僕は償えない

文字数 95,704文字

僕は償えない…
 外田健斗
 この田舎町の成人式の会場に 坂橋藍香の姿は無い…。
 スポーツが好きで スラっとした藍香の晴着姿は、きっと美しい事だろう…と思う。
 きっと僕の知らない何処かで 晴着に負けない華やかな笑顔で 成人式に参加しているに違いない。
 この町を彼女にとって「故郷」とは程遠い 『悍ましくて決して近寄る事など出来ない、思い出すだけで身震いする町』にしたのは僕だ…。
僕が14歳の時に友人達との悪ふざけで、彼女を苦しめて…。酷い傷を負わせて、彼女と彼女の家族を苦しめ、不信感の渦に陥れた…。
 藍香の幸せを 今ここで祈っても許して貰えないだろう…。
 僕は…決して…藍香と藍香の家族に償う事は出来ない…。



 農業を営む家が多いこの地域で僕は育った。
 小さな田舎では子供は少なく保育園の仲間も 帰宅後遊ぶ友達も小学校の同級生も、中学校のクラスメイトも、ずっと同じ顔ぶれだった。
 町の中に知らない人は居ない小さな町。とても狭い人間関係だった。
 子供が少ない事から1つの学年に1クラスしか無い。
 藍香も幼い頃からの同級生の1人で、幼稚園や小学校から同じ教室で学ぶ1人だった。
 藍香は幼い頃からスポーツが大好きで、優しくて純粋でいつも瞳が輝いていた。
 藍香の両親は自然豊かな土地での子育てをと思いこの地域に来た。父親は隣町の会社まで毎日通勤して居た。
 僕は藍香を幼い頃からずっと好きだった。好きだけど…好きだけど…僕は素直になれず、照れ臭くていつも藍香に素っ気なくしていた。
 好きなのがバレるのが怖かった。
 藍香も口数は多くない。だから僕が素っ気ない態度をしても違和感は無く過ごせていた。
 藍香は僕に好かれてるなんて思いもよらなかったのではないかと思う。

 そして僕らが中学2年生だったあの日…僕は藍香を傷つけてしまったのだ…。
 僕は恥ずかしさを隠すつもりだけだった。まさか藍香がこれ程までにも苦しむ事になるなんて…。
 僕は思春期の多感な中で、藍香に気づかれない様に彼女の姿を僕の視界の片隅に入る所に目線を置く事が増えた。
 藍香は屈託ない清らかな笑顔でクラスメイトの女子と仲良くしている。
 授業中に真剣な眼差しで黒板を見ている。部活の陸上で1000m走った後に呼吸を整えながらタオルでキラキラした汗を拭いている。どれもが愛おしかった。
 そんな僕の気持ちに気づいたのが僕の遊び仲間の沼川諒我だった。
 「おい、健斗。」
と僕をからかう様にほくそ笑んで声をかけて来た。
 「お前、藍香の事好きだろ」
 「そんな事ないよ。何だよいきなり」
僕はヒヤッとしながら焦りを隠した。
 「お前いつも藍香を目で追ってるんだよなあ。なあ一馬」
 「やっぱそうだよな!健斗の藍香見る目 何か違うと思ったんだよなあ」
 「おい、違うって! 」
僕が必死で否定すると諒我と畠野一馬は更にからかう…。
 そんな時に藍香は教室へ、帰宅する為にカバンを取りに来た。
 諒我が藍香の前でもしつこく
「健斗、藍香に告れよ! 」
と藍香に聞こえるように言った。
 僕は…藍香が好きなのに…ずっと好きだったのに…恥ずかしさを否定する為に
 「藍香なんてションベン臭えから嫌いなんたよ!」
と怒鳴ったんだ。
 藍香はそっぽ向き、僕らを無視して教室を出ようとした。
 諒我は藍香の行手を阻むと 
「お漏らししてんのか」
と詰め寄った。藍香は相手にせずもう一つの出口に向かおうとした。
 その時に一馬が藍香の足を引っ掛けて転ばせて…その時に藍香の制服のスカートを持ち上げた。藍香のショーツには生理の経血が少し付いていたのが見えた。刺激的だった。
 僕らはいけないと分かっていても美しく伸びた脚を見て歯止めが利かなくなった。
 藍香を3人で犯した。
 「やめて、嫌だ」
と何度も叫ぼうとした藍香の口を塞いで、僕と諒我が藍香の腕を押さえつけて、一馬が藍香の制服を脱がして見様見真似の行為を思う存分楽しんだ。
 藍香は怯えて死ぬ程泣いて、ずっと抵抗していた…。なのに…僕らは一馬が藍香の美しい身体をむしばむのを結託して手伝い、諒我と競うように夢中になって眺めた。
僕は卑劣な人間に成り下った。今の僕ならそう思う。でも、あの時の僕は刺激的な光景を野次馬の様に諒我を押し退けて眺め、自分も体験したいとばかり思って藍香の痛み等一つも考えていなかった。
 終わると藍香は急いで服を着て、全速力で逃げていった…。
 グラウンドでの軽やかな走りとは違い、よろめくのを必死で堪えながら魔物を見たかの様に走って行った。
きっと藍香の事だ。家に帰ったら部屋で声を殺して泣いて、お父さんとお母さんの前で笑ってたんだと思う。僕は最低だ。



 坂橋藍香

 この時、こんな事が起こるとは全く思っていなかった。
 男子達の悪ふざけやカラカイを放って置いて帰宅するだけの筈だった。
 転ばされてスカートを持ち上げられた時、思わずスカートを抑えようとしたが、男子の力の強さで抑えられず屈辱に晒された。
 この屈辱から逃れる為に身体を起こそうとした時、両腕を押さえつけられた。
なんて強い力…。肩の関節がひしめいても逃れられない…。
悲鳴をあげようとした時に口を塞がれ、一馬の手が制服のブラウスのボタンを外し始めた。
死ぬ程の力で抑えられた身体を動かして逃れようとしたが、びくともしない…。
 他人に見せた事の無い自分の肌があらわになって行く…。耐え難い屈辱と恐怖で声も出せなくなっていた。心も身体も怯えて震え切っていた。
 涙がどんどん溢れる。今迄生きて来た中で、こんなに涙が出た事はあっただろうか…。
 一馬が触れてくると寒気とムシズが走った。抵抗出来ない…。腕も関節も痛い…。
 でも押さえつけられて真っ赤になった腕よりも、身体をいたぶられた心の痛みと生理痛とは違う初めての痛みが自分がとてつも無く汚れたと思い知らせた。
 諒我の
「そろそろ誰か来たらやばいぞ!ああ、一馬だけずるいよな。」
の言葉で開放された。
急いで下着を着てブラウスのボタンを咽び泣きながら震える手でハメて、髪を整える事など忘れて教室から走り出た。
 脚に力が入らない…。走っても走っても校舎の階段に辿り着かない。
 3人の幼馴染の見た事の無い悍ましい表情が脳裏に追いかけてくる。走っても走っても3人の顔が頭から消えない。こんなに走ったのに家に辿り着かない。
 今された屈辱的で悍ましい光景が頭に何度も甦って追いかけてくる。
 父と母に「御免なさい」と何度も何度も心の中で謝ったが、自分の汚れが染み付いて取れてくれない。
「お前だけずるい」きっと今日みたいな事はまた起こる…怖い…。
でも父と母に言えやしない…、どうするの?学校に何食わぬ顔をして通うしか無い…。
 やっとの思いで家に着いた藍香は
「ただいま!部活で汗かいたからシャワーする! 」
と母に笑顔で言って浴室に駆け込んだ。
 ナプキンに白い見た事の無い液体が付いている…。気が狂いそうになった。
 嫌!私は汚れてる!洗わなきゃ!洗わなきゃ!
 シャンプーを何度もして、体も10回以上洗い直した。
 汚れが落ちない…まだ落ちない…まだ落ちない…。半狂乱になって洗って腕や鎖骨、身体に 薄い擦り傷がいくつも付いた。シャワーのお湯がしみる。
 ボディソープのボトルをブッシュすると 『カスッカスッ』と音を立てて空になっている事に気づいた。
 それでも汚れが取れない…私は汚い。
 明日は…学校行きたくない…。でも行かないとお父さんとお母さんが不審に思う…。行くしかない。
明日は友達の中本有紗も部活だから一緒に帰れない…。ホームルームが終わったら直ぐに全速力で帰ろう。


 健斗

でも、この一度きりで僕らのケモノのと化した行動は終わらなかった。諒我と一馬と僕はこの卑劣な快楽に酔いしれて、藍香の帰りを待ち伏せた。 
 数日続けて学校の使われていない物置や帰り道の誰もいない空き地藍香の手を引っ張ってったんだ。
 藍香は手を振り解こうとしたのに…。僕らの手の跡が赤く藍香の手首に残ってるのに…。

 僕は次の日も藍香を視界の片隅に入れていた。今日はどんな風に藍香をいたぶろうかと…。諒我と一馬と結託して『また今日も…』と楽しみでワクワクして、しょうがなかった。
 クラスメイトの有紗が無邪気に藍香に話しかけているのを見た。
 藍香は辛いのを隠すように、笑って誤魔化して有紗の話を聞いてた様に見えた。
 
 藍香の隣の席のクラスメイトに
『陸上の顧問が グラウンドの整備をするから 第二倉庫に集まってって言ってた』と伝言を頼み、顧問も誰も来やしない倉庫に待ち構えた。
 藍香が何も疑わずにやって来た。僕らの顔を見て全てを察した藍香は、逃げようとした。
 一馬は第二倉庫の扉を直ぐに閉めて、藍香の腕を僕と一馬が抑え、諒我が楽しみ尽くした。
 藍香の腕がカサカサになって引っ掻き傷だらけだったのを僕は気付いた。心の叫びがこの傷だと直ぐに分かった。
 でも昨日と同じく、いや更に拍車が掛かって いたぶり尽くした。
 学校内がチャンスであり、万が一人が来たらとのスリルであり…それが僕らを掻き立てた。
 時間的に1人しか行為を出来ない。明日は僕の番だ。 
 僕の為の日は、音楽室準備を昼休みにする当番が藍香だったのを利用した。
 昨日や一昨日と同じく防音効果のある音楽室で、僕は待たされた分だけ藍香を思う存分にいたぶりまくった。美しい体に酔いしれて藍香の涙など気にしなかった。
 その後、必死で堪えながら藍香は授業を受けていた。


藍香

 シャワーの後部屋に篭って藍香はひたすら泣いた。母に悟られまいと嗚咽を殺して泣いた。
 そして腕の擦り傷を隠す為に、暑い日ではあったが長袖の服を着た。
「ご飯よー」
と母がリビングから声をかけて来た。父も帰宅していた。
 両親に長袖を着ている事に触れてほしくなくて極力普通を演じた。
「藍香、長袖なんて着て暑く無いの? 」
母がすぐに声を掛けて来た。
「良いの、ただこの服が着たくなっただけ」
と普通を演じ続けた。
 父が
「熱でもあるのか? 」
と心配して藍香の額に手を当てた。その時に健斗達の事が蘇り、
「なんでも無いって! 」
と反射的に父の手を振り払ってしまった。父の心配も優しさも分かっている分、藍香自身も困惑した。
 しかし今の混乱を隠す為に、心で父に詫びながら
「もう良い 寝る! 」
と部屋に戻った。
 父と母が
「フフ、藍香も反抗期だもんな」
「もう、全く…」と話しているのが聞こえた。
 藍香はいつか、この忌まわしい出来事を訴える事が出来る機会があった時の為に詳細にノートに書いて残す事にした。
 あいつらからの事を訴える時の為に記録する…。とても苦しい作業だが、記憶が曖昧になる前の今しかないと思った。
 ペンを持つだけで涙が溢れた。あの光景が脳裏に浮かぶ、あの時の寒気や虫唾が戻ってくる。言葉にもしたくない屈辱的な光景を、休み休み泣きながら書いた。
 ノートは涙の跡であちこちふやけた。
 次の日 
『学校に行きたくない』とは両親にとても言えず、重い足と頭を引きずって学校に向かった。
 近所の有紗と合流して他愛無い話をしていると気が紛れた。
 いつも有紗と一緒に居るが、有紗の屈託無い笑顔はホッとするひと時を藍香にもたらした。
 そして部活は休み。今日はホームルームが終わったら即刻帰ろうと思っていたが、グラウンドの整備をする事になったと聞いて第二倉庫へ行った。
 中に入ると健斗達が居た。その時にあの伝言は仕組まれた嘘だと悟った。逃げようとしても一馬と健斗に腕を捕まれ諒我に弄ばれた。
 ちっとも汚れが落ちないのに更に私は汚れた…。
 また学校から、よろめきながら走って走って 走って…帰った。
 やはり走っても走っても、家がいつもより遠く感じる。
 次の日は昼休みの音楽室での準備時間…。用心しても相手は用意周到で、逃れられない様に予想を上回って来る。 
 そして健斗に弄ばれた。健斗は事の最後に藍香の胸元に青くマークを付けた。
 終わると震えながらボタンを閉めて、涙を飲み込みながら授業の当番の仕事をする藍香を、3人は
「藍香さん、授業に間に合わないよー」
「何やってたの?って先生に怒られるよー」
「可愛がって貰ってたから遅れました〜、って言うんじゃね? 」
と大笑いしながらからかった。
 藍香は必死で普通を装い授業を受けたが自分をいつまで保てるか分からない…限界が近いと感じて居た。
 学校から帰宅しシャワーに直行する。帰宅後のシャワー…もう3日続けてる。やっぱり昨日の汚れも、一昨日の汚れも今日の汚れも落ちない…。洗わずには居られない…。またシャンプーとボディソープが空になった。
 健斗付けられた胸元の青アザを消そうと擦りに擦ると、擦り傷になって微かに血が滲んだ。
 「ここだけ汚れを隠せる…」
 今日も虫唾を払い除けるかの様に擦っては流し擦っては流した。
 「昨日シャンプーとボディソープ詰め替えたのにもう無いのよ。パパ使いすぎよ」
と夕食時に母が話してるのを聞いて ビクッと藍香はなった。
「俺じゃ無いよ。お前の勘違いだろ。」
「うーん、ちゃんと入れたんだけどなあ…」との会話にハラハラして聞いていた。
 胸の擦り傷が少しカサブタになって服が触れると痛む。
 良かった…。このカサブタが あのアザも見えなくしてくれる…?
 またノートを涙で濡らしながら記録を進めた。
明日はどうやって逃げよう…。そうだ、帰りは有紗と帰れる…。それならきっと大丈夫…。大丈夫…。大丈夫…。大丈夫…。
 忌まわしい被害を受けた現場の学校は、恐怖でしか無い。
 藍香は自分に大丈夫…大丈夫…と何度も暗示をかけて学校に行く心の準備をした。


健斗

 僕らは学校では目撃される危険があるのでは?と予測した。そして計画を練った。
 学校と藍香の家の途中に有紗の家がある。そこで藍香が有紗と分かれて1人になった時がチャンスだと狙った。
 今は使われてない畑だった空き地がある。人目に付きづらい所だ。そこまで藍香を連れて行ければ思う存分交代で3人共楽しめると計画を立てた。
 有紗と藍香の姿が遠目に見えるのを身を隠して3人で確認していた。
 藍香と有紗は有紗の家の前で手を振り別れた。藍香が安心しきった顔でこっちへ向かってくる。
僕らも人気の無い所で藍香がここを通るのを待った。もう少し…もう少し…もう少し……。今だ!
 一馬が現れると藍香は顔色を変え後退りし、学校へ逃げようとした。そこを僕と諒我が取り押さえた。
 空き地へ無理矢理藍香を連れて行き、僕らは順番に知ってる方法を全て試してもて遊んだ。
 こんなに魅力的な楽しみが有るのだろうか…。悪ふざけに僕らは取り憑かれていた。
 一馬が家に居る寝たきりの祖母のオムツを持って来ていた。
「お漏らし藍香ちゃんにはオムツを当ててあげましょうね〜」と藍香にオムツを当てたのを見て僕らは大笑いした。
 藍香は涙でぐしゃぐしゃになって走って逃げた去った。


藍香

 無事に有紗との帰宅する事が出来る…。
学校を有紗と一緒に出る時に 今日は悪夢が無かったとホッとした。忌まわしい学校でも何事も無かったと有紗との会話に花を咲かせながら歩いた、
 こんなに平和なのは久しぶりだった。学校から下校する時には安心して楽しくお喋りして…以前の生活に戻ったみたいな時間だった。
 有紗の家の前で手を振り別れて、後は家に帰るだけ…と歩みを進めると一馬がここで 待ち伏せて居て突然 目の前に現れた。安心し切って居た分、酷く落胆した。
 そして学校に向かって走ったが、防風林に隠れて居た諒我が藍香を捕まえた。健斗も防風林の陰から出て来て藍香を抑え込んだ。もがいても何しても身動き取れない。油断して居た…。今日も汚される…。帰り道のここにまで待ち伏せるなんて…。もう嫌だ…もう嫌だ…。その言葉も猿ぐつわで声を発する事が出来なくなった。
 藍香の身体を次々と人を変え、やり方を変えて卑猥で卑劣に弄びたいだけ弄び尽くされた。
 そして最後に侮辱するかの様に一馬からオムツを当てられた。
 やっと開放されて、藍香は3人の笑い声から耳を塞いで逃げた。
 いつもの登下校の後少しの道が、走っても走っても進まない。次の電柱が見えて居るのに届かない。家から歩いて2分の所にあるポストがこんなにも遠い。心労でフラフラになりながら、ひたすら走った。
「助けて…助けて…助けて…、」誰に助けを求めて居るのか分からない。でも心が助けてと言う。身体はガクガク震える。やっと自宅が見えた。
 家に着いても涙が止まらない。涙を流しながら、母の
「どうしたの⁉︎ 」
と言う声も耳に入らず、フラフラと風呂場に行った。
 オムツを外し、怒りをぶつける様にゴミ箱に投げ捨てた。そして身体を夢中で洗い始めた。
「洗ってるのに汚れが落ちないよ…落ちてよ…綺麗になってよ…。」
 何度も何度も洗って、更に擦り傷が増えた。
 母は、シャンプーとボディソープの減り方や長袖を着ている藍香の様子を見て、何かを感じて居た。泣きながら帰宅し、そして朦朧と浴室へ向かう娘を見て只事では無いと疑う余地は無かった。そして藍香がシャワーを終えるのを待った。
 長く待った気がする…。浴室の扉の開閉の音がやっと聞こえ、藍香が服を着たであろう頃を見計らって脱衣所のドアをノックした。
「藍香、ちょっと入って良い? 」
……。
返事が無い。ゆっくり扉を開けて
「藍香入るわよ」
と脱衣所に入ると、涙を溢れさせながらうつろな瞳で長袖のギンガムチェックのブラウスを着て立ち尽くしている藍香が居た。
「藍香? 」
近寄る時にゴミ箱のオムツが見えて、思わず目を見開いた。
「藍香、これ…一体何⁉︎ 」
と腕を掴んだ。その時に顔を覆って泣く藍香のブラウスの袖に 擦り傷の血が少し滲んでいるのが見えた。
「藍香…この傷…! 」
思わず母は藍香の袖をまくった。無数の擦り傷が目に飛び込んだ。
 補充しても補充しても無くなるシャンプーとボディソープ、擦り傷、我が家には有る筈の無いオムツ…。母は全てを察して藍香を抱きしめた。藍香は
「私汚れてる。洗っても洗っても落ちない…。私汚れてる…私…私…汚れてる…。」
と呪文の様に呟いた。藍香と母は抱き合いながら床に崩れるように座ってハラハラと泣いた。時を忘れて泣いた。日が暮れたのも知らずにずっと泣いた。
 父が帰宅した。玄関の鍵が開いているのに家の中が暗く不思議に思い、
「母さん、藍香? 」
と声を掛けてリビングの照明をつけた。 
 急に明るくなり、藍香と母は日が暮れて父が帰宅した事に気付いた。
 父は抱き合って涙を流している母と愛香を見て驚き、
「どうしたんだ⁉︎ 」
と尋ねた。母がゴミ箱に捨てられたオムツを震える指で差して父に見せてから、藍香の腕の擦り傷を見せた。
 父は眉間にシワを寄せて目を瞑って、現状を把握した。
「いつから我慢してたんだ? 」
と父が優しく問い掛けると、
「待ってて」
と藍香はノートを部屋から持って来て渡した。父と母がノートを開き読み進めると、酷いいたぶりの内容を明確に記されている文と涙でふやけているページを目の当たりにした。そして藍香がどれだけの重荷を背負って居たかを知った。
「藍香…」
父が藍香に手を伸ばすと藍香は後ずさった。
「藍香? 」
藍香は壁の隅に迄行き、身体を丸めてうずくまり震えた。
「御免なさい…お父さんは悪く無いのに…。男の人が怖いの…。声も怖い…。怖い…。私 壊れるのかな…。怖い…怖い…」
 愛する娘が自分を恐れている…。壊れそうな娘を自分は助けられない…。父は大きくショックを受けて、差し出した手を引っ込めるのも忘れて立ち尽くして茫然とした。
 母は 
「藍香、今日は寝なさい」と部屋まで藍香を連れて行った。
「藍香、明日から学校は行かなくて良いからね」母の言葉に安心して、嗚咽を上げて泣いた。藍香の嗚咽が響く家。父は自分の無力に泣いた。
 母がリビングに戻ると、父はソファに座り力の無い顔で一点を見つめて居た。
「貴方は悪くない。悪いのは男子生徒達よ」と母は声を掛けた。
「分かってるんだ…。分かってるんだ…。でも…済まない、今は心の整理が必要だ…」
「そうね…。私もだわ」
そして晩ご飯も食べずに就寝した。
 藍香も父も母も全く眠れなかった。
 父は朝方には心が決まった。
「藍香に近づけなくても助ける事は出来る」と
 そして藍香にラインした。
「お父さんは藍香の力になりたいんだ。今できる事は藍香の負担にならない事だ。藍香がリビングにいる時は、お父さんは別の部屋に居るように出来るから。必要な会話はラインでしよう。いつでも力になるから」と。
藍香は涙を浮かべながら
「ありがとう…ごめんね。お父さんに感謝してるのに傷てけてしまう」
と返事をした。
「悪いのは藍香じゃない、あの3人だからな。心の傷を休めよう」
との父の言葉に奮い立ち、昨日の空き地での出来事をノートに記した。
 いつか…いつか…私が戦う事がある日のに…。書く作業は、あの忌まわしい出来事を再度思い起こさなければならない…。でも、いつか戦う時の武器になる様に…。
 ノートは涙でまたあちこちふやけて居た。
 でもこれを書き終えれば更に記録する事はないだろうと、震える文字で書き上げた。
 

健斗

 あの空き地での一件の次の日から藍香は学校に来なくなった…。僕らは心の中で『マズイ事になった』と目くばせした。
 その時僕が恐れていたのは…
『藍香が休む事の理由で僕らのしでかした事を学校に言うのではないかという事』
「酷く怒られるであろう事」
『僕らの悪事がこの小さい町中に知れ渡る事』
『内申書が悪くなり、高校受験に響く事』
『友達が去る事』
『受けなければならないペナルティ』だった…。
藍香が背負った辛さを微塵も考えずに、僕は自分に何が起こるかと言うことしか頭になかった。

 藍香が学校を欠席した日、僕と諒我と一馬は 3人で『あの事』がバレてやしないかと、コソコソとその事ばかり話していた。
 もう僕は多くを失う覚悟をし無ければならないのに、怖くて堪らなくて居ても立っても居られなかった。
 でも、怒られたのは担任の中里智恵子先生からだけだった。
「あなた達がしている事は犯罪よ。分かる?人の心と身体を踏みにじる行動を連日するなんて…恥ずかしい事だよね。 これから校長先生と教頭先生からも指導があるわ。真摯に向き合って反省するのよ」
と。
 そして 校長室に僕らは呼ばれた。校長先生、教頭先生、中里先生が揃う中で僕らはうつむいて黙って居た。
 校長先生が、
「本当に君たちは やったのかね? 」
と静かに聞いた。
 僕は声に出さずうつむいた。すると校長先生の眉間に皺が寄った。そして今度は一馬の顔を見た。
「何の事ですか? 」
一馬は憮然と言った。
「同級生を襲ったりしてないのだね? 」
と校長先生は『やってない』という返答を導き出すかの様に聞いた。
「そんな事はしてません」
と一馬が言うと諒我も
「はい、やってません」
と答えた。
 僕は2人が嘘を平然と震えもせずに答えた事に少し動揺したが、もしかしたら咎められずに済むのでは…と期待した。
「2人はやってないと言ってるよ。君もやってないってことでは無いかい? 」
と校長先生が僕の言葉を遮った。
「やってないならそう言いなさい!やってないんだね」
と聞かれ、僕は頷いた。
 校長は僕らはやってないと決定付けた。
「待って下さい校長!藍香さんのご両親からから実際に…」
中里先生が真実を追求すべきと校長に意見すると校長は遮る様に
「中里先生、この子達はやって無いと言っているんだよ。やってない生徒を犯人扱いするのですか?」
「いや、そうではありません。事実を正確に把握すべき大きな問題なんです!じゃ無ければ藍香さんは学校を休む…」
「襲われた証拠はあるんですか?この子達は やって無いと言っている。この子達にそんな大きな問題を押し付けるなら証拠を見せなさい!騒ぎ立てた方が正しいとは限らないのですよ!この子達がやった事実確認は出来なかった。それだけです!解散! 」
 校長先生は理由は知らないが僕らを庇った。何故だろうと思ったが、これで僕らを咎めるものは無くなりそうだと胸を撫で下ろした。
 この時の僕らは反省よりも、自ら犯した罪があばかれる心配は無くなったと安堵した気持ちでいっぱいだった。傷ついた藍香の事も忘れたかの様に…。
 

藍香

 有紗が放課後、藍香宅へ見舞いに訪問した。
呼び鈴が鳴り母は玄関に行った。
「あら、有紗ちゃん」
「藍香ちゃん具合悪くて休みと聞いたんですが、大丈夫ですか? 」
と声が聞こえた。藍香は自室から聞き耳を立てた。
「先生は私が具合悪いと言っておいてくれたんだ…」
と察した。母が
「有紗ちゃん ありがとう。心配してくれたのね。今も体調悪くて寝てるのよ」
と藍香が説明に困ると思いそっとしておこうと 配慮して返答してくれた様だった。
有紗は
「これ、食べて下さい」
と桃とジュースの入ったビニール袋を母に手渡して元気に帰って行った。
 有紗に隠し事をする事に罪悪感を抱いたが、この問題を聞かされて受け止める有紗の負担を思うと黙って置いた方が良いのだと思う。

そして夕食後、校長と教頭と中里先生が今回の件で話をしに来た。
 母は
「説明するのが辛かったら 日記を先生に見せなさい」
と藍香にノートを用意させた。藍香はノートを震える手で握りしめた。その震えを止めようとすると身体も震えた。男の人が怖い…。声も怖い…。校長先生と教頭先生が怖い…。やはり男性に対する拒絶反応が出る。気付いたら藍香は歯を食いしばって、冷や汗をかいていた。
 中里先生が
「藍香さん、大変だったわね。大丈夫…じゃ無いよね」と声を掛けてくれると涙がポロポロ出て来た。
 校長が
「えー、沼川諒我、畠野一馬、外田健斗に事情を聞きました。
本人達から詳しく話を聞いたところ、そう言う事実は無いと確認取れました」と胸を張って報告した。
 藍香と父と母はあっ気に取られ
「えっ? 」
と声を揃えた。言葉に詰まった後、
「嘘、嘘です! 」
と藍香はパニックになり呼吸が乱れた。母と中里先生が藍香に
「ゆっくり息を吐いて。大丈夫よ」
と宥めて背中に手を当てた。
 父が
「それで解決ですか…こんなに娘が苦しんでいるのを見て、何事もなかったと言うんですか? 」と低い声で答えた。校長は
「きっと娘さんは何か勘違いをされたのでしょう。心配無いので学校に安心して来てください。お互いの意図の行き違いはよくある事です」と答えた。
「いや、行けない…怖い…行けない…勘違いじゃない…」
藍香は下を向いて涙をポタポタこぼしながら振り絞る様に呟いていた。
母は
「娘は勘違いなどしてません!見せたくも無い記録を用意して証拠を提示しようとしてるのです!普段は本来こんなに恐れて震えていません。スポーツが好きで、はにかみながらも学校が好きな子なんです! 」
お声を荒げた。
 母が先生達にノートを差し出すように促すと、藍香はノートを中里先生に震える手で渡した。先生達は目を通した。
 中里先生の顔は読めば読む程どんどん悲しそうな顔に変わり目を瞑ってうつむいた。
「犯されたと書いてあるが… 具体的にどんな事をされたか、詳しく説明してくれないかい?」
と校長が藍香に言った。
 あの時の事が蘇って来て、藍香は頭を抱えて しゃくりあげて泣いた。そして息が更に乱れ言葉が出なくなり、リビングから這う様に逃げた。
 母が来て背中を撫でてくれた。そんな母の目にも涙が溢れて居た。
 校長に対して中里先生が
「何故傷を広げる様な質問をするのですか…ここまで明確に書かれています。もうこの文章だけで何処で何をされて、どれだけ屈辱を背負ったのか明確じゃ無いですか。これ以上具体的に話せって…藍香さんを責めるだけです。ノートを差し出した藍香さんの勇気を無駄にしてはいけません校長 」
「いや、努力は認めますよ。でも残念ながら明確では有りませんね。オムツの記載も有りましたが手渡されただけかもしれない。彼女のパニックも、もし嘘なら事が大きくなって困惑しての事の可能性もあります。あの3人を罰するにしても事実かハッキリしない以上は不可能です。本当に彼らが加害者でなかったなら、彼らこそ被害者ですよ。それに『襲われた』とクラスに知れ渡って その中で登校する事の方が荷が重いでしょう」
と校長は動じずに語った。
 父は
「こんなに学校内での事で娘が傷つけられても校長先生や教頭先生に解決能力は無いとの事ですね、分かりました。娘は私達が護ります。学校には頼りません。これ以上話しても娘をを傷つけるだけです。どうぞお帰り下さい」
と怒鳴りたいのを堪えて静かに言った。
 校長は作業が終わったと言わんばかりに、
「では、失礼致します」
とソファから立ち上がり頭を下げ、そそくさと玄関に向かい教頭もその後を追った。
 中里先生が帰り際に
「何も出来ず、申し訳ございません」
と頭を下げた。
「貴女が校長先生なら 違ってたのでしょうね」と父が残念そうに言った。
 部屋に戻って休んでいた藍香は暑さで開いてる窓から。車に乗る校長が
「やれやれだな」
と言ったのを聞いた。
 頼りにして良い大人と、しちゃいけない大人が居る事を目の当たりにした気持ちだった。
 父から藍香にラインがあった。
「引越そう。挨拶しなくて良い様な街へ。そして転校しよう」
と。


被害届

 藍香は母に連れられて交番に被害届けを提出しようと出向いて来た。
「坂橋さんこんにちは、今日は親子でどうなさいましたか? 」
「実は娘が…性被害に遭いまして…被害届けをと思いまして。」
 怯え切っている藍香を見て巡査は
「そうかい…いやー、辛い思いしたね。可哀想にな、こんな純粋な若い娘さんが…」
と胸を痛めた、
「まあ、座って、どうぞどうぞ」
とパイプ椅子を用意した。
 噂好きな巡査の妻が話に聞き耳を立てたくて、お茶を運んで来た。
 巡査は鬱陶しそうに手を払ってこの場から離れる様に促し、妻は後ろ髪引かれる様に詰まらなそうな顔をしてお茶を置くとお盆を持って退散した。
「辛い事聞くけど…いつ、どこで、何があったか話してくれるかい? 」
と巡査が藍香に優しく問いかけた。
 藍香はノートを静かに手渡した。
「うわー、3人かい、酷いなあこりゃ…」
と同情して居た顔が、『畠野一馬』と言う名前が出てくる文を読んだ途端一変した。
「すまんが、こりゃ証拠にならないなあ」
と最後まで読まずにノートを閉じて調書の紙も片付け始めた。
「えっ、何でですか⁉︎ 」
母が身を乗り出した。
「結局こう言うのは現行犯じゃないとね。それに調べる時にも裁判でも、全部被害の細かい所まで話さなきゃいけないんだよ。そんな事何度も人前で話して、証拠無しで裁判が終わる。もし相手の罪が立証されても少年法だからね。大した罪にはならない。まあ、運が悪いと思って諦めた方がいい。俺パトロール行かなくちゃならないから、じゃあ恨まないでくれ」
「ちょっと待ってください!あの! 」
藍香と母は愕然としたまま交番から追いやられる形となり帰路に着いた。
 巡査はパトカーの中で1人ボソッと呟いた。
「町長の畠野さんの息子さん相手はなぁ…」
と。
 母と藍香はトボトボ歩きながら思いを巡らした。
 警察にさえ私達の手は払われる…。社会から見放された思いになった2人だった。

 その日の坂橋家の夕飯が済んだ頃、被害届けを藍香が出しに行ったと噂を聞いた一馬の父が、坂橋家へ500万円を紙袋に入れた物を持って訪問した。インターホンが鳴り母が『はい』と出ると
「夜分に失礼します。畠野です」
と町長が頭を下げて居る姿がモニターに映った。父と母が 玄関を開けると
「娘さんが大変お辛い目に遭ったと聞きました。お見舞いとしてこれを…どうぞお受け取りください」
 父はスマホの録音機能をオンにしてポケットに忍ばせておいた。そして
「これは、どう言う意味でしょう? 」
と差し出された物に手を伸ばす事なく尋ねた。
「ですから娘さんへのお見舞いとして、少しでも力になれたらと思いまして…」
「謝罪では無いんですね。こちらは 息子さんが関わったと聞いてますが」
父が厳しい口調で問いかけた。
「息子は学校の調査での通り、関わりない事が判明しました。ですから…」
「息子さんが関わってないなら何故貴方が娘の見舞いに来るんですか⁉︎ 」
藍香の父の言葉に一馬の父は必死で言葉を探した。とにかく、お金を渡して 口をつぐんで欲しい…そこまで至らせる為のセリフを探した。
「いや私は町長として町民が少しでも平和な生活をと思い…500万円、まず用意しましたので…」
 藍香の母は差し出された紙袋を跳ね除けると、町長の身体に一万円札がひらひらと無数に舞い落ちた。町長は玄関の中のお札を拾い、外に落ちたお札も四つん這いになり拾った。風に飛ばされない様に必死になって拾い集めている。
「お金なんかじゃない!欲しいのは、あの日の前の藍香の生活です! 」
藍香の父も
「話が食い違いますね。これ以上逆撫でしないで頂きたい」
と言葉を残し町長を放って置いて、父と母は玄関の扉を閉じて鍵を締めた。
 一馬の父は苦虫を噛んだ顔で、拾い集めたお札を紙袋に入れた。そして四つん這いになった時に着いた膝の土を払い、車に乗りドアを乱暴に閉じてアクセルをブォーンと蒸して帰って行った。
 父はスマホの録音をオフにし
「藍香の笑い声を本当なら録音したいなあ…」
と呟いた。
 この狭い地域の理不尽に父と母は抱き合って泣いた。
「俺の仕事の取引先で、近所付き合いが殆どなくて静かな都会の雰囲気が漂う街があるんだ。そこの物件を見て来た。そこに引っ越さないか?ここの町は辛すぎる」
「そうね…。藍香も転校して、誰も知らない所に住んだ方が良いわね」
「それと俺と君は藍香に対して笑顔で居よう。悔しい思いもあるけど…それに飲み込まれたら、悔しさだけの家になってしまう。せめて家では笑っていよう」
「…そうね。笑ってるわ」


健斗

 藍香と彼女の母が交番に被害届を出しに行ったと僕の耳に入った。
 やっぱり安心しちゃいけないんだと思ったが、その後僕らが加害者だとの話が全く出て来なかった。
 その話をこの町の人に言いふらしたのは交番のお巡りさんの奥さんだった。彼女は口が軽く噂好きと有名だった。
 買い物中に通りすがる町の知り合いに
「ちょっと、藍香ちゃん、襲われたって被害届け出しに交番に来たんだよ、お母さんと。
 実際に襲われた証拠が無くて、届け出すには至らなかったんだけどさ!
ただ誰が相手か迄は分からないんだけどね。意外と誘惑してたのかもしれないよあの子。美人で頭いい子と思ってたらねー」と完全に藍香が悪者かの様にふれ回って居た。
 僕ら3人の中でも被害届の話になった。
「何で証拠が無い事になったんだろう…」
と僕が呟くと
「俺の親父が町長だからだよ。親父が町長になる前には寄付しまくって学校のクーラーも新しくなったし、役場に障害者トイレ増やしたし。あの山の山桜の辺りに道の駅作って『桜吹雪と星の降る道の駅』って売り出したら、結構観光客も来る様になったし。役に立ってんだぞ親父。だから畠野一馬なんて名前出たら、校長もお巡りもビビって揉み消すんだよ」
と余裕を見せて言っていた。
「でもさ、昨日親父が藍香の家に500万持ってったんだって。あの母親、払い除けたってさ。1000万なら受け取ったのかもな。どっちにしろ親父が揉み消すから大丈夫なんだよ」
これでお咎め無しだ…。あの過去は消されたんだ。ホッと胸を撫で下した。
「健斗、持つべきものは『友達』だろ?感謝すれよ」
と言われて 3人はほくそ笑んだ。


藍香の両親

 藍香の精神状態をケアする為に、父と母は力を注ぎ込んでいる分、憎しみと戦う事もあった。気を許せば 
「あの加害者の少年達や、傷ついた藍香を勘違いして噂して居るいる町民、証拠が無いと手を差し伸べない大人達、罪から逃げようと大金をチラつかせる大人、何故そんな人達に翻弄されなければならないのか!」
との思いに呑み込まれそうになる。
 学校で授業に頑張って取り組んでいた藍香、陸上の部活の練習でタイムを上げる為に練習を積み重ね鍛えていた藍香、夏の祭りに浴衣を着て有紗と楽しんでいた藍香、家の中で警戒しなくて済んでいた藍香…。ごく普通の生活が、あの3人に奪われた。
 今はそのごく普通が『若気の至り』と世間が言って見過ごす出来事のせいで狂わせれて居る。
 なのに何故あの3人は今も普通に暮らして居るのか…。
 生徒達が制服を着て行き来する姿が眩しくて 心に痛い。藍香も制服を着て登下校してる筈だったのに…。それをあの3人と、彼等の罪を握り潰した人達、心無く噂する大人が奪ったのだ。そして最後に思いながらも止まるセリフ…
「普通の藍香を返して!」
つい町長にはこの言葉を投げてしまったが、このセリフを言ってしまうと、藍香はもう普通を取り戻す事が出来ないと諦める事を認めてしまいそうな気になる…。
「藍香の普通の生活、私達が取り戻して見せる。あの3人になんかには負けない! 」
と思いは至るのだ。
 いつもこの思いが油断をするとやって来る。呑み込まれたら…。きっと藍香はそんな父や母を見て苦しむのだ。娘を苦しませない為に憎しみから目をひたすら背けた。

 父は引っ越し先の物件が見つかった後、藍香が心の治療をする為に通える範囲で病院を探した。
『女医が主治医である事、他スタッフも女性が好ましい…。ベテランで丁寧な診療で、思春期外来等が得意な病院…』血眼になって探し、良さそうな病院が一軒リストアップされた。
 予約の電話をすると
「新患の方ですね。只今予約が3ヶ月後迄埋まってますが、もしキャンセルが出た際には早目に受診可能となります」と返答された。
 「3ヶ月待ち…」そんなに待たなければならないのか…。今必要なのに…。
 でもここで予約しなかったら、今度予約できるのはもっと後になるだろう…。取り敢えず3ヶ月後に予約し、キャンセル待ちに期待をする事にした。
 更に遠い地域で通える範囲の違う病院も探してみた。

 母はシャンプーやボディソープの、メーカーや品質が少しでも刺激が少ない物を選んで藍香の擦り傷が改善する様に試みた。
 これくらいで治らないのは承知の上だった。しかし何もせずには居られなかった。
 夜に藍香がフラッシュバックが起きると側に寄り添い
「心配無いわ。今は家だから」
と背中を撫でた。
 また昼間には藍香を、この町から離れ少し遠い所へ母のマイカーの軽自動車でドライブに連れて行き、気分転換をさせる事が増えた。
 2人でアイスクリーム巡りをしたり、引っ越しの荷造りをしたり、新しく住むマンションでの生活の為の家具を見に行ったり…。
 今のこの町での現実を少しでも忘れられる様にと努めた。
 そうして2人で笑う時間を作った。


藍香と有紗

 有紗が藍香の部屋に遊びに来た。きっと被害届の噂は有紗の耳に入ってる筈だ。
 有紗はそんな事は無かったかの様に、いつもの屈託ない話しをして居た。藍香も楽しくて一緒に笑った。
 そして、有紗にその内引っ越す事を話した。有紗は凄くビックリした顔をしたが、しばらくして目を伏せて、
「そうだよね…ここに居るの辛いよね…。藍香には側にいて欲しいけど…、一緒に学校に行きたいけど…、一緒に修学旅行も行きたいし、一緒に卒業もしたいし…。でも、ここに居たら、藍香が涙を堪えなくちゃならなくなるもんね。私は何処に居たって藍香の幸せを願ってるから。藍香の友達だから! 」
と藍香を抱きしめてくれた。
さっきまで2人で笑ってたのに、2人で思い切り泣いた。
有紗は私に何があったのか、噂で知ってるはず。でもその事は何も言わないで、いつもの有紗で居てくれる…。
擦り過ぎた腕の傷がヒリッとして「うっ」て声が出てしまった。
有紗がとっさに私の腕を見た。腕が赤く擦り傷だらけなのを見て愕然として固まった。
有紗は
「塗り薬有る? 」
と聞いた。
「うん」
と言って引き出しから持ってきて渡すと、優しく塗ってくれた。
「こんなに傷付いて…頑張って…。痛いよね。傷も心も…。痛いのに頑張ってるんだね」
と言って声を震わせて涙を流しながら塗ってくれた。有紗の薬を塗る手は温かかった。
 有紗はあちこちから入ってくる藍香が襲われて被害届けを出した噂に苛立ちを感じて居た。『藍香が誘惑した』とまで…。藍香の傷付いた話を面白おかしく話す人達の無神経さを苦々しく思った。
 藍香はそんな悪意を持った人間では無い!何故本当の事を知りもせず、上っ面の尾鰭の付いた話を皆んな鵜呑みにするのか…。
 有紗は藍香の腕の傷を見て、どんなに辛かったか大体の事を察した。こんなに傷付いた人を『噂』と言う武器を振り回す人に、更に傷つけられている藍香を見て只々涙が溢れた。
 藍香も有紗が多くを察し、問いただす事なく共に痛みを理解してくれる事に涙が込み上げて
有紗に抱きついた。2人は再び抱き合いながら涙を流した。暖かい涙をハラハラと流し、理不尽に対してひたすら悔し涙を流した。


 そんな時、父が予約した病院から
「受診のキャンセルが出ましたが、受診されますか? 」
と連絡があり、病院の予約が取れた。

 母の運転する車で訪れた病院は、一歩入ると小綺麗で優しい色のソファが並ぶ落ち着いた待合室だった。
 受付の女性スタッフが物静かに
「坂橋藍香さん 問診票の記入をお願いします」とファイルを持ってきた。
「書き終えたら受付に持ってきてください」
と言って会釈をして受付に戻った。
 母が問診票を書いていた。藍香は何となく何が書かれて居るか気になったが、母を信頼して任せることにした。

 問診票を書き終えてから30分位待っただろうか。
「坂橋藍香さん、診察室へどうぞ」
と呼ばれた。診察室に入ると白髪混じりの 優しい笑顔の女医が
「こんにちは、私は医師の松山由美子と言います。よろしくお願いします。先ずは娘さんからお話を聞いて、その後お母さんからお話を聞いても良いですか? 」
と診察の手順を案内してくれた。
「はい」と2人で答えると、母は診察室の外に出た。
「あら、住所を見ると遠くからいらしてくれたのね。お疲れ様。何時に起きたの?」と聞かれ藍香は
「6時半です」
と答えた。
「そう、お疲れ様でしたね。普段は何して過ごしてるの?」
「母にドライブに連れて行ってもらったり…学校行ってた頃の友達が来たり、勉強したり…」
「あら、アクティブねー。じゃあ3回ちゃんとご飯食べてるのね」
「はい」
他愛無い感じの話で藍香がリラックスすると、少しづつ症状、きっかけとなった出来事等を聞かれ、藍香は素直に答えた。時に震えて涙が溢れたりすると、女医は手を取り
「辛かったね。頑張ったね」
と受け入れて、急かすことはなかった。藍香に足並みを揃えるかの様に問診は進んだ。
そして身体を洗って擦って出来た擦り傷を見た医師は、
「痛いね。心が辛い痛いって言ってるのね。嫌な物を洗い流したかったのね。この傷も治ります。そして、貴女の心の傷も。ちゃんと治療すれば 治ります。だから焦らずゆっくりと治療していきましょう」と言った。
 力強くて揺るがない希望をくれる言葉に、トンネルの出口がある事を知らされた思いになり、光が見えた気がした。
 藍香の後に医師と話した母も、光を見た気持ちだった。
受診後ら車での帰り道『この傷も心の傷も治ります』と主治医に言われた言葉を母と藍香は心の中に何度もこだまさせた。
 それから2週間に1回 受診し、処方された不安時の頓服をフラッシュバックが起きそうな時に藍香は服用していた。
 ただ父と顔を合わすのは、まだ克服できずにいた。

ある日、医師が提案してきた。
「今日はね、お母さんと娘さん一緒にお話ししましょう」
と診察室へ招きいれた。
「藍香さん、引っ越し後と転校を考えていらっしゃるのよね? 」
「はい」
母と藍香が答えると
「せっかく転校するなら…良い学校を選びたいですよね」
との医師の言葉に、2人は目を見開いた。
「良い学校 有るんですか? 」
母が声を裏返して、食いつく様に尋ねた。
「この学校、良いと私は思うのですが」
とパンフレットを渡しながら医師は説明を続けた。
「公立の中学校に行けば 男子生徒も居る。先生も男性教師も居るでしょう。登下校中も男性とすれ違う。そんな事で出来るはずの回復を削がれて欲しく無いんですよね」
「はい。そこが不安だったんです」
藍香と母は期待を持って良いのか…と鼓動が強く鳴るのを感じた。
「この学校は キリスト教系の女子中学校と高校でして、教師やスタッフ全員がシスターです。
 寮もあるので、ご希望であれば寮に入る事も出来ます。寮のスタッフがシスターです。
 寮は学校の敷地内にあるので、男性と顔を合わす事は滅多に無いでしょう。顔を合わす人が全員女性という事と、心に傷を負った生徒のケアにも力を入れて居るので、藍香さんの安心材料の1つになると思います。似たような経験をしている生徒も多いので理解者が多くなると思うのですが、いかがでしょう?検討も必要だと思うので『こう言う方法も有る』と言うくらいに考えて、ご家族で話し合われると良いと思います」
 藍香と母はら寮生活と言う事に驚いた。しかし今の藍香でも通う事の出来やすい学校がある事に希望を持たずに居られなかった。
 また藍香としては、寮に入れば父に気を使わせながら生活しなくても良い事もホッと出来る材料でもあった。
 帰宅後、父と母がパンフレットを見ながら話し合った。父もこの学校に好印象を持った。結論は『まずは 見学してみよう。』と言う事になった。
 直ぐ母は見学の連絡をし、数日後出向く事となった。


聖白百合学園

 見学日当日に藍香は、見学先の学校への礼儀を思って制服を着ようと思った。 
 しかし制服を着る事に強く抵抗を感じ、ただ制服を横目で見ていた。
 母が 
「愛香、このスカートと白いブラウス着て見学の日には行こう」
と新しい落ち着いたチェックの柄のスカートを用意してくれた。
「お母さんありがとう」
何が辛いか察してる様に母は、制服を持って
「これ、洗濯するわよ」
と持って行ってくれた。母のお陰で見たくない物が1つ部屋から消えてくれた。

 当日、母の運転する車で、見学先の学校に向かった。
 ナビに従って行くと、引っ越し先のマンションから電車で駅2つ先の所に学校はあった。
 車を降りると
『聖白百合女子学園』と書かれた校門が目に入った。その校門を通ると、広大な規模の敷地が広がった。どこが中等部の校舎か、高等部の校舎は何処か、寮は…。2人は迷いそうになった。
 1人のシスターが近寄って来て
「坂橋 藍香さんとお母様ですか? 」
と微笑みながら声を掛けた。
「あっ、はい」
「お会い出来るのを楽しみにしていました。ご案内致しますね」
優しく気さくな話し方に、2人は少し安心した。
 中等部の校舎の前には、大きなグラウンドがあった。思わず藍香はグラウンドに目をやった。
「藍香さん、スポーツお好きなの? 」
「あ、はい」
遠慮がちに答えた。
「放課後は部活でグラウンドを使う生徒も勿論居ます。でも部活に所属しなくても、ここの生徒であれば自由に使って良いのよ。ここの生徒達の中には、チームプレイが好きな子も居れば…1人でスポーツをしたい子もいるの。1人でテニスの壁打ちをずっとしてる子も居るのよ。この学校で大切にしている事は 『人を大切にする』事なの。チームプレイでも、個人でのスポーツでも、スポーツでもスポーツでなくても、いつでも一人一人を貶す事なく思いやって過ごしてるのよ。だから不思議に見える行動をしている人を見ても、どんな人を見ても決してバカにしない生徒達ばかりなのよ」
お話してくれた。
 それは藍香がどんな辛さを持っていても 誰も皮肉を言ったりバカにしないと言ってるかの様だった。
 そしてシスターは、2人を中等部校舎内の応接室に案内した。
「藍香さんは ブラウニーお好き? 」
と言って、何やら持てなしの用意を始めた。
「あっ、はい」
「良かったわ〜。私の自慢のブラウニー、紅茶と一緒に召し上がって」
綺麗な皿に盛られたブラウニーと白いティーカップに注がれた紅茶を、そっとシスターは差し出した。
「ありがとうございます。」
「頂きます」
一口口にすると、濃厚なチョコの味が広がった。
「美味しい…」
藍香が呟くと
「あらー嬉しいわ。甘い物やチョコレートを食べると幸せな気持ちになるのよねー」
屈託無く微笑むシスターとの会話に心が解けて行くのを親子て感じた。
 「藍香さんは 将来の夢はある?」シスターが 『何故ここに見学に来たのか』とは あまり関係なさそうな質問をするので 藍香は不思議に思ったが、答えを探した。
「えー、まだ決まってませんが…。英語は将来も大学で学びたいです。」
「あら、英文科の大学?素敵ねえ。英語を使えると社会で強みになるものねぇ。素晴らしいわ。素敵な希望ね。貴女ならきっと叶うわ。」褒められる事が久しぶりな藍香は この心の傷の為に学校に行けてない事や、父に顔を合わせれない事、自分が汚いとしか思えない事等を抱えて 素直に受け止めて良いのか戸惑った。
「戸惑わないで。貴女は克服しよう…何かを変えようとここへ今日来たのでしょう。今から貴女の理解者、いや貴女が理解者となれる場所へ行ってみましょう」
とある教室に案内された。その教室では、5人程の生徒が椅子を輪の様に並べて話を始める所だった。
 そこに集まった生徒は、藍香と同じ性被害を受けた生徒達だった。その心の傷や今の思いを話したり、仲間の話を聞いて考える授業だった。
 1人の生徒が
「私は…母が癌になって入院した時に、いとこの家に預けられました。…その時にいとこのお兄ちゃんから…。怖くて声が出なかった…。
 毎晩お兄ちゃんが私の部屋に来るけど…叔父さんや叔母さんには、恥ずかしくて怖くて言えなくて…。母も辛い治療頑張ってるのだから私も我慢しなければと思って耐えました。
 でも毎日いとこの足音が私の部屋に近づくのが怖くて耐えられなくなり、ある日いとこの家から夜中逃げたしました。
 そしたらお巡りさんに声かけられて…。膝にアザが有るのを見たお巡りさんが
「どうしたの?このアザ」
と聞いたんです。
その時堪えていた物が弾けだと思います。震えて泣き出してしまって…。
 お巡りさんが優しく、ゆっくり話を聞いてくれました。いとこの事を話したら…。お父さんと 叔父さんと叔母さんが呼び出されました。
 事情を聞いた叔母さんが
『うちの息子がそんな事するわけ無い!何かの勘違いです』って言って私を睨みました。」
 この話を聞いていた藍香は、自分と同じ立場の人が目の前に居る事に只々驚き共感した。
 その生徒の話は続いた。
 「叔父さんと叔母さんにお世話になってるのに迷惑をかけたく無いし、お母さんにも心配掛けるし、
お父さんも、叔父さん叔母さんとの関係が悪くなると困ると思って自分を責めてました」
 藍香は頷きながら涙を浮かべた。自分の事の様にこの話が心に入って来る。初対面の生徒の傷が痛い程分かった。
その授業をしていた教師のシスターが
「彼女に罪が有ると思う人はいますか? 」
と生徒に問いかけると、生徒は皆んな大きく顔を横に振った。
「そうね。彼女は被害者よね。じゃあ、自分を責めてしまった事のある人は手を上げて」
 全員が手を挙げた。藍香も心の中で手を挙げた。
「そう、自分を責めてしまう人って多いの。でも貴女達は、何も悪く無いの。
 話してくれた彼女が幸せになって欲しいと思う人は手を上げて」
 全員が手を挙げた。藍香も気付けば手を上げていた。
 「皆さんも同じ、幸せになって良いのよ」
 教師の言葉が藍香の心に染みた。そして藍香の母にも。
 案内をしてくれたシスターが、そっと言った。
「貴女は試験を受けなくても、ここの生徒として学び取れる子と分かりました。ここに転校したければ、いつでも願書を持って来てね」
と藍香の肩に優しく手を置いた。
「はい! 」
久しぶりに元気な藍香の声を耳にした母は、涙を抑える事が出来なかった。


 健斗

 僕は毒されて居たんだ。
 僕はしばらく顔見てない藍香がどう過ごしているか興味を持った。
 諒我や一馬と一緒に何も罪悪感無く、いつも通り過ごして居た。藍香が学校に来ないのも好都合とさえ思って居た。
 花火大会の帰り道だった。藍香の事を探ってやろうと興味本位でコッソリと足音を立てずに藍香の家に近づき、藍香の家の死角に潜み耳をひそめた。
 藍香の部屋であろう窓が開いて灯りがカーテン越しにボンヤリ見えた。藍香の嗚咽と藍香の母の声が聞こえて来て、興味に掻き立てられた。
「心配無いわ。ママが側に居るからね。大丈夫よ」
 健康的ではにかみながら笑う藍香とは程遠い苦しげな嗚咽…。
 僕は残酷にも
「藍香も堕ちたな」
と心の中で囁いてほくそ笑んで居た。陥れたのが自分でもあるにもかかわらず。
 悲痛な親子の声が滑稽でたまらなかった。悲しませたのは自分であるのが、尚更優越感と好奇心を掻き立てて耳を澄ました、
 藍香の母が
「ここにいるのも後数日。引っ越したら怖いものが無くなるから。安心して良いのよ」
と言うのが聞こえて藍香一家が引っ越すのを知った。
 その時の僕は獣だった。
「引っ越すのか!確かに ここに居られ無いだろうな。無力な中で後ろ指刺されてるのだから逃げ場を探し始めたのだろう。この一家が居なくなれば、藍香を襲ったのが僕らだとの事実が明るみに出る事は絶対的に無くなる…」
と心の中でガッツポーズをした。そして僕は更に思った。
「以前は確かに藍香を好きだったけど、こんな落ちぶれた女。こっちから願い下げだ」
と。
 実に興味深いショータイムだったと言わんばかりに、勝者にでもなった気分の僕は帰り道に口笛を吹いた。

 
中里先生

 校長室に中里先生が呼ばれた。校長は手を擦り合わせながら不敵な笑みを浮かべ、
「中里先生、実はC市の中学校で急に入院となった先生が居てね。欠員が出たんだよ。志し高い先生が欲しいとの事でね。中里先生行ってくれるね」
「えっ、校長、今は2年生の担任を私はしてます。3年生になる前の今から受験対応も必要となります。今担任が変わるのは…」
「向こうも同じ状況なんだよ。だから志し高い中里先生が向こうで必要なんですよ。という事で、よろしくお願いします。そして、今日離任式しますから」
「校長!今日って…。そんな急に! 」
 校長は部屋を素早く出て行った。有無を言わせずに中里先生をこの学校から追い出し、健斗達の問題に触れる者を無くそうとしての策略だった。
 中里先生は藍香の心の傷を思い、藍香の母に時々連絡をしていた。その一方で健斗、諒我、一馬が反省する為に苦慮しつつ思案して居た。それを校長は疎んじたのだ。一馬の父親と結託して 問題改善を捨てたのだった。
 緊急に全校集会が行われた。全校生徒が体育館にガヤガヤと集まり整列すると、校長がマイクで話し始めた。
「突然ですが、中里先生がC市の中学校に転勤となりました。中里先生からご挨拶していただきます」
 生徒達は季節外れの転勤と言う不自然さを察しながらザワつきつつ耳を傾けた。
 校長は中里先生とすれ違う時に
「手短に」
と睨みながら呟いた。
 マイクの前に立ち、中里先生が複雑な顔で話し始めた。
「ここで皆さんに出会い、沢山の良い思い出を作れました。ありがとうございます。2年生の担任でしたが、皆さんの受験の為にも力添え出来なかったのが残念です。
 …そして皆さん、将来社会の中で大切な事を身に付けて成長して下さい。社会で必要な事とは、感謝を出来る事と自分の否を認める事が出来る人間でいる事です。
 否を認めないと成長の機会を失うだけでなく、信頼を失います!人として、またいずれ親として貴方達は生きていきます!どうか胸を張って自分の子供を育てて行ける様に…と願ってます。
償う事を親が出来ないなら、子供は償い方を知らずに育ちます! 」
「中里先生、ありがとうございました。」校長が中里先生を舞台から引き摺り下ろそうとした。
「皆んな!人を大切に出来る人間で居て!人の痛みを分かる人間で…」
「中里先生、ステージから降りてください! 」揉み合いのように 挨拶は終わった。生徒達は不思議そうな顔をして居た、

 訴えても訴えても届かない言葉が世の中には有る…。中里先生の必死の正義の訴えも揉み消された。
 健斗達は 中里先生が引き摺り下ろされたのを見て、僕らを咎める者が居なくなり心底ホッとした。
 そして、正義の為にへし折られた者を見て諒我と一馬と目配せしながら滑稽で哀れな姿だとほくそ笑んだ。
 もう僕らの罪を咎めたり知る人は居ないと。
 この時の僕の心は人間として最低である事に拍車を掛けていた。

 僕らは気が緩んだんだ。諒我と一馬と僕は下校後、公園で集まってふざけていた。
「良い画像あるぞ」
諒我がスマホの画像を見せた。一馬と僕が藍香を襲って居る時の画像だった。
「おい、いつ撮ってたんだよ!」
「見せれよ!」
 中里先生の転勤、藍香の引っ越し、僕らが疎んじる人は居なくなる。いつかバレたら…と思っていた事も僕らは過ぎ去ったスリルに思えるほど楽しかった。
 画像に食いつく様に見て傑作だと僕らは馬鹿騒ぎした。
 だから、下校途中の有紗が
「あんた達、何騒いでるの⁉︎ 」
と言って近付いて来ていたのも気付かなかったんだ。有紗が真後ろ迄来ても気付かず、藍香を蝕んでいる画像に釘付けになっていた。
 有紗がスマホを取り上げて画像を見た。僕らはその時始めて有紗がいた事を知り、愕然として青ざめた。決定的証拠を見られて、浮かれていた心は一瞬で凍りついたかの様に固まった。
「ひ…酷い…」
歯を食いしばって、怒りが怒涛のように押し寄せ、涙と一緒に湧き上がって来る有紗はスマホを池に投げ捨てた。
「おい、俺のスマホ!何すんだよ! 」
諒我が有紗に詰め寄ると
「弁償してやるから家に来なさいよ!何故私がスマホを池に捨てたのか、あんたの親にも私の親にも説明してあげるから! 」
有紗の怒りに打ち震える姿に背を向け 一言も発する力も無くして僕らは解散した。
 有紗は学校に向かって走った。多分中里先生がもしまだ学校に居れば、この事を話そうとしたのだと思う。
 でも僕らは、学校の教室の掃除をしている時に、中里先生がタクシーで出て行くのを窓から見た。
 有紗は中里先生に会えず、肩を落としただろう。
 僕は有紗と言う『真実を知る爆弾』が出来た事で、浮かれて嘲笑っていた罪の重さに気付き、自分の悍ましさに居た堪れなくて頭を掻きむしった。
 帰宅後、壁を叩き付けたい衝動に駆られた。
 しかし、その物音で家族がワラワラ寄って来るのが怖くて留まった。
 僕の犯した罪か『仕方なかった』と云う理由を探した。探せば探す程、僕が人間性を捨てて罪悪に酔いしれていた事に辿り着く。その通りなのだから当然だ。
 もし僕らのしでかした事が公になったら…。有紗が言いふらしたら…。交番の奥さんに知られたら…あっという間に話に尾ひれが着くだろう…。
 藍香達の様にこの街から逃げたい…。でも…父が代々受け継いでいる畑を捨てて引っ越したら…。農家しかやった事の無い父が他の仕事をすると云うのか…。考えてみれば 藍香と同じ道を辿りそうで、恐れている自分が居る。
 僕の犯した罪が、心の中でコールタールの塊の様にこびり付いていた。
 思い出すだけであんなに楽しくて堪らなかった藍香を犯していた光景が、僕を苦しめた。
 コールタールを少しでも取り除きたくて胸を掻きむしった。掻いても掻いても取り除かれ無い…。あの時の藍香の体の擦り傷を思い出した。本当に汚れていたのは僕だ…。僕は藍香と同じ事をして居る…。罪を洗い流したいのに…全然取れない。
 そして声を殺して枕に顔を押し付けて、失望して泣いた。死ぬ程泣いた。罪の重さに押し潰された。後悔で涙が押し寄せる。自分の愚かさと臆病さ…嘲笑った事の醜さを。あからさまに思い知らされた。枕を何度も叩いた。虚しく『ボズっ、ボズっ』と鈍い音が鳴るだけで胸の辛さは消えなかった。
 それから僕ら3人は自然と距離を置いたんだ。


 
藍香

 とうとう引っ越しの日が来た。
荷物を積んでいる時に有紗が走って来た。
「藍香〜!藍香〜! 」
と呼びながら。
ハア…ハア…ハア…と息を吐き眉間にシワを寄せて哀れみに満ちた表情が、全てを覚って私の痛みを一緒に抱えてくれているのが伝わって来た。
有紗が
「何も出来なくて…ごめんね。力になれたら良かったのにね。ごめんね…ごめんね」
と何度も謝ってた。
「有紗 謝らないで。私、有紗がいてくれた事だけが学校の大切な思い出なの。有紗、いつもありがとう。有紗の思い出だけ向こうの家に持って行く。ずっと有紗の思い出を大切に持ってるから」と言うと、
「藍香…、私そっちに遊びに行くからね!絶対行くから! 」
と涙でぐしゃぐしゃの笑顔で答えた。
「うん、待ってる」
藍香も涙でグチャグチャだった。
 藍香は車に乗り、窓を全開にした。お互い見えなくなるまで手を振った。
 この町の中で只1つの悲しい別れだった。

 車が進むと畑や山の風景から、ビルが並ぶ風景と変わって行った。
 そして10階建てのマンションの駐車場に車は入った。ここが新居だ。
 新しい我が家のマンションは4階にあった。エレベーターは知らない人と一緒になるのが怖くて、階段を使う事にした。
最近トレーニングもしてなかったから丁度良いと考えた。
 
新居での新しい生活では、
父は、私がリビングに来る時には私が辛くならない様に今も寝室に行ってくれた。
 藍香も父への負担をかけている事の罪悪感を感じた。
 来週から学校の寮生活となるが、父への負担を掛けずに暮らせる自分になる様にと、心構えをした。


寮生活

 月曜日になり、藍香と母は学校の寮に大きなスーツケースに荷物を詰め込んで訪れた。
 シスターは、寮の庭の花に水をあげていた手を止めて笑顔で藍香と母を歓迎した。
「お待ちしてましたわ、素敵なお嬢さんね。さあ、どうぞ」
手を広げ優しく受け入れる様子に、藍香と母は少し安堵した。
 シスターは寮の玄関を入り、まず2階の事務室に案内し、
「ここに大抵私達スタッフが居るの。用事がある時、体調が悪い時、心が辛い時、話がしたい時、嬉しい事があった時、いつでも来てね。この部屋はこの学校の生徒全員の為にあるのよ」
と藍香に微笑みながら言った、
「はい、ありがとうございます」
「荷物の準備で疲れなかった? 』
「いいえ、大丈夫です」
かしこまりながら藍香は答えた、
「そう、良かったわ。何か足りない物が有ったら、貸し出せる物も結構有るの。だから遠慮なく言ってね。お母さんに持って来て貰っても勿論良いのよ」
 そんな会話をしながら寮の中を案内された。
 寮生同士理解し会えたり助け合える様に、似た様な事情を抱えている生徒を それぞれの寮の棟に集めている形の様だ。
 掃除、料理、食事の片付けは基本生徒とシスターが一緒にやっていると説明を受けた。
 そしてシスターは寮の部屋の扉の前で止まり
「藍香さん、貴女の部屋がここになるわ。同僚が1人居るの。仲良くしてあげてね」
と微笑んで部屋の扉をノックした。部屋から
「はい」
と明るい声が聞こえた。
「野城 なごみです。宜しくね。シスターから聞いてるの。板橋 藍香さんね。私『なご』って呼ばれてるの。なごって呼んでね」
明るく屈託ない同僚の顔を見て、少し藍香はホッとした。
「宜しくお願いします。色々教えて下さい」
「うん、教える教える!だから宿題助けてね」となごみが答えると、藍香と藍香の母はププっと吹き出した。
「また、宿題サボろうとして! 」
シスターが薄っすら笑いながら、なごみを睨んだ。
「えへへ」
なごみは舌をペロッと出しておどけた。
そして 
「この藍香ちゃんの荷物、部屋に入れて良いのよね」
となごみが運んだ。
「あっ、ごめんなさい。重たいのに」
「大丈夫大丈夫!」
 藍香はTシャツ姿のなごみの腕にリストカットの後がいくつも残っているのに気付いた。
 でも隠すでもなく、気にせず明るく過ごしてる様子を見て 
「私も元の自分にいつかなれるのでは…」
と希望が芽吹くのを感じた。
 そして、藍香は寮の玄関まで母を送り
「心配掛けてごめんね。私 きっと元の自分を取り戻すから」
「うん、藍香なら出来るわ。何か必要な物があったら連絡してね。時々来るから」
と手を振り合った、
 藍香が部屋戻るとなごみは
「ポテトチップス一緒に食べよう」
と袋を開けた。
「あ、ありがとう。頂きます。そう言えば チョコあるの。食べる? 」
「食べる食べる! 」
2人でお菓子を食べながら微笑みあった。
「藍香ちゃんの趣味って何? 」
「趣味…」
少し藍香は考えた。忌わしい出来事の後、その光景を振り払い、家に籠って身を隠すのに必死で、趣味等遠ざかっていたからだ。 
「以前は運動が好きで 部活も陸上やってたの。でも…最近はやってなかったなぁ」
と呟くと、
「私の趣味は音楽聴くのが趣味。でも、しばらく聞けなかった頃あったよ。今は聞いて楽しんでるけどね。
もう気付いてると思うけど、ほら」
なごみは古いリストカットの跡だらけの腕を差し出して見せた。
「これって腕の傷かもしれないけど、心の傷なのよ。普通の傷は隠さなくても良いのに、この傷って隠さなくちゃいけないと普通思ってしまう。
 でも、ここでは皆んな痛み持っててね、心の傷もフラッシュバックも過呼吸も、皆んなが理解して寄り添うの。だからホッとするの。そのままの自分で良いんだよ」
と笑顔で言った。
そのままの自分で良い…。今まで自分の病んでいる心を公にするとは想像も付かなかった藍香は、自分が背伸びせず、隠さずに暮らして良いと思いもよらない言葉を聞き肩の力が緩んだ。
 そしてブラウスの長袖をめくり、擦って出来た擦り傷を自分からなごみに見せた。
「私はまだまだ。この擦り傷と心の傷に捕われてる…。なごみさんみたいに笑っていられる様になるかな…」
「辛かったんだね…でもね治るよ勿論。焦らないで。傷の深さは皆んな違うから。藍香ちゃんの人生はこの傷だけじゃ無いから!喜びも沢山あるはず…ってシスター達皆んなに言うけど、本当にそうだと思う」
2人はクスっと笑った。藍香の心の扉はなごみに向かって開けられた。

 夕方の4時頃、シスターが
「晩御飯の準備をするわよ〜。出来る人は手伝って下さいねー」
と呼び掛けながら廊下を歩いていた。
「晩御飯の準備? 」
藍香がなごみに尋ねた。
「うん、部活とか何かの用事がない人や、体調が悪くない人は皆んなでご飯を作るの」
藍香はなごみに連れられて調理場に行った。
 レタスを洗いちぎって居るのは片桐葉月だった。葉月は刃物で脅された時からまだナイフや包丁は使えない。でもスライサーは使える。
 ニンジンをスライサーで細い千切りにして、レタスの上に散りばめて、ツナを乗せ サラダを完成させた。
 藍香はワカメと豆腐を使って味噌汁を作った。シスターが 
「あら美味しそう。味見して良いかしら? 」
と声を掛けた。
「お待ちください」
と小皿を用意して味見用に盛り、シスターに
「どうぞ」
と渡した。
「ありがとう。…ダシが良い香りね。美味しいわ」
と微笑んだ。
「良かった…ありがとうございます」
ここに来て自然と心が解れて、微笑んで居る事が多い自分に藍香は気付いた。
今日は警戒心が尖らない…。久しぶりかも知れない…。
 西本るかは高校生。無言で唐揚げを揚げていた。その横には揚げながら作り上げた胡麻和えがあり、るかは洗い物も手際良く始め、時々唐揚げの様子を見ていた。
 藍香は洗い物を手伝おうと近づこうとした時シスターが、
「藍香さん、林檎の皮剥き手伝って貰って良い? 」
と少し離れたテーブルから声を掛けた。
「はい。今行きます」
シスターの隣に座って藍香も林檎を剥き始めた。
「これ、デザートよ。藍香さんはどんな剥き方が好き? 」
「どうやっても良いんですか? 」
「ええ、勿論よ』
藍香はウサギの形に林檎を切った。
「フフフ…お母さんお弁当にウサギさんの林檎を入れてくれてたの? 」
とシスターが聞くと
「はい、いつも最後に食べてました」
「あら、藍香さんケーキのイチゴは最後に食べるタイプ? 』
「そうなんです。最後の楽しみに』と和やかに 林檎を切っていった。
 シスターがそっと話し始めた。
「藍香さん、るかさんの人を寄せ付けない雰囲気を気にせず手伝いに行ってくれて、優しいのね」
「いえ、1人でいっぱい作業していて気の毒になって…」
「そう…るかさんはね、1人で何でもやろうとするの。今の高等部を卒業して寮を出たら、帰るところがないから…。だから1人で生きる力を付けようと必死でね…。
 人も寄せ付けずに鎧を着けて、戦う準備をしているの。許してあげてね」
と、るかの事を説明した。
「そうなんですね…」
藍香は自分以上に傷付いて居たであろう人もいる事に気付いた。
「でもね、人間の中で『私が1番辛い』『私が1番幸せ』『あの人が不幸だ。』『あの人が幸せだ』とかは簡単に決められないのよね。人間皆んな 喜びも悲しみも有るのは同じ。
 辛さや喜びを比べるのではなく、理解し合うことが大切なのよ」
 シスターの言葉で、私が恵まれている事、自分を待つ両親がいる事を改めて考えていた藍香は、心を全て読み取られて居た事に驚きを隠せなかった。
「藍香さんは正直ね〜、そんなに驚いて。皆んなるかさんを見た時にそう思うのよ。違いは、『可哀想』と思うか『私の方がマシ』と思うか『るかさんに何があったか』と探りたくなるか…色々反応は有るけど…、藍香さんの反応は優しさが有る反応ね」
シスターは決して攻めるわけで無く、平和に過ごす方法を藍香に教えた。
「さあ、今日も皆さんの協力で素敵な食事が出来たわ。食事の祈りをしますね」シスターの『食の糧がある事 生徒達が力を貸してくれた事に感謝』した祈りの後 皆んな食事し始めた。
 和やかな雑談を交えた雰囲気の食事の中、るかは1人見えないベールを作るかの様にら1人黙々と食事を済ませた。その後食器を洗って部屋に戻ろうとした。
「今日も美味しく作ってくれてありがとう」
シスターの掛けた声にるかは横目でチラッと見て無言で扉を閉めて食堂を出た。
 その後再び和やかに食事は進み、寮生とシスターで後片付けをして終了した。

 藍香となごみが部屋に戻ると
「藍香ちゃん、宿題あるんだけど…教えてくれる? 」
となごみが声を掛けて来た。
「私で分かるかな…」
2人で机に向かった。
 なごみの出した英語のプリントは藍香には簡単な物だった。説明をしながら藍香が答えを導き出すと、なごみは答えを丸写しした。
「えっ、なごみさん、教えてって言ったのに答え丸写ししてるだけじゃ無い‼︎ 」
「あー!なごみって呼ばないで、さん付けしたー‼︎ 」
「そう言う事じゃ無くて!やり方を覚えようよ! 」
「無理ー!日本語だけ話して生きて来たんだもん‼︎ 」
「こらー!なごー! 」
「あっ、なご⁉︎いいねいいね!もう一回なごって呼んで! 」
藍香は思わず吹き出して笑って、
「なご、学びなさい! 」
「学ばないよ〜! 」
となごみは戯けた。
そんなやりとりをしている時、廊下から嗚咽と付き添っているであろうシスターの声が聞こえた。
「心配無いわ〜。さあ、いらっしゃい」
事務所にシスターが連れていっているようだ。
「葉月ちゃん、フラッシュバック起きたのね…」なごみの戯けてた顔が切なそうな顔になった。
「私もここに来たばかりの時はフラッシュバックしまくりでね。その度にシスターの部屋に連れてって貰ったの…。他愛も無い話をするだけで、フラッシュバックで固まってた恐怖から解放されたり…。それでもダメな時は頓服飲んだり…。それでもダメならシスターは優しくひたすら側に居てくれるの。これは貴女が頑張って来た証拠よ。って。一晩寝ないのに ずっとシスターは優しくて…」
「そうなんだ…」
「シスターは痛みを分かろうといつもしてくれる。面倒だ、眠いなんて素振りも見せないわ。一度フラッシュバック起こした時に聞いたの。『シスター眠く無い?』って。『昼間寝てるから大丈夫。』って」
と笑った。
「そうなんだ…。シスターって楽しい人。でも凄く暖かいね」
「うん、どのシスターもよ」
「でも、私はなごの宿題には厳しいの! 」
「ひぇー!」

 なごみの宿題も終えて、寝る前に藍香は両親にラインを送った。
「お父さんお母さん、ここに連れて来てくれてありがとう。皆んな理解があって優しくて、安心できるの。不思議と嫌な事を思い出す回数が減った1日だった。
同僚もシスターも温かい人で穏やかに過ごせてるの。
 焦らずしっかり元気を取り戻すから…待っててね」
と。
「良かったね。穏やかに過ごせて。お父さんもお母さんも嬉しいわ。
 しっかり食べてね。良い人に囲まれるのは宝だわ。大切にするのよ。  
 お父さんとお母さんに出来ることが有れば何でも言ったね」
と返信が来た。
 なごみも両親にラインを送っている様だった。
「宿題は自分でやれって言われた〜!皆んなで私を責める〜! 」
と嘆いて居た。
「面白いご両親ね。ウチの両親は周りに良い人が居るのは宝だって。私もそう思う」
と言うと
2人で頷いて微笑んだ。


るか

 雀のチュンチュンと囀る声で藍香は目覚めた。時間は5時半。顔を洗いに洗面に向かった。洗面所には誰もまだ居なかった。
 シスターが寮生の朝食の支度に向かう途中、藍香に声を掛けて来た。
「藍香さんおはよう。よく眠れた? 」
「はい、ゆっくり眠りました」
「そう、良かったわ。御両親に連絡はした?」
「はい、同僚もシスターも良い人達と言うと、『良い人に囲まれるのは宝だ』と母が言ってました」
「まあ、素敵なお母様ね」
 その時死角なっていた窓辺にるかは居た。ここからは見えないが、母の居る拘置所の方角を見つめていたのだった。
 そこでの藍香とシスターの平和な会話が、るかの怒りを誘ってしまった。
「素敵な母親?良かったわね。ならここに来る必要なかったんじゃない? 」
と睨み付けた。
 シスターが咄嗟にるかを止めに入ったが止まらなかった。
「貴女は帰る家があるじゃない!頼る家族が居るじゃない!私だってお父さんが倒れなければ幸せだったんだから!
 誠実なお父さんが脳出血で倒れて、手術を受けて助かった。良かったと思ったわよ!お父さんの世話したかったわよ!でも退院したら後遺症で理性失って…お母さんと私を罵倒しまくって!そして性に固執してしまう様になってた!お母さんも私も襲われて、毎日襲われて…父親からよ!大切だった父親からよ!妊娠した事に気付いたショック分かる⁉︎父親の子供よ⁉︎そして父親が私のお腹を蹴って蹴って!出血して倒れた事ある⁉︎望まない妊娠した事ある⁉︎流産させられた事ある⁉︎薄れていく記憶の中で、母が父を刺したのが見えたのよ!体に力が入らなくて助けれなかったのよ!
 母が私を守る為に刺したんだと思ってた。そうしたら、ここへ突然連れてこられて『貴女が私の夫を奪ったのよ!』って言われてたの。私は母に捨てられたの!待ってる人が居るのに辛い振りしないで!私の前で笑わないで! 」
るかは全ての胸中の咎を藍香に投げ付けた。
 シスターが何度も静止しようとしても、どうにもならなかった。
 シスターが再度るかを止めた。
「るかさん、貴女が辛いのは分かるわ。だからと言って人を傷付けてはいけないわ」
シスターがるかを宥めながら事務所に連れて行った。
 異変に気付いたもう1人のシスターが藍香に寄り添いに急いで来た。 
 藍香にとって、るかが受けた被害の話は驚愕するものだった。言葉を失い『こんな悲劇が身近に有るなんて…』と大きくショックを受けた。るかの勢いも重なり、過換気発作を起こした。苦しい…苦しい…こんな時に…あの自分を苦しめる記憶が押し寄せて来た。息も心も苦しい…怖い…怖い…。
 恐怖の中でもるかの境遇の凄まじさにただただ言葉を失い、昨日1日幸せを噛み締めていた自分を責める気持ちが湧き上がって来た。
「藍香さん心配無いわ。私が側に居る。ゆっくり息を吐いて。…そう、ゆっくり。大丈夫…。ゆっくり息を吐いて…。」
 藍香を支えながら シスターは藍香となごみの部屋に連れてきた。
 なごみは響いて来たるかの怒鳴り声で、だいたいの事を察し
「ちょっと顔を洗ってくるわね』
と席を外し、シスターに頷いて部屋を出た。
 しばらくすると藍香も落ち着いて来た。
「シスター…。私ってダメですね。こんなに辛いるかさんが頑張って暮らしているのに…。私は るかさんよりずっと恵まれてるのに、ドン底に居る思いで居ました」
と息絶え絶えに言った。
「藍香さん、傷に深いも浅いも無いのですよ。傷である限り適切な手当が必要なのです。貴女は何も自分を責める事は無いわ」
穏やかで心に語りかける様にシスターは言った。
「でも! 」
「新約聖書の中で、イエスの言われた言葉があるわ。
『ある人に百匹の羊があり、その中の一匹が迷い出たとすれば、九十九匹を野原に残しておいて、その居なくなった一匹を見つけるまでは探し歩かないであろうか。そして見つけたら.喜んでそれを自分の肩に乗せ、家に帰って来て友人や隣り人を呼び集め、私と一緒に喜んで下さい。居なくなった羊を見つけましたから と言うであろう。』
この聖句は、罪人が悔い改めた時に『良く正義を取り戻し、私の元に戻って来てくれた」
と言う意味をイエスが例え話で話された物なの。貴女には罪は無いわ。でもね、この話は傷付いた人の痛みが治った時にも、悩んでいる人が解決した時にも、同じく言える事なのよ。
 るかさんの様に将来への不安や家族の問題の闇に迷い混んでいる…。勿論闇の中をイエス様はるかさんを探しに出ている事でしょう。るかさんは確かに大きな傷を負った…。羊飼いも勿論るかさんの傷を癒したいの。でもね藍香さん、羊飼いは貴女の傷を見逃すかしら?貴女の傷はるかさんの傷よりも小さいからと、この羊飼いは放っておくかしら? 」
と諭した。
 シスターが私の傷が癒える事を大切に願ってくれている。その為にケアしてくれている…その事を知って藍香から自分を責める物が取り払われた。
「シスター…、ありがとうございます」
藍香はシスターを抱きしめて声をあげて泣いた。
「藍香さんは心が綺麗ね。怖かったと思うのよ。
私達が絶対守るから。力になるから。心配無いわ」
藍香は泣きながら頷いた。
「そして るかさんの事なんだけど.…大きな事態の中で自分自身が壊れない為の方法として『強がる』事しかできなくいでいのが分かると思うの」
「はい…分かります」
「そう、傷だらけなのに倒れまいと意地で立ち尽くして居る状態なのよね。るかさんはこれからも藍香さんを含めて皆さんに辛く当たるでしょう。出来るなら、るかさんを許してあげてくれないかしら…。私達も彼女の心をこじ開けてはいけないと思って対応を考えているのだけど…」
「シスター、とても良く分かります」
「元々本当のるかさんは人を責める人間では無いの。どうか彼女の罪を許してあげて貰えないかしら…」
「勿論許します。…そして るかさんの痛みに触れてしまった事を許して欲しいと思います。」
「痛みを理解し合う…。貴女はそれが出来る人なのね。素晴らしいわ」
 そして日常が戻った。
 藍香はるかを無視するのでは無く、るかの1人のスペースを大切にする事にした。


藍香

 学校での寮生活も慣れて来た。学校に行けない間も予習をしていたので分かりやすかった事もあり授業にも付いて行けた。
 ある日昼休み後に体育の授業があり1000m走を行った。藍香は順番が来る前にかつての癖でストレッチをしていた。
「藍香さん足速そう.…」クラスメイトが言った。
「それほどでも無いのよ。元々走るのは好きだけど暫く走って無かったの」
 藍香のTシャツから出ている腕、ジャージのハーフパンツから伸びるふくらはぎに擦り傷があっても 誰も気に留めなかった。
 この学校から一歩出れば、擦り傷を見た人は 目を伏せるか興味本位にチラチラ見るだろう。
 藍香も傷が見えない様に長袖を着ていると思う。でも長袖を着て街中を歩いたら
「この暑さの中で長袖? 」
とやはり目立つだろう。この学校の敷地内はその様な『他人の目』を全く気にしなくても普通に暮らせる。
 藍香は偏見と言う窮屈な物が無い中での、久しぶりの走りにワクワクしていた。
 先に走ったクラスメイトは皆んな息切れして座り込んで水分を摂って居る。
 藍香のグループが走る順が来た。教師のホイッスルの音と同時に走り始めた。以前と同様にグラウンドの土のの香りと風が頬や首を撫でていくのを感じた、
 意外と身体は走りを忘れていなかった。少しペースを上げてみた。更に風を切って行くのを感じる。リズムに乗ってどんどん進んで行く。心地良い汗が流れて風が冷やす。自分の走る速さで景色の流れ方も変わる。
 何て楽しいのだろう…。私、走るのが好きな事忘れていた…。気付くと1000mをゴールしていた。
 クラスメイトがバテて居る中、藍香は息を整えストレッチをして、自分の忘れていた宝物を見つけたかの様な喜びに包まれた。
「藍香ちゃん速いね。選手みたい」
クラスメイトの言葉に 
「ただ走るのが好きなだけなんだ。試合じゃ入賞出来ない事もしょっ中あったから」
 ここへ来るまでは自分を責めてばかりいたが、
走る…ただそれだけでこんなに心が弾む…久しぶりに味わった喜びだった。
 でも、学校外なら擦り傷を隠す為に、コソコソと人の居ない時間に走ってただろう。何も気にせず走る…。それが出来るのは、ここだからだと改めて思う。自分にはその場が与えられたのだ。何と恵まれて居るのだろうと思った。
 外部に出たら…いや、今はそれは考えないでおこう。元気を取り戻すためにここに来てるのだから、喜びを素直に噛み締めよう…と藍香は心の中で考えていた。

 藍香は学校の授業が終わり、寮に戻ってから再び走る為にランニングのTシャツとショートパンツに着替えた。そして愛用のランニングシューズを久しぶりに出した。
 ランニングシューズを感慨深く見つめた。靴に足を入れ靴紐をギュッと締めると、心はグラウンドに向かって居た。
 事務所のドアをノックし、顔を出した。
「シスター、ランニングをしにグラウンドに行ってきます」
「そう、ゆっくり行ってらっしゃい」
シスターは藍香がワクワクして居るのを察した。手を振りながら藍香が生活に馴染み、ホッとした思いや喜びを感じ嬉しそうに微笑んだ。
 寮の玄関を出た藍香は、待ちきれない様にストレッチをその場で始めて走り始めた。
 あぁ、風が気持ち良い…。ここの中では私は自由だ。風を身体で感じて…空気を思い切り吸って、好きなだけ開放感の中に居る事が出来る。
 走り続けて鼓動が上がってくる。懐かしい感覚…。走る…好きなだけ…この前までの暗黒でうずくまってしまった分を取り戻す様に…。
 爽快な思いで満足するまで走り、ストレッチをして身体中血液も走って居るの感じ取りながら汗を拭いた。
 寮に戻り部屋に入るとなごみも帰って来ていた。
「居ないと思ったら、走りに行ってたんだ!うわー、楽しそうな顔してる〜! 」
「うん、すっごく楽しかったの。こんなの久しぶり」
なごみはやはり藍香の擦り傷は気にせず、藍香の嬉しそうな様子の方が重要な様だった。
 2人でシャワーをしに行っておしゃべりを楽しんで居ると、藍香は自分の身体を普通に洗って居ることに気付いた。
 私…あの汚れをこそぎ取ろうとするの忘れてる…。
 1人用ずつに区切られているシャワースペースの壁の向こうに聞こえるように声を掛けて高くして藍香は言った。
「なご!私身体を普通に洗ってる!擦り傷付くほど擦ってない! 」
喜びと驚きで、なごみに伝えずには居られなかった。
「藍香ちゃん!本当⁉︎本当に⁉︎良かった!本当に良かったよー! 」
2人はシャワー室の壁を隔てて飛び跳ねて喜んだ。
 あの傷つけられたショックから少しは脱皮出来たのかも…これからも脱皮を繰り返すのだろうと藍香もなごみも期待した。
 そして、いつもの食事、予習、なごみの宿題の手伝いをしていた。
 ふと藍香の心に不安が顔を出した。一度顔を出した不安は広がって行く。涙が溢れ始めた。
 なごみは、今愛香を抱き締めてはいけない事を悟って手を握った。
「なご、ごめんね。安心してたのに…こんなに良い人に囲まれてるのに何でだろう…」
「私もそうだったよ。心に疲れが残ってる人は 嬉しい事も疲れる時があるの。大丈夫よ皆んなそれを経験してるから。シスターの所に行こう」
なごみは藍香を事務所に連れて行った。
 なごみがシスターの部屋をノックすると、
「はい、どうぞ」
と扉を開けてくれた。藍香の様子を見て、シスターは藍香をそっと部屋に招き入れた。
「なごみさんもハーブティー飲んで行きましょう」
藍香が心を許す、なごみが今は必要とシスターは察した。
「何か辛くなったのね」
シスターは優しく藍香に語りかけた。
「御免なさい…親切にして頂いてるのに…。不安になる事などここには無いのに…」
と涙をこぼす藍香に
「思い切り泣いて良いのよ。貴女の心が毒素を吐き出したいのよ、きっと。涙は心の悪い物を洗い流してくれるわ。だから思い切り泣いて良いのよ。」
その言葉を聞いて、藍香も知らなかった心の蓄積が嗚咽と共に溢れ出した。思い切り泣いている間、シスターとなごみは、優しく側に居て藍香の背中を撫でた。
 藍香の涙が治ると、シスターはカモミールのハーブティーと手作りのチョコチップクッキーを用意した。
「このカモミールティー、私が種を蒔いて植えて育ててお茶にしたのよ。クッキーに合うの。一緒に頂きましょう」
夏ではあったが、温かいカモミールティーを飲むと 心の緊張がほぐれて行った。
 藍香もなごみもシスターも『はぁ』っと同時に息を吐いた。3人は息の合った吐息に、つい吹き出して笑った。
 落ち着いた藍香の顔を見て、シスターとなごみは温かい笑顔で頷いた。




 数日後の夕方だった。どしゃ降りの雨が朝から降る中、るかがコソコソと寮に戻った。いつもの威張る様な姿とは違い、背中を丸めていた。すれ違う寮生も気になったが、皆んなそっとしておいた。
 シスターも異変を感じ、るかが部屋に入った時にノックをした。
「るかさん…るかさん…。開けるけど良い? 」
「えっ、あっ…」
シスターがドアを開けると、るかは小さな仔犬の身体を拭いていたのを慌てて隠そうとした所だった。突然隠された仔犬はビックリしてキャンキャン鳴いた。
「お願い、静かにして! 」
るかは慌てた。そしてシスターに見つかってしまった仔犬を取られまいと抱いて背を向けた。
「るかさん、その子は…」
「お願い!捨てられてたの!このまま雨に打たれてたら…風邪ひいて死んじゃう!私よりも生きる術が無い子なの! 」
るかは更に必死に仔犬を守る様に背中を丸めた。
「るかさん、ここの寮生の空きがまだ有るの知ってるわよね。寮生になるなら状況を知らなくてはいけないわ。その子を見せてくれる? 」
「えっ…」
シスターの言葉に驚いた。きっと捨てられるに決まっていると思っていたからだ。
 シスターは笑顔で両手を差し出している。るかは様子を伺う様に恐る恐る仔犬を差し出した。
 シスターが仔犬を抱き上げてる間、るかの鼓動は怯えてドクドクと音を高く鳴らした。
 仔犬の鳴き声を聞いて、寮生達も集まって来た。大事になりるかは、捨てられそうになったら飛び付こうと身構えた。
「うーん、女の子ね…。女子で、困り事があるなら…入学を妨げる理由は何も無いわね。るかさんのお部屋で一緒に暮らして貰って良いかしら? 」
シスターはそう言って仔犬をるかに戻した。るかは仔犬と暮らせる許可が出た事で、キョトンとした後仔犬を抱きしめた。
「同僚さんに色々教えてあげて下さいね」
とのシスターは笑顔でるかに言った。
「はい!」
るかの生き生きとした目を寮生もシスターも初めて見た。
 仔犬を見た寮生達は
「えっ、可愛い! 」
「小さいわー」
と仔犬を撫でた。仔犬に触れる事をるかは咎めなかった。むしろ受け入れてくれる事を初めて実感した。
「るかさん、事務手続きでその生徒さんの名前を知りたいのだけど…。葵さん?瑞稀さん?伊吹さん?教えてくださる? 」
シスターが尋ねた。周りの寮生が
「えー、もっと素敵な名前にしようよ〜。アリスとか〜」
と言うとるかは
「シスター、仰る通りこの子は葵と言います。ありがとうございます。よろしくお願いします」
と頭を深々と下げた。
「そう葵さんね、分かりました。何か必要な事があったら いつでも言って下さいね」
「はい! 」
るかの目から敵対心が消えた。
「何でアリスじゃ無いの〜? 」
と言う寮生にるかは
「シスターはこの子が男の子だと分かってたの」と説明した。
「ええ〜‼︎ 」
寮生はビックリして声を上げた。
「この子を追い出さない為に理由付けて、女の子と断言してくれたのシスターは。そして、男の子でも女の子でも可笑しく無い名前を言って、男の子と分かってる事を知らせてくれたの」
 るかの言葉で寮生達はシスターの計らいを初めて知った。
 るかの抱く葵に
「葵ちゃん、よろしくねー」
と皆んなで撫でた。るかは自分で心の鍵を開けた事に、少し戸惑いを感じたが少し楽になったのが分かった。


るか

 るかは家にいた時に犬を飼う事がよくあった為、飼い方やしつけの仕方を知っていた。葵は週間程で葵はトイレを覚え、人懐っこく育って居た。
 お手、待て等も出来る様になり、寮生やシスターからも葵は愛された。
 葵が来てから、人を寄せ付けなかったるかの部屋に、寮生がチョクチョク来る様になった。葵と触れ合う事で かと寮生達の交流が少しづつ出来ていった。
 るかも死角に隠れる事なく寮生の通る廊下の窓から葵を抱きながら拘置所の方角を見つめる事も増えた。
 葵を校庭で散歩させる時は、他の寮生も付いてくる事もあった。夕飯の支度の時には、るかが料理の仕方を他の寮生に教える事も増えた。
 本来のるかの姿が少しづつ少しづつ出て来た。るかには葵と言う守る物が出来た。シスターの咄嗟の計らいにより、今のるかの心を開かせるきっかけになった。
 るかが一度心を開いてみると他の寮生も決して敵では無い事が肌で分かる様になった。
「1人では無い」
それを噛み締めて雪解けの春の様に、硬い心が融けて行くのをるか自身も感じて、寮生活で初めて感謝の気持ちを待った。

 そんなある日、シスターは事務室にるかを呼んだ。るかは脚にまとわりつく葵を抱いて事務室の扉をノックした。
「どうぞ」
シスターは扉をいつもの様に開けて、るかを招き入れた。
「葵が付いて来てしまって…一緒でも良いですか? 」
「勿論よ」
と言いながらシスターは、葵のミルクとるかのハーブティーを用意した。
「あのね、大切なお話があってね」
「話ですか? 」
「ええ、凄く悩んだけど話した方が良いと思って…お母さんの事」
「お母さんの事…ですか? 」
「ええ、固くお母様から口止めされていたの。でもね、今話さないといけないと思って。
 色々複雑な思いをすると思うけど、しっかり聞いて欲しいの」
るかは肩に力が入りながら
「はい、教えてください」
と答えた。シスターは一度深く息を吸って静かに吐いた後、話し始めた。
「貴女がここに連れてこられる前の話よ。お母様とお話ししたのは…。お母さんが1人でいらしてね」
シスターは当時の、るかの母の話をし始めた。
「『娘のるかを ここで預かってください。どうか高等部を卒業するまで。費用は今支払える様に卒業迄の分を用意して来ました』と紙袋に用意されてね、
『事情を聞かせて頂けますか?』と聞くと お母様が説明してくれたの。
『夫は元々誠実で優しい人間でした。病に倒れ 麻痺は無かったのですが…。後遺症で性に執着し理性を失い、暴力的になりました。娘のるかにも私にも殴りながら襲いました。症状が安定して居る時に夫は
『俺を施設に入れてくれ。家庭をダメにしてしまう!』と言い出したんです。丁度私も施設に入ってもらった方が良いのではと思って居た頃でした。
 ケアマネージャーに相談したのですが、ケアマネージャーが訪問した時は症状が良くて…。
施設に申し込みはしましたが『緊急性は無い』との事で空き待ちの200人の最後に回されて、施設に入るのは夢になりました。
 その後夫が不調の時…夫が…妊娠させた娘を流産させる為に物凄い剣幕で気絶するまでお腹を蹴りつけました。娘は血を吐き死ぬかと思いました。娘が死なない様に……死なない様に…」一度涙で言葉を詰まらせながら
「私は夫を刺し殺しました。
 法律はよく分かりませんが、私は情状酌量となるかも知れません、でも娘は殺人犯の娘と言う 謂れのない罪を背負う事になります。
 娘がその荷を背負う事ない様、私は娘を捨てて親子の関係を法律上も断ち、今警察へ向かいます。
 どうか娘の面倒を見てやって下さい。私が愛情を掛けれない分、愛情を掛けてやって下さい。
 娘は心優しい子です。私が捨てない限り私と縁を切る事は無いでしょう。
 『娘を捨てた酷い親』のままで居させてください。そして、自分で幸せを掴んで生きていける力を備えさせてやって下さい。」と言ってシスターの静止を振り切って出て行った。
 その事をるかに話して聞かせた。
 
「るかさん、分かるわね、貴女は捨てられたのでは無い。お母様が考え抜いたの。貴女の重荷を減らす為の苦肉の策だったの。お母さんは貴女を守りたかったのよ。」
「……私を捨てて居ない…。重荷を無くする為…。お母さんらしい…。私…捨てられてなかったんだ…。守られてたんだ…」
 るかは今までの張り詰めた警戒心を忘れて、ハラハラと涙をこぼした。ここに来て初めて泣いた。
 シスターはるかを抱きしめた。
「1人で良く頑張って来ましたね。まだ16歳なのに…。多くを背負って辛かったでしょうに。もう1人じゃ無いですよ。貴女は捨てられてないのですよ」
るかが泣き止むまで抱きしめた。
 落ち着くとシスターはるかの目を見て、更に話した。
「そして何故この事を話したかと言うと…。るかさん、時間が無いの。お母さんが拘置所で倒れてね。全身に癌が広がっている事が分かったの。後悔しない様にお母さんに会いに行って来なさい」と優しく真っ直ぐ見つめて言った。
 るかは止まらない涙を拭きながら、
「母は何処に居るんですか? 」
と聞くとシスターは病院の住所と電話番号を書いてあるメモをるかに渡した。
「すみません、行ってくる間、葵を見ていて貰って良いですか? 」
「ええ、勿論よ」
「葵、シスターとお利口にしててね。ちゃんと戻るから」
葵を撫でながらそう言い聞かせて、るかは力の限り走った。病院をスマホナビで見ながら、1秒を競う様に走った。総合受付で 
「すみません西本千鶴の娘ですが、母の病室は何号室ですか? 」
「西病棟の8階の821室です」
「ありがとうございます! 」
吊るされている案内を辿りながらエレベーターに乗り、8階のボタンを押した。エレベーターの動きが遅く感じもどかしく感じた。
 8階に着くとすぐ目の前にナースステーションがあった。
「すみません、西本 千鶴の娘ですが」と口早に言うと
「あっ、娘さんですね。こちらです」と看護師に案内された。
 看護師がノックし、
「西本さん」
と声をかけると弱々しく
「はい…」
と母の声が聞こえた。
「お母さん! 」
部屋に飛び込むと、母は骨格が解るほど痩せて、鼻に酸素を送る管を付けて居たが、るかの声に 目を大きくして素早く振り向いた。 
「来ちゃいけないって…お母さんの事はもう放って起きなさいと言ったのに…。全部聞いたのね」
「お母さん」
言葉にならないるかは母の手を握って話しかけて居た。
 母の手も腕も細く折れそうに見える。手の甲や腕には点滴針の跡が青く又は茶色くあちこちにあり痛々しい姿だった。
「学校で1人で頑張ってたのね。ごめんね…。重荷を負わせたわね。1人で辛かったでしょう。ごめんね」
母はそう言いながら、るかの頬をもう片方の手で撫でた。
「お母さん…。こんなに痩せて…」
るかの涙が母の手も濡らした。言葉少なく母と娘の時間を大切に過ごして
「また来るね」
とるかは言って寮に向かった。
 寮に戻り事務室のシスターに声を掛けようと扉に近づくと、葵が扉の前で待ちきれなくてドアを前足で擦る『カサカサカサカサ…』と音が聞こえてきた。
「あら 大好きな るかさんが帰ってきたの分かるのね」
と声が聞こえて来たと同時に、シスターがドアを開けた。葵が凄い勢いでるかに飛び込んだ。るかはしゃがんで葵を受け止めて抱き上げ、頬ズリをした。葵はるかの頬をペロペロ舐めた。
「お帰りなさい。葵ちゃんご飯食べてたのだけど、るかさんが帰って来たのを察したら?直ぐドア迄行ったのよ。ご飯よりるかさんが良いのね」
「シスターありがとうございました。母に会えました」
葵を抱いたまま頭を深く下げた。
「良かったわね、本当に良かったわね」
シスターはるかの肩を撫でた後、事務所の中に入る様に手を差し伸べて
「休んで行って」
と声を掛けた。
「はい」
るかが部屋に入り椅子に座ると、葵はご飯の残りを食べ始めた。
「シスター、母はとても痩せて弱々しかったですけど…心は昔ながらの優しい母でした。そして私を愛してくれて居ました」
「そう。親子に戻れたのね」
「はい、戻らずには居られなかったんでしょうね。私達残りの日々は少ないけれど…。心の氷は解けて大切な時間を逃さずに居られました。シスター、ありがとうございます。また母に会いに行きます」
「良かった…間に合って。親子に戻れて」
 シスターがくれた紅茶の温もりが今の2人に更に心を熱くさせるものだった。
 ご飯を食べ終わった葵がるかの膝の上に飛び乗り、アクビをしてスヤスヤ眠り出した。葵の重さと温もりがるかは愛おしかった。
「るかさん、お母さんも今の貴女と同じ思いで、幼い貴女の寝顔を見つめたのでしょうね」
「そうですね。沢山沢山愛を与えられて私は育ったんです。
 この前まで傷の中に閉じこもってました。でも私、愛を受けていた年月の方が物凄く長かったんですよね」
「そうね、貴女を見ていると素敵な家族の中で育ったのだと感じるわ」
「シスター、今日はありがとうございました。葵が寝たので部屋に行きますね」
葵を起こさない様に静かに抱き上げて、るかは席を立った。
シスターは葵を起こさない様に、静かに扉を開けて、
「おやすみなさい」
と小声で言った。
「おやすみなさい」
るかも小声で返して自分の部屋に戻った。
 
 それからの毎日、学校の授業が終わるとるかは母の見舞いに行った。
 それから一週間後、母は危篤となった。授業中に連絡を受けたるかは病院に駆けつけた。
 母は意識朦朧として顎をガクガクさせながら呼吸していた。
 血圧の数値が後僅の命の灯火を表していた。
「お母さん! 」
病室に入ったるかの声に、奇跡を起こすかの様に母は薄目を開き
「るか、…生まれて来てくれて…ありがとう」
と言った。
 るかは折れそうな母の手を握っておでこを撫でた。母のまつ毛は薄っすらと涙で光って居た。
 るかは握った母の手を自分の頬に当てた。母の手もるかの指もるかが流した涙で濡れた。
 数十分後、医師が
「14時52分。永眠です」
と死亡宣告をした。るかは言葉を発せないまま泣いた。それが暫くして嗚咽に変わり、長く長く泣いた。
 幼い頃の様に、母にしがみついて泣いた。まだ温かい母…。でも動かない母。愛を注いでくれた母。るかが何が好きで何が苦手か良く分かっている母。必死で守ってくれた母。守ってくれたからこそ辛い時があった…。でも愛し続けてくれて居た母。…そして、やはり動かない母…。
 母の愛を取り戻しても、母の命は消えて行った…。心に沢山の想いを巡らせて、るかは泣いた。
 ふと握った母の手を見ると、指先が少し握る様に曲がっていた。
「握り返そうとしてくれたのかな…」
正解は知る事は出来ないが、母がるかの手を握り返そうとしたと信じる事にした。

 その後母の遺体は学校敷地内の礼拝堂に運ばれて、寮生とシスターにより告別式を執り行われた。
 るかは葵を抱き
「お母さん私の同僚よ。とても良い子なの。お母さん私を守った後、私の生きる術を用意してくれてありがとう。幸せに暮らしてるよ。生きる力、付けてるよ。お母さん、聞いてる?届いてる?」
「届いてますよ。お母さんはちゃんと聞いてますよ。聞かない訳無いじゃないですか」
シスターの返答に寮生も涙ぐみながら頷いた。
 美しく哀しげな賛美歌と祈りにより、るかの母は天国に送られて逝った。
 
 その後、裁判所からの通知が届いた。るかが開封すると。
『西本千鶴被告には情状酌量により、執行猶予5年とする』と書かれていた。
「お母さん、お父さんと仲良くしてるよね。私もこっちで頑張るから」
父と母の遺影に向かい、るかは囁いた。


藍香

 数ヶ月後、藍香は自分の身体に擦り傷が無くなっている事に気づいた。考えてみるとフラッシュバックも暫く起こって無かった。
 
 そんなある日、食堂の冷蔵庫が調子が悪くなっていた。
 修理に来た男性作業員に、藍香はグラスに注がれた冷たい麦茶をトレーに乗せて持って行った。
「どうぞ」
「あっ、お姉ちゃんありがとう」
男性作業員は乾いた喉に流し込む様に、ゴクゴクと一気に飲み干した。
「お姉ちゃん、美味しかったー。ありがとう」
とお盆にグラスを置いた。
「いえ、修理作業ありがとうございます」
と頭を下げて洗い場へトレーを運んだ時、藍香は自分が男性に恐怖を抱かずに接する事が出来た事に気づいた。
 そうすると、校外に出て自分が不安を抱かずに居られるかを試したくなり、コンビニ迄買い物をしてみようと思い立った。
 その日の夕食後、シスターに
「すみませんシスター、私校外のコンビニに買い物に行ってみたいのですが…」
と許可を申し出た。
「あら!勿論構わないけど…藍香さんは大丈夫? 」
心配と喜びが混ざった顔で返答が帰ってきた。
「今日、冷蔵庫の修理にいらした作業員の方に 怖さを感じなかったんです。だから 試してみようと思ったのですが…」
「もし差し支え無ければ、私も一緒に行きましょうか? 」
とシスターは提案した。
「お願いして良いですか? 」
「勿論よ! 」
藍香は財布と手提げの袋を持ち、シスターと出掛けた。
 久しぶりに出た学校敷地の外は、沢山の自動車が目の前を横切って居た。すれ違う知らない人達。私もつい数ヶ月前までは、こうやって街中を歩いていたんだ…。
信号待ちの間、藍香は横断歩道の向こうを見つめた。お洒落なカフェが信号の向こうにあった。閉店作業を店員が慣れた手つきで行っている。エコバッグに沢山の買い物の品を入れた主婦、音楽を聴いている男子学生、仕事帰りの身なりの綺麗なOL、保育所のお迎え後のお父さんと坊や…。
沢山の生活が見えた。それぞれ皆んなが生活を営んでいる。責任や何かを皆んな持って暮らして居る…そんな事を考えて居た。
 コンビニに着くと、
「いらっしゃいませ〜」
の店員の声に少しの懐かしさが湧いた。
 藍香はノートとシャープの芯と、なごみと自分の為の飲み物をカゴに入れた。
「藍香さん、なごみさんにお土産? 」
「はい。今日も宿題手伝わなきゃいけないだろうから」
2人はクスクス笑った。
 レジへ行くと、男性店員が
「いらっしゃいませ、こんばんは」
と会釈した後、商品をスキャンした。
「538円です。ポイントカードはございますか? 」
「いえ、無いです。」
「失礼致しました」
藍香は千円札を出した。
「こちら お釣りとなります」
お釣りを受け取るのに藍香は手を差し出すと、男性店員の手が少し触れた。
しかし昔のように何事も無くごく普通に買い物が終わり、何か僅かな懐かしさを感じた。
 店を出た時、シスターと藍香は達成感のある顔で目を合わせた。
「藍香さん、もう大丈夫ですね」
「はい! 」
「回復したわね! 」
「そう感じます! 」
2人は傷が癒えた事の喜びを味わい、何の変哲も無い景色を眺めながら寮に戻った。
 部屋に着いた藍香は
「なごー!お土産! 」
と満面の笑みでジュースを見せた。なごみは元気な顔で帰宅した藍香に、喜びを隠せず抱きしめた。言葉には出来ず、沈黙のまま数分歓喜を持って抱きしめ合った。藍香が回復した事は藍香の帰宅時の笑顔で伝わって来た。大切な同僚の回復に歓喜の涙が浮かんだ
 そして藍香のこの回復は、寮を出て家族の元に帰る日が近い事を意味していた。
 また、なごみも同様に寮を出る日が近付いていた。
 2人の同僚生活が終わる事の喜びと少しの寂しさとが入り混じる中
「ねぇなご、このジュースね」
「うん」
「宿題しながら飲もう! 」
と笑いながら言うと
「ひっどーい!宿題しないと飲めないの? 」
と感動して損したと言わんばかりに、なごみはふてくされた。
「じゃないと、未提出になるでしょ」
「嫌〜!現実から逃げたいー! 」
「じゃあジュースあげない! 」
「ごめんなさい!今取り組みます」
いつものコンビに戻った。

 藍香はその日、家族ラインに送ったメッセージは、
「お父さんお母さん、会いたい。ずっとお父さんには顔も合わせれなくて、罪悪感ばかりで…。
きっと昔のように顔を合わせれる気がします。会ってごめんねと言いたいです」
と綴った。
「元気になって来たんだね。良かった。良かった。本来の藍香に戻って来たんだね。大切な娘に会えるんだ…。回復傾向に喜びいっぱいです。父と母より」
と返信が来た。
 その後も時々外出をして、訓練を続けた。そして男性への恐怖心が出ない事が確信となって行った。
 
 数日後、校門からすぐ近くの小さなログハウス調の面会棟で、藍香は母と父に会った。父に会うのは何ヶ月ぶりだろう…。
 顔を合わせた父に対して恐怖心は全く湧かず、只々『大切な父』が目の前に居た。
 藍香は父に抱きつき
「お父さん…長い間御免なさい…。大切にしたかったのに…。悲しい思いさせてばかりで…迷惑ばかり掛けて…」
と言った。そして家族3人で抱き合って喜びの涙を流した。
「藍香、お前は悪く無いんだよ。辛かっただろう。よく克服したね。こんな明るい顔の藍香に会えて…お父さんは嬉しいよ」
 母が藍香を見ると、七分袖の服を着て傷の無い綺麗な腕になって居る事に気付いた。
「藍香、擦り傷無くなったね。良かった。本当に良かった。」
 藍香は袖をまくって綺麗な腕を見せた。父と母は以前の娘…いや、更に成長した娘を見て以前のトラブルの最中からやっと抜け出せ、暗雲が遠のいて行く気持ちを噛み締めた。

 その後、藍香は寮や学校での生活での楽しかった事を話した。
 父と母は笑顔で話す藍香の声を、愛おしく聞き入った。
 面会棟は宿泊も出来るようになっていた。藍香と父と母は3人でここに泊まる事にした。親子水入らずの時間が当たり前の様に過ぎていく…。只々幸せを感じた。
 小さ目のキッチンで、母と藍香2人は夕飯を作った。
 そこで藍香が
「同僚のなごも呼んで泊まって良い? 」
と言った。
「良いわよ」
なごみも急遽参加して4人で楽しい一夜を過ごした。

 この面会棟での楽しい一日は、藍香となごみが寮を去り家族の元に戻って暮らして行けると、更なる自信となった。

 そして1ヶ月程、藍香となごみは時々外泊をして、家から学校に通ってみる日を作り訓練をした。

 恐怖が湧く事なく、寮を出る事への支障は無いと判断され、同じ日に藍香となごみは寮を出た。
 シスターが2人に最後の言葉を掛けた。
「貴女達は良く頑張りました。もう過去は2人にとって終わった事になって居る様ですね」
 藍香が
「はい、終わった事です。同じ辛さを経験した人の力になる事が出来たらと思います」
 なごみも
「私も同じく思います。過去に振り回されず大切に生きて行きたいです」
と答えた。
シスターは語った。
「だから寮を出る事になったのでしょうね。
 イエスは十字架に掛けられて亡くなる前に『神よ彼らは何をしているのか分からないで居るのです。どうぞお許しください。』と自分を十字架に掛けた人達の為に仰ったのです。
 自分に仕打ちを与えた人を許す…簡単な事では有りません。
 イエスは私達にも『許しなさい』と仰います。貴女達に害を与えた人を今『許します』と言ったなら、貴女達を危険に晒すでしょう。
 貴女達の『許す』に代わる物は、『忌まわしい過去を捨てる、忘れる事、どうでも良い事にする』と言う事です。
 その辛く重い過去が心にのしかかると、喜ぶ事も幸せを感じる事も、友を愛する事も、どんな幸せも、その素晴らしさを感じる妨げになるでしょう。
 忌まわしい物は捨てて沢山幸せを心から喜んで生きて行けば、沢山感謝していれば、忌まわしい過去は『人の痛みや尊さ』を理解する強さに変わります。
 貴女達は、傷を癒してイエスの言われた『許す』が出来たのでしょう。沢山の喜びを受け止めて平和を作る人間に成長しました。
貴女達が憎しみを持つ事なく喜んで暮らす事をイエスは望まれて『許す事』を身に付けたのでしょう。これからも平和を作って行って下さいね。」
「はい!」2人は声を揃えて答えた。
「シスター、時々シスターに会いに着て良いですか? 」
と藍香が言った。
「勿論よ!歓迎するわ」
 なごみが、
「ハーブティーも飲みたいし」
と言うと
「自慢のハーブティー用意しておくわね。来年も寮の庭にカモミールを植えなくちゃ! 」
「シスター、お世話になりました」
2人は頭を深く下げて手を振りながら、寮を後にした。
 シスターも見えなくなるまで手を振った。


健斗

 一馬や諒我と疎遠になった後あまり娯楽が無いこの田舎町の中で、僕は勉強にしか逃げ場が無かった。
 学校でも外出しても、有紗と会うのが怖かったのだ。
 勉強をすれば、学ぶ内容のお陰で藍香と有紗の事と、自分の罪を思い浮かべずに済んだ。 勉強に逃げれば逃げる程成績は上がった。両親は何も知らずに
「何か将来やりたい事あるのか」
と聞いて来た。返事に困った。
「来年度は受験生だから」
とだけ答えた。
 学校では、有紗と目が合う事が有れば向こうが目をそらし拳を握っているのが見える…。学校は茨の様に感じて楽しめなかった。
 だからこそ勉強に打ち込んだ。休み時間も有紗の目線を感じない様に勉強した。とにかく一日中、毎日、僕は逃げていた。

 一馬は、隣町のゲームセンターに通う事が増えたらしい。放課後、休みの日はゲームセンターに入り浸って居たと、クラスメイトが話していたのを小耳にした。

 諒我は大人しい男子の広田颯斗と一緒にいる事が増えた。
 諒我があまり興味無かったアニメの話題を颯斗から聞いて過ごしていた。

 僕ら3人は自分達の犯した罪から只々避けて暮らして居たのだ。償う事なく…逃亡者となって それとなく生きて居た。

 皮肉にも成績が上がった僕は、注目を浴びて職員室に呼び出され進路のアドバイスを受ける事が増えた。クラスメイトから
「さすが健斗だなぁ、何処の高校行こうとしてるのかなぁ」
と噂にもなった。人目を避けたかった。いや、人目が怖くて仕方なかったのに、勉強に逃げて居た事が仇となり成績が僕に対する注目の種となってしまった。その注目が、いつか僕の罪が露呈された時を想像させる。自分の無様さと父と母の落胆と世間の目が、平和な今ても恐怖の津波が飲み込んで来る。
 でも代わりに打ち込む事も見出せず、更に勉強に逃げた。

 3年生になり、修学旅行の時期になった。誰と同じ班になりたい…自由行動は何処に行きたいか等もうどうでも良かった。
 所属する班に一馬と諒我がいない事だけを望んだ。
 そしていざ修学旅行が始まると、返って勉強に逃げる事は出来ず、クラスメイトと数日共に過ごさなければいけない。修学旅行はただの苦痛の数日となった。修学旅行中の写メの画像には僕の作り笑いが写って居た。
 宿の夜はクラスメイトの好きな女子の話や、付き合ってる女子の話になった。
 僕は寝たふりをして話に参加しなかった。皆んなの浮かれた恋の話が、僕の罪を犯した時の映像を蘇らせてグサグサと突き刺さってくる…。これが罰なのか…。罪悪感に眠れず、ただ長い時間寝たふりをする…。苦痛な夜だった。


藍香  

 藍香の学校生活は充実した物だった。友達にも恵まれ陸上部にも所属して、大会に出場する様になった。
 時々寮に顔を出してシスターや、るかと葵と過ごしたり、
 なごみやクラスメイトと街中に出掛けて楽しんだりした。
 なごみは相変わらず勉強が苦手で、テスト前に藍香が指導をした。
 痛みを知ってる者同士の絆は強い。理不尽な傷を負った者同士だからこその、真の友達が集う場所に学校がなって居た。
 そして痛みと悩みがあり、それを克服する事により、更に家族の絆は強まった。
 藍香はそんな中で心がが成長し、温かみを忘れない誠実な人間と成長して3、中学3年生になって

 修学旅行の時期になった。班を構成し、自由行動の行き先も皆んなで考える様になった。
 しかし同じ班になった物の、最近転校して来たばかりの生徒、入江桜はフラッシュバックがまだ治っていなかった。修学旅行自体行けるか不安を抱えていた。
 シスターが
「悩むわね…」
お声を桜に掛けた。
「御免なさい…迷惑を掛けて」
そう呟く桜に藍香とクラスメイト達は
「そんな迷惑だなんて思わないで。何か良い方法考えよう!」
と話しだした。
「辛くなったら誰かが一緒に居る様にする! 」
「うん、付き添うのは全然構わないわ! 」
「バスの中ならバスを止めて貰って、外に出て
落ち着いたら出発する! 」
 皆んなで案を出した。藍香が
「桜さん、桜さんはどうしたいとか、こうしたら良いとか何かある…? 」
と穏やかに聞いた。
「ええと…ええと……」
桜は黙り込んだ。藍香は
「桜さん、今すぐ答えを出さなくてもいいと思うの。一週間位有れば、ゆっくり考えれるかな」
と言うと
「ありがとうございます。…」
と小さな声で桜はうつむいて答えた。そして班の話し合いは終わった。
 帰りのホームルームが終わって藍香がカバンを持とうとした時、桜が小さな声で
「坂橋さん…良いですか? 」
と声を掛けてきた。2人で話した方が良さそうだと感じた藍香は空き教室に誘った。
「桜さん、疲れたりしなかった? 」
藍香が声を掛かると、
「あっ、ちょっと…疲れた様な…気がします…』桜はうつむいて答えた。そして
「あの…」
と切り出した。
「なぁに? 」
優しく耳を傾けると
「あの…あの…皆さんが優しくて…有り難いと思います。…。でも…いや、その…」
「うん」
藍香は桜が怖がらない様に笑顔で耳を更に傾けた。
「転校してきて…まだ間も無くて…。親切な皆さんに感謝してます…けど…えっと…その…発作と…まだ生活に慣れないのとで…私には修学旅行は難しいかと…」
桜は必死で言った後、殴られるのを構えるかの様に目を硬く瞑った。
それを見て藍香は桜の手をそっと握り
「行けそうにないって言うの、逆に勇気のいる事だったと思うの。言ってくれて有難う。私達 一緒に修学旅行行こうと必死で…逆に負担掛けちゃうところだったわ。御免なさいね」
と言うと桜は、恐る恐る目を開けて藍香を見た。
優しい笑顔の藍香を見て『嫌わないで居てくれたの? 』と言いたげな驚いた顔で、どうしたら良いのか困って居た様だった。
「御免なさい、皆さん私の為に考えてくれて、話し合いに時間を掛けて下さって…あの、その…」
「謝らなくて良いの。ちゃんと思いを言ってくれて有難うね。ゆっくりで良いの。ゆっくりで。
誰も責めないから」
 藍香は思った。確かによく考えてみたら転校して間もない中で、絆が出来上がっているクラスメイトと修学旅行に行くのは勇気のいる事かも知れない。
 しかもフラッシュバックがある中で、知らない人と寝泊まりして楽しむ事が出来るか…。
 そう考えると修学旅行で桜と絆を深めようと思っていた事が負担になっても不思議ではないと思い直した。
 そんな中でも友達になりたいと言う思いを伝える為に、藍香は言った。
「お土産を桜さんに買ってくるのは構わないかな? 」
藍香は椅子に座って俯いている桜の顔を見上げる様に、しゃがんで桜の手を握ったままで尋ねた。
「も、も、勿論ありがたいです。良いんですか?お土産もらって…」
「勿論!食べる物と、思い出に残る物、どちらが良い? 」
「あっ…何でも…あの………ストラップ…。」
「うん、分かった、ストラップ、買ってくるから。待っててね」
「御免なさい、ワガママ言って…」
「何もワガママでは無いわ。ちゃんと思いを教えてくれて嬉しいわ」
藍香は桜の傷の深さを察した。無理に心をこじ開けてはいけない。ゆっくり桜が扉を開ける日まで、毎日扉に優しくノックをして呼びかける所から始めよう。と思った。
 シスターが通りすがりに教室の扉の窓からチラッと様子を見た。
桜と藍香の様子を見て、頷いて廊下を通り過ぎた。

 そして修学旅行が来た。
 桜は寮に入ってる為、寮の窓からバスが出るのを見ていた。
 その時桜のスマホにラインの着信が鳴った。
 開くとクラスラインで
「行ってきます」
と藍香からのメッセージが届いて居た。
「いってらっしゃい」
と返信すると。スマイルマークが藍香から届いた。
 桜は少し微笑みが溢れた。

 その後も他のクラスメイトから1日に2〜3回 修学旅行の写真やメッセージが届いた。
「この温泉まんじゅう美味しい〜(≧∀≦)」
「雨に濡れた〜!私リアル河童‼︎ 」
と変顔の写メ等送られてくる。3日間の後半には、いつしか『さくら』と親しみ込めて誰もが呼び捨てする様になった。
そうすると桜の『あの…』と言う回数も少し減った。
 桜は『心のドアノブ』に手を掛けた所なのかも知れない。

 数ヶ月すると桜は『あの』と言う事が無くなり敬語で話す様になった。
 笑顔も増えてクラスの一員になった。
 フラッシュバックはまだ続いて居た為、保健室に行く事も多く、寮でも事務室に行く事も多かった。
 保健室に行くと、クラスの誰かかれかが
「さくら〜」
と声を掛けに来た。そして、桜が身体をベッドから起こすと 
「無理しないで、寝てて〜! 」
と言って桜に布団を掛けた。少しおしゃべりをして、飴を置いて行く生徒がほとんどだった。
 ある日桜がフラッシュバックを起こした後、急に話しだした。
「御免なさい。私、保育園や小学校や中学校でもずっといじめられて居たんです。友達なんか居なかったんです。
 ここでは皆んな私を虐めないし、仲間に入れてくれて、話を聞いてくれます。なのに…フラッシュバックが治らないんです。ごめんなさい」
「謝る事ないよ」
「長い間辛かったね」
「よく頑張ったよ! 」
「さくらの優しさに漬け込んでタチ悪いよね、虐めてた人達! 」
クラスメイトが皆んなで桜に同調した。
「辛かった事話すのは怖かったでしょ。強くなったんだと思うわ」
藍香が言うと、桜は声をあげて泣き始めた。藍香が桜を抱きしめると、皆んな桜の頭を撫でたり、背中を撫でたり、涙を拭いてあげたりした、
 桜は少しずつ少しずつクラスの中に入って行った。 
 そして桜のペンケースには藍香のお土産のストラップがぶら下がって居た。

 3月の卒業式の後クラスの仲間は4月になるのを待った。
 どうしても桜と一緒に修学旅行で行ったコースを皆んなで行きたかったのだ。
「さくらと修学旅行」
の為にクラスの皆んなと桜は、お年玉とお小遣いを貯めた。
 そして中学生の間は市外に出る事は校則違反だった為、高校生になる4月を待った。
 4月1日がとうとう来た。桜も一緒に電車を使い安い温泉旅館に泊まり、修学旅行で行った湖や 神社、歴史深い建物を見て回った。
 桜はきっと前の学校ではただの苦痛であったであろう修学旅行を、信頼出来る仲間と楽しんでいる事が嬉しくて堪らなかったのか目をキラキラさせて居た。
 そして大切な仲間と共に宿に泊まり、食事を堪能して、夜通し笑って話をした。
 朝食に向かう時、桜は藍香を呼び止めた。
「これ、私からのお土産です」
と言って藍香に渡した。
「えっ、ありがとう!何だろう…」
開けると、藍香が桜に買ったストラップの色違いが入っていた。
「あっ! お揃いだわ、嬉しい!さくらありがとう! 」
桜はクスっと笑って、
「友達とお揃いを持つのが夢だったんです」
と照れ臭そうに言った。
「嬉しい…。お揃いだね」
「お揃いですね。でも皆んなもだけど、藍香さんどうして私の気持ち分かるのが上手いのですか?いつも理解して馬鹿にしないで、寄り添ってくれるじゃないですか」
「そう言ってくれると本当に嬉しい。きっと、さくらと仲良くなりたくなったんだと思う。前にさくらは自分の今迄の事話して居たけど、私も傷を持ってたのを皆んなに助けてもらったんだ。シスターが言ってたの。昔の辛い事はどうでもいい事にすると良い。そして幸せや喜びを噛み締めて楽しむと良い。そうすればかつての痛みは強さになるって教えてくれたの。今の自分が強いかは分からないけど、痛みが辛いのは分かるかな。」
「私も…強くなれるでしょうか…」
「さくら、強くなったよ。笑う様になって、皆んなと友達になって。私の友達になってくれてありがとうね」
「はい! 」
 藍香がストラップを旅館の廊下の照明にかざすと、キラキラとシルバーの部分が光った。
 すると桜は、持って来ていた色違いで少し色褪せたストラップをポケットから出し一緒にかざしてみた。
 桜のストラップも鈍く光った。
「私達は友達だね」
「はい」
 
 締め切って鍵を掛けていた桜の心…。桜の心の扉は開かれて、そこから彼女はぎこちない足取りで出て来たのかも知れない。
 虐められていた年月の方が圧倒的に長い。孤独であったであろう。自分をどうしたら虐められなくなるのだろうかと日々考えただろう。
 何か試してみたこともあったであろう。しかしそれを遥かに超えて虐めは続いたのであろう。
 親に心配掛けまいと家では笑顔で傷を隠して来ただろう。
 自分を守る為に閉じこもったであろう。否定され続けて自分でも『自分の価値』を見失ったであろう。
 でも思ったはずだ、
「何で私を虐めるの?虐めを止めて!」
と。虐める側が悪い事も分かって居ながらも 自分の価値を見出せなかった。
 でも桜は悪くない。多いに笑って構わない。多いに喜んで構わない。
 未だに敬語だとしても、おしゃべりをして構わない。むしろ敬語は、今迄虐めの中で耐え抜いた証だろう。敬語で友達と話しても人を思う心が有るのだから、それで良い。
 桜が素直に喜ぶ事が出来るならこれで良い。ぎこちなくても、心が綺麗で有れば良い。
 桜も過去から少し脱皮し掛けているのかも知れない…自分が過去から脱皮して来た様に…。
 誰かが辛い過去から脱皮するのを見ると、共に喜びが湧いてくる…。と藍香は思った。
 その日に電車が地元の駅に着き、2度目の修学旅行は終わった。


健斗

 健斗は、逃げ場の勉強が功を奏して隣町の進学校に入学して居た。勉強に逃げて居た分、授業は苦痛では無く難なく着いていけた。
 進学校に入って充実した学びを得るよりも、健斗にとっては有紗が別の高校に行ってくれた事が何よりも有難い事だった。有紗の見張る様な目線も無い。
 諒我も一馬も違う高校、あの自分の犯した罪の関係者は居なくなった。
 クラスメイトと話す様になり、日が経つにつれて『警戒』する事も少しずつ減って行った。
 顔立ちが整っている健斗に女子の中で思いを寄せる子もチラホラ出て来た。そんな中、隣のクラスの斎川由梨に告白され付き合う様になった。
 由梨は小柄で可愛らしい顔立ちをして居た。行動力や勢いがあり、健斗に告白する時も躊躇なく
「私の彼氏になって! 」
と首を傾げて顔を覗き込みながら言って来た。健斗は最初驚いた。だか由梨の可愛らしさと、上手く行っている高校生活に気を許し、
「あっ、うん、良いけど」
と、すんなり承諾した。承諾の言葉を言い終わる前に由梨は健斗の手を握って繋いで来た。由梨の屈託の無さに健斗はクスっと笑った。
 由梨は噂が好きだった。この短い高校生活の中で、よくここまで情報を集めたと、健斗もある意味感心した。お陰で色んな生徒達の事を知る事が出来た。
 由梨は健斗が相槌を打つ暇も無いほど一方的に話をしてくる。なので健斗はいつも聞き役だった。
 そして由梨の家に行った時の事だった。両親が仕事からの帰宅迄まだ時間があった。
 由梨は健斗にキスをして来た。そしてそのまま肉体関係を持った。
 健斗は心の中で『なんだ、別にあの昔の事は関係無く僕は普通に出来るんだ……何を怯えて居たのだろう。』と胸を撫で下ろした。罪悪感に苛まれた日々が消えた。
 恋人、勉学、憧れられての注目、それらの中で日々充実感を得て居た。
 由梨は甘え上手でチャッカリして居る。デートの時はいつも健斗が全額払う事になる。そして服やアクセサリー、スウィーツ、様々な物をねだってくるのだ。
「あー、このバック可愛い!中も使いやすくなってる!どの靴でも服装でも合いそう…。ねぇ、健斗、私に似合うでしょ?ねぇ」
こんな調子で度々物凄い勢いで捲し立てられて 風向きを買わせる方向へ持っていく。高校生の健斗の財力では追いつかなくなって行った。
「この前もバック買ったじゃん」
一言言うと由梨はサラリとなかったことの様に手を繋いで来て、隠れた所に健斗を連れて行き健斗にキスをして誤魔化す。そんな事が続いた。
 3ヶ月経つ頃には健斗も由梨の勢いに着いて行けなくなって来た。由梨も健斗の財布事情を察した様だ。アルバイトをして居て顔立ちの整った人気の男子を探し始めた。
 それを察した健斗は 
「フラれたとか、彼女が居ないと言う事が自分のステータスを低くする』そんな気がした。
 そこで由梨から聞いていた噂で、合唱部でピアノ伴奏をして居る子『本川樹理が健斗を好きなんだって』と由梨が言っていたのを思い出した。
 確実に彼女になってくれそうな人材…と思い 顔も見た事の無い本川樹理に告白する事にした。
 健斗は合唱部の練習を覗くと、清楚でスラリとした長い髪が似合う大きな目で美人な子がピアノの楽譜を揃えて居た。
「あの子が本川樹理か、悪くないな」
練習が終わるのを待った。
 終わってゾロゾロと合唱部員が出てきた時に 樹理を呼び止めた。
「本川さんですよね」
「はい」
「ちょっと話しさせて貰っても良いですか? 」
「は…はい」
 2人で階段の踊り場迄行った。
「あの…話って…どんな.事ですか? 」
「僕、外田健斗と言います。僕と付き合って貰いたいんですが…。どうですか? 」
と健斗から告白すると樹理は口を手で覆いビックリした顔で頬を赤く染めた。
「私、外田君を好きだったんです…。私で良いんですか? 」
と、祈るように胸元で手を組み嬉しそうに答えた。
「うん。よろしくね」
「…夢見たい…。夢じゃない…よね? 」
「うん.夢じゃないよ」
プライドの為に企んだ事とは言え、由梨とは全く正反対の純粋な樹理に、健斗は正直少し戸惑った。
 しかし、これで保険が出来た。健斗は1人になった時に由梨にラインで
「別れてくれ」
と送った。
「どうしてよ! 」
と直ぐに返信が来た。『私をふるですって⁉︎私がアンタをふる予定だったの!何様になったつもりなのよ!』と由梨の心の声が聞こえる様だった。
「もう無理だと分かってたんじゃないか? 」
「あっ、そう!私と別れるなんて絶対後悔するから!サヨナラ! 」
と返信が来た。樹理と云う保険もあり上手く事は運んだ。
 その日の夜、樹理からラインが届いた。
「健斗君、甘い物は好き? 」
「うん、好きだよ」
「分かった。今日は嬉しかった。ありがとう。おやすみなさい」
と返信と共に可愛いウサギが枕を持ったキャラクターのスタンプが届いた。思わず由梨と樹理を比べて 
「ジャジャ馬と忠犬、全く違うタイプだなぁ」
と思いながら
「おやすみ」
とついでにハートマークを送って置いた。ハートマークは無難かなと、忠犬を手懐ける思いで居た。

 次の日、樹理と待ち合わせの駅の改札を出ると、樹理は嬉しさが溢れて照れ臭そうな笑顔で健斗を見つけて手を小さく振った。
 健斗も少し足早に駆け寄り
「おはよう」
と互いに挨拶を済ませた。
「健斗君、あのね」
「ん?何? 」
「これ、食べて」
可愛い薄水色の袋にゴールドのリボンが飾られて居た。
 開けるとナッツとチョコチップの入りのクッキーが沢山入っていた。
「えっ、これ手作り? 」
「うん。ヘルシーに作ってみたの」
はにかみながら話す顔立ちが可愛かった。
「ヘルシーって…どんな風に?」
「オカラを使ったの」
「オカラもクッキーの具材になるんだ」
と健斗は一個頬張った。
「あっ、美味しい。何個でも行けちゃうね」
と紙袋を樹理にも差し出し一緒に食べた。樹理も頬張りながら
「喜んでもらえて良かった」
と更にはにかんだ。
 健斗は心の中で、そう言えば由梨からは、ねだられても何かくれるって事無かったな…。と思い返した。
 忠犬って可愛いい物だな。

 樹理と付き合う様になって、樹理の優しさや一途さやそのままの健斗を受け入れてくれる心地良さが、健斗を樹理に夢中にさせた。
 一緒に居ると幸せで愛おしくて、優しい目が魅力的な樹理。側に居るだけで良い。樹理を大切にしたいとの思いが段々強くなる。
 忠犬…そんな思いはいつしか、『大切な人』になって居た。
 樹理が大切だからこそ肉体関係よりも、心を通わせて居たいと健斗は思った。藍香に味合わせた様な思いを樹理に経験させたくなかった。樹理が大切だからこそ怖かったのだ。
 
 樹理自身は藍香と言う存在も、健斗と藍香にどんな過去があったのかは全く知る術も無かった。心が健斗と通って居ればそれで良かった。一緒に出かける時に手作りのお弁当を作り、笑顔で頬張る健斗を見るのが好きだった。
 一緒に見る海、一緒に行った動物園、図書館へ一緒に行ってのテスト勉強、合唱部の定期演奏会に客席から拍手を贈る健斗が見える事…。
 2人でいる事がとても自然で嬉しさが溢れた時間となって居た。



藍香 健斗

 藍香は高校生になってから、アルバイトを始めた。学校敷地から近くのカフェが勤務地だ。シスターと一緒にコンビニ迄行った時に見かけたカフェだが、経営する30代の夫婦がイタリアで仕入れた食器やカフェボード、ハーブや雑貨がお洒落に飾られた店だった。
 この店は店主の自宅の1階をカフェにした小さな店だ。
 店主と奥さんの間には3歳の娘さんが居て、保育所の帰りに店内を通って居住スペースへ行くのだが、いつも藍香に甘えてから2階へと行くのがルーティンの様だ。
 仕事を直ぐ覚えて真面目に働く藍香は店主夫婦にも可愛がられて、アルバイトは楽しい社会経験となった。
 
 部活もしながらのアルバイトや勉強、確かに忙しい。そんな生活を父と母の元で送れるのが嬉しくてたまらなかった。
 学校、部活、アルバイト、そして友達。飛び跳ねる様に出掛ける藍香を見て父と母も、大きな波が去って平穏を取り戻したのを大切に感じて居た。

 アルバイト先のカフェに藍香目的で通う客も居た。
 藍香は恋愛がまだ苦手だった。誘いの声を掛けられても静かに断って居た。プッシュの強い客には、店主が藍香の様子を察して
「藍香ちゃん彼氏居るからね〜」
と誤魔化して助けてくれて居た。

 そんなある日
「あのカフェに可愛い店員が居るらしいぞ」
と藍香目当ての男子高校生4〜5人が来店した。
「可愛い店員に声を掛ける」
のが目的なのは明らかだった。
「いらっしゃいませ」藍香が笑顔で席に案内してお冷とメニューを置いた。
 男子達は声を掛けさせようと、1人の男子を小突いて居た。
 お冷をテーブルに置き、
「ごゆっくりどうぞ」とお辞儀をして頭を上げた時、藍香は小突かれて居たのが健斗だと気付いた。健斗も藍香を見て目を丸くして固まって居た。その固まった健斗を見て 
「お前見惚れてんのかよ」
お他の男子達がからかった。
 落ち着いた生活を取り戻した中で、視界に入って来たかつての加害者…。不意打ちを喰らわない様に藍香は
「どうでもいい事に出来たら良い」
以前シスターが言った言葉を反芻し、その場を去ろうとした。その時
「元気そうだね」
と健斗が声を掛けて来た。
「はい、お陰様で」
と接客の為の笑顔で藍香は返し、会釈をしてキッチンの中に入った。
「どうでもいい」「どうでもいい」「どうでもいい」何度も反芻して、逆に恐れたり気にしたりしないで普通に働くと心に決めた。
 健斗は元気に働く藍香を目の当たりにして
『なんだ、もう元気じゃないか。僕があんなに後悔したり、自分を責める必要は無かったのでは」と気が緩んだ。
 注文を受けに来た藍香が一通り注文を復唱し確認した後、
「今どこの高校? 」
と健斗に聞かれ
「ごゆっくりどうぞ」
と礼をして藍香は質問に答えずにキッチンに戻った。
 出来上がった品物を持って行くと、
「陸上やってるの?」
と更に健斗は聞いて来た、
「伝票こちらになります」
と笑顔で置いてまた藍香はキッチンに戻った。
「健斗、あの子知り合いかよ」
「あっ、昔のクラスメイト」
「へぇ」
と会話が聞こえて来た。
会計の時、
「いやぁ元気そうで良かったよ」
お緩んだ気を顔に出して笑顔で声を掛けてくる健斗に、藍香は苛立が湧き上がるのを堪えながら、
「元気に幸せにしてます。もう貴方と関係はありません。私に前に現れないで下さい」
と接客の顔で静かに言った。気を良くして居た健斗は、藍香の言葉に罪が消える訳が無いと再度思い知らされた。
 そして、元気な藍香を見て、勝手に時が解決したと思っていた自分を恥じた。
 会計を済ませて先に店を出た男子達が
「健斗、美人と知り合いだったのかぁ。紹介してくんねぇかなぁ」 
等話ている中、最後に退店した健斗は心の中で
『もし樹理が 藍香と同じ目に遭ったら…確かに僕は死んでも許さないだろう…。なにをやってるんだ僕は…』と自分を責めた。

 次の日、学校に行くと昨日の男子達がカフェでの話をしていた。その話題が教室外にも広がり 樹理の耳にも入った。
 健斗も一緒に美人の店員目的でカフェに行き、健斗が店員に声を掛けた…。まるでナンパしたかの様な噂だった。
 樹理は由梨から聞かされた。
「ねぇ、健斗ナンパしたんだって? 」
「えっ? 」
「知らないの?美人の店員さんの居るカフェに男子達がワザワザ見物に行ったって。健斗だけが声掛けたって。会計中も話しかけてたらしいわよ」
「えっ?そうなの? 」
「樹理聞いて無かったの?ごめーん。でも、あなた達上手く行ってる? 」
「えっ、仲良くしてるわよ」
「で、付き合ってどれ位で肉体関係になったの? 」
「な、何? 」
「もしかして、まだ?うっそー!私が健斗と付き合ってた時は割と直ぐだったよ。大丈夫?あなた達」
 由梨の話で今迄幸せの中に居たと信じて疑わなかった樹理は猛烈な不安に突き落とされた。
 健斗は何も知らずに昼休み校庭で樹理が作った弁当を一緒に食べようと向かった。樹理は弁当を持ってもう来ていた。うつろな顔をしている。
「樹理、どうした? 」
「ナンパしたって本当? 」
目も合わさずに樹理の言った言葉は青天の霹靂だった。
「ナンパ? 」
「昨日カフェに行って美人の店員さんに健斗がナンパしたって聞いたの』
「えっ、ナンパじゃ無いよ。クラスの男子達に 『カフェに可愛い子居るから見に行こう』って言われて、断りきれなくて。それで『お前が声かけろ』って言われたから声掛けただけだよ」
「美人を見て声掛けに?何か不純な勢いだね。」
「まあ、そうだけど…」
「私なら断る。健斗に疑問持たせたく無いし、異性目的で出掛けるって聞いたら嫌だと思うから。そして、健斗だけが声を掛けたんでしょ」
樹理の直球に健斗は少し考えた。
「…そうだよね。樹理なら行かないよね。.…僕、うかつだった。ごめん、樹理を傷つけるつもりは無かったんだ。男子達が『声掛けろ』って言うから…。そしたらたまたま.昔の同級生で…。ナンパと言うより挨拶程度のつもりだけど…。確かに周りの男子は美人店員を見て…話しかけて…ナンパと思われてもおかしく無いよね」
健斗は項垂れた。
「貴方って、紅葉の落ち葉みたい…。赤く綺麗で人を魅了する見た目。でも風が吹いたら風に乗せられて、川に落ちたら川の流れに逆らう事なく流されて行く…。人の誘いに乗せられて、そのまま流れたんだ…」
 その通りだ…。藍香を傷つけた時も、一馬と諒我に流されたんだ…。僕は樹理の言う通り紅葉の落ち葉だ…。
「本当にごめん。樹理を本当に愛してるんだ。一緒に居たいんだ。悲しませるつもりじゃなかった…。ごめん」
「由梨に言われた。貴方達、まだ肉体関係になってないの?って。そんなのどうでも良いと思ってた。今もそう思う…。でも、由梨が『私が健斗と付き合ってる時は直ぐだった。』って言われて、ナンパの話も聞かされて…。不安で…私1人が健斗を好きなだけだったのかなって…。健斗は私の事遊びだったのかなって…」
「違う!違う!僕は樹理が側に居てくれて嬉しいんだ。樹理じゃないとダメなんだ!ごめん、傷付けて!」
樹理はサメザメと泣いた。不安がはち切れたのだろう。
「由梨はおちょくりたいだけだ。人の物が欲しくなる奴だ。だから由梨が肉体を求めて来た。プレゼントや物も貪る様に欲しがって人を振り回したいんだ。寂しい奴なんだ。だから肉体関係も安易に持って安心したがる。樹理の様に幸せが滲み出てるのが羨ましかったんだと思う。樹理、本当にごめん。もう流されたりしないから」
 樹理は 弁当を健斗に渡して
「ちょっとだけ考えさせて」
と後にした。
 樹理の居ない昼ごはん…。虚しい…。弁当を開けると健斗の好物がぎっしり入っていた。今朝も早くから作ってくれているのが伝わってくる。これを食べて『美味しい』と一緒に言って笑い合うのだと思って作ってくれたのだろう。
 もし樹理が僕の元を去ったら…。全身の力が抜ける思いだった。
 弁当をゆっくり味わって居ると、樹理の優しさが今は痛みに感じる。
 由梨の言い方とは云え、誠実な樹理には僕の行動は浅はかだっただろう。
 確かにナンパに見えるかもしれない。
 肉体関係が欲しい訳ではないのに、由梨とはあったと聞かされた樹理の思いを考えると…。
 健人の心も張り裂けそうだった。

 夜。樹理からラインが来た。
「私も健斗にキチンと話し聞く前に感情的になってしまったと思う。御免なさい。
でも、今度は流されないで。今回は許します」
と。
「樹理…。本当にありがとう。心配させてごめん。君と居たいから流されない僕になるよ」
と返信した。そして、樹理と幸せで居るには、僕は彼女に似合う誠実さが必要なんだと実感した。
『誠実』僕の中でそれを成長させていこう…。そう誓った。

 朝、いつもの様に樹里と駅で待ち合わせ、いつもと変わらなく足取り軽く学校へ向かった。
「今日の弁当オカズ何? 」
「秘密! 」
「待ち遠しいなあ」
2人で微笑み合いながらいつもの会話が進んだ。

 昼休み、樹理が2人分の弁当を持って健斗の教室に向かおうとした時、由梨が声をかけて来た。
「昨日、健斗と揉めてたよね。どうしたの?何で私に肉体関係は無いの?とか聞いたの?
 私は何回だったかなあ…健斗と…」
と樹理の心を揺さぶろうと捲し立てた。
 丁度樹理を迎えに行こうとしてた健斗がすぐ後ろまで来てるのを知らずに…。
「僕の大切な彼女に失礼な事言うなよ。樹理は僕の大切な人なんだ。お前が口出す話じゃ無い」
と由梨の後頭部から健斗の声がした。由梨の肩はビクッと上がった。そして見開いた目と口をポカンと開けたまま振り向いた。
 そんな由梨を置いて健斗は
「樹理、行こうか」
と声を掛けて校庭に向かった。
 樹理は嬉しそうに健斗を見た。『大切な彼女』その言葉を何度も噛み締めた。
 健斗は自分でも大切な人を守る事が出来た事が嬉しくて堪らなかった。
 そうだ、樹理は僕の大切で愛おしい彼女なのだ。


藍香

 藍香は健斗がアルバイト先に来た日、帰りに寮に行きシスターの居る事務室へ訪れていた。
「いらっしゃい。来てくれて嬉しいわ」
と迎えられて、藍香は椅子に座った。
「藍香さん、浮かない顔ね。どうしたの? 」
優しい顔でハーブティを差し出しながら『どんな事も受け入れるわ』と云うような表情でシスターは尋ねた。
「今日…バイト先に加害者の1人が来たんです」俯きながら藍香が言うと、シスターは心配そうな表情で
「そう…怖くなかった? 」
と藍香の手を握った。
「怖くならない様にシスターが教えてくれた『私には関係ない』と心に繰り返してました。向こうも私が働いているのを知らなかった様で驚いてました」
「良く心を保てたわ。強くなったわね」
とシスターは静かに頷いた。藍香は更に続けて話した。
「そして声を掛けられて、『元気そうだね』と言われた事に対しては『はいお陰様で』とだけ…。それに対して向こうは気を緩めたのか『何処の高校に行ってるの?』と話しかけてきたので『関係ない』と心に言い聞かせて、放っておきました。
 それでも会計の時にも話しかけられて『この人…反省してないんだな…』と感じたんです。だから…『貴方とはもう関係ありません。私の前に現れないで下さい。」と静かに言ったんです。そうしたら向こうは『無かった事になって居なかった…』と思ったらしくて、肩を落として店を出て…」
「藍香さん、ちゃんと出来てるじゃない」
シスターが言うと、藍香は首を横に振った。
「私、加害者を近づけない様にバリケードを張っただけじゃないんです…。項垂れたあの人を見た時…『バチが当たらない訳ない。思い知れば良い』と…相手が辛くなる様に願ったんです。私がフラッシュバックで苦しい時も、身体のあちこちに擦り傷があった時も、自分の事で手一杯だったから加害者の不幸を願った事ないんです。
 私は両親にもシスターにも同級生にも寮の仲間にも助けられて来ました。そして今と過去の喜びや幸せを噛み締める事を教えてもらって来ました。そして私を取り戻したんです。
 そうでなかったら私は…あの頃の忌わしい出来事への恐れと加害者への憎しみだけを抱いて『貴方達が私をこんなにしたのよ』と、その事が私の生活の大部分を占めて居た筈なんです。
 沢山の人の助けがあって、あの事件は終わった事になり、私は幸せになって良い事も、笑って良い事も知って苦しみから立ち直ったと思ってました。
 なのに…自分の中に加害者とは言え人の悲しみを喜ぶ思いが発芽するなんて…。自分のあさましさに幻滅しました。シスターは教えてくださいましたよね。イエス様はご自分を十字架に掛けた人の為に『彼らは何をしているか分からないで居るのです』と言われたと…私はそうなれませんでした」
と吐露した。
「古傷が痛むのね…」
とシスターは自分の手首の手術痕を見せた。
「これね、以前に転んで骨折した時の手術の後なの。もう10年以上前の物よ。生活に苦は無いの。字を書くのも、荷物を持つのも、料理も、讃美歌の伴奏も出来るのよ。でも寒い日には痛むのよ。
心の傷もそう。もう治ってる…。でも、痛む時も有るのよ。貴女は 傷が疼いたのね」
温かい手で藍香の手を撫でた。
「シスター…。そうですね。傷が疼きました。
でも、人を傷付けて良い理由にはならないですよね…」
と藍香は再び俯いた。
「貴女は怖かった中頑張ったのよ。その中で 一瞬毒草の芽が出てしまった。今の悔いてる様子なら、その毒草の芽をもう抜き取ったのではないですか?
 人の心は毎日の様に雑草が芽吹く物。草むしりを怠れば、葉も伸びて根も伸びる…。芽吹いてみないと雑草がどこに生えたか分からない。毎日毎日草むしりをして悪を取り除いて行く…。そうすれば、心と云う庭は美しく保たれて花も作物も健やかに育つ…。
 貴女は辛い時間の中だったと思う。その中で 最善を尽くそうとした。芽吹いた悪を見極めて素直に認めて摘み取った…。なら綺麗な庭になったはずよ」
 全てを受け止めて藍香を優しく見る目…。そして、罪を摘み取った…。その言葉で藍香の肩の荷は降りた。
「シスター、ありがとうございます」
今日藍香が事務所で初めて笑顔を見せた。そしていつもの藍香に戻り、帰路に着いた。

「ただいま」
藍香の声に父と母もいつも通り
「お帰り」
と声を掛けて、温かい夕飯を共に食べてた。
『シスターと話して居なかったら、この温かいご飯も苦く感じて居たかも知れない…。」と自分は1人ではないと思いを抱きながら、おかずを味わった夕飯となった。


健斗

 樹理は健斗を家に誘った。
「お父さんがね、ピザを焼くから健斗君も呼びなさい。って」
初めての樹理の家、両親にも会った事が無い。招いてくれる事が健斗は嬉しかった。
「お弁当も作って貰ってるのに、ご馳走になってばかりだなぁ。良いの? 」
「勿論よ。いつもの駅で待ち合わせしよう」
「うん、楽しみにしてる」

 約束の土曜日の午前10時にいつもの登校時に待ち合わせる駅の改札での約束。
 健斗は9時45分に着いた。樹理を待たせない様にと思っていた。
 改札を出ると樹理はもう到着していて、健斗を見ると笑顔で手を振った。
「あれ、待たせない様に早く来たけど…ごめん」健斗は律儀な樹理に頭を掻いて謝った。
「お父さんが待ちきれなくて、車で迎えに来たのよ」
樹理が車迄健斗を案内した。そして の後部座席のドアを開けて
「どうぞ」
と健斗に乗る様に言った。
「ありがとう」
「初めまして、外田健斗と言います。樹理さんにいつもお世話になってます」
運転席に座る樹理の父に頭を下げて挨拶した。
 樹理の父はお洒落なアウトドアな感じがする 、おおらかそうな雰囲気をしている。樹理が優しい女性になったのが分かる様な気がした。
「おう健斗君、樹理こそ世話になって ありがとうな。樹理、良い彼で良かったな」
と言われて、健斗と樹理は照れ笑いをした。
20分位車が走ると閑静な住宅街に入り、庭の広目なカントリー風の家の前で止まった。
「着いたよ、健斗」
「うわ〜、お洒落な家だね」
健斗が家の佇まいに見惚れていると、
「それを聞いたらお母さんが喜ぶぞ、お母さんの趣味で拘って建てた家だから」
とお父さんが教えてくれた。その横で樹理はニコニコして居る。
「そうなんですか」
 案内されて中に入ると樹理と良く似た顔のお母さんが 
「いらっしゃい、ゆっくりしていってね」
と笑顔で迎えてくれた。
「健斗がね、お洒落な家だって」
樹理が言うと
「あらぁ、健斗君嬉しい事言ってくれるわねー」とお母さんは更に目尻を下げた。
 樹理がジュースをトレーに乗せて持ちながら部屋に案内してくれた。
 綺麗に整頓されて、アロマの香りがする。可愛い置物や飾りが所々にあり、樹理らしい部屋だった。
 そして樹理の小さい頃のアルバムを見たりしながら過ごした。30分位して、
「ピザ焼けたぞ〜」
とお父さんの声が聞こえた。
「はーい」
と声を揃えて返事をして2人で部屋を出た。階段を降りる途中から美味しそうな香りがしてくる。
「良い匂い…」
健斗が呟いた。
「パパは具沢山のチーズいっぱいのピザ作りたがるのよ」
と樹理は笑った。
 リビングに入るとトマトやハーブチキン、マッシュルーム、バジル、ズッキーニ、茄子等がふんだんに乗ったピザがダイニングテーブルに置いてあった。
「凄い、大きくて美味しそうです」
目を丸くしてる健斗を見て、お父さんは気を良くして
「まだまだ焼くから 遠慮なく食べなさい」
と生地を伸ばし始めた。
「ありがとうございます。頂きます」
元気に頬張る健斗に好感を懐く樹理の家族だった。
 樹理の家族に歓迎されて、楽しいひと時はあっという間に過ぎた。
 帰りはいつもの約束の場所までお父さんと樹理に車で送って貰って、深々と頭を下げて訪問は終わった。

 帰宅後、健斗は樹理とラインで話していた。
「今日は楽しかった。ありがとう。お父さんとお母さんにも宜しく言っておいて」
「楽しかったねー。お父さんもお母さんも健斗を気に入ってたわよ」
「嬉しいなあ。来週は 僕のウチに来ないかい? 」
「えっ、健斗の家?行きたい! 」
「すごく田舎でビックリするよきっと」
「そうなの?自然がいっぱいなの?そう言うの大好きよ」
と話しが盛り上がり、樹理が健斗の家に次の土曜日に来ることになった。
 
 約束の土曜日になった。健斗の両親はバーベキューを用意して、畑から野菜を沢山摂ってきた。
 樹理の父同様、健斗の父もいつもの場所まで車で樹理を迎えに行った。
 清楚な樹理を健斗の父はとても気に入った。そして車が家に向かうと景色がどんどん長閑な畑と山や川の風景になり、樹理は外の景色に見惚れて「なんて綺麗な所…」
と喜んでいた。
 家に着くと樹理は挨拶をしてから母の作業の手伝いを始めた。弁当を毎日作るだけあって手際がまあまあ良い。そして素直な性格なのを見て、母も樹理を気に入った。
 採りたて野菜を気に入った樹理を見て、父は自慢の畑の話をして長々と話した。健斗は父の畑の話を何度も今迄聞かされて居てウンザリして居たが、樹理は真剣に耳を傾けて父の長い話を興味深く聞いた。なので父は樹理を更に気に入った。
 大切な彼女が両親に受け入れられる…。最高の時間が流れた。
 そしてバーベキューの後、自然が好きな樹理を散歩がてら案内して歩いた。
 樹理は 
「あぁ、鳥の声がどこかから聞こえる…」
と空き地で足を止めて耳を澄ました。藍香を襲ったあの空き地だ。
 樹理が何も知らずに心地良い顔で警戒無しに鳥の囀りに耳を傾けている…。よりによって自分が汚したあの場所だ…。
 健斗は平静を必死で装った。自分の悍ましい過去を払い除けながら鳥の声を聞いた。
 そして、樹理がまた歩き出し健斗はホッと胸を撫で下ろす思いだった。
 足を進めて樹理が指を差した。
「あそこの家は空き家?素敵なお家だけど」
藍香が住んでいた家だった。健斗の心臓は激しく鼓動を打った。
「2年位前までは住んでたんだ」
と鼓動を隠す様に、普通を装って答えた。しかし不意打ちを喰らうと普通って何か分からなくなる。自分で装って居る物が普通なのかどうか怖くなった。
「勿体無いなあ。ここなら健斗の家と近いのになあ…」
と樹理が屈託無く言った。健斗は早く藍香の住んでいた家から遠ざかりたかった。
「ここ出るよ」
とふざけた顔で樹理に言ってみた。
「えっ?出るって?何が? 」
少し肩をすくめて怖そうな表情で樹理が聞き返した。
「何だろうね」
少しからかう様な顔で健斗が答えると。
「もう、やだ〜」
と樹理は健斗宅への道に足を向けた。健斗は居た堪れない場所から離れる事が出来、ホッとした。
 この偶然の樹理の動きが健斗を罪から逃さないと、何かが言っている様な気がしてならない…。
「僕はこの罪を思い出すのは何回目だろう…」
と心の中で振り返った。
 夕方になり、樹理が帰宅する時間になった。
 父が、
「樹理ちゃん、送ってくよ」
と父が車にエンジンを掛けに行った。
「沢山ご馳走になり有難うございました」
父と母に礼を言うと
「また遊びに来てね」
と母が笑顔でウチの畑の野菜を袋に入れて手渡した。
「こんなに沢山…。お土産まで頂いて…有難うございます」
と樹理は丁寧に挨拶し、僕らは車の後部座席に乗った。樹理が父と母に気に入って貰えて、安堵と嬉しさの中に居た。
 駅までの道の途中に一馬の家がある。一馬の家の近く迄来た時。
「とても立派な、大きな家ですね」
と樹理か何気に言った。
「あそこのは町長の家でさ。昔から金持ちなんだよ」
父が説明した。
 その時、一馬の家の門付近に赤色灯が見えた。パトカーが止まって居たのだ。
 一馬が警察官に連れられてパトカーに乗るところだった。
「父さん、助けてくれるよな!ねぇ、父さん!」と一馬の叫ぶ声と 
「さぁ、パトカーに乗って! 」
と警察官の促す声が聞こえた。
「一馬!…」
いつもであれば堂々とし、何か問題が有れば金で解決してきた町長がオロオロし困惑してる姿は初めて見た。
「あぁ、町長も今回は厳しいだろうなぁ」
と父が話し出した。
「えっ、何が? 」
健斗は町外の高校に通って夕方か晩に帰宅する事が多く町内の事には疎くなって居た。
「健斗知らなかったか?一馬君がね、中学の3年生辺りからヤンチャしてさ。ゲームセンターに夜中迄居たり、万引きしたりしてたんだよ。
 町長はお得意の『お見舞金』をあちこちに渡して無かった事にしてたんた。この前ホームレスのホッタテ小屋を一馬君がぶっ壊して喧嘩になった時は、プレハブを提供して解決させたしな。だけど今通ってる隣町の高校の同級生を一馬君が襲ったそうだけど、この町内を超えたら金で解決とは行かなかったんだろう。こんな小さい町の中の問題なら誤魔化せたけど、この町を越えたらな…通用しないの町長も分からなかったのかなあ…」
 一馬は衝動性を変える事は出来なかったのか。父の話を聞いてまた、あの頃に引き戻された。
「こんな素敵な町にも色々有るのですね」
と樹理が何も知らずに言った言葉が、普通を装う健斗の心に刺さった。
『僕は樹理をどんなに大切に思っても、どんなに勉強しても、過去の罪は消えないんだな。当たり前だけど…。』との思いと同時に、パトカーの中の一馬を見つめながら『僕はもう人を侵す事はしない人間になった。一馬は変われなかったんだ』と自分の言い訳を作り上げた。一馬を軽蔑して自分を無理に正当化しようとした。


藍香と家族

 一馬の父が町長でありながら、息子の不祥事を金品の授受で解決しようとした疑惑が新聞やテレビのローカルニュースに取り上げられた。
 一馬の父は息子と自分のスキャンダルの為に、長年務めて来た町長の職を解雇処分となる前に辞職する事になった。
 町長を辞職しても町長が経営する土産菓子の工場も有り、生活には困らないらしいと記事にしている新聞社もあった。
 このニュースがまだ話題の最中に、藍香の被害届けを受理しなかった交番の巡査から藍香の父のスマホに着信があった。
「はい、坂橋です」
苦々しい思いが残る口調で父が電話を受けた。
「お久しぶりです。あの頃は力になれず本当に申し訳有りませんでした…。私がこんな事伺うのもどうかと思いますが…藍香ちゃんはその後元気にされてますか? 」
と申し訳なさそうに巡査は問いかけた。
「今は元気にしています。ところで要件は? 」父は社交辞令を終わらせた。
「ご主人、町長が色々な問題で辞職に追い込まれたのはご存知だと思います。一馬君も強姦容疑で勾留されました。
 藍香ちゃんが此処に居た頃は町長の力が強すぎて私も対応を断念しました。でも、今ならまだ時効になってません。一馬君の余罪はこれから出て来るはずです。
 日記帳、ありましたよね充分証拠になります。あの時私は力不足で藍香ちゃんに絶望させてしまいました。しかし町長が無力になった今、一緒に戦えます。
 他の被害者の為にも、娘さん自身の為にも考えて下さると有り難いのですが…」
巡査の話を聞き父は、初めは『今更何を』と思った。しかし巡査も悔いていたであろう事が感じ取れた。
 只、藍香の事を思うとすぐに結論は出せなかった。
「巡査、話は分かりました。只今落ち着いて暮らせている娘を思うと、昔の事に向き合いさせるべきか分かりません。少し時間を下さい」
「そうでしょうね…。是非考えてみて下さい。私の携帯の方にいつでも連絡下さい。では」
 父は電話を切った後、ソファに座り考えを巡らせた。
 部屋から出て来た藍香が 
「お父さん、一馬と町長の事考えてたの? 」 と声を掛けると、父は我に帰った顔をして藍香を優しく見つめた。
「まぁ…な」
「小さいけどニュースになってたから。お父さんもお母さんも 色々感じるだろうなと思って」
「藍香も聞きたく無いニュースだったんじゃ無いか? 」
「うん、思い出すけど…。一馬も町長も逃げ続ける事が出来ないんだって思った。
 被害を訴えた人、勇気を振り絞ったと思うの」
「そうだね。気持ちは良く分かるよな」
「うん」
一馬と町長の件を話して居て、父は藍香に巡査との話をしてみようと思った。
「実は今…あの時のお巡りさんから電話があったんだ」
「えっ…あのお巡りさん? 」
少し顔をしがめながら藍香は聞き返した。
「そうなんだ。父さんも電話貰った時『何だ今頃』と思ったんだ。
 当時は町長の力が強すぎて歯向かえなかったから、お前を気の毒に思いつつも被害届けを受理出来なかったそうだ。
 ただお巡りさんは、お前の事がずっと気掛かりだったらしい」
「何か…権力って使い方で悪い連鎖を起こすんだね…。私も凄く辛かったけど…、お巡りさんも辛かったのかな…」
藍香の顔から怪訝さが少し遠のいた。
「そうだと思う。でも、1番辛かったのはお前だ。そして頑張って自分を立て直したんだ。お巡りさんは一馬君には余罪がまだ有る。お前の件も時効になって居ない。日記は証拠になる。今なら力になれるから被害届けを出さないか?と言っていたんだ。正直父さんは被害届けよりも、お前が辛い時期の事を細かく話さなければならなくて、一馬君と法廷で会う事で、お前が傷付く事が怖い」
どの言葉を選べば藍香を困惑させる事を軽減する言葉を探したが、藍香と向き合わないで誤魔化しても我が家の中に違和感を置く事になりそうだと、感じてありのまま話した。
 何故なら藍香は傷を負ってから人の気持ちを察する事に敏感になったからだ。
 それよりも、傷を乗り越えて成長した娘を信じてみようと思った。
「お父さん。私あの時力が萎えてても闘おうと思ったの。
 今回、他の被害者の力になれるなら被害届け出そうと思う」
 揺るがない娘の姿に、自分が怯えた事を少し恥ずかしく思った父だった。
 しかし心配も払拭された訳ではなく、
「耐えきれないと思ったら自分を守るんだ。いつ断っても構わない。責める人は居ないよ。皆んな理解者だ」
と言葉を付け加えた。
 そして次の日、父は巡査に被害届けを出す事を連絡した。近日、派出所の方に父と藍香が伺う予定となった。



健斗

 小さい町の中で町長の疑惑と一馬の逮捕は大きな噂となり、多くの町民がその話題で持ちきりの数日を過ごしていた。
 その中で健斗の父と母も、町長と一馬の話題を話す事が多かった。
 夕食時、
「ちょっとあなた、藍香ちゃん覚えてる? 」
「あぁ、勿論」
2人の会話に藍香の名前が飛び込み、健斗はビクッと古傷が痛む思いを感じた。そして味噌汁をすすりながらシッカリと聞き耳をたてた。
「藍香ちゃん、引っ越してったの一馬君に襲われたかららしいよ。その時の日記帳があるから被害届け出すみたい。派出所の奥さんが言ってたの」
「そうだったんだ…。当時噂になってたけど…本当だったんだな。あの頃中学生だったろ、可哀想になあ」
 健斗はその話を聞いて怯えた。この恐怖を両親に悟られない様に、自然を作ろうと身体は普通と言う鎧を被った。
 日記帳がある…なら僕の名前も出てくるだろう…。僕も訴えられるのか…。
 一馬と同じく罪人になると言う事か…。一馬は懲りもせず好き勝手していたんだ。僕は悔いたんだ。一馬とは違うんだ!
 健斗は食事を残して部屋に戻った。
「あら、食欲ないの? 」
と話しかけた母の言葉に答える事も忘れていた。
 そして有紗にあの事がバレた時の様に、枕に顔を押しつけて恐れ慄いた。頭の中を、逃げる術を巡らしたり、今後の事を予測をしたり、多くの思いが駆け巡った。
 樹理との大切な関係、勉強に励んで居る高校生活、当たり前に思っていた順調な生活が消えるのでは…樹理の両親にも信頼を得れたのに…。全てが消える…。
 怯える心が止まらない…。対策や何かの術は結局全く思いつかない…。思い付かないどころか 術など何も無かった。
 流れに身を委ねるしかない…。何処に辿り着くのか…。紅葉の落ち葉を思い出し流される自分に不安を思い、頭を抱えた。
 結局僕は一馬の共謀者…つまり罪人なんだ…。

 

町長

 巡査がいつもの様にパトロールしていた。
 町長の自宅前を通っている時に、大きな桜の木の枝に太いロープが結ばれていたのを巡査は見つけた。
 胸騒ぎがした。直ぐに敷地内に入り桜の木の辺りに行くと、足台に乗った町長がロープで作った輪の中に頭をくぐらせようとしていた。
「町長!」
と巡査は町長に飛び込み、首を吊ろうとしていた所を制御した。
「死なせてくれ!こんな屈辱を受けた事がない! 」
「町長! 」
 虚しく太いロープの輪が空中の中静かに揺れていた。2人の声を聞いた夫人が駆けつけた。桜の木にぶら下がるロープの輪を見てゾッとして一瞬脚の力が抜けそうになった後、
「あなた!…あなた何故…」
と町長に飛び付き涙を流しながら夫を揺さぶった。町長は、放心状態のままペタリと座り込んでいる。
「一馬は化け物になってしまった…」
と何度も呟く夫を抱きしめながら、夫人は涙を止めどなくながした。

 ローカルニュースや新聞で、町長の自殺未遂が直ぐ様報道された。

 自宅に居た藍香と父と母も流れて来たニュースを見て唖然とし!言葉を失った。
 暫くの沈黙の後、
「ズルいよ…。私も、お父さんもらお母さんも一緒に闘ったのに揉み消して…。
 私達はその中でも必死に立ち上がって来たのよ。何で町長は逃げるの…。
 死のうとされたら私達…罪悪感が湧くじゃない。被害届け出す事なんてとても出来ないよ」
 藍香の言葉の後、一家共々また沈黙となった。
闘う事さえ出来なかった悔しさと罪なき罪悪感に沈んだ。
そして、被害届けを出す事を断念した。


健斗

 町長の自殺未遂の事が発端となり、藍香が被害届けを出さない事にした話が小さな町の中で今日も噂で飛び交って居た。その話は健斗の耳にも入った。生きた心地をしなかったこの数日間、久しぶりに呼吸をした気持ちだった。これで僕の過去はもう明るみに出る事は無い。胸を撫で下ろした。
 僕は当たり前の生活を失う事は無い。あの過去は一馬に唆された些細な過ちだ。一馬とは違う。
 命拾いした健斗は、町長と一馬の件は他人事と捉えて父と母と噂話に参加した。
 夕食後、気分良くした健斗は町に一軒あるコンビニに向かった。誰も居ない薄暗い道。鼻歌を歌いながら歩いていた。
「気分良さそうね、藍香が被害届けを出すのを止めたから? 」
と後から声を掛けられた。真髄を突かれた言葉に驚きながら振り向くとら有紗が睨みながら立って居た。健斗は呆気に取られた。
「貴方の仲間だった一馬は拘置所に居る。そして町長は命を自ら断とうとしたのよ。死のうとしたの!それで藍香が被害届けを出すのを止めた。闘いを再び断念せざるを得なかったのよ。どんな気持ちか分かる?
 貴方は安泰かもしれない。でも、悲しんでいる人がこんなにいる中で、鼻歌?呆気に取られそうになったのはこっちよ」
有紗はそう言うと帰って行った。
 そうだ。僕は卑怯だ。自分に否が有るのを掻き消したい時は人を馬鹿にしたくなる…。見下したくなる…。自分はこんなにマシだと言いたいかの様に…。僕は弱くてズルい…、やはり罪は消えないんだと健斗は、浮かれた気持ちから罪悪感に突き落とされた。
 明日からのまた平静を装う暮らしが始まる。


藍香

 父は、藍香が被害を訴える場を作ろうと考えを巡らせて居た。
 そこで刑事訴訟は不可能ではあるが、町長に藍香と父が思いの丈を話してみようと巡査に相談した。巡査は町長に連絡し、町長宅で話し合いの場を設ける事となった。
 約束の日に2年振りにこの小さな町に藍香と父は訪れた。父の運転する車窓からの景色は特に変わった所の無いかつての風景のままだった。のどかで自然豊かな見慣れた風景が目に入って来た。
 藍香はフラッシュバックを起こす事は無かったが、この美しい景色が目に入って来ると顔に陰りを落とした。

 町長宅に父の車が到着した。巡査の自転車が止まって居たので、巡査は到着しているのだと分かった。
 インターホンを押すと夫人が藍香と父を応接間に案内した。
 2年振りに会った町長は疲れ切った表情をして髪は乱れて意気消沈した面持ちで、以前の威厳は消えて居た。
 藍香の父が日記を差し出した。
「町長、当時娘が書いた日記です。被害の状況が事細かに書いてあります。読んでください」
 町長は無言でノートを手に取り読み始めた。息子のしでかした悪態、藍香の逃げたくても逃げれなかった苦痛、屈辱の気持ち、恐怖が事細かに綴られたノートを読み、我が子が何を犯したかを具体的に初めて知った。
 ノートに染み付いた藍香の涙の跡が、至る所にある。まだ14才の少女の悲鳴がヒシヒシと伝わるノートだった。
 町長は読み進めると、どんどん顔から力が抜け当時の息子がしでかした事態の深刻さに茫然となった。
「申し訳ない。息子が酷い事を…」
「町長、2回私が訴えようとしました。何故受け入れてくれなかったのですか? 」
藍香が真っ直ぐ見て、町長に向かって尋ねた。
「……。あいつは…息子は…化け物になってしまった…。どうしたら良かったのか…。必死で守ってやってたんだがな…」
「町長、私は苦しみから必死で立ち直りました。父も母も共に苦しみながらら私に寄り添って力を注いでくれました。
 その時町長は私達にお金を渡しに来ました。お見舞い金と言って。
 何故心ではなくらお金だったのですか? 」
藍香の言葉に町長は暫く俯いて黙った。
「……。息子を守りたかった。その方法しか分からなかった…」
呟く様な声を絞り出して話した。その言葉に父は言った。
「息子さんも被害者かもしれませんね。その時に父親がすべき事は、守るのでは無く、息子さんと向き合う事だったのだと思います」
「町長である以上、守らなければならなかったんです…」
「何を守るんですか?貴方の肩書きですか?息子さんは償う機会を逃して、どんな事をしても守られると学習してしまった。そして今の息子さんの状況が有ります。息子さんを拘置所に入る状況になるまでして守る物は何ですか?
 そして貴方の守りの為に、校長も教頭も巡査も、使命を全う出来なかった…。
 貴方が立場を守ろうとした事で、多くの人が苦しんだのです。そして娘は恐怖で学校に行けず、被害届けも受け入れられず、町中の噂に翻弄されたんです。そんな仕打ちを受ける謂れは無い中で、苦しみながらも頑張って来たんです。
……死んで逃げようとするな!生きて償え! 」父が初めて言葉を荒げた。
 町長は泣き崩れながら、土下座をした。
「申し訳ありませんでした。人間として…父親として…生きなおします! 」
と額を床に擦り付けた。
 2年の月日が経って初めて聞いた謝罪だった疲れ切った町長の表情と町長の謝罪は痛々しい限りだった。
 その痛々しさが町長の正直な思いでの謝罪であったと大切に心に受け止めて、藍香と父は帰路に着いた。
 訴えが通じた…。2年を経てやっと受け止められた。
 帰りの田舎道の景色は少しの懐かしさを感じる帰路となった。

 その後、一馬は少年院に入った。元町長は時々面会に行き、
「一緒に償おう」
と声を掛け、1人の父親となって一馬を見つめた。



大学

 健斗は教育大に進学し、数学教師を目指した。
樹理もピアノと音楽に携わる為に、健斗と同じ大学で音楽教師を目指した。
 仲睦まじく2人は交際を続けて居た。
 高校よりも人が賑わいを見せる大学の生活にだんだん慣れていき、教育実習が始まった。健斗は住宅街の中にある中学校が実習先となった。
担当の教師が後ろで見ている中で、教壇に立っての指導に緊張が走った。
 取り敢えず教科書のページの1番目の問題を説明しながら黒板で解いた。
 生徒の様子を見ると、塾に通って居て解き方を既に理解し先に解いてしまってる生徒、健斗の説明を聞きノートに書きながら理解した生徒、全くチンプンカンプンの生徒と3パターンの生徒達が見受けられた。
 そこで健斗は
「念の為分かり易い方法で、この式をもう一度解いてみます」
と黒板の先程の式の隣のスペースに同じ式を書いて、噛み砕いた説明とコミカルな説明を交えて式を解いた。
 チンプンカンプンの生徒も顔を上げてノートに書き始めた。理解出来ている生徒は笑いながら授業を聞いていた。
 生徒の反応が良い。
「おー、分かった!この問題! 」
とチンプンカンプンタイプの生徒が言うと
「すげー、お前でも分かるのかよ! 」
と生徒達が笑った。
「では同じ容量で、この問題も解いてみよう」
と健斗は即席で式を作って黒板に書いた。
「さっき分かったと言った君、ここで解いてくれる? 」
「えっ、俺⁉︎ 」
「うん、出来ると思うよ」
おちゃらけながら生徒は黒板の前まで来てチョークを持った。
 時々考えながら、辿々しく式を解いて席に戻った。
「お見事!完璧な回答です!拍手! 」
クラス内で一体感が出来た。生徒達は楽しそうに授業に参加した。それを監督していた教師も!健斗の授業の引きつけ方やまとめ方進め方を
「なかなか良かったと思うよ」
と感心して声を掛けた。
「ありがとうございます」
と健斗は頭を下げた。

 昼休みの時間、健斗はサッカーの昼練をしている生徒の中に入り一緒にトレーニングをした。
 健斗がドリブルをすると生徒は
「先生 まあまあだね」
と腕を組んで見て居た。
「君のドリブル見たいな」
と健斗が言うと
「良いよ」
と見事なドリブルを見せた。そしてそのボールは他の部員に渡されて、その部員もドリブルを続けた。
「本当見事だね!毎日、朝練、昼練、放課後にやってるの? 」
と、聞くと
「ああ、そうだよ」
と部員達は気さくに答えた。そうして生徒達と健斗は打ち解けて行った。

 次の日の昼休み、健斗は教室で1人で絵を描いている生徒に声を掛けた。
「絵描いてたの? 」
「あ…はい 」
恥ずかしそうにしていたが、絵には自信や拘りが有るのだろう、絵を隠しはしなかった。
「見せて貰っても良いかな? 」
「あっ、はい。どうぞ」
スケッチブックを健斗に手渡した。描かれている絵は教室の窓から見える木だった。陰影がシッカリしていて、枝や幹の節等細やかに忠実に描かれて居た。
「あの木だよね。木自体は何気なく見てたけど…絵にするとこんなに立派なんだ」
と感心すると生徒は笑顔を見せた。
「名前何て言うの?ごめん、まだ覚えきれなくて…」
「笠島省吾と言います」
「笠島君、僕は 外田健斗。宜しく」
「先生人気あるから、もう名前知ってます」
「人気あるの?僕?まだまだ教えるの下手くそなのに」
「とても分かり易くて集中しやすいです。休憩時間も生徒と交わって感じの良い先生だと皆んな言ってます」
「照れるよ。他の絵も見て良い? 」
「どうぞ」
 スケッチブックのページをめくると、同じ木の絵だが時間帯が違うのか夕焼け空の中の木も描かれて居た。また校庭内に生えてる他の木の絵もあった。
「この木は…あっちの方の木だよね。何の木? 」
「柏です。僕の祖父がここの生徒だった時に植えたそうです。今は杖が無いと歩けないので、僕が描いて木を見セてるんです。祖父もあの木がこんなに大きくなったと喜んでます」
「そっかあ。お爺さんもここを卒業してるんだ。お爺さん笠島君の絵見たら、そりゃ嬉しいよなぁ。優しいね」
「いや、そんな事ないです」
と省吾は照れた。
「もうそろそろ授業の準備に行くね。ありがとう」
「ぇっ、イヤ何も…」
 健斗は中学の時に一馬と諒我と疎遠になった後、1人でいる事が多かったのもあり省吾の事が気になっていた。


 この学校では、この時期プール授業を行って居た。
 健斗は職員室で授業の進め方のアドバイスを担当の先生から教わって居た。職員室内にも教師のホイッスルの音と水に飛び込む音が響いて居た。
 着替えの時間を考慮して、プール授業はチャイムが鳴る15分前に終わった。
 僕へのアドバイスも終わり、ふとグラウンドを見ると、雲が厚くなり少し冷たい風が吹いて居た。
 グラウンドに一人の男子生徒が走って来て、笑いながら服見たいな物を投げた。少し不自然さを感じ、じっと眺めて居た。
「返してよ」
と省吾の声が聞こえた。省吾はバスタオルを腰に巻き、自分の下着と制服を取り返そうとしていた。省吾が近くと更に遠くに制服を投げられ、下着は全く違う方向に投げ捨てられる。省吾は自分の下着と制服を必死で取り返そうとしていた。
 バスタオル一枚でオロオロする省吾を見て生徒達が集まり始め、皆んなで笑って居た。
 健斗は止める為に職員室から飛び出し、グラウンドへ走っだ。
 一瞬省吾が藍香の立場に似て見えた。制服を投げ捨てた生徒が、あの頃の自分達…。止めなきゃ!止めなきゃ!僕と同じように皆んなが傷付く…。
「何やってるんだ! 」
健斗の声に周囲の生徒達は固まった。健斗は自分の着ていたジャージの上着を省吾の肩に掛けて、
「寒いだろ。悔しいだろ。辛いな」
と言って腕をさすった。そして主犯の生徒に
「制服と下着を渡しなさい! 」
と強い口調で言葉を発した。主犯の生徒はバツが悪そうに制服と下着を持って来た。
「寄ってたかって笑って助けようともしない。これは虐めだ!人の痛みが分からないのか! 」
と言った後、
「笠島君…頑張ったな」
受け取った制服と下着を省吾に渡し、更衣室に連れて行った。
 職員室に戻ると指導担当の先生が、
「外田先生、立派です。でも貴方の厳しい言葉を受け止められない生徒も居るでしょう。貴方への信頼を無くした生徒も居るでしょう。叱られて逆恨みしたり、しでかした事の大きさを指摘されて受け止められない生徒も居る。今後の授業は 覚悟しておいた方が良いですよ」
「ありがとうございます。仰る通りだと思います。僕が中学の頃、クラス内で虐めがあったんです。もうそんな事は起きて欲しくないと反射的に動いてしまいました。自分の昔のクラスと重ねるなんて独りよがりですよね」
そう言って授業の教材をまとめて、教室に向かった。

 授業を行う為に教室に入った。今迄の生徒の明るい顔は確かに減って居た。健斗は心に決めて居た事があった。
『どんなに生徒が反抗の意を表しても、怖気付かない』と。
 授業に対して苛立ちを見せる生徒や無関心な生徒が数人居た。その生徒の顔色を見ている生徒も居た。それを気にせず授業に集中して居る生徒も居た。
 その中で授業を進めた。結局は授業の雰囲気が変わる事もなく、淀んだ空気の中でチャイムが鳴った。
 その中で省吾は、何も無かったかの様に清々しい顔で授業に終始参加していた。
 授業を終えて健斗が教室を出ると、省吾が声を掛けてきた。
「外田先生、助けてくれてありがとうございます。凄く嬉しかったです」
と言って教室に戻って行った。
 良かった…。省吾が明るい顔をしていて。本当に良かった。
 かつて僕は制服をグラウンドに投げる立場だった。いや、もっと酷い。少年院に入って居た一馬の共犯者なのだから。

 そして教育実習は、最初の盛り上がりが尻すぼみ逆恨みを甘んじて受ける形のままで終了した。
 自分は惨めな姿の人間に見えると思う。でも省吾を助けた事には悔いが無い。
 藍香への償いはこれで少しは出来たかな…。いや、もし藍香にこの出来事を話しても 許してはくれないだろう。
 償えないままだ。



藍香

 藍香は英文科を得意とする大学に通って居た。カナダへの留学も経験し、貪欲に英語力を身に着けていた。
 大学で講義を受けようと着席すると隣の席に座った男子は、人を寄せ付けない雰囲気のオーラを出していた。ハーフと思われる隣の席に座った平川デイビッドのスマホに着信があった。通話をするネイティブて完璧で自然な英語が藍香の耳に入って来た。
 藍香は留学で身に付けた英語が、教科書からだけでは学べない物もあり、ネイティブに話せる人と英語で話したいとずっと思っていた。
「綺麗なネイティブの英語ですね」
と話しかけると、
「そうですか」 
とそれ以上触れて欲しくなさそうにデイビッドは返事をした。今は話しかけちゃいけないかな…と思い、藍香は 
「とても羨ましいです」
と正直に思った事を言って会話を終えようとした。
 するとデイビッドは少し驚いた様な顔を見せた。そこで講師が来て授業が始まった。

 その後、藍香はデイビッドと同じ講義に出る事が度々あった。席が隣になる時に
「こんにちは」
と屈託無く挨拶する藍香を 
警戒しながら 
「こんにちは」
と返して来るデイビッドだったが、藍香がいつも警戒無く挨拶する様子を見て、
「君いつも気さくだね」
と不思議そうに話しかけた。
「気さく?そう? 」
藍香が笑うと
「大抵の人はハーフの僕の顔を見て好奇心を持つ。話しかけて来る人は、僕が日本語を喋るとホッとする。でも、ハーフって偏見は消えない。様々な場面で偏見が出て来る。君は僕の英語に関心があるけど、ハーフとかそう言う事に好奇心を抱いてる訳では無さそうで変わってるなと…」
デイビッドの短い話で色々あった中で生きて来たのが垣間見えた。
 ただそこにまだ触れてはいけない気がして、
「変わってる?フフフ…そっかぁ。凄い前から お話したかったの。私カナダに留学したけど、日本に帰って来て気を抜くと折角学んだ英語を忘れてしまいそうで…。いつか都合が良ければ、英語で話し相手になってくれないかなあ…と思ってたの」
「僕はつまらないけど…僕で良いの? 」
「人の相性はそれぞれ。私の方がつまらなくて 飽きられるかも知れないわ」
と笑った。そして二人は時々英語で話す時間を持った。
 ある日藍香はデイビッドに
「ホームステイ先だった家族にプレゼントを贈りたいの。何が喜ばれるかな? 」
と相談した。
「日本っぽい物が好まれるよ。富士山や歌舞伎、相撲、舞妓とか…。」
「そうよね〜。今度見て来る。手紙先に書こうかな」
と手紙を書き始めた。
 そして手紙の最後にホストファミリーのお父さんお母さんに向けて、
「D ad and Mam,I love you anytime.」と綴った。
 デイビッドはそれを見て
「君は普通に両親にI love you.と言えるんだね」と哀しげに言った。
「カナダにいた時にそう言う習慣だったから。素敵な習慣だったと思うわ」
「僕もそう思ってた…。いや、今も思うんだ」
藍香は不思議に思ったけど簡単に今解決出来る話では無いと感じて『何故?』とは聞かなかった。
「何故と聞かないんだね』
「何故って思ったけど、私が穿り出しちゃいけない。デイビッド君が話したい時に話すのが1番だからと思って」
と言うと、
「理解してくれようと…してるの?」 」
「と言うか私が理解して良いの?真っ直ぐそのまま受け止めないと。私が勝手に想像することでは無いから。デイビッド君はデイビッド君だから」
「そんな言葉初めて聞いたよ。不思議だね、君には話せそうだ」
そしてデイビッドは話し始めた。
「僕は、アメリカ人の母と日本人の父の間に生まれたんだ。父の仕事はアメリカと日本のあちこちに転勤する事が多くて、アメリカにいる時は家の中で日本語を話し、日本に居る時は英語を話して育ったんだ。
 父も母もアメリカと日本の良い習慣を取り入れた生活をして居る。
 だから我が家では普通に父も母も『I love you』と言うのも極普通の一つなんだ。
 僕も幼い頃は普通に言ってたんだ。でも…日本で幼稚園に通う様になった時に、僕が母に『I love you』と言うのを見た友達が指差して笑ってさ。
 それからクラスメイトは誰もそんな事言わないって事に気付いてからは…言えなくなった。
 日曜日に教会に家族で行くから、友達は日曜日に僕を遊びに誘わない。いつも顔立ちの事、髪の色の事…そして母の事を聞かれる。一緒に遊んで居て楽しく無かったんだ。
 そして、いつも『外人』と言われる様になる。
 アメリカに居る時は『何故大切な家族にI love youと言わないんだ』と沢山の人に聞かれる。
 何か保身に感じたんだ。アメリカに居る時だけI love you言う事が。周りの疑問を避ける為の方法の為に言うみたいで。心ないI love youを言うのが嫌だったんだ。
 そして、日本の顔立ちも混ざって居る僕の顔、今度は父の事を言われ、人種差別意識の強い人には『J ap』と父の事を言われて悔しかった。父や母の事を悪く言うのは卑怯だと感じたよ。こんなに日本もアメリカも愛して尊重して居る両親を馬鹿にするなんてってね。
 日本に居ても日本人として見てもらえず、アメリカに行ってもアメリカ人として見てもらえず…。すぐ転勤するから、親しくなる前に『外人』で僕は受け入れられる事なく引っ越す…。何か人間関係って面倒になってさ」
陰りのある顔でデイビッドは話した。
「理解され難い…残念よね、I love youって伝える事ってとても良い習慣なのに…。私はカナダで感動してホストファミリーにいつも言ってた。
 デイビッド君のご両親は国を愛して、人間を愛して、家族を愛して、良い家庭にしたくて良い習慣を取り入れていたかったのね。
 人を見た目や習慣で貶すのは浅はかよね。浅はかな事って人の誇りを傷つける…。結構罪深いと思うの。きっとデイビッド君だから耐えて来られたのかもね」
「そんな事ないよ。僕は弱いから浅はかさに振り回されたんだ。」
「弱かった時も有るかも知れない。頑張ってた貴方もちゃんと居るはず。頑張った自分を褒めてあげて。弱さは皆んな持ってるから。
 浅はかなのも弱さ。何故人間は浅はかな批判するか分かる?人の劣った所を指摘すると自分が優位になった気持ちになるからよ。でも、貴方は浅はかにならなかった」
 デイビッドが初めて少し笑った。
 藍香とデイビッドは度々会って話す機会が増えた。藍香も古傷を持った身。デイビッドの陰があるのが、とても分かる。
 そして藍香は自分のあ古傷の事を話した。デイビッドは胸をグッと絞られる感覚を感じながら 藍香のかつての痛みを受け止めた。
「君は立ち上がったんだね。どんなに努力をしたか想像できないよ」
と言って藍香に向かって頷いた。
 痛みを分かる者同士…。自然と恋心を持ち、付き合い始めた。
 デイビッドが人に心を許すのも久しぶりだが、藍香は恐怖心無く恋愛の気持ちを持てた事に、自分でも少し驚いていた。
 手を繋ぐって…心も手も暖かい…。見つめ合うって…心を許すって…愛おしいって…何でこんなに幸福感に溢れるんだろう…。
 私も恋をする事が出来たんだ…。恋愛にも、恋をする事ができた自分にも嬉しくてたまらない藍香だった。藍香の両親も、娘がボーイフレンドを作る事が出来る様になった成長を心から喜んだ。
 そしてデイビッドは母にラインを送った。
「お母さん、いつもありがと。I love you.ずっと言いたかったけど… 色々な思いの中で言えないで居たんだ。大切に思っているのに…。いつも I love youと伝えたかったのに。ごめんね」
と。
「あぁ、私の愛する息子…。貴方のメッセージ、とても嬉しかったわ。
 貴方はずっと転勤で、住む国も場所も変わってばかりで辛かったのは知ってるのよ。そして、そんな中でもお父さんや私を心から愛している事も知っているわ。
 自分を責めないで。葛藤の中でも愛を失わなかった自慢の息子なのだから。 I love you.」
と返信が来た。そんなやりとりを藍香と共に喜んだ。



健斗

 健斗は自分の教育実習が尻すぼみで終わった事を樹理に話した。
 評価も芳しい物では無かった。そうだろう…最初は指導も生徒達との信頼関係も良好だったのが、信頼を失い回復出来ないまま終わったのだから…。
 樹理は健斗の手を握り、
「この評価になる事が分かっていても、いじめられていた生徒さんを助けた事に後悔してないんじゃない? 」
樹理の目は貴方は私の誇りと言って居る様だった。
 思いを樹理に理解されて健斗は張り詰めた様な『1人での戦い』の思いの荷を下ろし、樹理を抱きしめた。
「分かってくれてありがとう」
「分からない訳無いじゃない」
樹理も健斗の背中に手を回した。そして時を忘れて過ごした。
 お互い愛しさを大切に優しく、暖かく、身体を通わせた。
 今迄樹理を汚してしまいそうな恐れを、樹理がずっと深く理解し続けて溶かしてくれた気がした。
 行為の後も樹理の優しい笑顔は同じだった。陰りの無い、健斗を信頼し切った笑顔。樹理は変わらず側に居て健斗の頬を突いて笑って居る。
「ずっと僕の側に居てくれる?消えたりし無い? 」
「消えないわよ。ずっと健斗の側に居るよ。どうしたの? 」
樹理が愛おしくて堪らず、抱きしめた。樹理も健斗を抱きしめて健斗の背中を優しく撫でた。


 数日後、健斗は思った。あの後省吾はどうして居るのだろう…。教師達は助ける手立てを考えてるのか…実行に移したのだろうか…。
 いや、動いてないだろう…。省吾がひたすら虐めに耐えて居る事を良い事に、対応せず目を瞑って居るのだろう。だから僕があの時助けても、空振りに終わったんだ。
 もしすでに指導に入って居たら、虐めはエスカレートしなかっただろうに。
 だから僕がグラウンドにいた時に、教師の姿は1人もあの場所に居なかったんだ。
 僕が罪を犯した時の校長達を見ている様だ。




藍香

 デイビッドは少しずつ本来の自分を出す様になった。
 父と母へを大切に思うことを表現したり、何事に対しても諦める事が減って行った。
 そんな息子の姿を見て、デイビッドの両親は 喜びを隠せなかった。
「my son…」
と言って母はデイビッドをハグし、デイビッドも母をハグした。良くあるアメリカの家庭の風景が自然になっていた。
 藍香はよくデイビッドの一家に訪れて、英語で会話を楽しんだ。
 デイビッド一家は藍香を気に入って居た。そして『息子の思いを大切にしてくれた』事に感謝の気持ちを持っていた。
 デイビッドはいつしか、スクールカウンセラーを目指す様になった。
 必死に勉強して精神保健師の資格を取り、悩みに埋もれる子供達の力になりたいと、卒業後には小学校のスクールカウンセラーとなった。
 学校内でも生徒達と遊ぶ事も多く信頼関係が強固になって行った。保健の先生とも情報交換した。
 生徒達の為に考慮した事が実りやすい学校に配属になった事もあり、『生徒達の為に何が出来るか』といつも考えていた。

 藍香は卒業後、役所の通訳の仕事に就いていた。外国人の手続きで通訳が必要な時に通訳をしたり、説明文の作成をしていた。
 そんなある日、デイビッドから仕事後に食事への誘いがあった。
 デイビッドが仕事を終えた後、役所迄迎えに来た。
 いつもよりお洒落な服を着たデイビッドを見た藍香は
「えっ、私こんな普通の格好よ。言ってくれればもっとお洒落したのに…どうしよう」
とオロオロした。
「君はそのままで充分綺麗だよ。だから この花束を持ってくれないか? 」
とデイビッドは花束を差し出した。
「えっ…照れる…えっ? 」
花束をはにかみながら受け取る途中で、メッセージが添えてある事に気付いた。
『will you merry me?(僕と結婚してくれませんか?)』が愛香の目に飛び込んで来た。
「of course(勿論)…」
藍香はよらこびに満ちた瞳で真っ直ぐデイビッドを見た。
 デイビッドも誠心誠意を込めた喜びの瞳で 真っ直ぐ藍香を見つめながら藍香の指に指輪をはめた。
「ほら、指輪を眺めて口元から笑みが溢れる君はこんなに美しい。僕はどんなに正装しても敵わないよ」

 2人は幸せに結婚生活を始めた。2年後には可愛い女の子が生まれた。日本でも、英語圏でも分かりやすい名前で、『あんな』と名付けた。
 夫婦からは勿論、藍香の両親とデイビッドの両親もちょくちょく顔を出して、あんなは愛情を沢山受けて大切に育てられた。
 あんなが段々と喃語を言う様になり、パパ、ママ、お爺ちゃんお婆ちゃんの見分けがつく様になった。娘への愛おしさは更に増して行くデイビッドと藍香だった。あんなの寝顔を見てデイビッドは
「あんな本当に可愛いなあ」
「親バカだと思うけど、私もそう思うわ」
「だからこそ、僕は今やって居る仕事の大切さを感じるんだ。子供は無条件で幸せになる権利があると。
 あんなも大切にしたい。そして僕の職場の学校の生徒にも力になりたい。
 今『指導とケアが評判らしくて、引っ越ししてでもこの学校に通いたいって言う生徒の転入が増えているんだ。だから、仕事の量が増えるかもしれない…。それでも良いかな…? 」
「私は確かにあんなの母よ。でも貴方の妻でもあるの。貴方の仕事の為に力になるのも私の義務だわ」
「藍香、ありがとう。I love you」
「I love you too、パパは沢山の子供達のヒーローよね、あんな」
 デイビッドはスクールカウンセラーとしてのスキルを高めて講師共に頼り甲斐のある人間と成長していた。



健斗

 大学卒業後、とある中学校の数学教師として健斗は働いていた。虐めへの対応や、生徒との信頼関係を築く事に努力を惜しまない働き方をしていた。
 その分職員室に入ると、問題を出来るだけ無かった事にしたい校長の息が掛かった教師達が多く、『熱過ぎる面倒な教師』と言いたげな視線が健斗に向けられて居た。
 働き辛さは感じていたが『自分みたいな生徒を生み出したくない…』と言う思いから、償いとして辛さも甘んじて受け取っていた。
 
 イラスト部での出来事だった。
 1年生の藤野芽依が父から誕生日プレゼントに買ってもらったGペンとインクを使ってイラストを描いていた。
 3年性の高階功太が後ろからそのペンを取り上げて、
「なんだよお前1年生でこんなペン使ってるのかよ。それ程上手くもねぇのによ」
と茶化した。
 芽依がこの時描いていたイラストは数日前から何度も書き直して、やっと下書きが出来上がりペン入れをしていた物だった。
 描いている途中でGペンを奪われて、イラストに揺れたペンの線が入ってしまった。
「折角完成させようとしてたのに…。大切なGペンなの!返して! 」
 功太はGペンを取られない様にあちこちに振り回して居た。
 芽依は取り返そうとGペンを追いかけた。なかなか取り返せずにいると、功太は更に身振りを大きくした。その時に近くにいた芽依の同級生の太川和也の肩にGペン先が刺さった。
「うっ…」
和也は痛みに肩を抑えた。功太は慌てて後退りした。芽依は口に手を当てて息を呑んだ。そして
「顧問の先生を呼んでくる! 」
と教室を駆け出した。
 顧問の綿貫は丁度フロア迄来ていた所だった。
「先生!すぐ来て!早く! 」
「どうしたんだ? 」
「太川くんの肩にGペンが刺さったの! 」
綿貫は慌てて教室に飛び込んだ。その瞬間、功太は教室から飛び出して逃げた。
 功太は校舎から上靴のまま飛び出して、影に隠れてガクガク震えた。
 綿貫はうずくまって居る和也を保健室に連れて行きなら家族に連絡をした。保健の教師と和也を綿貫の車に乗せて病院へ走った。すぐ処置をして傷口を3針縫われた。怪我は後遺症の出る物では無く、軽症で済んだ。数日分の痛み止めと化膿止めを処方されて、その日の受診は終わった。
 後は抜糸迄消毒に毎日通う様受付から説明を受けた。
 その時に、連絡を受けていた和也の母親が病院に飛び込んで来た。
「すみません、太川です。和也は…! 」
「今処置が終わりました。ご心配お掛けして申し訳ございません。
 部員の男子生徒が悪ふざけで、他の女子部員のGペンを取り上げて振り回してたんです。その時に側に居た太川君に刺さってしまい、怪我を負わせる事になりました。大変申し訳ございませんでした」
と綿貫と保健の教師は頭を深く下げた。
「分かりました。直ぐ対応してくださってありがとうございます」
と和也の母は頭を下げて和也を連れて帰った。
 看護師が、
「あの、このペン洗って消毒液で拭いておきました。お返しします」
と綿貫に渡した。

 綿貫と保健教師が学校に戻ると、心配した部員達が待って居た。芽依と和也の担任をして居る健斗も一緒に待って居た。綿貫達が戻るまで生徒達の動揺を
「大丈夫だ。和也は直ぐ良くなる」
と、健斗が宥めて居たのだった。
「皆んな、太川は数針縫ったけど後遺症も無くて数日で治るそうだ。心配無いからもう帰りなさい」
綿貫が生徒に説明をして帰宅を促した。
 そして芽依を呼び止めて、
「ペン、病院で洗って消毒して返してくれたんだ」
と鞄から出した。
 芽依は複雑な顔をしてペンを受け取り、
「大切なペンだけど…こんな事あった後に使う気持ちになれない…」
と苦い顔をした。

 その後、事情説明の為に健斗は芽依と和也の家に電話をしようと職員室の電話に手を伸ばした。その時に校長が、
「外田先生。事情説明の電話ですか? 」
と声を掛けた。
「はい」
「高階君の立場の考慮を疎かにしない様頼むよ。受験生なのだから」
と功太に責任は無いと言わんばかりに圧を掛けた。
「でも、怪我人が出てるので説明は必要となりますよね? 」
「軽症で済んだんです。綿貫先生が謝罪したじゃ無いですか。治療費も保険で返金される事ですし言葉や内容を熟慮しながら話して下さいよ。外田先生」
問題を上手く交わして終わらせろと、校長の目は言っていた。
「僕は高階君が謝罪する事で、人生の学びになると思います。悪気のないじゃれ合いのつもりが 傷つける事もある。そう云う時は心から謝罪して反省する事を学ぶ必要があるのではと思います」
「外田先生は重く受け止め過ぎです。私から電話しますから。今日は帰宅して下さい」
「でも校長…」
「帰りなさい‼︎ 」
 健斗は帰り支度をしながら校長の電話の内容を聞こうと思った。
 校長は察したのか、校長室に入り電話を始めた。

 健斗は帰宅してから、和也と芽依の両親に再度電話をしようかと思っていた。しかし、和也の母から健斗に着信があった。
「外田先生、いつもお世話になってます。先程は色々ご迷惑をお掛けしまして申し訳ございません」
「いえ僕は何も。和也君は何も非が無い中で怪我をされて申し訳なかったと思ってます」
「今、校長先生からお電話頂いたのですが…。怪我の対応に関しては、とても迅速に病院迄連れて行って下さって感謝してます。
 ただ… どんな状況で起きた事なのかが具体的な説明が分かり辛かったんです。
 病院で、綿貫先生は男子がふざけててと話されてますかが、その男子の話も校長先生からは説明が無いんです。
 刺さったのは藤野芽依さんのペンだったけれども藤野さんが刺した訳では無いと。後は校長先生にどう言う状況で起きたのか何度尋ねても『誠に申し訳ない』と繰り返すだけで…。先生、状況教えて頂けないでしょうか」
和也の母が言葉を選びながら、現状が見えない事に納得行かないのがひしひしと伝わって来た。
「藤野のペンが藤野自身が刺してないなら、何故和也君に刺さったのか…明らかにされないのは ご納得行かなくて当然と思います。私も学校側が経緯の説明をすべきで、学校側として校長が謝ったからそれで良いとは思ってないんです。
 校長に私から連絡してみますので、後で折り返し電話をこちらからさせて頂いて宜しいでしょうか? 」
と答えた。
「先生から今聞く事は出来ないんですか? 」
親としての当たり前な思いが伝わってくる。答えたい…。
「答えたいです。息子さんが怪我をされて有耶無耶なままなのですから。
 ただ、もう一度校長に話してみてから、太川さんに私から状況説明をさせて頂きたいのですが、宜しいでしょうか…」
「分かりました。よろしくお願いします」
 直ぐ答えたい気持ちを抑え校長の指示に従った証拠を作るために、まず校長に連絡する事にした。
 学校に電話すると。
「もしもし」
面倒な気持ちを隠す事なく校長は電話を受け取った。
「校長、今太川君のお母さんから僕の方に連絡ありました。経緯が全く分からないとのお話でした。やはり経緯説明は必要です」
強目の口調で訴えた。
「外田先生、私達は被害者の生徒だけでは無く、加害者の生徒も守らなければいけないんですよ。貴方は加害者の生徒を切り捨てるのですか⁉︎ 」
「そうじゃありません。反省する事を学ばせるのも私達教師の仕事です。
 そうでないと、高階君は過ちへの対処の仕方を分からないままになってしまいます! 」
「いや、先生、貴方は若いから…」
と校長の愚痴が始まった。健斗が本題に戻ろうと思い言葉を発しても、遮られて更に懇々と説教は続いた。
 その間に和也の母は真実に辿り着くべく、芽依の親に電話をした。
 芽依の母親は寝耳に水だった。芽依が誕生日に貰ったペンが、そんな事になったと言えなかった為にこの件について全く話を両親に話してなかったのだ。
「ペンは使いやすいか? 」
と父に聞かれて胸の内を隠しながら、ぎこちなく
「うん」
と笑って答えていた事に、和也の母の話を聞いて初めて納得した。同時に 状況が分からない分 芽依が刺したのではとの思いも過ぎってオロオロとした。
 その時に芽依が帰宅し、母は事情を問いただした。芽依は泣き出した。
「ごめんなさい。3年生の先輩が私のペンを取り上げて、振り回してナカナカ返してくれなかったの。その先輩が振り回してる時に太川君にペンが刺さってしまって…。だから怖くて…あのペン使えなかったの。お父さんに聞かれても使えないって言えなかった…」
とそこで言葉が詰まり、ポロポロと泣いた。
 その様子が電話先で和也の母にも聞こえた。芽依が胸を傷めている様子がヒシヒシと伝わって来た。
「その3年生の名前はなんで言うの? 」
芽依に母が聞いた。
「高階功太先輩」
ここで、芽依も悪ふざけの被害者であることが分かり、当時の状況と加害者が誰かが親達もやっと理解出来た。
 何故この過程を学校は説明しなかったのか…。
何度も尋ねたのに…。納得出来ない不誠実への怒りが両親達は込み上げた。
 そして和也の母は校長に抗議する為に学校に電話をした。
 事務員が
「校長先生、1年生の太川君のお母様からお電話です」
と声を掛けた。
「えっ?外田先生、取り敢えず切るから」
と健斗との通話を終わらせ、和也の母の電話を受け取った。
「もしもしお電話変わりました」
察しがついてるのか柔らかい口調だ。
「校長先生、先程加害者の生徒の名前分かりました。高階功太君3年生が、藤野芽依さんをからかってペンを取り上げたと。ペンを返さない様に振り回していた物が刺さったそうですね。
 藤野さんも、誕生日に貰ったペンが人を傷つけてしまいショックで使えなくなったと言って泣いてました。藤野さんに連絡はしなかったんですね学校は。校長も何故、何度聞いても加害者の生徒の名前を教えてくださらなかったのですか⁉︎ 」と問うと
「加害者の生徒もシッカリ反省していたので、もうこれ以上話を大きくしない事も必要かとの配慮です。こう言う事で加害者が不登校になり。結局被害を受けた側が加害者になる事もあり得るんです…それを防いだだけです」
「それは生徒一人一人と向き合ってると言えないと思います!外田先生だって明確に説明したそうな様子でしたが、校長にもう一度話してみますと仰ってました。校長先生の対応には、当事者の多くの人が疑問に思ってます」
と真髄を突いて訴えた。
 しかし校長は、のらりくらりと逃げる回答を繰り返した。和也の母は埒が開かない校長の説明を聞くのが苦痛になり、諦めて話を終えた。そして学校の対応に不信感を更に募らせた。その一連の話を夫にラインで説明した。夫も無責任な校長の行動に憤慨し、仕事中だったが教育委員会が受付を終える前にと連絡をして相談した。
 校長は教育委員会の介入に慌てふためいた。そこで事態について功太の母の耳に初めて入って来た。
 母は功太を懇々と叱責した。功太は粛々と受け止めた。
 そして、菓子折りを持って功太と一緒に和也の家に来て深々と頭を下げた。誠意の有る謝罪はいとも簡単に和也と功太、保護者同士の蟠りを消し去った。
 次に芽依の家に功太と母が訪れて、深々と謝罪をした。
 母が菓子折りを渡した後、和也は自分の小遣いで買ったGペンを渡して
「本当にごめん」
と芽依に謝った。芽依は笑顔で受け取った。ここでも誠意ある謝罪がいとも簡単に蟠り消した。

 校長は1人指導のあり方を問われた。プライドがそれを受け入れる事が出来なかった。教育委員会には頭を下げて真摯に受け止めた姿を見せて、反動の様に職員室内での対応は酷く悪化した。
 健斗は生徒と向き合う事の出来る学校に転職したいと思う様になった。
 しかし最近、樹理との結婚も話に出て来ていた事もあり、そこでの転職は迷いに迷った。その気持ちは樹理にも伝わるだろうと予想し、樹理に直接転職の相談をした。
「深く考えての事でしょ。何事もやってみないと分からないわ。求人はあるの? 」
「うん、不登校や色々辛い物を抱えた生徒への教育に力を入れている私立学校が募集してる。受けてみたいんだ」
「そう、現在に留まって歩き出さないと景色の違いを見れない。景色を予想だけしても変わらないのよ。行動してみたら? 」
「そうだね…。でもさ、そこに行きたいのはもう一つ理由があるんだ。結婚の話が具体的になる前に話しておかなきゃと、ずっと思ってたんだ。
 樹理もビックリすると思うけど…聞いて欲しい…。僕は中学生の時に友達数人でクラスメイトの女の子1人を襲った事があるんだ…。その時学校が揉み消して表沙汰にならなかった…。
 その女の子は辛さを抱えて転校して行った。その後頑張って元気を取り戻したらしいけど…長い時間苦しんだと思う。ただ表沙汰にならなかっただけで…僕は犯罪者だ、償いたいんだよ。じゃないと…樹理を不幸にしそうで…。怖くて言えなかった…。ずっと隠して居てごめん」
樹理をガッカリさせて、別れを告げられるのも覚悟した。だが、時折顔を出す罪悪感。これを隠し続けての結婚生活の継続は難しいのではと思って居た。そして樹理に隠し事は出来ないのは健斗が1番知っていた。
「ショックだわ……。その女の子、中学生でそんな辛い経験して…どんなに怖かったのだろう」
樹理は言葉を失った。沈黙が、健斗の判決を待つ様な時間に感じた、樹理は長い沈黙の中考えた後、話し出した。
「でも健斗、それをずっと抱えて生きて来たのね。私も一緒に償うわ。一緒に生きて行こう。貴方と私の子…今お腹に居るのよ。健斗は父親になるの。頑張って一緒に歩いて行こう」
「えっ…僕の子供?赤ちゃん? 」
「うんそうよ。赤ちゃん。貴方と私を信じて成長してるのよ。だから一緒に生きて行こう」
 健斗は樹理を温かく抱きしめた。樹理を抱きしめるといつも癒される。
 もう2人じゃない。3人…僕の子供。
「うん、ありがとう…ありがとう…。一緒に生きて歩いてくれ…。ずっと…」
「ええ。一緒に歩いていきましょう」
 そして2人は結婚した。

 健斗は志望して居た不登校や辛さを抱えた生徒への援助に力を入れている中学校、新星中学校に採用となった。
 仕事始めの日、学校内に一歩足を踏み入れると、生徒も先生も親しげで瞳がキラキラして居た。
 生徒の
「先生、放課後トランプしよう! 」
声がした。
「おお、やろうやろう、ホームルーム終わったら校長室にトランプ持って来い」
「分かった〜。後でねー」
と親子の様な会話が飛んでいた。微笑ましくて健斗はつい笑顔になった。
 ここに来た健斗に指導をする先輩教師が挨拶に来た。
「初めまし…。えっ、外田先生って…健斗くん?」
 中里智恵子先生だった。藍香の件で最後まで取り組もうと努力をして居たあの先生が、自分の指導に当たるとは…。
 健斗は驚きと、自分の過去の罪を知っている人が目の前にいる事に驚愕した。気持ちとしては 突然裁判官と出会い、いつ判決を言い渡されるかと身の置き場を探す思いだった。
「あ…あの、お久しぶりです。ご指導お願いします」
強張った顔で頭を下げた。
「ここの学校でそんなに強張ったら、生徒達が怖がるよ。肩の力抜いて!同僚なんだから! 」
 中里先生は優しい口調だった。健斗にはそれが過去とは関係なく接しているのか、それとも僕の罪を見据えているのか判断に苦しんだ。
「ここには何故来たの? 」
中里先生は優しい顔で聞いた。
「どうしても生徒と向き合いたかったんです。問題が起きたら生徒と一緒に解決をして行く道を探す。一緒に喜ぶ時は喜ぶ、悲しむ時は一緒に泣くとか…ただ生徒達と人間として向き合いたかったんです」
「そう。生徒と向き合う為。生徒達喜ぶわ」
と中里先生は座っている椅子の背もたれに背中をもたれさせて、笑顔で頷いた.
 そして健斗は緊張から心の内のもう一つを話した。
「それと…償いたくて…。少しでも…。中学校の時の僕の罪を…」
と言うと
 中里先生は座ったまま前傾姿勢になり、少し厳しい目で言った。
「生徒達は貴方の償いの為に此処に居る訳ではないの。皆んなの個性も抱えている問題も違う。藍香さんをフィルターにして見ても通用しないわ。1人1人の生徒達とシッカリ向き合わないとやって行けないわよ。償いは坂橋藍香さんに直接しなさい」
 その通りだ。健斗はただただ自分の愚かさに幻滅して恥じた。生徒達と向き合う為に僕は教師をしているんだ…。中里先生の言葉が頭を殴られたかの様に感じた。
 中里先生はまた優しい顔で
「一緒に頑張って行こう」 
と笑顔を見せた。
「はい」
自分に喝を入れる様に力強く返事をした。

 健斗は学校の中で、ぎこちないながらも生徒と積極的に関わり少しずつ信頼関係を築いて行った。
 健斗が心を開くと生徒も心を開く。以前の中学の様に様々な生徒の問題に向かい合う事に異議を唱える教師は居ない。場合によってはアドバイスをくれる先輩教師達が沢山いた。無我夢中で生徒達と向き合った。

 そんなある日、樹理が臨月となって間もなくの事だった。陣痛来たと職員室に居た健斗のスマホに連絡があった。
「すみません、家内から陣痛が来たと連絡があったので、病院に連れて行きたいのですが! 」
慌てて声を上げると先生達が 
「外田先生、急ぎなさい! 」
と声を掛けてくれた。
「すみません! 」
と言ってカバンを持って走ろうとした。たまたま健斗のクラスの生徒が英語を教えて貰いに職員室に来ていた。
「ごめん、クラスの皆んなに先生帰ると言っといて」
と伝えると
「先生、頑張れ! 」
生徒が励ましてくれた。そして生徒は教室に走って行き
「外田先生の奥さん陣痛きたって! 」
知らせた。生徒達が大勢窓から顔を出し、車に乗ろうと走る健斗に
「先生、頑張れー! 」
と激励した。健斗は大きく手を振り、クラクションを軽く鳴らして自宅へ向かった。
 樹理の陣痛は15分置きに来ていた。樹理は陣痛の波が治った頃を見計らって車に乗った。
 健斗が入院の荷物が入ったトランクを車に乗せて 
「大丈夫か?行くぞ! 」
と声を掛けた。
「大丈夫」
と陣痛の波が治まっている樹理は笑顔を見せた。やがて車は病院に着き、看護師に陣痛室へと案内された。30分位すると破水し、激しい陣痛が来た。素早く分娩室へ連れて行かれ、樹理は分娩台に乗せられた。健斗は必死に樹理の手を握っていた。他に何をしていいか分からなかった。その間に樹理は陣痛とと共に何度もいきみ苦しそうにしている。顔を真っ赤にして汗だくになりながら、樹里は命掛けで命を生み出そうとしている。どうか…どうか…健斗が祈る気持ちで居た時、無事健康な女の子が生まれた。
 小さな身体全体を真っ赤にして泣き叫ぶ娘…。樹理は我が子を抱いて、痛みを忘れたかの様に笑った。健斗が娘の小さな手に指を近付けると、ギュッと力強く握って来た。小さな指のの力と温もりに笑みをこぼした。
 我が子って言うのは、なんて愛おしくてかわいいのだろう…。
 我が子を抱く樹理がなんて優しい顔をして輝いてるのだろう…。妻の樹理に
「ありがとう」
と何度も唱える様に言ってた健斗だった。
 微笑み返す樹理の表情は『家族の絆』と言う暖かくて強い物を感じさせた。
 そして、この子の名前は『凛』と名付けられた。

 2人は慣れない子育てに翻弄されながらも、力を合わせて凛の世話をした。
 抱いた時の小さくて壊れそうな身体、温もり、手に感じる『全てを預ける様な重み』凛の全てが愛おしくて堪らなかった。
 時に何故泣いてるのか全く分からない。あたふたして抱いてると更に泣き叫ぶ凛。どうしたらいいか分からず精神的疲労がドッとのし掛かる。
 しかししばらくして眠る凛の寝顔を見ると、さっきの疲労を忘れている…。
 お風呂に入れると小さな口を目一杯開けてアクビする。
 母乳を飲んだ後にトントンと優しく叩かれる小さな背中、触れると柔らかい頭髪、凛の全てが宝物に見えた樹理と健斗だった。
 樹理の寝不足が続いたある日、健斗は凛の面倒を見て樹理に寝る様に言った。
 「ありがとう」
と樹理は床に着いた。
 健斗は凛を抱いて歌を歌って背中を優しくトントン叩いた。
 「ウー、ウー、ア」と声を出す凛が可愛らしくて、いつまでも見てしまう…。こんなに小さいけれど、我が家で1番大きな存在。命を掛けて守りたいとさえ思わせる大切な我が子…。
 それと同時に藍香と藍香の両親の思いを考えずにはいられなかった。
 子供は皆んな無条件で幸せになる権利がある…。僕は悪ふざけで藍香を傷付けた。傷付いた娘を見て藍香の両親はどんなに胸を傷めたか…今の自分には痛い程分かる。
 あれは悪ふざけでは無く、僕の罪だ。胸を抉られる思いになった。償う事が許されるなら償いたい…と切に願った。
 
 そんな折、健斗が担任して居るクラスに転校生か来た。生徒の資料を健斗は読んだ。
 塚川桃葉、義兄(姉の元夫)に複数回に渡り 性的虐待を受けている。姉の家庭を壊さない様にと、恐怖感により被害を訴える事が出来ずにいた。
 ある日、姉夫婦が来訪した時にパニックになり、家族の知るところとなった。姉は離婚したが、その事に対して本人自責の念を抱えている。フラッシュバックが起こったり不安感が強い。自己肯定感が低く、自分は汚れて居るとの思いが強い事から身体を必要以上に洗い過ぎて、擦り傷等が常にある。傷を隠す為に長袖を着ている。

 まるで藍香の担任になった様だ…。父親になった健斗の心は桃葉の痛みが自分の痛みにも感じた。藍香がダブって見えたが、ここは桃葉へのケアに頭を向ける事に専念する事にした。
 しかし桃葉が学校でパニックを起こす度に、当時藍香の家の側で聞いた彼女のフラッシュバックを起こしている時の悲鳴の様な声を聞いている様な気がした。
 同じ様な環境下での加害者と言う当事者だからこそ、桃葉の痛みが分かる…。
 桃葉の親御さんと話をしていても、当事者であり愛娘の親だからこそ、痛感して気持ちが分かる…。
 自分の罪により良き理解者となる自分…十字架の重みがズシリと肩や腰、全身に食い込んだ。
 桃葉は次第にパニックを起こす頻度が減って来た。そして時折笑顔を見せる事も出てきた。
 とても喜ばしく思う健斗だったが、桃葉本人や家族と真摯に向き合ったからこそ、かつて自分のの犯した罪で、藍香と家族がどんなに苦しんだかを思い知った。かつての僕はそんな藍香を嘲笑ったのだ。嘲笑われるべきは僕だ。
自分が凛をどんなに大切に思っているか…だからこそ自分の悍ましい過去がシコリとなって痛みを増大させた。
 償える物なら…それは僕の自己満足だ。桃葉が義兄の顔も見たく無い様に、藍香も僕の顔など見たくも無いはずだ。

母親達
 
 ある天気の良い日、樹理は凛をベビーカーに乗せて近くの公園に行った。
 凛を抱っこしてベンチに座ると、もう一組の母と赤ちゃんが来た。同じく我が子を抱いた母親はベンチに座った。
 もう一歳半になっている様に見えた。ピンクのギンガムチェックの可愛い服を着て麦わら帽子を被った、良く笑う可愛らしい赤ちゃんだ。母親も赤ちゃんの『ママ』と呼ぶ声に頷いて返事をしている。微笑ましい母と子だった。
「一歳何ヶ月くらいですか? 」
樹理が話しかけた。
「1才7ヶ月なんです」
と笑顔で母親は答え
「そちらの可愛い子ちゃんは4ヶ月?位ですか?」
と尋ねて来た。
「はい、4ヶ月です」
赤ちゃんの子育て中の母親同士、話は自然と弾んだ。
 首の座ってからの話、百日のお祝い、写真撮影、時期に迎える一才の誕生日、日々の子育て、成長、自分の時間作りが難しい、祖父母の事等 話は尽きなかった。
 樹理が、
「夫の実家が田舎で農業をやってるんです。だから新鮮な野菜をいっぱい食べて、良い母乳を出しなさいって沢山持って来てくれるんです」
と話した。
「それは嬉しいですよね。新鮮な野菜食べてお母さんの栄養を赤ちゃんに上げたいですよね。赤ちゃん、何て名前なんですか? 」
と聞かれ
「外田 凛です」
と凛の手を上げながら樹理は答えた。
 すると一瞬、その母親の顔が強張った。そして直ぐに笑顔を戻した。
「ごめなさいね。私の中学時代の同級生で同じ苗字の人が居て…。その人の両親が農家さんだったからビックリしちゃって」
と答えて笑った。
 中学生…同じ苗字…両親が農家…樹理はこの母親が藍香ではないかと咄嗟に思った。
「失礼ですが…坂橋藍香さんですか…? 」
尋ねると
「あっ…はい。…今は平川ですが…」
 この女性が藍香と知り、樹理は顔色を蒼白くして、ベンチの座面に両手と額を擦り付けて、
「申し訳ございませんでした。私の夫は外田健斗です」
と謝り何度も『ごめんなさい』と繰り返した。藍香は身体を遠ざけながら、我が子を守る体勢になった。ひたすら謝る樹理を見て、心が痛んだが、もうあの過去が蘇るのを身体が拒んだのを感じ、気付くと樹理を置いてあんなを抱きしめながら走り去っていた。

 帰宅後、藍香は貪る勢いで家事を始めた。洗濯物を取り込み、凄いスピードで畳み、あんなが話しかけてくると、頭の中の事を振り落とす様に一緒に遊び、晩御飯の支度をガチャガチャと用意した。
 振り払っても振り払っても心が騒いだ。
帰宅して夕食を食べていたデイビッドも、藍香の様子を見て何かを感じた。
「藍香、何かあったのか? 」
「……やっぱり…怖い物は怖いのよ…」
「何がだい?どうした?僕は力になりたい。話してくれないかい? 」
「うん、あのね」
と藍香は言葉を発し始めると涙を浮かべた、デイビッドはダイニングの椅子から立ち箸を持ったまま涙を浮かべている藍香の背中を撫でた。あんなはスプーンを握ったまま眠って居る。
「今日少し遠い初めて行く公園まで行ったの」
「うん」
「4ヶ月の可愛い赤ちゃんとお母さんが居て、楽しく話し始めたのよ」
「うん、それで? 」
「話をして居る内に、その赤ちゃんとお母さん…昔私を襲った…襲った人の内の1人の奥さんとお子さんだと分かったの…。奥さんは事情知ってた様で…。凄く謝ってたけど…。あの頃に戻りたく無くて…逃げてきてしまったの…。父にも母にも助けられて…。学校も転校して、先生や仲間に助けられて…。貴方もあんなも居るのに…。肝心な時に怖くなって…私…」
「大丈夫だ‼︎ぼくが守るから‼︎心配無いよ。怖くても仕方ない。でも君は恐怖の中に留まったりしない人間だ。あんなも居眠りしてる。今は思う存分泣いて良いから」
藍香はデイビッドの胸で思い切り泣いた。長い時間泣いた後スッキリした顔で
「ありがとう」
と微笑んで、あんなをペッドにそっと運んだ。


数日後の晴れた日、あんなが
「公園!あーちゃん!」
と駄々を捏ねた。藍香は宥めすかしたが、あんなは収まらなかった。
 藍香は、あんなの母親の心を振るい立たせて覚悟を決めて行くことにした。あんなは大喜びで 歩いた。

 公園に着いた。きっと外田親子もきて居るだろう。もう動じたりはしないと心に決めて、この前のベンチに走るあんなを見守った。
 ベンチが見えてくると、健斗の妻と赤ちゃんが居るのが見えた。
「あーちゃん」
と辿々しい言葉で、あんなが駆け寄った。あんなを追いかけて藍香がベンチに着くと樹理は、驚いた顔で藍香とあんなを見て口に手を当てた。
「先日は突然すみませんでした。もうお会いできないと思ってました」
と深く頭を下げた。
「貴女が悪い訳ではありません。頭を上げて下さい」
と藍香は声を掛けた。あんなは凛にいないいないばあを連発して居る。

 樹理は話し始めた。
「夫と一緒に罪を償うと約束したんです」
と声を震わし涙ながらに振り絞る様に答えた。
「話を聞かせてください」
と藍香が声を掛けると樹理は深く深呼吸をし、そして話し出した。
「私達が結婚を考え始めて、プロポーズ受ける前に夫が貴女にした事を自ら私に告げました。
 夫は若さと言えども愚かだったと思います。まして、結婚を考える様になっても、その事を言い出せなかったなんて…。高校からの付き合いなのに…弱虫です夫は。
ただその長い間夫は、自分の罪の重みから逃げられないかと思う事もあった中で『償いたい』との思いがつのり模索していました。藍香さんの事は一度しか聞いてません。でも、教師の道を選び、その後凛も生まれて父となって尚更強く罪の意識を持つ様になったと私は察してます。
 高校の時、私と付き合ってるのに当時の彼は 美人のカフェのアルバイト店員さんをナンパしに行こうとクラスメイトに唆されて、行った事があったんです。次の日の彼の様子を今になって思うと…藍香さん、貴女がその店員さんだったのでは無いのでしょうか?元気そうな貴女を見て夫は ホッとしたのだと思います。でも許されてない事がハッキリと分かって帰って来たのだと思いました。何かガックリとしてましたから」
 樹理は健斗の多くを把握していた。樹理の懐の中で健斗が見守られているのが手にとる様に分かった。
「はい、私がそのアルバイトの店員でした。健斗さん私の顔を見て驚いてました。でも、 貴女が仰る通り私が元気なのを見て『心配して悔いいるほどじゃなかった』と思った様な態度だったので私が相手にしなかったんです。その時に肩を落として店を出た様子でした。私は仕返しした気持ちになった自分をその時攻めました。人の痛みを知っているのに何故、心を痛めた人の事を喜ぶのかと…」
「本当に申し訳ありませんでした…。夫が傷口に塩を塗る様な行動をして…」
と樹理は俯いた。
「何故健斗さんは罪の意識を持ったのですか?当時学校では健斗さんと仲間達は、何も問題ないとの処理をして終わったのに」
「分かりません。何度も心が揺れ動いたと思います。でも、きっかけが何かあったのでしょうね。
凛の存在も勿論…生徒達と接していて感じた事もあったと思います。…それと…良く分かりませんが、夫の故郷の町長さんが自殺未遂した事が何が関係ある様な気がするんです」
「町長の息子さんも私への加害者でした…。町長の息子さんが関わっていたからと、私の件は無かったことにされました。でも…数年後、息子さんがまた町から離れた地域で犯した事へは町長も助ける事が出来なかった…。私の件も時効になっていない頃だったので被害届を出そうとしました。でも出す前に町長は自殺未遂をして…。何か弱ってる人に鞭打つ様で被害届を出せなくなってしまったんです」
と当時の事を遠い目で藍香は話した。
「長い月日苦しんだのに…戦おうとしたのに…飲み込んだのですね…。本当に申し訳ございません」
樹理は頭を下げた。苦い思いを甘んじて受ける覚悟が終始、樹理から見えて来る。そして樹理は 手紙を差し出した。
「夫からの謝罪の旨です。貴女がこれを受け取るのは戸惑いが生じて不思議では無いと思います。謝罪したいと心から私達夫婦は願ってますが、貴女がその事で辛い過去を思い出して苦しむので有れば、謝罪は私達の自己満足でしかありません。十字架を夫婦で背負って行くと決めたのです。これからも背負うつもりです。貴女がもし良ければ…手紙を受け取って欲しいのです」
 あんなと凛が無邪気に笑って居るのを見つめた後、藍香は手紙を受け取った。

 藍香は帰宅後、洗濯物を取り込み晩御飯の支度をしながら、あんなの世話をした。
 ひと段落した後、手紙を手に持ち瞼を閉じてため息をついてから封を開けた。
「拝啓
 
 貴女にとって、とてつもなく害でしか無い僕がペンを走らせる事をお許し頂けたら幸いです。
 当時貴女に酷く傷つけた僕は、本当に愚かだと思います。言い訳の余地も有りません。
 謝罪もせず逃げてばかり居て、しまいには自分の罪から逃げて人間として余りに酷い態度を貫いた事、自分でも目を覆いたくなる思いです。
 もし貴女に謝罪する事が出来たなら…と思いますが、貴女の苦痛を考えると、僕が姿を見せて良いのか…と辛い事を思い起こさせて良いのかと答えが見つかりません。どうか、もし宜しければ 謝罪の機会を与えて下されば…と願い手紙にしました。
 勝手な思いばかり綴り申し訳有りません。
                 外田 健斗」
 更に連絡先も記入されていた。
 読み終わると引き出しからセピア色に染まっている忌々しい過去が綴られたノートをテーブルに置いた。それらを眺めて居るとデイビッドが帰宅した。
「ただいま」
「おかえりなさい」
藍香の声で公園に行って来た事を察したデイビッドはら藍香を優しく抱きしめた。そして藍香ぎ話出すのを待った。
「私は加害者と関わらずに済む様に、幼い頃の町を捨てた。でも巡り逢ってしまった。
あんなも人生の中で、またあちらの娘さんと再び出会うかも知れない。仲良くするのかも知れない…。悪意無く…。なら私の過去はどうあっても、向こうが罪を持っていて償おうとして居るならば…子供達の出会いを大人の都合で妨げてはいけないのよね…。
 だけど私の傷跡は大きい…。幸せを感じながら生きて行く方法も見つけた。あなたも、あんなも居る。でも傷を思い出したら…辛くない訳ないわ。
 けれど向こうは悔いてる…。そして誠意を持っている…。それで謝りたいって…。私の古傷が疼く中で顔を合わせて当時の話をしなければならないのよ。出来るなら避けたいの。
 でも子供達の未来を私の傷のせいで邪魔になってはいけないわ。だから…謝罪を受け入れても良いかしら…」
心の中の不安と、やるべき事を全て話した。デイビッドは藍香の背中に手を当てながら、優しく真っ直ぐな目で見つめて受け止めた。
「辛いね。本当に古傷が疼くね。出会いたくなかったね。でも…母親なんだね君は。謝罪受けるのは正しい判断だと思うけど、断っても君を誰も責めないよ」
お答えた。
「あなたに一緒にその時居て欲しいの」
「謝罪受けると決めたんだね。分かったよ。側に居るよ。藍香」
「だから何があったか貴方も詳しく知って置いた方が良いと思って…当時の日記、読んでくれる?」
古ぼけて涙でふやけたページの波打ったノートをデイビッドは開いた。父と母と同じ様に、読み進めるデイビッドの顔が辛さで歪んでいった。藍香は
神妙にデイビッドが読み進める様子を眺めていた。
「藍香、こんなに辛い中から立ち上がったんだね」
と囁いた。
そしてデイビッドは外田健斗と云う名前を見て、ふと気付いた。
「藍香?外田健斗って…今学校の先生になってると思う。僕もスクールカウンセラーの仕事の関係で、不登校や問題を抱えた生徒へのケアが得意な『新星中学校』って言う中学校に時々行くんだけど、外田先生って居るんだ。本当に改心しないと勤まらないと思うから、本当に反省したんだと思うよ。
 でも、藍香の気持が1番大切だから」
「正直言って怖いわ。でも決めた以上は受け入れる」
「君は素晴らしい僕の妻で、あんなの最高の母だ」
とデイビッドは再び藍香を抱きしめた。藍香はデイビッドにしがみ付いた。
 その後、謝罪を受ける為の日時を手紙に書いてある連絡先に送った。

 謝罪の日当日、藍香の一家は健斗のマンションに出向いた。健斗と樹理の配慮で『藍香達の家の場所が加害者だった人に知られるのは避けた方が良い』と考えたからだった。
 藍香の手にはあの古いノートがあった。マンションに到着してインターフォンを鳴らした。
「あっ、平川さん。御足労頂いて誠に申し訳ございません。どうぞ」
との返答と同時にオートロックの開く音がした。
玄関の近くまで行くと健斗と凛を抱いた樹理が深々と頭を下げて出迎えた。
 デイビッドと藍香は会釈を返した。
「どうぞ」
と案内されてリビングに入った。凛とあんなが寝っ転がれる様に、昼寝用ふとんが敷かれていた。そこにあんなを置くと、あんなは凛をヨシヨシして、赤ちゃん同士ご機嫌に笑って居た。
 まず健斗は床に手と額を擦り付けて、
「長い期間、辛い思いをさせてしまいました。僕の愚かさによっての事態です。謝罪もこんなに遅くなり本当に申し訳ございませんでした。
 そして、平川さん一家はお幸せに暮らして居る中、この様な思い出したくもない事であろう私達の謝罪に付き合わせてしまい、ご迷惑をお掛けしております」
と誠実に謝った。樹理も共に床に手と額を付けた。
 藍香とデイビッドは頷き、
「頭を上げて下さい。まずは当時私からの目線での事態を綴ったノートを今まで持ってました。読んでください」
と藍香が差し出した。
「失礼します」
と健斗は受け取り、樹理と共に読み進めた。
 14歳の少女の恐ろしい体験。その中で親に知られ無い様に学校に通った事…。学校に行く事で度重なり起こる悍ましい出来事…。被害を訴えても学校も警察も相手にしない悔しさ…。自分が汚れたと何度も身体を洗って擦り傷が出来た事…。それを真夏に長袖で隠した事…。涙でふやけて波打つページ達…。その痛々しいノートを読み終わり、健斗と樹理は、凛の無邪気な笑顔を見て溜息を吐き、肩を落とした。
「本当に…僕は卑劣で…弱くて…逃げた癖に見下して…。理由無く藍香さんを傷つけました。申し訳ありませんでした」
と健斗は目を潤ませた。共に樹理もハンカチで涙を拭って居た。
「夫のしでかした事はら若気の至りでは済まされませんね…」
と言った。
「何故あの時そんな目に私は合わなければならなかったのですか? 」
藍香が尋ねた。
 健斗は当時の事と、これまでの心の変化を話し出した。3人は黙って聞いた。
「僕は幼い頃から恋心を藍香さんに抱いてました。それを当時仲良くしてた一馬と諒我に指摘されて動揺したんです。そして悪ノリした2人が 事を始めました。でも僕は止める事なく、一緒に襲う事を楽しみました。僕は悪魔の様でした。
 聞くに堪えない話だと思います。でも僕か正直に話さないと…卑劣な事も、悔いた事も…全てを。
そうじゃないと本当の謝罪が出来ないと思うんです。聞いてください」
と前置きして更に話を進めた。
「僕も当時、藍香さんが学校を休まれた日に『もうバレる、酷く怒られて内申書も散々になるよだろう。クラスメイトや町の中での人目が冷たくなるのだろう』と覚悟しました。それが意外な事に一馬の父親が町長だったのと金持ちだった事で隠蔽されて、僕は学校にでも問題から逃れられました。助かったと安堵しました。そうすると学校に来れない藍香さんを見下すと云う思いを持ったり、楽しみが減った気がしました。今、当時の自分の姿を思い出しても悍ましい姿だと思います。
 それを思い知らされた出来事が有りました。諒我が当時の画像を撮って居たのを見せたんです。中里先生が転勤になる頃に画像を撮って居たことを初めて知りました。僕らは3人は盛り上がりましたが、それを藍香さんの友達の中本有紗さんに見られたんです。とても叱られました。大人が怒るより怖かったです。血の気が引きました。初めて罪の重さを知りました。そしてあの事の証人が出来てしまった事に怯えながら毎日を送りました。
 そして怖さから僕らの悪い仲間は自然と疎遠になりました。
 高校に入り樹理と付き合う様になりました。樹理と居る時間が増えれば増える程、樹理が僕にとって欠かせない大切な存在になって行きました。
 でも…僕が藍香さんに傷つけた様に、樹理を傷つけそうな気がして怖かったんです…。
 なのに周りに唆されて、美人のスタッフが居るカフェに行こうと連れて行かれたんです。行ってみると、その美人のスタッフは藍香さんでした。
 ビックリしたけど…僕は藍香さんが元気そうなのを見て『自分がそんなに罪深く無い』様な気がしてきたんです。馬鹿ですよね。会計の時に声掛けたら、笑顔で突き放されて『罪が軽くなるなんてあり得ない』と再び罪の重みを知りました。
 そんな時に樹理が『僕が数人と一緒にカフェの美人スタッフをナンパしに行った。』と耳にして、『貴方は迂闊だ。』と叱られました。グーの音も出ない思いでした。自分の愚かさを思い知りました。
 樹理はいつも誠実で…一緒に居て人の大切さや重みを実感する事が段々と出来る様になりました。
 一馬が逮捕されて、藍香さんが被害届けを再度提出する事を聞いた時は、僕も捕まるのではと恐れ慄きました。
本当に怖い思いをさせたのは僕なのに…受けるべき罰を受けると言う時が来ただけなのに生きた心地がしませんでした。
 けど…町長の自殺未遂のニュースが流れて、藍香さんも被害届を出すのを止めたと聞き僕はホッとして浮かれました。その時道端て鼻歌を歌って居る僕を見て『何浮かれてるの?町長が自殺未遂して、藍香か被害届を出さない事にしたから?人が死のうとしたのよ!』と中本有紗さんに声を掛けられました。
 完全に心を残さず読まれてました。僕は罪から免れたと喜んだ…つまり、また心で罪を犯したんです。逃亡犯みたいな者です。
 大学は教育大に行ってたので、学校や中学生と関わる事が多かったのですが、その後は償いの為に虐めに取り組みました。生徒とも向き合いました。
でも、上手く行きませんでした。生徒の問題に取り組む先生に恵まれなかった事も理由の一つではあります。
 そして、いまの中学に来ました。僕が罪を犯した時の担任の中里智恵子先生が僕の指導に当たりました。
『なんでここを志望したの?』と聞かれて、
『思い切り生徒と向き合いたかった。生徒の問題解決の力になりたかった』と言った事は誉められましたが、『板橋さんに償いたいから』と言ったら怒られました。『ここの生徒は貴方の償いの為にいるのではない。生徒そのものと向き合わないとやっていけない。償いは自分でやりなさい』と。至極真っ当な返答でした。
 その後生徒達と絆が出来てきて、そして凛も生まれ我が子の大切さを知りました。そうすると…藍香さんやご両親には…どんなに酷い傷を付けたのだろう…、後ろ足で何度砂を掛けたのだろうら何度僕は逃げようとしたのだろう…と更に感じる様になってました…。
 僕の長い話を聞いて下さってありがとうございます。只々申し訳なく思います。許すか許さないか…判断はお任せします」
と健斗は再び頭を床に擦り付けた。
 藍香かかつてシスターに教えてもらった100匹の羊の話を始めた。
「ご存知ですか?聖書の中にある100匹の羊の話。これは罪人が悔い改めて帰って来た事を救い主が喜んでいる様子を分かりやすく例えた話です。
『ある羊飼いに100匹の羊が居たとする。そのうちの1匹が迷い出て居なくなったとしたら、羊飼いは残りの99匹を野原に置いて 山や絶壁等を探しに行かないはずがない。そして見つけたなら、帰ってから喜んで 一緒に喜んでください。居なくなったと思っていた羊を見つけたのですから。と言うに違いないだろう…。と書いて有ります。
貴方はその迷い出て帰ってきた羊なのかも知れません。『よく帰ってきた』と羊飼いに喜ばれてるかもしれない…。
 でも私は残った99匹の羊の中の1匹。しかも貴方に噛まれたことのある…。残りの羊達が羊飼いがあの町の人達だったとしたら…、仲間だと思ってた仲間達に噂されて、好奇の目で見られ続けた…。そんな羊の群れの中でただ1人…中本有紗さんが、噂する羊達を批判する羊達を気にせず私の傷を哀しんで舐めてくれたんです。父と母は この羊の群の中に居るのは良くない、違う羊の群れに入れた方が良いと、違う群れ探しに翻弄してくれました。新しい群れの中で『痛いだろうに、早く治る様に』と父と母、学校で手当を受け傷は癒やされました。感謝して喜びを大切に暮らして来ました」
 そう言って、あんなと凛を見た。さっきまで 仲良く遊んで喜んで居た2人は、仲良くスヤスヤ安心して眠って居た。
「古傷を持った羊飼いに従順だった99匹の羊の一匹が私だとしたら…。噛みつかれた過去を払拭させて生きる術を見つけた中で、貴方が帰って来た。恐怖も舞い戻りそうな気持ちを持つ私の気持ち、分かりますよね…。でも、羊飼いの御心に従って貴方が噛み付いた事への謝罪を聞いた。…彷徨った崖の中で、生きたり死んだりして来たのだと思います…」
こう話すと藍香は沈黙した。デイビッドは藍香の肩を抱いた。藍香はデイビッドの顔を見て頷いた。
「今の私の羊飼いは、汚れの無いこの2人娘達なのかも知れませんね」
あんなと凛の健やかな寝顔を藍香が見ると、他の3人も目をやった。可愛らしい清らかな寝顔…。愛おしく4人は羊飼いを見つめた。
「2人の羊飼いの笑顔を守る為に…。古傷が疼いても、もう過去は捨てます。このノート…。燃やせる場所はございませんか? 」
と樹理に向かって聞いた。
「はい。屋上にバーベキューコーナーがあります」
眠っている子供達をデイビッドと健斗は、起こさない様にそっと抱き上げて皆んなでバーベキューコーナーに向かった。
 藍香は主要な文を書いてる1ページ目をちぎり火の中に入れた。
 泣きながら書いた14歳の頃の出来事の内容を火が追い掛けて燃えカスとなった、2ページ目…3ページ目…4ページ目…5ページ目…。焚べて行くと火は、藍香の無くしたかった過去と涙の跡を燃やして燃えカスにしていってくれた。
 文章の無いページも、藍香は燃えやすい様にちぎって燃やし、ちぎって燃やし、ノートの表紙も燃やし終えた。火が消えた燃えカスに触れると かすかに紙の形状が残っていたものの、粉々に砕けた。
 これで十四歳の少女を苦めた過去は終わりを告げたと、藍香は晴れやかな顔で皆んなに振り返った。
 外田夫婦は、また屋上の床に頭を擦り付けようとした。健斗は凛を抱きながら跪こうとした。平川夫婦が肩に手を当て静止した。藍香は
「樹理さん、貴女が居なかったら健斗さんは償う思いに至る事ができなかったでしょうね。そして私もノートを燃やす事が出来なかったと思います」
と樹理の手を握って言った。
 樹理は涙を溢れさせながら藍香に慰められながら
「ありがとうございます。ありがとうございます」
と何度も繰り返した。
 デイビッドは 
「外田先生。私もスクールカウンセラーをして居るので仕事上で貴方の頑張りは耳にしてます。若い時の事と聞いていても、妻にした事は許せません。僕ら夫婦は許すと決めましたが辛い決断でした。
 でも、憎しみに変わりそうな物を抱えているのも負担なのです。きっとその気持ちは貴方も理解できるでしょう。
 でも娘達は人の蟠りを解かす力がある様です。ただ貴方が気の毒だったのは、反省すべき時に 貴方達の罪に向き合わず、大人達に有耶無耶にされてしまった事だと思います。直ぐに対応していれば、反省や謝罪をして多くの学びがあった筈なのに…。
 外田先生、貴方は有耶無耶にせず全ての生徒達と向き合って行って下さい」
と健斗に声を掛けた。
「ありがとうございます。こんな私に…。貴方の大切な奥さんに辛い思いさせた僕に…。ありがとうございます。これから生徒達と向き合い続けます。学校が生徒達の故郷で居れる様に生徒と関わって行きます」
 10年を経て健斗が潜って来たトンネルに光が見えて来た。
 藍香が背負って来た古傷は我が子が癒し、人の痛みを理解する為の物として揺るが無い物となった。
 樹理は健斗の本当の晴れやかな顔を始めて見た様な気がした。
 デイビッドは藍香があんなを通して、強く変わっていく事に尊敬を覚えた。そう言えば自分の屈折した心を大切にしてくれたのも藍香だった。これからも2人で…いや、あんなも一緒に3人で歩んでいく事への喜びを感じて家路に着いた。
 帰り車中、藍香が吐き気を感じた。
「大丈夫かい? 」
車を路肩に寄せて胃の不快感を感じている藍香の背中にデイビッドは手を当てた。しかし具合悪い筈の藍香は喜んだ顔をして居る。
「貴方!産婦人科へこのまま連れてって! 」
と藍香はデイビッドの手を握った。
「oh…oh…really⁉︎」
「Yes!that's light!」
思わずハグし合った。
 そして産婦人科に急いだ。保険証を出し、問診票を書き、そして診察室に呼ばれた。
 エコーを見てみると、赤ちゃんの小さな心拍が見えた。
「新しい命が来てくれた…」
藍香の目が潤んだ。
「そうだね。藍香…ありがとう。本当にありがとう…。あんな、お姉ちゃんになるよー」
デイビッドは、あんなを抱き締めながら喜んだ。
 平川家は 人じゃない。4人で歩いていくんだ。
 藍香はこれからも素敵な笑顔と、綺麗な涙を流しながら強く優しい母になっていくのだろう。
僕の妻は最高の妻だ。とデイビッドが思った瞬間、
「貴方は最高の夫よ」
と藍香が言った。
あぁ、先に言われてしまった。でも同じ事を考えていたんだ…。そう思うと嬉しくなる。
「 I love you、」
「me too.I love you、」
 そしてデイビッドと藍香は思った。4人で私達はどんな風に成長して行くのだろうかと…。


ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み