若守宮
文字数 3,100文字
私の部屋にはエアコンが設置されていなかった。暑くて寝苦しい夏の夜は、窓を全開にして熱が部屋の中にこもらないようにしていた。それでも全然、エアコンをガンガン効かせた部屋に比べたら暑いのだが、開けないよりはマシだった。閉め切るとサウナに入っているみたいに汗が止まらなくなって、まったく眠れない夜になってしまうのだ。
風の通り道を作ってあげられたらもっと部屋の中が涼しくなるのだろうけれど、窓だけでなく出入口のドアまで開けてしまうと、そこから両親に中を覗かれてしまう。私は誰かに寝顔を見られるのが嫌で、というか、一人でいる時間を家族や他人に観察されるのが嫌いだった。なので、どれだけ暑い夏の日でも、出入口のドアはしっかり閉めて内側から鍵をかけていた。ドアの外側には「ノックしろ」と書いた張り紙まで貼り付けるくらい、私は引きこもりの性分だったのだ。
私が自分を誰かに観察されたくなくなったのは、中学二年になってからだった。自分でも理由はわからない。両親曰く、「複雑な時期」だからだそうだ。中学二年頃になると、少年少女の心が複雑になるらしい。私は普通にしているつもりなのだが、幼い頃から私の様子を観察していた両親には、違いがはっきりわかるそうだ。
その日の夜も、私は窓を全開にして出入口のドアをしっかり閉め、一人で部屋に引きこもっていた。ここでできることは限られており、ゲームをするなどの趣味に没頭するか、勉強するか、それだけだった。
勉強机に国語の宿題プリントを広げる。私は国語が苦手だった。漢字を記憶するのは得意なのだけれども、文章問題は手をつけるのが億劫である。登場人物の心情を四百文字以内で書け、などといわれても「そんなもん知らん」としか言えない。私は数分プリントとにらめっこし、ペン回しをしていた手を止めて椅子にもたれかかった。
全開にした窓の方へ目を向ける。私の部屋から漏れる明かりに誘われて、大小無数の蛾が網戸に留まっていた。父に見せたら、餌が大量にあると大喜びして捕まえるかもしれない。私の父は爬虫類好きの変わり者で、ペットたちにあげる餌は近所の森で調達していた。父の部屋は、ペットたちが干からびたり凍死しないように気温をエアコンで調節している。私の部屋と違って父の部屋は、年中春みたいに暖かかった。
網戸に留まっている蛾を眺めていると、端の方からノソノソと灰色の細長い生物が現れた。全身細かな鱗で覆われ、鳥類に似た四本の手足があり、尻から細長い尾を伸ばしている。丸みのある三角の頭部には鉛筆で縦に線を引いたような眼が二つ。全長十センチほどの「ニホンヤモリ」だった。
ヤモリは四足歩行で網の上を進んだ。暗殺者がターゲットに近づくかのように、ゆっくりゆっくり、一匹の蛾に狙いを定めて進む。狙われた蛾は、豆粒みたいに小さかった。ヤモリから近い場所に小指の先っぽくらいの大きさの蛾がいるのに、そっちは狙わない。あまりお腹が空いておらず、おやつを食べる感覚で小さい蛾を狙っているのだろうか。あるいは、大きい蛾よりも小さい蛾の方が力が弱いから捕まえやすいのかもしれない。ヤモリも蛾も、私が傍で眺めていることを気にしていなかった。
小さな蛾とヤモリの距離が五センチほどになった。瞬間、ヤモリは目にもとまらぬ速さで蛾に急接近し、口に銜えてどこかへ運び去ってしまった。他の蛾たちはヤモリの急襲に驚き、次々と飛び上がって闇の中に消えた。
私は勉強机の方に顔を向けた。理由はわからないが、気分がよかった。プリントの空欄をあっという間に埋め、椅子から立ち上がった。部屋の電気を消して布団に入り目を閉じると、すぐ眠ることができた。
朝。いつも通り学校に行く。二学年のクラスは平和だった。クラスメイト同士で小さな喧嘩が起こることはあるけれども、ニュースになるような大ごとは起こったことがない。いつも通りの授業が終わると、部活が始まる。私はテニス部に所属しており、部の仲間たちと雑談を交えながらトレーニングを行った。最後はコートを掃除して、同学年の友達と一緒に帰路につく。
他の人はどうかわからないけれど、私は、それなりに充実した学校生活を送れていると思う。だが、不満が何も無いわけではない。私は学校にいる間、一人になることを避けていた。理由は、三学年の野球部の先輩が、陰で私の腹を殴るからだ。
野球部の先輩全員が悪い人ではない。特定の三人がいつも固まって、弱そうな生徒に暴力を振るっているのだ。私は、先輩三人からは弱そうな奴に見えるらしく、一人で校内をうろついていると捕まって校舎の裏や体育館の裏へと連れて行かれ、腹を殴られた。私は二学年で一番背が低く、力も弱かった。私が陰で先輩三人から暴力を受けていることを知っている友達から「やり返せ」といわれるけれども、そんなことができる力は無いし、度胸も無い。だから私にできることは、「絶対に一人で行動しないこと」だけだった。
先輩三人が陰で行っている暴力は、多分、先生たちも知っている。だが、先生たちも先輩三人が怖いのか、見て見ぬふりをしている。友達も私に対して励ましの言葉や慰めの言葉をかけてくれるけれども、現場に助けに来たことは一度も無い。私は先輩三人の存在が嫌だった。後一年でいなくなるので、それまでの辛抱だ、と我慢するしかなかった。
ある日の帰り道。運が悪いことに、私は先輩三人と出会ってしまった。今日まで出会うことがなかった道に先輩三人がいるのは不思議だった。
もしかしたら、私が校内で誰かと一緒に動いているので狙い辛くて、溜まった暴力衝動を吐き出すためにわざわざ追跡していたのかもしれない。多分、その考えは当たっていて、私は腹だけでなく、顔や足、肩などを殴られ、蹴り飛ばされた。今まで受けた中で一番酷いリンチだった。最後に、先輩三人は私から制服を無理矢理脱がして足で踏みつけ汚し、放り捨てて、「遊んで汚したって言え」と吐き去って行った。残された私は、裸に近い格好で汚れた制服を抱きしめ、蹲って泣いた。人を殺したい、という黒い衝動が目覚めたのは、恐らく、この時が初めてだった。
家に帰った私は、母親に「遊んで汚した」と嘘をつき、制服を洗濯してもらった。両親に先輩三人から受けている暴力の話を聞かせるのは嫌だった。心配をかけたくなかったし、先生ですら無視する問題を解決できる者は誰もいないと諦めていた。
夜。私は部屋で、洗いたての制服をハンガーにかけ、全開にした窓の前に干した。朝までに完全に乾いてほしいと願う。
ふと、網戸に大小無数の蛾が集まっているのが目に入った。それらを遠くから眺め、餌の目利きをしているヤモリの姿もあった。
私は網戸を見つめていた。ヤモリは大きな餌には目もくれず、小さな餌を狙って進む。大きな蛾は、自分がターゲットではないと安心しているのか、小さな蛾に獰猛な捕食者の存在を知らせず、網戸に留まって優雅に翅を動かしている。
突然、私の中で怒りが爆発した。一瞬だった。頭の中が真っ白になり、気がついたら、私は網戸を殴って大きな穴をあけていた。拳が当たった衝撃で網戸が激しく揺れ、留まっていた蛾はみんな逃げ去り、ヤモリはポーンと闇の中にはじけ飛んだ。
私は大きく息を吐き、小物入れからテープを取り出し、自分であけた穴を塞いだ。
次の日の夜。テープで雑に修理された網戸には、大小無数の蛾が集まっていた。小さい蛾ばかりを狙う捕食者も、いつも通り、現れた。
〈了〉
風の通り道を作ってあげられたらもっと部屋の中が涼しくなるのだろうけれど、窓だけでなく出入口のドアまで開けてしまうと、そこから両親に中を覗かれてしまう。私は誰かに寝顔を見られるのが嫌で、というか、一人でいる時間を家族や他人に観察されるのが嫌いだった。なので、どれだけ暑い夏の日でも、出入口のドアはしっかり閉めて内側から鍵をかけていた。ドアの外側には「ノックしろ」と書いた張り紙まで貼り付けるくらい、私は引きこもりの性分だったのだ。
私が自分を誰かに観察されたくなくなったのは、中学二年になってからだった。自分でも理由はわからない。両親曰く、「複雑な時期」だからだそうだ。中学二年頃になると、少年少女の心が複雑になるらしい。私は普通にしているつもりなのだが、幼い頃から私の様子を観察していた両親には、違いがはっきりわかるそうだ。
その日の夜も、私は窓を全開にして出入口のドアをしっかり閉め、一人で部屋に引きこもっていた。ここでできることは限られており、ゲームをするなどの趣味に没頭するか、勉強するか、それだけだった。
勉強机に国語の宿題プリントを広げる。私は国語が苦手だった。漢字を記憶するのは得意なのだけれども、文章問題は手をつけるのが億劫である。登場人物の心情を四百文字以内で書け、などといわれても「そんなもん知らん」としか言えない。私は数分プリントとにらめっこし、ペン回しをしていた手を止めて椅子にもたれかかった。
全開にした窓の方へ目を向ける。私の部屋から漏れる明かりに誘われて、大小無数の蛾が網戸に留まっていた。父に見せたら、餌が大量にあると大喜びして捕まえるかもしれない。私の父は爬虫類好きの変わり者で、ペットたちにあげる餌は近所の森で調達していた。父の部屋は、ペットたちが干からびたり凍死しないように気温をエアコンで調節している。私の部屋と違って父の部屋は、年中春みたいに暖かかった。
網戸に留まっている蛾を眺めていると、端の方からノソノソと灰色の細長い生物が現れた。全身細かな鱗で覆われ、鳥類に似た四本の手足があり、尻から細長い尾を伸ばしている。丸みのある三角の頭部には鉛筆で縦に線を引いたような眼が二つ。全長十センチほどの「ニホンヤモリ」だった。
ヤモリは四足歩行で網の上を進んだ。暗殺者がターゲットに近づくかのように、ゆっくりゆっくり、一匹の蛾に狙いを定めて進む。狙われた蛾は、豆粒みたいに小さかった。ヤモリから近い場所に小指の先っぽくらいの大きさの蛾がいるのに、そっちは狙わない。あまりお腹が空いておらず、おやつを食べる感覚で小さい蛾を狙っているのだろうか。あるいは、大きい蛾よりも小さい蛾の方が力が弱いから捕まえやすいのかもしれない。ヤモリも蛾も、私が傍で眺めていることを気にしていなかった。
小さな蛾とヤモリの距離が五センチほどになった。瞬間、ヤモリは目にもとまらぬ速さで蛾に急接近し、口に銜えてどこかへ運び去ってしまった。他の蛾たちはヤモリの急襲に驚き、次々と飛び上がって闇の中に消えた。
私は勉強机の方に顔を向けた。理由はわからないが、気分がよかった。プリントの空欄をあっという間に埋め、椅子から立ち上がった。部屋の電気を消して布団に入り目を閉じると、すぐ眠ることができた。
朝。いつも通り学校に行く。二学年のクラスは平和だった。クラスメイト同士で小さな喧嘩が起こることはあるけれども、ニュースになるような大ごとは起こったことがない。いつも通りの授業が終わると、部活が始まる。私はテニス部に所属しており、部の仲間たちと雑談を交えながらトレーニングを行った。最後はコートを掃除して、同学年の友達と一緒に帰路につく。
他の人はどうかわからないけれど、私は、それなりに充実した学校生活を送れていると思う。だが、不満が何も無いわけではない。私は学校にいる間、一人になることを避けていた。理由は、三学年の野球部の先輩が、陰で私の腹を殴るからだ。
野球部の先輩全員が悪い人ではない。特定の三人がいつも固まって、弱そうな生徒に暴力を振るっているのだ。私は、先輩三人からは弱そうな奴に見えるらしく、一人で校内をうろついていると捕まって校舎の裏や体育館の裏へと連れて行かれ、腹を殴られた。私は二学年で一番背が低く、力も弱かった。私が陰で先輩三人から暴力を受けていることを知っている友達から「やり返せ」といわれるけれども、そんなことができる力は無いし、度胸も無い。だから私にできることは、「絶対に一人で行動しないこと」だけだった。
先輩三人が陰で行っている暴力は、多分、先生たちも知っている。だが、先生たちも先輩三人が怖いのか、見て見ぬふりをしている。友達も私に対して励ましの言葉や慰めの言葉をかけてくれるけれども、現場に助けに来たことは一度も無い。私は先輩三人の存在が嫌だった。後一年でいなくなるので、それまでの辛抱だ、と我慢するしかなかった。
ある日の帰り道。運が悪いことに、私は先輩三人と出会ってしまった。今日まで出会うことがなかった道に先輩三人がいるのは不思議だった。
もしかしたら、私が校内で誰かと一緒に動いているので狙い辛くて、溜まった暴力衝動を吐き出すためにわざわざ追跡していたのかもしれない。多分、その考えは当たっていて、私は腹だけでなく、顔や足、肩などを殴られ、蹴り飛ばされた。今まで受けた中で一番酷いリンチだった。最後に、先輩三人は私から制服を無理矢理脱がして足で踏みつけ汚し、放り捨てて、「遊んで汚したって言え」と吐き去って行った。残された私は、裸に近い格好で汚れた制服を抱きしめ、蹲って泣いた。人を殺したい、という黒い衝動が目覚めたのは、恐らく、この時が初めてだった。
家に帰った私は、母親に「遊んで汚した」と嘘をつき、制服を洗濯してもらった。両親に先輩三人から受けている暴力の話を聞かせるのは嫌だった。心配をかけたくなかったし、先生ですら無視する問題を解決できる者は誰もいないと諦めていた。
夜。私は部屋で、洗いたての制服をハンガーにかけ、全開にした窓の前に干した。朝までに完全に乾いてほしいと願う。
ふと、網戸に大小無数の蛾が集まっているのが目に入った。それらを遠くから眺め、餌の目利きをしているヤモリの姿もあった。
私は網戸を見つめていた。ヤモリは大きな餌には目もくれず、小さな餌を狙って進む。大きな蛾は、自分がターゲットではないと安心しているのか、小さな蛾に獰猛な捕食者の存在を知らせず、網戸に留まって優雅に翅を動かしている。
突然、私の中で怒りが爆発した。一瞬だった。頭の中が真っ白になり、気がついたら、私は網戸を殴って大きな穴をあけていた。拳が当たった衝撃で網戸が激しく揺れ、留まっていた蛾はみんな逃げ去り、ヤモリはポーンと闇の中にはじけ飛んだ。
私は大きく息を吐き、小物入れからテープを取り出し、自分であけた穴を塞いだ。
次の日の夜。テープで雑に修理された網戸には、大小無数の蛾が集まっていた。小さい蛾ばかりを狙う捕食者も、いつも通り、現れた。
〈了〉