1.初めまして(1)
文字数 2,543文字
この日、鴻未来(おととり みらい)は趣味のバードウォッチングを楽しむ為に、とある山に来ていた。
山といっても、残念ながら大層な山ではない。
子供からお年寄りまで楽しめる往復3時間ちょっとを謳った頂上までのハイキングコースがある程度の、地元でも有名な小さな山で、彼も小学校、中学校と学校行事で登ったり、はたまた家族と登ったりとこの山を制したのは一度ではない、昔からよく知った気心知れた山である。
しかし、だ。
空に近いペットボトルを振りながら彼は空を見上げる。
「どうしたもんかな」
バシャバシャと音を立てるペットボトルを転がる水の音に紛れながら、彼はため息を吐いた。
空には鳥ではなく、煌めく星々。
そう、今は鳥などいない闇の帳が降りた、夜である。
彼の趣味はバードウォッチング。間違っても天体観測ではない。こんな暗闇では鳥も彼も満足に目を効かせる事など出来ないだろう。
なのに何故、彼はまだこんな時間になっても山にいるのか。
「困ったな。まだ圏外か……。これじゃあ、完全に遭難だなぁ」
何処か他人事の様な呟きには、現実味は何処にもなかった。
きっと、本人もまだ信じられないのだろう。なんだって、こんな小さな山でだ。
「大学生にもなって、こんな慣れたハイキングコースで遭難って……」
あはははと、気が抜けた乾いた笑いが夜風に舞い上がる。
そう。残念ながら彼は今、絶賛遭難中なのだ。
子供でも3時間で往復出来る、このハイキングコースで。
「もう、21時か」
夜空以外の唯一の灯りであるスマートフォンで彼は時間を確かめた。
普通であれば、夜遅くとまでは思わない時間である。
救助を待つにも、彼自身が自分で人を呼べない今では、他の誰かに彼が居ない事を気付いて貰わなければ話にならない。
幸い、彼の真面目で几帳面な性格から、この山に来る前に、親しい友人や一緒に暮らし居ている両親、義妹には何処に自分が何をしに行くか伝えている。
しかしながら、まだ21時と言う時間は、彼が家に帰ってきて居なくても誰も不思議がらない時間である。現時点で都合よく誰かが彼の遭難に気付く可能性は限りなく低いだろう。
彼は深い溜息を吐く。
その息は、うっすらと白色を帯び始め居た。
「……寒いな」
まだ5月も入ったばかりだと言うのに、今日はまるで真夏の様に暑かった。
これも異常気象と言うものだろうか? 初夏にも入る前から、30度近い気温を弾き出していた。お陰で彼の服装は軽装であり、夏の装いに限りなく近いものだった。
しかし、どうやらその異常気象も夜の帳の中には入れなかったらしい。
段々と低くなる温度は確実に、彼の体温を奪って行く。
虫対策にと持ってきた薄手の長袖を羽織るが、なんとも心許ない事だろう。
このままここで救助を待つか、夜が明けるのを待つか。
少ない水に夜空に浮かんだ星を見上げ彼は目を閉じる。
これはいよいよ、本格的な遭難になってしまった様だと、彼は漸く自覚した様だ。
「よし」
しばらくの間考えていた彼は、漸く重い腰を上げ辺りを見渡す。
ここは何処なのかも分からない程迷ってしまったが、山はそれ程広くない。
また、それ程高さもない。
ある程度は既に降った後である。
夜明けまでに下へ下へと降りていけば、帰れる距離であることは間違いないはずだ。または、携帯の電波が受信できる位置に行けるはずだ。
考えれば考える程、彼の脳裏にはそんな可能性が強く強く浮かんできた。それは、最早消せる事ができない程肥大化している。そうなってしまえば、きっと誰にも自分の思考に逆らえない。助けを待つよりも歩いた方が早いだろう。そうすれば、誰にも迷惑を掛けることなく彼は家に帰れるのだから。
誰にも迷惑を掛けない帰り方。
今、この状況でその言葉は何よりも魅力的で賢く素晴らしい言葉の様に聞こえてしまうのは、彼の性格上致し方ない事なのかもしれない。
山がどんなに大きく小さくても、遭難は遭難だと言うのに。
しかし、彼は歩き出してしまう。
これがそもそもの間違えであった事は、最早言う必要など無いだろう。
「……あれ?」
1時間ほど経った頃だろうか。
彼は目の前の景色に素っ頓狂な声を上げた。
それは、異様な光景だった。
ここは、しがない地方の町の、小さな小さなハイキングコースとして利用されている小さな山。
手入れなど、それ程行き届いて居るわけでもなく、きっと町としてもそれ程力を入れている観光地でもないはずだった。
そんな場所なのに。
今、彼の前には信じられないモノが目に入る。
「なんだ? この城は」
彼の目の前には柵に囲まれた、闇の帳に浮かんだ、『城』。
安いテーマパークの様な城ではない。高く広く聳え立つまるでヨーロッパに実際に建っていた様な洋風の、本格的な城である。
「こんな場所に、城?」
彼は思わず首を傾げた。
余りにもこんな田舎に似つかわしくない。いや、それよりも、こんな大きな城がこの山に建った事を、彼は知らない。
狭い町だ。こんな派手なモノがこの山に建った筈なら、嫌でも耳に入る程がその前に着く程に。
なのに、彼は知らない。
行きだって、こんな建物は見えなかった。これ程高いく広い建物ならば、何処かで目に入る筈だというのに。
新しいアミューズメントパークでも開くのだろうか? それとも、何か別の……。
その時だ。
「っ!?」
大き大きな門の前で言葉を失っていた彼に答える様に、ゆっくりと軋む音を立てながら扉が開く。
誰かいるのだろうか?
目を凝らせば、窓には揺らめく光が見える。まだ、時計は22時。もし、アミューズメントパークであれば、閉店間際の従業員がいる時間かもしれない。
人がいるならば、事情を話せば電話を借りる事も出来るし、運が良ければ山の麓まで送ってくれるかもしれない。
何とも都合のいい考えに呆れ返ってしまうところだが、本人は至って普通の思考だと思っている。
勝手に門が開いたという事は、中に入っても咎められる事はないのだろう。
彼はそう思い、大きな城へと足を進めたのだった。
アミューズメントパークと言う見立ては悪くない。中々、評価して良い所かもしれない。
だって、これから君はここで心ゆくまで『遊ぶ』のだから。
山といっても、残念ながら大層な山ではない。
子供からお年寄りまで楽しめる往復3時間ちょっとを謳った頂上までのハイキングコースがある程度の、地元でも有名な小さな山で、彼も小学校、中学校と学校行事で登ったり、はたまた家族と登ったりとこの山を制したのは一度ではない、昔からよく知った気心知れた山である。
しかし、だ。
空に近いペットボトルを振りながら彼は空を見上げる。
「どうしたもんかな」
バシャバシャと音を立てるペットボトルを転がる水の音に紛れながら、彼はため息を吐いた。
空には鳥ではなく、煌めく星々。
そう、今は鳥などいない闇の帳が降りた、夜である。
彼の趣味はバードウォッチング。間違っても天体観測ではない。こんな暗闇では鳥も彼も満足に目を効かせる事など出来ないだろう。
なのに何故、彼はまだこんな時間になっても山にいるのか。
「困ったな。まだ圏外か……。これじゃあ、完全に遭難だなぁ」
何処か他人事の様な呟きには、現実味は何処にもなかった。
きっと、本人もまだ信じられないのだろう。なんだって、こんな小さな山でだ。
「大学生にもなって、こんな慣れたハイキングコースで遭難って……」
あはははと、気が抜けた乾いた笑いが夜風に舞い上がる。
そう。残念ながら彼は今、絶賛遭難中なのだ。
子供でも3時間で往復出来る、このハイキングコースで。
「もう、21時か」
夜空以外の唯一の灯りであるスマートフォンで彼は時間を確かめた。
普通であれば、夜遅くとまでは思わない時間である。
救助を待つにも、彼自身が自分で人を呼べない今では、他の誰かに彼が居ない事を気付いて貰わなければ話にならない。
幸い、彼の真面目で几帳面な性格から、この山に来る前に、親しい友人や一緒に暮らし居ている両親、義妹には何処に自分が何をしに行くか伝えている。
しかしながら、まだ21時と言う時間は、彼が家に帰ってきて居なくても誰も不思議がらない時間である。現時点で都合よく誰かが彼の遭難に気付く可能性は限りなく低いだろう。
彼は深い溜息を吐く。
その息は、うっすらと白色を帯び始め居た。
「……寒いな」
まだ5月も入ったばかりだと言うのに、今日はまるで真夏の様に暑かった。
これも異常気象と言うものだろうか? 初夏にも入る前から、30度近い気温を弾き出していた。お陰で彼の服装は軽装であり、夏の装いに限りなく近いものだった。
しかし、どうやらその異常気象も夜の帳の中には入れなかったらしい。
段々と低くなる温度は確実に、彼の体温を奪って行く。
虫対策にと持ってきた薄手の長袖を羽織るが、なんとも心許ない事だろう。
このままここで救助を待つか、夜が明けるのを待つか。
少ない水に夜空に浮かんだ星を見上げ彼は目を閉じる。
これはいよいよ、本格的な遭難になってしまった様だと、彼は漸く自覚した様だ。
「よし」
しばらくの間考えていた彼は、漸く重い腰を上げ辺りを見渡す。
ここは何処なのかも分からない程迷ってしまったが、山はそれ程広くない。
また、それ程高さもない。
ある程度は既に降った後である。
夜明けまでに下へ下へと降りていけば、帰れる距離であることは間違いないはずだ。または、携帯の電波が受信できる位置に行けるはずだ。
考えれば考える程、彼の脳裏にはそんな可能性が強く強く浮かんできた。それは、最早消せる事ができない程肥大化している。そうなってしまえば、きっと誰にも自分の思考に逆らえない。助けを待つよりも歩いた方が早いだろう。そうすれば、誰にも迷惑を掛けることなく彼は家に帰れるのだから。
誰にも迷惑を掛けない帰り方。
今、この状況でその言葉は何よりも魅力的で賢く素晴らしい言葉の様に聞こえてしまうのは、彼の性格上致し方ない事なのかもしれない。
山がどんなに大きく小さくても、遭難は遭難だと言うのに。
しかし、彼は歩き出してしまう。
これがそもそもの間違えであった事は、最早言う必要など無いだろう。
「……あれ?」
1時間ほど経った頃だろうか。
彼は目の前の景色に素っ頓狂な声を上げた。
それは、異様な光景だった。
ここは、しがない地方の町の、小さな小さなハイキングコースとして利用されている小さな山。
手入れなど、それ程行き届いて居るわけでもなく、きっと町としてもそれ程力を入れている観光地でもないはずだった。
そんな場所なのに。
今、彼の前には信じられないモノが目に入る。
「なんだ? この城は」
彼の目の前には柵に囲まれた、闇の帳に浮かんだ、『城』。
安いテーマパークの様な城ではない。高く広く聳え立つまるでヨーロッパに実際に建っていた様な洋風の、本格的な城である。
「こんな場所に、城?」
彼は思わず首を傾げた。
余りにもこんな田舎に似つかわしくない。いや、それよりも、こんな大きな城がこの山に建った事を、彼は知らない。
狭い町だ。こんな派手なモノがこの山に建った筈なら、嫌でも耳に入る程がその前に着く程に。
なのに、彼は知らない。
行きだって、こんな建物は見えなかった。これ程高いく広い建物ならば、何処かで目に入る筈だというのに。
新しいアミューズメントパークでも開くのだろうか? それとも、何か別の……。
その時だ。
「っ!?」
大き大きな門の前で言葉を失っていた彼に答える様に、ゆっくりと軋む音を立てながら扉が開く。
誰かいるのだろうか?
目を凝らせば、窓には揺らめく光が見える。まだ、時計は22時。もし、アミューズメントパークであれば、閉店間際の従業員がいる時間かもしれない。
人がいるならば、事情を話せば電話を借りる事も出来るし、運が良ければ山の麓まで送ってくれるかもしれない。
何とも都合のいい考えに呆れ返ってしまうところだが、本人は至って普通の思考だと思っている。
勝手に門が開いたという事は、中に入っても咎められる事はないのだろう。
彼はそう思い、大きな城へと足を進めたのだった。
アミューズメントパークと言う見立ては悪くない。中々、評価して良い所かもしれない。
だって、これから君はここで心ゆくまで『遊ぶ』のだから。