第7話

文字数 3,013文字

「ゲホッ! コホン、ゴホ……」

 また朝から咳き込む声が聞こえる、雨の日だからとか繰り返すけれどそんな日は続いていた……どうか、これが悪い夢で済めばいいのに。そんなことを考えながら晴翔は頭まで布団をかぶって耳を塞いで何もわからないよう目を閉じる。

 ***

「晴翔さん、朝ですよ」
「……ああ」

 二度寝をして目覚めるがやはり今日も寝起きは良いものではない。都は今朝もいつものように優しく微笑んで、朝食の準備に忙しく動いている。もう咳き込んではいない、やはりあの朝の風景は夢だったのか。

「今日から学校ですね」
「ああ、これからは少し帰りが遅いかもしれない。実習が始まるから」
「忙しくなりますねえ、どうか無理されないように」

 無理をしているのはお前の方じゃないのか、そう言ってしまいたい晴翔だったが結局口には出来なかった。言いようのない不安が晴翔の心に広がっている。

「ゴホッ、ケホン……すみません……コホッ」
「……風邪か」
「そうかもしれません、ここ最近朝の空気が冷えていますから。晴翔さんも気をつけてくださいね」

 ***

「君、値札を作ってくれないか?」
「あの新入荷のアクセサリーですか」
「ああ、私はデザインセンスがなくてね」
「僕は教養がありません」
「生まれ持ったセンスは関係ない。絵がうまそうな顔してるじゃないか」
「絵なんて小学校以来描いてないんですよ」

 老緑雑貨店、マジックマーカーと画用紙を前に都は考え込んだ。店主に頼まれた突然の値札の話。そこで都はレジ業務をしながらアクセサリーがより引き立つような、そんな値札について考えるが……いくらたっても良いデザインなんて思い浮かばない。仕方がないので都は書籍コーナーにある世界のロゴ図鑑を持ってきてそれを参考に描いてみる。何事も極めるのには時間がかかるのだろう、なかなか納得行くものなんか簡単に出来るはずはなかった。

「ふうん、良いじゃないか」
「ええ、そうですか?」

 つたないものを褒められて嬉しくないわけじゃないが、どこか申し訳ない気分にもなる。自分の得意がわからない、そう都が店主に言うと彼はぼそりと呟いた。

「もったいない性格しているね」
「えっ、どう言う意味です?」
「言葉通りだよ、自分の良さもわからないとは」
「良さなんて……ッゴホッ、ゲホン!」

 都の咳に店主は敏感だった。すぐさまその頬に手を添えて、ひと言『熱い』と言った。

「いつもより頬に紅がさしているから元気なのかと思ったら、君は自分の不調も言えないのか」
「単なる風邪ですよ」
「病院にはいったのか?」
「い、行ってないですけど。でも」
「でもも何もない、もう良いよ。あと十五分ほど残っているが今日はもうあがりなさい」
「え、そんな……」
「良いから、帰ってさっさと横になるんだね」

 ***

 結局、そのまま都は店主の言葉に従って帰宅して布団に包まっているが、眠気が来ない。都はぼんやりと窓の外の夕焼けを見て寝返りを打って天井を向く。

「増えてきたなあ……」

 天井の染みの話だ、以前より増えてきたのは季節の移ろいのせいだろうか。時は静かに過ぎて行く。晴翔は何時くらいに帰って来るのだろう、そろそろ起きて家事でもするか。そう思って起きあがった瞬間に、呼び鈴が鳴る。まだ晴翔は帰って来るはずでは……いぶかしげながら静かにドアを開けたその瞬間だった。

「あ……」
「都か? 久しぶりだな」
「そ、蒼司さま……」

 晴翔の兄、櫻葉蒼司がそこに立っている。前触れすらないその突然の登場に、都はただ言葉が出なかった。

 ***

 蒼司に関しては良い思い出はない。都の幼い頃には彼はもう随分と成長していて、顔を合わせればからかいながら冷たい視線を向ける。使用人の子供が、そんなふうに侮辱しては言葉では敵わない幼い子供を容赦なく責め立てる。さっさとどこかに消えてしまえ、そう強い調子で言われた時は晴翔が反発して彼に反論していたが……。

「お茶をどうぞ……」
「ああ、これはどうも。晴翔は遅いのか?」
「ええ、学校がお忙しいみたいで。今日は遅くなるかもしれません」
「へえ、まあ今日俺はあいつに会いに来たわけじゃないが」
「えっ?」

 予想外の言葉に思わず都は蒼司を見る。その強く厳しい眼差しは過去の彼と変わらない。次はなんてひどい言葉を言われるのだろう、そんな恐怖感が蘇る。

「女郎花の実家に帰ってきたらたまたま面白い手紙を見つけたんでね、ほら」
「ぼ、僕宛てですか……?」
「ふふ、今でも元気そうで何よりだが」

 それは見覚えのある文字、差出人は失踪した都の母だった。
 蒼司に断り都は封を開ける。美しい文字が綴ったのは現在の近況と再び共に暮らさないかと言う誘いだった。現在、彼女も深東京都市にいると言う。

「先生からなんだって?」
「別に、大したことはありません……」
「どうせ会いたいとか言っているのだろう? お前を非情にも捨てて逃げたのになあ。あの時の男はどうしているって?」

 共に逃げて同棲していた男性とは先日別れたと書いてあった。だから都を思い出したのだろう。しかし今更思い出されても、都を捨てたのは変わりのない事実だったと言うのに。

「行くのか、彼女のところに」
「……行きません、もう縁のない人です。僕とはもう一切関係もありませんから」
「晴翔が知ったらどうするだろうなあ、そうは言っても彼女はお前の母でありあいつの先生でもある。情がないわけじゃあないだろう?」
「会いません」
「おや、随分強気になったものだね」
「用件はこれだけですか? 晴翔さんも帰って来ます、どうかお帰りください」
「都、俺を追い出すと言うのか」
「お帰りください……!」

 ***

 日もすっかり暮れた頃、一日中実習をしていた晴翔がようやく帰って来た。しかし、家中が真っ暗で気配すらない

「都、おい……都、いないのか!」
「晴翔さん……」

 明かりをつければ部屋の隅で膝を抱えた都がいる。赤い目をして塞ぎ込んでいるような。床には手紙が散らばっている。

「誰からの手紙だ……あ」
「蒼司さまが持って来てくれました」
「何、兄さんがこの家にやって来たのか?」
「申し訳ありませんが、すぐに帰っていただきました」

 晴翔は差出人の名前を見て絶句した。都だって晴翔心の中に母に対する感情が何もないわけではないのを知っている。家庭教師でもあり、ある意味幼い頃にこの世を去った母の代わりでもあったような、二人はそんな関係でもあったから。

「都、手紙の中を見ても構わないか?」
「いえ、それはもう捨ててください。晴翔さんが僕の母のことが嫌いではないのはわかっています。でも僕にとってはもう過去の人ですから、もう思い出したくもない」
「都……」

 晴翔はそっと散らばった便箋を集め、内容は見ないで封筒にしまう。捨ててしまうのにははばかれたが、彼女の存在が都の心の傷になっているのはわかっていた。彼女の行動が都の身に起きた不幸の要因でもあったから。

「い……っ……」
「都?」

 都が床に座り込みうずくまっている、その胸元を押さえて息をとめていて慌てた晴翔は震える背中に手を添えて都をそっと抱き寄せた。

「晴翔さん……胸が、痛くて……息できな……っ」
「大丈夫か、落ち着いて息を吐いてごらん」
「う、っ……う……」
「大丈夫だ、都、慌てないでゆっくり」
「ふ、はあ……は……」

 不穏だった、何もかもが。都も晴翔もその心に暗い感情を抱えながら、夜の闇は去る様子もなくただじっとりと過ぎて行く。
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