第32話 泥臭く自分らしく
文字数 5,061文字
――――家庭科室前にやってきた。
九条君が銃を構えて周りを警戒するなか、銃口を上にしたライフルを杖のようにして、私はなんとか廊下を歩いてきた。
…………アイツもどこかで治療しているのかもしれない。
ちなみに歩くたびに、太ももに刺すような痛みを感じる。
特別教室棟1階にある家庭科室……
教室の中は少しだけカレーのようないい匂いがしていた。
高校生にもなって授業で作るのがカレーなのか、と思った。
でも、4月になって間もないこの時期は、クラス替えが行われた直後。
クラスの雰囲気づくりにカレーを作るというのは、いい案なのかもしれない。
…………教室の中にカレーの匂いは残っている。
でも私が眠った5限目に、家庭科室での授業はなかったようだ。
室内に銃は
4限目まで調理実習があって、昼休みに出来上がったものを食べたということなのかもしれない。
鍋や食器はもうすでに片付けてある。
廊下側とは反対となる、窓ガラスの向こうは南グラウンドとなっている。
遥か向こうには野球のバックネットがあり、グラウンドには所々、黒い染みが見える。
…………黒い染みに見えるのは、たぶん銃だろう。
チラッとホワイトボード上の丸い時計を見てみた。
…………15時44分。
私がこちらの世界に来てから、2時間と少々過ぎたらしい。
九条君に視線を移すと、歩いて教室全体を見回しているみたいだった。
私はその隙に、ホワイトボード脇の、隣の部屋につながるドアをのぞいた。
…………家庭科準備室だ。
教室の3分の1ぐらいのスペースに、業務用冷蔵庫などが置いてあった。
窓際のシンクには水が張ってあり、その中にぞうきんが浮いている。
シンクから少し離れたところに、家庭科の先生が替わったものと思われるサブマシンガンが落ちていた。
先生は授業後に残って、片づけをしていたのか……
「…………なにかあったか?」
教室を見回していた九条君が、準備室の方へやってきたようだ。
「なにも。 シンクにぞうきんが浮かんでるだけ……」
好奇心が
「次の教室に行こう」
「罠を仕掛けるのは家庭科室じゃないの?」
「家庭科室だけど、道具が足りない。この隣の教室で道具を
「誰かさんが、きつく縛ったせいで
「血が通っていない感じがするなら、少し緩めるけど?」
私は首を振った。今そんなことをしている時間はないだろう。
…………田久井も簡単な治療を終えて動き出しているはず。
「隣の教室って化学室?」
「うん。俺がさきに廊下に出るから、急いで移動しよう」
目的の化学室は廊下に出て、左に進んだところにある。
入学してまだ日が浅いので記憶が
俺は思い切って、引き戸を目一杯開いた。戸が大きく音を立てる。
銃撃に備えて、すぐに引き戸から離れた。
10秒ぐらい待ったろうか……発砲音はしなかった。
誰もいないと信じて廊下に出る。
右側に見える東側連絡通路の方に、F2000タクティカルというアサルトライフルを向けた。
特別教室棟と
その中庭の下辺(廊下)から、右辺(東側連絡通路)を見ている感じ。
動くものに反応するように、
廊下に出た俺の後ろを、河西が左に向かい進み始めた。
それを追うように、俺も後ろ向きで移動する。
廊下に響く河西の足音に、杖を突くような音が混じっている。
ライフルを杖として使っているようだ。
確か河西の使っているベレッタSCP70/90というライフル。
そのストック……射撃時に肩をつける部分の後端には、布テープのようなものが巻かれていた。
滑りにくくなったストックの後端を床につけて歩いているのだろう。
傷ついた足を早く前に出すための、河西なりのアイデアなのだと思った。
化学室に到着する直前に、河西に先行して引き戸を開けた。
教室に入った河西を音で確認してから、自分も化学室に入る。
それから引き戸を閉めた。
化学室には、銃は落ちていなかった。授業はなかったらしい。
河西を伴って行動しているので、予想以上に時間を食ってしまっている。
ぼんやりしている暇はない。
教室に入った勢いそのままに、目的の物を探すべく俺は教卓のほうへ向かう。
化学室の教卓は先生自身が実験の手本を見せるため、普通の教室にある教卓より横に長くなっている。
教卓の
まずはその長い教卓の引き出しを
2つ目の引き出しで目当てのものが見つかった。
マッチだ。それをポケットに入れる。
次に教卓の反対側、教室後ろの戸棚に向かう。
ガラス棚になっていて、中に入っている物が見えている。
お目当ての物もガラス越しにあった。
…………が、棚には鍵がかかっているようで開かない。
当たり前か。
ライフルを近くの机に置いて、腰のハンドガンを抜く。そしてグリップの底でガラスを割った。
――――アルコールランプ。
その中でアルコールが多くないものを選ぶ。
アルコールが少ないほうが、ランプの中で
それをこぼさないように、ブレザーのポケットに入れる。
ポケットに入れるのは少し無理があったが、銃を両手で使うため仕方がない。
再びライフルを持って、ガラス棚の右端にある化学準備室へのドアに向かう。
ドアノブを握って回すと、簡単にそれは回った。
うちの学校の不用心さに少し呆れたが、中に入る。
部屋の奥に、薬品庫と思われる金属の棚があった。
当然、容易に開けられないように南京錠がついている。
だがその南京錠をよくみると、フックにぶら下っているだけで鍵は開いていた。
…………どういうことだ。
化学準備室を見渡してみる。
ここに誰かいたのなら、銃が落ちているはず……
だが、準備室に銃はない。
化学準備室のドアも開いていたし、薬品庫も開いている。
不用心のレベルを超えてるんだけど…………
――――――ひょっとして開けたのは田久井か?
通常閉まっているはずの薬品庫が開いているということは――――
何かを取り出すために開けた、と考えるのが普通だろう。
薬品庫を開けて中を見てみる。
茶色のビンがいくつも置いてあるだけで、何を取り出したのかまではわからない。
――――時間がない。
答えが出ないことを考えていても仕方がない。
……急ごう。
俺がこれから作る、家庭科室の仕掛けのことを考える。
何か役に立つものはないか……と見ていると、ある薬品が目に入った。
それを見て、家庭科準備室にあったものと頭の中で結びついた。
…………使えるかもしれない。
机の上に置いてあった、先生が薬品を持ち運ぶ時に使うのだろうと思われる木箱。
それに茶色の薬品ビンを2つ入れる。
ポケットの中にあったアルコールランプも木箱に入れて、アサルトライフルは木箱の上に載せた。
そして化学準備室から出る。
「なに、その木箱……」
河西が足をひきずりながら、寄ってくる。
重い木箱を机の上に置いて、化学室の丸い時計をチラ見した。
…………3時57分。
たしか家庭科室で時計を見たとき45分ごろだったはずだ。
ここまで15分ほど時間をかけたことになる。
ちょっと時間をかけ過ぎだ。
「は? 塩酸? こんなもの何に使うの?」
木箱の中の薬品ビン、そのラベルを見た河西が声を上げる。
だが何に使うのかについて答えていいのか、俺は迷った。
『何に使うのか』については、頭の中の仕掛けがうまく働けばという前提の上に成り立っている。
うまく働かないとなると、この薬品ビンは重いだけの無用の長物だ。
俺は答えに
教室の後ろ、さっきアルコールランプを取り出したガラス棚へ、俺はもう一度向かう。
アルコールランプがあった棚とは別の棚のガラスをハンドガンで壊す。
今度はビーカーを取り出した。
ビーカーを木箱まで持っていくと、質問に答えなかった俺に不満げな河西がいた。
「河西、悪いけど、廊下の外を見張ってくれないか? 少し時間をかけ過ぎたかもしれない」
家庭科室に持っていくビーカーは15個ほど。
…………まだ足りない。
もう一度ガラス棚に向かう。
俺に言われて、河西は廊下の方に向かっていった。
河西との仲が少し、ぎくしゃくした感じになってしまったような気がする。
だが、今は時間がない。
――――急ごう。
九条君に言われて、化学室の引き戸をわずかに開け、廊下の様子をうかがう。
私の目の前にある、特別教室棟の教室前廊下には誰もいない。
そしてこの廊下の両端から、垂直に伸びる東側連絡通路と西側連絡通路。
その廊下も、見える限りでは廊下には動くものはないようだ。
しかし相手に廊下で低く屈まれると、窓ガラスからは見えないことになる。
連絡通路に誰もいないというのは、敵が低く屈んでいないという前提で……ということになる。
がちゃがちゃ、という音が後ろから聞こえたので振り返る。
木箱を持ってその上に、F2000タクティカルとかいうアサルトライフルを載せた九条君がこちらに向かってきた。
…………木箱は少し重そうだ。
「河西はここで田久井が近づかないように、廊下を見張っていてくれないか。罠が作動してからだと、
九条君は家庭科室にいるのは危険になるというが、具体的に何をするのか話そうとはしなかった。
…………信頼されていないのだろうか。
それとも怪我をした私は、もうすでに戦闘という
撃たれた左太ももの痛みは鋭いものから、鈍いものに変わりつつあった。
…………ここまで怪我をした私が移動するのが遅かったため、かなりの時間を食っている。
これ以上、九条君に迷惑をかけるわけにはいかなかった。
私は静かに
家庭科室に行かずに、ここで待つことにした。
九条君が廊下に出る前に、まず私が廊下に出て、引き戸のさきでライフルを構える。
目の前にある窓ガラスの向こうは中庭だ。
中庭の先には、横長で、高さ3階の中棟がぬりかべのように建っている。
まるで巨大なハチの巣が目の前にあるかのように、中棟から無数の窓ガラスがこちらに向いていた。
この状況ではどこから撃たれてもおかしくない。
どこから銃口を向けられているのか……
その恐怖からか、複数の敵の視線に
九条君がビーカーの音を立てながら、私の後ろを通って家庭科室に向かっていく。
木箱を両手で持っているはずなので、ライフルなんか構えられないだろう。
私は動くものに素早く反応できるように、動体を広角で捉えるように意識した。
そして、九条君が持つ木箱の音が遠ざかっていくのを耳で追った。
「……もういいぞ」
胸ポケットの通話状態のスマホから声が聞こえた。
九条君は家庭科室に到着したようだ。
私はできる限り機敏に、化学室に入って引き戸を閉めた。
そして長い息を吐く。
足を撃たれた私にできることは、見張りぐらいかもしれない。
でもこの化学室の位置は見張りをするには不都合と思う。
廊下の真ん中にある化学室。
その廊下の両端から垂直に伸びる、東側連絡通路と西側連絡通路。
目の前の中棟にある、たくさんの窓ガラス。
ここで見張りをしようとすると、ミーアキャット並みにキョロキョロしなくてはならないことになる。
少し考えて、教室の前方、教卓に近い引き戸まで移動する。
そこで左足を
それから
そのままの格好で、引き戸を抜けて教室前の廊下を左に進む。
制服を着た女子高生が
しかもスカートなのでパンツ丸見えだ。
…………でも、そんなことどうでもいい。
アサルトライフルを両手に持ち、痛む足を使わないように前へ進む。
足を怪我したからと言って、男子に守られるなんて私じゃない。
今考えると……九条君は本心では、見張りをしてほしいわけではなかったのではないか、と思えてきた。
手の届くところに私を置いておき、ただ安心したかっただけ。
これまでいくつかのヤバい戦闘を越えて来たけど、匍匐前進まですることはなかった。
そう考えると、自然に顔がニヤつくのを感じた。
目指すは廊下の一番左端にある音楽室。
ゆっくりだけど、確実に前に進んだ。