第四章 ③
文字数 3,285文字
ぼんやりと廊下に突っ立っていた。
何をどうしたらいいか
分からなかった。
周囲からの罵声、そして白い視線。
また、幼馴染のみどりの連続蹴りと
ビンタ。
駆けつけた校長先生と他のクラスの
先生が、俺を職員室に連れて行った。
その後すぐに、母が大慌てでやってきた。
本当に急いで飛んできたのだろう、
息も絶え絶えだった。
校長先生が、母に事の次第を説明し、
母が絶句してしまったのを思い出す。
校長先生に連れられて、母と一緒に
保健室の奥中に謝りに行った。
奥中は、体育着に着替えたようだった。
そして、ベッドの中で寝ていた。
保健の西原静先生が奥中のすぐ傍で、
椅子に腰かけていた。
俺と母がベッドに近づいて、西原先生が
「真子ちゃん。義時君が謝りに来たわよ。
大丈夫?」と奥中に声をかけても、
奥中はベッドから顔を出そうと
しなかった。
母が「奥中さん。本当にごめんなさい」
と何度も何度も謝っていた。
俺は、何も言えずに、ただその
ベッドのそばに立ち尽くした。
布団の下から小さなうめき声が
きこえた。いや、うめき声を
必死で抑えようとしていた、奥中は。
母に背中を叩かれ
「早く、お前も謝りなさい」と言われ、
ハッとした俺は
「奥中…。ごめんなさい」と一言。
これが精一杯だった。
そして、俺も泣き出してしまった。
西原先生がそっと
「今は、このへんで…」と母に言った。
母が俺を押して、俺と母は
うなだれながら保健室を出た。
外で、校長先生が待っていた。
その後、俺と母の二人は、
保健室の前で廊下に立っていた。
奥中のお母さんが来るのを待って…。
奥中のお母さんは、俺たちが廊下で
待ちだしてから40分か50分位して、
駆けつけた。
奥中のお母さんを待つ時間の
長いこと長いこと。
その時間に、俺は後悔しまくっていた。
また、普段は優しく、言葉数も多く、
家族のムードメーカーである母が
ずっと黙ったままでいるのが、
怖かった。
そして、奥中のお母さんが
廊下を駆け足で保健室に向かって来た。
母が急いで駆け寄って、
「奥中さん。うちの息子が……。
本当に申し訳ありません!」と、
頭を深々と下げて謝った。
俺も急いで二人のもとに近寄った。
が、奥中のお母さんは、母の謝罪に
答えず、俺のことも気にかけずに、
ただ、冷たい声で母に尋ねた。
「娘は、この中ですか?」と。
母が、そうだと答えると、
奥中のお母さんは、すぐに保健室の
中に入って行った。
その後、15分位、俺たちは
また保健室の前で待った。
保健室の扉がガラガラと開き、
西原先生と奥中のお母さんと、
体育着姿の奥中が出てきた。
上履きを履いていて、ランドセルは
奥中のお母さんが持っていた。
母が、俺の背中を押しながら、
奥中のお母さんと奥中に近づいた。
そして、「息子がとんでもないことを
してしまい…、
本当にすみませんでした」と謝った。
俺も「ごめんなさい。ごめんなさい」
と繰り返し謝った。
奥中は、お母さんの手を握りながら、
真っ赤な目でこっちを見ていたけど、
口を開かなった。
奥中のお母さんが、何も言わずに、
奥中の手を握りながら歩き出した。
母と俺は二人を追いかけた。
母は歩きながら、必死に
奥中のお母さんに言っていた。
「奥中さん。本当に申し訳ありません。
今日中にでも、また夫とこの子を連れて、
ご自宅に伺わせていただきますから…」
だが、奥中と奥中のお母さんは早足で
歩き続ける。
こっちを振り返ることもせず、
何の答えもない。
俺は、絶望感でいっぱいだった。
奥中は、お母さんが持って来ていた
サンダルで帰って行った。
奥中のお母さんが、
右肩にランドセルをしょって、
また、右手でビニール袋を持っていた。
濡れてしまった靴や服が入った
ビニール袋を。
奥中と奥中のお母さんは
手をつなぎながらトボトボと
坂道を歩いて行った。
俺たち親子は、その後ろ姿を
見つめていた。しばらく…。
その後、母と俺は職員室に行き、
校長先生たちといろいろ話した。
そして、母は帰ることになり、
俺はクラスに戻った。
3年2組の教室に入った瞬間、
今でも憶えている、みんなの
視線が一斉に俺に集中した。
特に、女子たちの非難に満ちた視線。
夏休みが近づいた。
奥中は、不登校になってしまって
いた。
最初の頃は、特に女子たちが
奥中のことを心配していた。
だが、日が経つにつれ、
奥中のことは次第に忘れられて
いった。
みんな、自分の成績、自分の楽しみ、
自分の問題―ある子はいじめ、ある子は
家庭問題、ある子は友人関係―で
精一杯だったのだ。小学生でも。
俺は、奥中のことを考えない日は
なかった。
いや、自分を責めない日はなかった。
自分の罪が、一人の女子をクラス、
いや学校から消し去ってしまった
のだと、自分を責め続けた。
「早く戻って来てくれ、奥中。
そうすれば、俺も楽になれる」と、
思った。
でも、結局奥中は、学校に
戻ってこなかった。
奥中のお母さんと奥中が手を
つなぎ学校を出て行ったのが
最後となった。それ以降、奥中は
学校に来ることはなかった。
そして、それ以降、俺は奥中の顔を
見ていない。
だけど、そうだ、奥中に謝りに、
奥中の家に行ったことはあった。
あの日 の夕方のことだった。
トボトボと学校から帰った俺を、
父が待っていた、玄関先で。
父は、俺を家の中に入れてくれなかった。
そのまま床屋に連れていかれ、
丸坊主にされ、すぐに家に
引っ立ていかれ、
父は、家の中の母を大声で呼び、
「今から、奥中さんの家に行くぞ」と
一言言った。
母が、大きな紙袋を持って出てきた。
両親と俺は、奥中の家に歩いて
行った。
奥中の家では、奥中のお母さんが、
玄関口に出てきたが、奥中は
出てこなかった。
母が、大きな紙袋を奥中の母に
渡していた。
3人で奥中のお母さんに謝り、
父が「娘さんにも一言でいいから
謝らせていただきたい」と言ったが、
奥中のお母さんは、断った。
「娘は、ショックで布団から
出てきません。
今は、静かにさせてやりたいので、
お引き取りください」
そう言いながら、扉を閉めようとする
奥中のお母さんを前に、
父が急にガバッと土下座した。
そして、
「本当に申し訳ありませんでした!
うちの息子が、お嬢さんに
とんでもないことをしてしまって!」
と大声で言った。
顔を、汚いアパートの外廊下の
床に押し付けたまま。
父の土下座する姿を、初めて見た。
俺はショックだった。
そして、それが俺の行為故だと
自覚して、本当に申し訳なく思った。
死にたい感覚だった。
俺は、両親を苦しめる結果に
なってしまったことを悔いていたし、
そのことが子どもとして辛かった。
何にも悪くない両親が、
俺の悪事ゆえに、土下座し、
何度も何度も謝っている。
それが、申し訳なかった。
両親に対しても、奥中に対しても、
奥中のお母さんに対しても俺は
罪を犯した。
母は奥中が不登校になったことを
知って、その後、一人で奥中家を
よく訪ねて行った。時には父も
一緒に。
ある時、着いて行こうとした。
すると、父が言った。
「お前は行くな。俺たちが、
親として行くんだ。お前の
やったことは俺の責任だ。
お前は、俺の息子だから」と。
その父の言葉には、
愛と子を想う親の優しさを感じた。
両親を玄関で見送った後、
俺は泣いてしまった。
父も母も責任を感じていたのだろう。
奥中には、ほぼ会えないようだったが、
女の子が好むような本やお菓子を
毎回持って行った。
だが、ある日、奥中たちが急に
引っ越してしまった。
そうだ。それと、忘れられない、
あの日のことがある。
今でも思い出す。
父に殺されるかと、本気で思った。
奥中にとんでもないことをしてしまい、
奥中の家に3人で謝りに行き、
父の土下座を見せつけられた
後のことだ。
奥中の家から戻り、玄関先で、
父は、俺に言った。
「お前は、ここに立ってろ!!
着替えてくるから、待ってろよ。
タダじゃすませんからな!!」
めちゃくちゃ不機嫌で、
怒りまくっているのが分かった。
目が、怒りで充血し、燃えていた。
覚悟した。
逃げようにも逃げ場なんか
どこにもないのだ。
普段着に着替えた父が戻って来て、
玄関で突っ立ている俺を怒鳴りつける。
母が駆けつけて、
「あなた。声が大きすぎるわ。
ご近所さんにも聞こえるわよ…」と
言うほどの怒りに満ちた大声だった……。
(著作権は、篠原元にあります)