ケース2 一条勝己×解離性同一性障害 (1/8)

文字数 3,786文字

 七月に入り、夏真っ盛りだ。学生は夏休みに突入したらしいことを、白夜は伊桜お嬢様の帰省を知らせる電話連絡で気づかされた。一条家末っ子息女一条伊桜。年は十三歳で女学院中等部の寮生活のためこの実家を離れていた。使用人一同は予告された時間に合わせ、玄関ホールからのびる長い廊下に縦二列に並んで出迎えた。
「伊桜様、すっかりお元気になられましたね」

 白夜は懐かしい気持ちになりながら、彼女が自分の前を通る際に微笑んで声をかけた。伊桜も可愛らしい笑みを返してくれる。主人や家族に対し使用人の方から話しかけてはならないと教育係の暁から厳しく教えられていたが、今のは元患者に対する看護師としての挨拶だ。


 もう伊桜は病床に臥せっていたあの頃のような寝間着姿ではなく、上品さと活発さを合わせたようなノースリーブのワンピースドレスに身を包み、季節を感じさせてくれる。通学を再開したことで以前にも増して自信を付けた様子が見て取れ、その快復ぶりと成長に白夜は嬉しくなった。


 白夜は今でこそ針間精神科診療所と住み込みで看護を担当する一条家との往復の日々を送っているが、実はもともと伊桜の病気の看護負担が大きかったためにこの一条家に専属看護師として招かれて住み込みの勤務を開始したのだ。その頃は診療所への出張はなく、一条家のみでの看護だった。だが伊桜の病は比較的早く回復し、寮生活のために家を出るほどになって白夜が専属看護まで行う必要はなくなった。ということで、瑠璃仁をはじめとした他の一条家患者のために住み込みだけは続けながら外部にも働きに出るようになって今に至る。こうして改めて彼女の元気な姿を目にすると、それはもう眩しいものを見るような感慨深いものがあった。こんな風に、回復した後の姿を見続けられるのは、一家専属の看護師の冥利に尽きる。


 白夜はそれから、彼女の少し後ろに沿って歩く同僚の存在に気が付いた。女学院寮で伊桜に仕えるため、彼女と一緒に屋敷を出ていった使用人の椋谷だ。椋谷は伊桜の生活に必要なものが出てくるたびに遣いに出され一条家に寄ったりするために白夜とも何度か顔を合わせてはいたが、それは時々見かける程度のもので、深い話まではできていない。伊桜の帰省の間しばらくはこちらに滞在するのだろうと思うと楽しみになる。いろいろ聞きたい話が山盛りだ。


 たとえば伊桜お嬢様の通う学院――独り暮らしどころか、病気のために通学さえままならなかった伊桜の姿しか白夜は知らなかったため、中学生になった途端に寮生活なんて果たしてできるのだろうかと心配に思っていたのだが、しかしなんてことはない。そこは専属で執事を付けることが許される学生寮で、これまで仕えてきた使用人が付きっ切りで甲斐甲斐しく世話を焼くのだという。それっていったいどんな学園生活なんだろう。さすがにそこまでは想像できるわけもなく驚いたのだったが、やれやれそういう世界もあるところにはあるらしく、自分の常識を超えた富豪たちの実態は刺激的で飽きることがない。


 伊桜の幼さの残る顔立ちとまだまだ伸びしろを感じさせる身長にして、使用人がずらずらと立ち並ぶこの大屋敷に足を踏み入れるときの堂々として澄ました威厳のアンバランスさには、もういっそ自ら頭を垂れたくなる。


 伊桜お嬢様とその付き人椋谷の二人が帰ってきただけで、一条邸は急に賑わいをみせ、なんだか祭りの日のように不思議な空気であった。バックヤードもバタバタと人の出入りが激しくなったように感じる。だが、本当の祭りはこんなものではないとベテラン達は白夜に笑う。もうすぐ盆がやってくる。一条家の盆は、全国各地から一条家親族が集うそうだ。

(今でも結構大変だけどなー……)

 統合失調症に罹った天才、瑠璃仁のリハビリに費やす時間が増えていた。瑠璃仁の高度な思考を白夜も根気強く追いかけて理解し、表現をサポートする。時には頭の中でこんがらがった紐を一緒にほどく。翻訳のために素人が介入することで、論文一つ書き上げるのに何か月もかかる。ハーバード大学を休学中の瑠璃仁の発想は面白く、理解するのも楽しいのだが、それより大変なのはメンタル面のサポートだ。いや、どちらかと言えば本来そちらが精神科看護師白夜の仕事。しかし繊細な彼の心を支え続けるのは至難の業で、失語症の春馬の手を借りながら少しずつ全うしていくしかなかった。


 一日の業務が終了し、白夜は地下に用意されている私室で気晴らしに数独(パズル)を解いていた。人と関わりの多い看護の仕事や一条家での人付き合いは、国語の文章読解などの文系問題に似ている。根っからの理系人間である白夜は、働き始めてからというもの、バランスを保とうとするかのごとく以前にも増して数独をやるようになっていた。集中してマスを埋めていくと、雑念が消え、頭が冴え渡り、正解を導けた際の爽快感がたまらない。

「できたー!」
 今回のはなかなかの難問だった。解き応えのある問題を制作してくれた作者に心から感謝する。
「白夜さん、少しよろしいですか」
 耳元から聞こえてきた声に、白夜はびっくりして飛び上がった。まるで統合失調症に罹患し幻聴が聞こえたのかと思うほど唐突に。
「何度もノックしたのですが、在室のようでしたので」
 振り返るとすぐ横に執事服の男性――矢取暁が、神妙な顔つきで真っ直ぐ立っていた。
「も、申し訳ありませんでした……」
 どうやら自分は彼の呼びかけに気付かず、入室されても気付かず、解き終わるのを傍で待たせていたらしい。
「少し、お話が」

 彼はそう言って一度外に出る。白夜も慌ててその後を追った。


 使用人副頭の暁に呼ばれて緊張しない使用人はあまりいない。暁は矢取の家の人間だ。長年一条家に仕えてきた矢取家の長男として生まれ、物心つく前から一条に仕え、現在二十二歳にして一条家の使用人の副頭を任されている。生まれながらの定めではあったものの、暁本人はまさに天職だとばかりに励んでいて、己にも他人にも常に非常に高いレベルを要求する。そういった事情から、彼に呼びつけられた使用人はほとんど顔を青くして出頭することになる。それはもちろん白夜も同じだった。


 少し身長の低い、長めの黒髪がよく似合うまるで凛々しい少女のような中性的な容姿。自分より年下の青年を前に、

「白夜さん」
「はいっ」

 白夜は思わず反射的に姿勢を正す。

 自分はなにかまずいことをしてしまっただろうか?

 いや、たった今さっきの失礼はまあ、もう置いておくとして……

 頭の中を巡らせていると、暁は言いづらそうな顔で、口を開いた。

「盆の間、業務を手伝っていただけませんか」

 叱られるわけではなかったことに、とりあえずほっと気が抜けた。

 どうやら針間精神科診療所が休みになる盆の間、一条家に手を貸してほしいということだった。白夜の担当している一条家患者は休みの間も変わらず看るつもりでいたが、そういった通常看護業務の他に、給仕や清掃等の補佐、行事関連の雑務をやってほしいらしい。

 叱られるわけではなかったことに、とりあえずほっと気が抜けた。

 どうやら針間精神科診療所が休みになる盆の間、一条家に手を貸してほしいということだった。白夜の担当している一条家患者は休みの間も変わらず看るつもりでいたが、そういった通常看護業務の他に、給仕や清掃等の補佐、行事関連の雑務をやってほしいらしい。

「もちろんその分の手当はお出しします」

 詳細を聞く限り、内容的にできないことはない。半年前の、一条家の完全な専属看護師だったころは、そういった手伝いも業務の内だった。


 今のような診療所での看護業務もなかった当時、二人の患者のみにつきっきりで看護するだけというのは少し手持無沙汰だったのもあり、そのころは一条家の使用人として家事の手伝いまでやっていた。たしかに「家」が職場という性質上、休日祝日の方が忙しかったのを思い出す。


 さらに長期休暇で、親族も集まる盆の行事が入るとすれば、猫の手も借りたいだろう。


 ちょうど白夜には盆に帰らなければならない家というものがなく、居場所といえばいつだってここ、使用人達の私室が並ぶ地下だ。職場とはいえ他人の家の地下、同僚と社宅のような状態で盆休みを過ごすというのはどんなものだろうとそわそわ気にしてはいたが、一条家家族は使用人の居住スペースにはむやみに立ち入らないような線引きをしているらしく、ふらふらせず私室に引きこもっていれば問題なくくつろげたはずではある。だが特段予定も入っていないし、お困りとあらば一条家の職場でまた少し経験を積むことの方が白夜には有意義に思えた。


 それに、完璧主義でプライドが高く、一条家の執事であることを誇りに思っている暁が、こんな風に困ったように誰かを頼ることは珍しい。普段と変わらない真剣なまなざしこそ保っているが、どこか憂鬱そうな重たい空気を隠しきれていないのも気になる。この状況で断るという選択は白夜にはやはり浮かばなかった。


 白夜が引き受ける旨を伝えると、やはり顔には出さないものの、「ありがとうございます。助かります」と頭を下げる暁の口調にはほっとしたようなニュアンスが含まれているように感じられた。


 役に立てるのは嬉しいが、それより一条家の盆とはそんなに大変なのかと白夜は不安になった。


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