◆一「中庭の恋」

文字数 2,922文字

 放課後の電脳部には、キーボードを叩く音とマウスをクリックする音が響いている。席に着いている部員は一、二年生が多い。受験のある三年生はあまり顔を出しておらず、実質的に二年生が最高学年になっている。
 部室の中央には事務机でできた島がある。その上にはパソコンが十台並び、部員は思い思いに使っている。席は決まっていない。みんな適当に空いている場所を選ぶ。そうした自由な空気の電脳部だが、たった一つだけ持ち主が決まっている席がある。机の島の一番奥。上座に当たるところだ。その場所は、部員の中で最も情報技術に明るく、周囲に信頼されている人間が利用している。この部活の女神である桜小路恵海(さくらこうじえみ)先輩だ。彼女は、部室のパソコンとは別に、自分のノートパソコンを持っている。既に自身のプログラムでお金を稼いでおり、自己資金で開発機材をそろえている。
 桜小路先輩は、他の部員たちとは格が違う。三年生も彼女を立てている。まだ部長は引き継いでいないが、実質的なリーダーとして振る舞っている。このように桜小路先輩は素晴らしい人なのだが僕は違う。太陽に対する月。女王を見上げるアリンコ。僕の日課は、桜小路先輩を観察することだ。そしてエミペディアという、僕だけのウェブサービスに記録することだ。僕は、誰にも公開していない情報を、延々と蓄積し続けている。
 僕は夢想する。将来的に桜小路先輩が、歴史上の偉人になったとき、僕の記録が人類の役に立つかもしれない。偉人と伝記作家の関係。あるいはアイドルとストーカーの関係。僕はそうした卑小な存在に甘んじることをよしとしている。彼女の視界の隅にいる小石として日々忙しく活動している。
 自虐的な台詞を頭の中で並べ立てた平原光(ひらはらひかる)は、そっと顔を上げる。デスクトップパソコンが並ぶ机の島の向こうに、桜小路先輩の姿がある。彼女は集中してノートパソコンに意識を向けている。光はうっとりしながら彼女の真剣な顔を見つめる。
 自分が電脳部に入った切っ掛け。それは彼女に恋をしたからだ。出会ったのは入学直後。そのとき光は、小学校時代からの親友の須崎翔(すざきしょう)と、校内の中庭を歩いていた。

 校舎に囲まれた中庭には、花壇と小さな池がある。花壇には、園芸部が植えた季節の花が咲き、池には亀が暮らしている。
 まだ新入生だった光と翔は、放課後の時間を利用して校内を探険していた。ちょうど部活の勧誘時期で、翔は軽音部に入部届を出し終えていた。光はまだ決めておらず、迷っていた。そもそも、自分に合う部活があるのか疑問だった。光の趣味は、ウィキペディアやネットニュースを見ることだ。言うならばネットジャンキー。いまさらスポーツをやる気もなく、何か文化系の部活に落ち着ければと思っていた。
 中庭には何人かの上級生がいた。いずれも文化系の部活の人たちだ。翔と歩いていた光に、そうした先輩の一人が声をかけてきた。
「コンピュータサイエンス部に入りませんか」
 ビー玉ほどの大きさの勇気を、振り絞った声。耳に届いた声は、そう聞こえた。振り向くと女性が立っていた。眼鏡をかけて、髪を三つ編みにしている。スカートの丈は長く、真面目なんだろうなと思った。彼女を見たときの印象は、お世辞にもよいものではなかった。影の薄い人だな。そう感想を持った。
「コンピュータサイエンス部に入りませんか」
 目の前の女性は、先ほどの言葉を繰り返す。彼女は、誰もが電脳部と呼ぶ部活を、きちんとした名前で言った。
「いやあ、サイエンスなんて、よく分からないですし」
 何だか小難しそうだなと思い、断ろうとする。コンピュータは家にある。しかし高尚なものには利用していない。親に付き合ってゲームをしたり、雑学を仕入れたり、夜の実学に使用したり、そうした低俗な用途が関の山だ。
「パソコン、使いたい放題ですよ」
 彼女は、通り過ぎようとする光たちを、引き留めようとして声を出した。少し心が動く。ネット中毒の光は、暇さえあれば情報を収集している。学校でパソコンが自由に使えるのならば、それに越したことはない。
「ねえ、お姉さん。俺、軽音部に入っているんだけどさ、DTMをしてもいいの?」
 翔が軽い調子で尋ねた。翔のこうした瞬発力は本当に羨ましいと思っている。
「はい。大丈夫です」
 先輩が、真剣な顔で答える。
「ネットもできるんですか?」
 光も聞いた。常々、学校でも大きな画面でウェブページを読みたいと思っていた。スマートフォンの小さな画面では、閲覧性が悪いと感じるときがあるからだ。
「ネットもできます。インターネットに繋がっています」
 自由にパソコンが使える。ネットも利用し放題。途端に魅力的な部活に見えてきた。しかし、新入生が好きに備品を扱えるとは限らない。運動部のように、一年生のあいだは球拾いをさせられるかもしれない。コンピュータサイエンス部の球拾いが、何なのかは分からない。LANケーブルを毎日繋ぎ直すとか? あるいはキーボードの分解掃除を、毎日させられるとか? どういった活動をしているのか、きちんと聞いておかなければと思った。
「あの、普段はどんなことをしているんですか?」
 大変そうでなければ、籍を置いてもいいかなと考える。
「はい。人それぞれで、私は主にプログラミングをしています。少し前はRubyで開発をしていたんですが、最近はPythonに乗り換えています。でも、ウェブサービスを高速で動かすには、もっと実行速度の速い言語でコーディングするべきだと考えていて――」
 三つ編み眼鏡の先輩は、自分がしていることを伝えようと一生懸命説明する。眼鏡の奥の目が輝いていた。本当に好きなことを語っているのが分かった。素敵な女性だなと思った。彼女のことをもっと知りたいと感じた。名前も告げていない先輩は、延々と僕たちに話し続ける。放っておくと、シェヘラザードのように幾夜も重ねそうだ。
「仮入部からでいいですか?」
 話を打ち切るために声をかける。
「はい。入ってくれるんですか」
 ぱっと表情が華やいだ。小さな花が、その場に咲いたように思えた。
「僕は平原です。こっちは須崎。ヒカル、ショウと呼び合っています。あの、先輩のお名前は?」
 尋ねられた先輩は、口元に手を添えて顔を真っ赤に染める。彼女は心底恥ずかしそうに、耳まで赤くした。
「ごめんなさい。私、名前を言ってなかったみたい」
 消え入りそうに目を閉じたあと、先輩はもじもじと名前を口にした。
「桜小路恵海です。ちょっと変わった名字で、桜に小さい路と書くんです」
 桜小路先輩は、指で空中に文字を書く。
「あと、先輩。後輩の僕たちに敬語って、おかしいと思いますよ」
 うんうんと、翔も腕を組んでうなずいた。
「そういえば、そうね」
 桜小路先輩は、照れた様子で笑顔を見せる。
「それじゃあ、平原くんと、須崎くん。さっそく私たちの部活に来てみない?」
 先輩は嬉しそうに言う。その表情に光は心を奪われる。桜小路先輩の笑顔は、陽の光に照らされた桜の花びらのように美しかった。
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登場人物紹介

平原光(ひらはら ひかる)。主人公。横浜の進学校に通う高校一年生で電脳部所属。同じ部活の桜小路先輩に恋をしており、彼女の情報を集めたエミペディアを更新する日々を送っている。善良で人に信用されやすく、よく頼み事をされる。

桜小路恵海(さくらこうじ えみ)。横浜の進学校に通う高校二年生で電脳部所属。小学生時代からの筋金のプログラマーで、自作のウェブサービスを売却した資金で、開発機材を揃えている。おっとりとしていて、部活の中心的存在。三つ編み眼鏡が特徴。

来栖九天(くるす きゅうてん)。横浜の進学校に通う高校一年生。小柄で華奢で、目つきが悪い。馴れ合いが嫌いで、いつも何か企んでいる。学校では、友人がいないことで有名。兄と二人暮らしでブラコン。兄を過保護にしている。

来栖九地(くるす きゅうち)。背が高く、目が細く、いつも笑っているように見える。電脳犯罪に詳しく、ナイン電脳探偵事務所の所長をしている。探偵事務所は古びたアパートにあり、なぜか部屋の中央にはビリヤード台がある。

須崎翔(すざき しょう)。主人公の親友。電脳部所属の一年生で、軽音部との掛け持ち。DTMが趣味。学内で三本の指に入るモテ男。いつも複数の女の子と付き合っている女たらし。

早瀬あかり(はやせ あかり)。電脳部の顧問の先生。ITオンチ。

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