをお祭りで買ってくるということか。
「君のママも、そこで買っているの?」
そういうと雅美君は、小さな声になった。
「正直に言って。」
「ママは、美紀ちゃんのママとデパートで、、、。」
「本当にそうなんだね。」
と、いうことはその可能性は高くなる。
「おじさん、どうしてそんなこと聞く?」
「それは虐待というものになるんだよ。そういうことなんだよ。だから、お巡りさんに捕まえてもらって、ちゃんと偉い人に裁いてもらう必要があるんだ。」
「で、で、でも、、、。」
直接この言葉を言っても彼には通じないと思うが、そうしなきゃいけないのだと、ちょっと心を鬼にして、そう伝えなければならなかった。
「とにかくね、これは大事な問題だから、しっかりお巡りさんに知らせて、生活を調べてもらってから、ママはちゃんと、悪いところを直してもらうんだ。だって、君も嫌だったでしょう?ママがしっかりと百貨店で洋服を買っているのに、自分は的屋の人から安い値段で買ってきたものを無理やり着せられるのは。」
「僕、いやじゃないよ。」
意外な答えが返ってきた。
「嫌じゃないじゃなくて、ちゃんと、いやなものは嫌だって、ママに言わないと、ダメなんだよ。大事なことなんだからね。」
もう一度彼を戒めると、
「でも、ママは悪くないんだよ。僕が頭が悪いからいけないんだよ。」
また正反対の答えが返ってきた。きっと自分のことを邪険に扱う母親に対して恨み辛みの言葉を口にすると思ったが、そうではなかった。
「いいんだよ。だって、君のママは本来ママとしてしなきゃいけないことを、やってないんだから、それは立派な悪事になるんだ。だから、ママのことを庇ったり、変に守ろうとか、そういう態度はとらなくてもいいの。もし、君のママがまた、見栄をはってへんなことをいったら、ちゃんと、新しい服を買ってと、はっきり怒鳴っていい。」
水穂は、子供の権利として守られていることを、伝えようとしたつもりだったが、雅美君は、一方的に自分が悪いと思い込んでいるようだった。こういうことを教えるには、年齢的にまだ早いかな、と思った水穂は、それよりも子供らしい天真爛漫さをもってほしいと思った。
「そうか、おじさんと遊びにいく?」
雅美君は、部屋をぐるっとみわたして、
「なにか弾いてよ、おじさん。」
といった。
「あ、ピアノね。いいよ。」
いつのまにか頭痛を忘れて水穂は、布団から立った。といっても、本箱の中にある楽譜はゴドフスキーの曲ばかりで、小さな子供には、難易度が高すぎて、ちょっと理解に難しいと思った。ショパンのワルツでも弾こうかな、と考えていると、机の上に置いてあった、モーツァルトのきらきら星変奏曲の楽譜が目についた。それは先日、演奏会に行ったときに、小川さんから記念にもらってきたものである。
「じゃあ、やってみようかな。」
楽譜をとって、ピアノの前に座って、きらきら星変奏曲を弾き始めた。テーマを弾くと、すぐにタイトルがわかったらしい。
「あ、保育園で教えてもらったきらきら星だ!」
透明感のあるいい声で、きらきらひかる、お空の星よ、なんて歌い始める雅美君は、やっぱり五歳児そのものであった。つづいて第一変奏を弾き始めると、それに便乗してきらきら星のテーマを歌い始めるので、決して頭が悪いと言うこともなさそうである。第二、第三変奏に至っても同じで、拍子が変われば体を振って喜んだ。短調に変わる第八変奏は、陰気臭くて嫌だというのもやはり子供であった。さらに、もっとも華やかな最終変奏に至っては、すごいすごいと感動して聞いてしまっているようである。
全曲弾き終わると、もう一回やって!と何回もせがんだ。やればやるほど、にこにこしているので、水穂も、もう疲れたよ、なんて、言えるはずがなく何度も続けた。これを読み取る能力にはまだかけているようであるが、それはある意味仕方ないというか、それこそ子供らしいということなのであるから、水穂にもうれしいことであった。一回弾いて、雅美君の顔が少しずつ明るくなっていくと、何よりもほっとしてしまうというか、こちらも緊張が解けてしまうような気がする。
恵子さんに至っては、食堂で利用者たちのご飯の支度をしていたが、きらきら星変奏曲が何回も続いて聞こえてくるので、初めはよかったと思っていたものの、次第に不安になってきてしまう。大丈夫かなあ、と思っていると、雅美君が笑っている声がする。
しばらく、部屋の中を行ったり来たりしていると、玄関の戸がガラッと開く音がする。慌てて、玄関口に行ってみると、
「どうも、ありがとうございました。大事な買い物で、静岡まで行ってまいりましたの。すみません。お預かりいただきまして。」
と、立っていたのは富貴子である。やっと何かから解放された、とでも言いたげな顔をして、彼女はにこやかな顔をしている。これを見て、恵子さんはちょっと安心した。
「あら、何かご不安なことでもありましたか?」
と、軽い口調で質問する彼女に、恵子さんは、
「どこへ行っていたんですか?」
と聞いてみる。
「いいえ、ただ、買い物に静岡の百貨店に行っただけですよ。ほら、これ。百貨店で買ってきた、タオルです。」
と言って、彼女は紙袋を持ち上げた。確かに、静岡市内にある百貨店、静岡パルコの袋であるので、たぶん行ってきたことは本当なのだろうと思われた。中身も入っているのか、袋は膨らんでいた。
「迷惑かけてしまうといけないから、雅美はどこにいますか?」
「あ、今、ピアノで遊んでいますけど?」
恵子さんが答えると、一瞬だけ顔が曇る。
「そうですか。じゃあ、もう帰ります。長居をしすぎるといけませんものね。水穂さんは、おからだが不自由なのですもの。」
富貴子はその時は明るく言ったが、どこか皮肉めいていた。
「不自由というわけじゃないんですけどね。別に歩けないというわけではありませんから。」
「そうなのですか。でも、あの時、教授と話をしているとき、外へ出るようにと指示されたりしているくらいでしたから、かなり不自由なところもあるのかなと、思いましたが?本当は、ピアノなんか弾いていらっしゃるよりも、体を休めて横になっているほうが良いのではないかしら?」
「まあ確かにそうだけど、寝たきりというわけではないですから、気にしないでくださいませ。」
と、恵子さんは言い返した。
「とにかく、もう帰りますので、雅美をこっちまで連れてきてください。」
「あ、わかりました。じゃあ、一緒に来てくれますか?」
恵子さんは、とりあえずそういって、四畳半に富貴子を連れて行った。その間でどうも、富貴子の態度が大きく変わったなと思ってしまった。
「雅美、帰るわよ。どうも、相手をしていただいてありがとうございます。お体のお悪いなか、こんなダメな息子と付き合っていただいてありがとうございました。」
ちょうど、きらきら星変奏曲の第十二変奏を弾いていた水穂は、彼女のその、変わった態度と、派手な服装に驚いてしまって、途中で演奏を止めてしまった。でも、彼女は、良い方向に変わったわけではないなとも思った。明るくなった、というわけではない。確かに態度が変わったというのは確かだが、それはたぶん、うつ状態が改善したということではなさそうである。
「あ、そうですか。でも、ダメな息子ということはまずありませんので、そこはやめてくださいね。それから、彼に対して、差別的に扱うこともやめてください。もし、百貨店に行くのでしたら、彼の洋服もしっかり買ってあげるようにしてあげてください。」
水穂は淡々と応じたが、これが富貴子には癪に障る。
「ええ。それはちゃんと心得ています。しっかり買ってきますから、気にしないでください。」
「ママ、今日ね、おじさんがね、保育園の先生が歌ってくれた、きらきら星をピアノで弾いてくれたんだよ。すごく楽しかったよ。」
雅美君は、子供らしくそう楽しそうに言った。その顔は、彼女の前では全く見せたことのない、いかにも楽しそうなかわいらしい顔だったため、富貴子はさらに憎らしくなる。
「じゃあ、もう帰りましょうね。あんまり長居をすると、水穂さんの病気に良くないのよ。」
「ええー、もうちょっと、ここにいさせてよ。うちで砂嵐みるよりも、楽しいもの。」
お、子供らしくなった。親に反抗するようになったか、と恵子さんは、思わずほほえましく見てしまった。こういうことがいえるのが、本来の子供というものでもある。
「あ、確かに故障したテレビでは、下町ロケットも見れないもんね。」
恵子さんは、彼の反抗をもっとやってほしいという意味で、そういってみた。
「下町ロケット見たいもんね。今はやりのアニメだもんね。」
確かに、下町ロケットは、今の子供であれば、だれでも知っているテレビ番組である。たぶん、この番組を知らないという子供は、たぶん日本語をあまり知らないとか、そういうことだと思う。と言われるほどの人気ぶり。
「ママに言ってごらん。下町ロケット見せてって。」
恵子さんとしては、この言葉を、早く雅美君に口にしてほしいものであるが、雅美君はそこまで自己主張はできなかったようだ。ちょっとはにかんで、水穂の座っている、ピアノ椅子の後ろに隠れてしまった。
「いいのよ。下町ロケット見せてって言っても。」
と、言ってもそれはできなかったようだ。
「とにかく、帰るわよ。もう、晩御飯も食べないと、明日保育園にも行けなくなっちゃうでしょうに。」
富貴子は、ちょっときつい口調で言い返すと、
「ご飯だって。ママに何を作ってもらうのかな。」
水穂がにこっと笑って、雅美君の頭をなでてくれた。
「何を作ってもらいたいのか、言ってみてごらん。」
「豚汁。」
静かに答える雅美君だが、その時は、水穂に話しかけたような、楽しそうな感じではなかった。
「あ、いいわよ。作ってあげる。」
つっけんどんに答える富貴子。
「じゃあ、必ず作ってあげてくださいよ。出来合いとか、カップラーメンとかそういうものはだめよ。」
恵子さんが、そういって対抗すると、
「わかりましたよ、おばさん!」
と、富貴子はまたきつく言った。
「まあいいわ、私は明らかにおばさんだし、雅美君のママほどきれいな人じゃないって、誰が見てもわかりますから!」
わざと明るい声で対抗する恵子さん。確かに、女性的な魅力では、富貴子のほうが勝るが、果たしてどちらのほうが、比べられるだろうか、、、?という気がした。
「帰ろうか。」
水穂に促されて、静かに富貴子のほうへ向かう雅美君は、どこか名残惜しそうというか、ちょっと悲しそうだった。雅美君が近づくと、富貴子は強引に彼の手をぐいと引っ張って、さっさと玄関先に向かって歩いて行ってしまう。雅美君は、後ろを振り向こうとしたが、富貴子の手に抑えられてしまって、それはできなかった。そのあと、雅美君は振り向くことは許されなかったので、水穂も恵子さんもどんな顔をしているのか、を見ることはできなかった。
ただ、確実にせき込む音は聞こえてきた。
「ママ。」
道路を歩きながら、雅美君は富貴子に確認したいことがあったが、ママはものすごく怖い顔をしていて、それを確認することはできなかった。口にしたら、げんこつが飛んでくるような、そんな怖い顔だった。
富貴子自身は、この体験を本当に屈辱的と思ったようだ。そして、彼女自身は、雅美君を製鉄所に預けていた時に、静岡市内で体験したこと、つまり、その時の快楽を思い出して、何回もそれを味わいたいという、欲望だけがのし上がってきて、もうどうしようもない気持ちでいっぱいだった。
道路を歩きながら、彼女はある作戦を考え始めた。これが実現できれば、もう最高!という喜びしかなかった。