十五~十七

文字数 18,708文字

 十五
 13時41分
 大阪府・関西空港
 到着ゲートは混乱していた。羽田と成田の到着予定便があちこちの地方空港に振り分けられ、関空もキャパシティーぎりぎりのところまで空で迷える鋼の塊を受けいれてやらねばならなくなった。エコノミーだったこともあり、荷物が出てくるまでだいぶ待たされた。その間に西条は真知子に電話を入れることにした。すでに通話制限が始まっているはずなので、迷わず公衆電話を使った。
 真知子は幸運にもきょうは代休を取って広尾のマンションにいた。買い物に出る直前、ニュースで異変を知ったという。あざみ野の一件ののち、首都圏を見舞った新たな事態については、彼女のほうがよく知っていた。それを聞くにつけ、西条は臓腑が締めあげられるような感じがした。
 虐殺だった。
 霧雨を浴びて怪物に変身した者たちが無差別殺人をはじめたのだ。
 「きのうのあざみ野の件と関連している。信じられないと思うが、とにかく絶対に外に出ちゃだめだぞ」
 「頼まれたって出ないわ。ありえないことが起きてるんだから」真知子は涙声になってテレビが映しだしたものや、じっさいにマンション前の道路にもわきだしている化け物について話してきかせた。おなじ状況は公衆電話わきに据えつけられた大型テレビから流れるNHKのニュースでも伝えられていた。しかし東京周辺の惨状はすべて数十分前の録画映像で、リポートもない。しゃべっているのもすべて大阪放送局のアナウンサーだった。首都圏では電波や回線の障害が起きていて、在京各局ともニュースを送れずにいるのだろう。このままだと事態の推移がまったくわからなくなってしまう。
 「ネットでだいたいの情報はつかんでいたが、それほどだとは……」妻の話に西条は絶句した。
 「テッちゃん、いまどこなの」
 「関空に着いたところだ。羽田に着陸できなかったんだ」
 「帰って来てるの? 日本に。やっぱりテロなのね。それを調べに来たんでしょう」
 「まあ、そんなようなものさ。これから東京に向かう」
 「向かうって、だめよ、そんなこと。戦場みたいになってるんだから」
 「窓から見えるのか」
 「すこしだけね。だんだん霧が濃くなってるわ。ほんとはテッちゃんにいますぐ来てほしいんだけど」
 「ごめん。かたがついたらすぐに帰るから。それまでじっとしていてくれ」それだけ伝えると西条は電話を切った。しかしかたをつけるどころか、いまの状況でさえ把握できていない。これから先、なにをしたらいいのか見当もつかなかった。もしかするとこれが最後の会話になるのでないか。ふいにそんな思いがわき起こり、胸に疼痛が走った。
 到着ゲートを出るなり、がっしりした体躯の日焼けした男に声をかけられた。ノーネクタイだったがダークスーツに身を包んでいたからわからなかった。十年前、灼熱のイラクに配属されたときは、おたがい戦闘服姿しか記憶にない。
 「まさか着替えてくるとはな」
 「制服だとかえってまわりの人を動揺させるかと思いまして」
 兼村慎介は目じりに笑いじわを浮かべた。二期下だが、西条とちがって組織に従順なところがまだ残っているため、西条とおなじ二佐にまで昇進している。いまは大阪の陸自八尾駐屯地で第三飛行隊長をしていた。その後輩に西条は今後のプランについて機内からメールを出しておいたのだ。
 「おひさしぶりです。西条さんもお変わりありませんね。ペンタゴンに出向されているとは聞いていました。ご活躍のごようすで」
 「活躍してたらこんなことにはならなかったかもしれないな」出張用の小ぶりのボストンバッグを手に西条は自虐的に言った。「状況はどうなんだろう」
 駐車場に向かうコンコースに兼村は手を広げ、先導した。「官房長官会見がありまして、関東、中部、東北の一都十一県に外出禁止令が出ました。一円は飛行禁止区域に設定されています。公共交通機関も全面的にストップしています。それでも域外に脱出しようという車が後を絶たず、高速や幹線道で大渋滞が発生しています」
 「被害は」
 「東京との通信状況が悪くてはっきりしたことはわかりませんが“変身者”は百万単位にのぼると見られます」
 百万単位か。予想はしていたが、バットで後頭部を殴られた気分だった。
 「例の霧に動きは」
 「拡散をつづけています。薄れる気配はありません」
 淡々と状況をつたえる後輩のようすがかえって西条に絶望感を募らせた。とにかく真知子だけは無事であってくれ。決して口には出せないが心のなかではずっと思っていた。不幸中の幸いは二人に子どもがいないことだった。それだけに家族持ちのことを考えるとつらくなる。
 「やつらの攻撃性はどうなんだ」
 「やたらとでかくて腕力が強い。建物や車のなかに逃げこんだ人を捕まえては首を咬み切っています。しかしすでに自衛隊の攻撃がはじまっています」
 「排除できそうなのか」
 「銃で体を撃ち抜けばだいじょうぶです。そのへんは人間と変わらないようです」
 「元は人間だからな」
 「そこですよね」兼村は苦しげに答えた。「なんの罪もない人間なんですよね」
 兼村のスカイラインは立体駐車場のエレベーターを出てすぐのところにとめてあった。中年オヤジが乗るには恐ろしく若作りなタイプだったが、やつの車好きは以前から知っていたので、西条は余計なことは口にせずに助手席に乗りこんだ。ハンドルを握るなり兼村は、高速道路はもちろん一般道もとんでもないスピードで飛ばしつづけた。情に熱いだけに幕末の志士のように無鉄砲なところがある。しかし悪夢さながらのいまの状況では、やけを起こす者がいてもおかしくない。
 「わたしはてっきりロシアか中国によるテロかと思ったんですが」がまんできずに兼村が訊ねてきた。機内からのメールでは、今回の事態が細菌化学兵器の使用によるものではないことをはっきり伝えてあった。
 「むしろそのほうが理解しやすいとは思うけどな。でも人間をあそこまで変えてしまうウィルスなんて米軍だって開発してないよ」そう言って西条は、スカイプ経由で元NASAの研究者である男から聞いた話をすべて打ち明けた。
 「そんなことが起きてるなんて……」兼村はハンドルをぎゅっと握りしめたまま言葉を失った。エアコンがきいていたが、後輩の額には汗の滴がびっしりと浮いていた。
 「人類全体が試されているんだ。この手のことはこれまでもあったのかもしれない。それでもわれわれは乗り越えてきたんだ。ことによると、今回はそのなかでも最大の危機かもしれないが、なんとか乗り越えないと。ペンタゴンもCIAもきのうのあざみ野の件では、日本政府に情報を開示せずに秘密裏に動いていた。しかしいまはちがうはずだ」
 「海兵隊の投入準備があると聞いています」
 西条は小さくうなずいた。「問題はあの雲だな。あれがすべての元凶なんだ。あそこにふくまれている水蒸気に毒性がある。それをなんとか始末できればいいんだが」
 「人工的に風を起こして吹き飛ばすというのはどうなんでしょうか」
 「あの雲も半分は自然現象、つまり地球上で起きる物理現象であることからすれば、それも可能だとは思うがな」西条はシートに背中を押しつけた。肩をすぼめた。そのまま自分がどんどん小さくなり、ミクロの存在になってしまいには消えてしまうような錯覚にとらわれた。そのほうがむしろありがたかったかもしれない。なんの責任を負うこともなく、逃げだしてしまいたかった。
 グプタに聞いた話が本当なら、すべての事態にはクリスがかかわっている。正確にいえば、クリスのなかに宿るもの――グプタはそれを“高次元の意識体”と呼んでいた――がコントロールしていることになる。だからなによりもクリスに迫ることが必要で、西条自身、そうすべきなのはわかっていた。しかしたとえ表向きは休暇でも、ペンタゴンと日本政府との仲介役をつとめるのが本来の任務だし、じっさいクリスと話ができるのはグプタただ一人だった。
 だからこそ問題は深刻だった。ノースカロライナの収容施設からクリスが消え、グプタとも連絡が取れなくなっているというのだ。ペンタゴンばかりでない。CIAもだ。ボーグマンによると、グプタが施設からクリスを連れだして姿をくらました恐れがあるという。日本で起きている事態をまのあたりにした米国政府が研究開始八年目にしてついに最終決断――貴重なサンプルの処分――を下す。グプタはそれを危惧したのかもしれない。
 しかし西条は機内で一縷の望みを得ていた。テレビ東邦の朝の番組で天気予報を担当する松木という気象予報士のブログだ。あざみ野で起きた事件について、三列並びのエコノミーシートの真ん中に押しこまれて情報収集しているときに偶然見つけたものだ。信じがたいことに、そこにクリスと思われる白人の若者に関する目撃情報が記されていたのだ。いくら逃走したといってもパスポートもないクリスが国外に出国できるわけがない。だったらどうしてあざみ野で目撃されるというのだろう。高次元の意識体のことを考えれば、そういうイリュージョンめいたことも可能なのかもしれない。しかしブログには、若者を目撃したという女性の特殊能力について言及があった。女性は、あざみ野に降ったきのうの雨を浴びて事件を引き起こした数々の容疑者のうちの一人の内面を読み取ったというのだ。もし彼女がサイキック――ペンタゴンはそれについていまなおひそかに国費を投じて研究をつづけている――なのだとしたら、彼女を介してクリスに接触することはできまいか。現時点で西条が思い描く一策がそれだった。
 ブログを読むかぎり、彼女は汐留に松木を訊ねてきたらしい。着陸前にメールを送ったところ、返信があり、二人はいまテレビ東邦の報道局にいるという。なんとかそこまでたどり着ければもっとくわしいことがわかるにちがいない。
 関空を出てから一時間もしないで八尾駐屯地に到着した。ゲートを越え、スカイラインはそのままヘリの駐機場に向かった。
 「飛行計画は出してあります。米軍幹部を明野まで試乗させることにしました」明野とは、三重県伊勢市の明野駐屯地のことだ。ペンタゴン出向中であることからすれば、西条が米軍幹部であることもまちがいない。ただ、この有事にそれが許されるかどうかだが、それを判断する権限を持つのは、兼村本人だった。
 「明野なら楽しい空中散歩程度だがな」異常事態が発生中の現場から五百キロ以上離れた八尾も緊迫感に包まれていた。隊員たちは忙しく走りまわり、ヘリコプター全機が格納庫を出て、緊急フライトに向けた準備が始まっていた。「そこから先はプランを逸脱するし、危険をともなう。兼村、これ以上おまえに迷惑をかけるわけにいかない。あとはおれにまかせてくれ」
 兼村は明るい笑い声をあげた。「水くさいこと言わないでくださいよ。いまの難局を乗り切りたい気持ちはわたしもおなじですから。それに西条さん、最近、操縦していないでしょう。ブラックホークはヒューイとはちょっとちがいますから、わたしにまかせてください」
 ブラックホークは、次世代ヘリとして従来のUH‐1ヒューイに代わって陸自でも導入が進められている。巡航速度も航続距離もヒューイとは雲泥の差だ。八尾にも新年度から一機配備されていた。
 「二時間で到着しますよ」兼村は格納庫の前に車をとめた。くさび形のシャープな機体の前で整備隊員たちが給油作業をつづけていた。「ちょっとした荷物があるんで手伝っていただけますか」
 兼村にうながされ、西条は車を降り、格納庫に足を運んだ。がらんとした格納庫は無人だった。端にある簡素な事務室に兼村は向かい、デスクの下から大小二つの黒いバッグを引っ張りだした。
 「重いほうを持たせるわけにいきませんからね」兼村は小さいほうを西条に手渡した。「靴のサイズは二十六ぐらいでよろしかったですか」
 そう言われ西条はバッグのジッパーを引き開けた。福島で使っている防護服だった。
 「離陸してから交代で着替えましょう。ここの隊員たちには見られたくないので。あの霧のなかに出動している全隊員が着ています。いまのところ霧との接触を防ぐ効果はあるようです。わたしだってあんな化け物になるのは勘弁ですからね。怒り狂った女房に殺されちまう」
 後輩のジョークに思わず西条はにやけた。たとえ死地に赴くにしても気持ちのゆとりを持つよう心掛けないと。
 「じゃあ、行きますか」重そうなバッグをかつぐ兼村に先導してもらい、西条は搭乗機に向かった。給油を終え、隊員たちが二人に敬礼をする。
 そのときスマホにメールが着信した。ボーグマンからだ。相変わらず簡潔な連絡だった。
 グプタの絞殺体を発見。クリスは行方不明。

 十六
 14時14分
 東京都渋谷区広尾
 夫からの電話を切るなり、西条真知子はリビングの締めきったカーテンの隙間からもう一度外をたしかめた。先ほどよりも霧が濃くなり、視界がきかなくなっている。それでも三階の窓からは、向かいのマンションとの間の路地を巨大な黒い影が行きかうのがうっすらと見えた。
 たまたま代休を取って家にいたからよかった。出勤していたらいまごろ惨事に巻きこまれていたはずだ。担当誌がきのう校了を終えたばかりで、リサーチと称してまた古本屋めぐりをしている時間帯なのだ。それでもきょうはきょうで危なかった。買い物に出かけようかと思ったところでネットニュースに気づいたからかろうじてたすかったが、のこのこ出かけていたらたいへんなことになっていた。すぐに外を見たら、たしかに霧が出はじめていた。真夏のこの時期、早朝ならともかくこんな時間に霧が出るのはきわめてめずらしかった。
 テレビをつけると、ホラー映画に出てくるモンスターが映しだされていた。それを目にしたとき、たしかにすこぶる気色悪かったのだが、じつのところまだ真知子も現実感がなかった。ところがそれとおなじものがマンションの下の通りを横切るのを見て、一気に恐怖が増した。二足歩行のカミキリの怪物だった。さほど霧が濃くなかったから全身をはっきりと目視することができた。鎧のような硬質な背中に黄色い斑点が散っていた。まるで入れ墨のようだった。サングラスをかけたような真っ黒い複眼は、やくざ映画の登場人物の顔を想像させたが、ニュースが伝える惨劇からすれば、ちんけなやくざ者なんかよりはるかに凶悪で獰猛なのはまちがいない。この世のものとは思えぬおどろおどろしさに満ちていた。そんな化け物が一匹だけではなく、何匹も路地を行き来していたし、道のまんなかで変身――昆虫なら変態と呼んだほうがいいのだろうか――を遂げている個体もあった。
 霧がもたらす小糠雨にあたらぬようにするだけなら、じっと籠城するだけですむ。だがニュースによれば、やつらは屋内に侵入してきて殺戮のかぎりをつくすという。じっさい眼下をうろつく連中は、体に比して小ぶりな頭部を曲げてまわりの家々をのぞきこんでは、電線並みに太くて長い二本の触角をゆっくりと上下させて、神の託宣にしたがわぬ不心得者たちを見つけだそうとしているかのようだった。
 やつらの攻撃性をまのあたりにしたのは、向かいのマンションのおなじ三階の部屋のようすが目に入ったときだった。網戸に張りつくばかりでなく、無数の突起物のあるカミキリムシの肢は、一見つるつるしているマンションの壁でも容易にへばりつくことができる。その点は化け物たちもおなじだった。向かいのマンション敷地に侵入した一匹がゆっくりとした肢運びで壁を登りだし、西条家の居室の真向かいにあたる三階の一室のベランダに侵入したのだ。
 窓にはカーテンがひかれていなかった。明かりは消してあったが、リビングらしき部屋には、真知子と同年代の女性がいるのが見えた。部屋の奥で電話をしているようだった。モンスターはためらうそぶりも見せずに窓を左右の前肢でたたき割った。悲鳴は真知子にも聞こえた。絶叫だった。しかしそれも数秒間で静かになった。のれんをくぐるように体をかがめて部屋を訪問した化け物は、抱きしめるように前肢と中肢で女性に覆いかぶさった。言葉を失ったままその光景に釘づけになっていた真知子のほうをやつが振り向いたとき、真っ黒い顎から血まみれの首がぶら下がっていた。すでに絶命していたはずだが、女性と目が合ったようで真知子はショックでその場に崩れ落ちた。
 真知子がカーテンを閉めたのはそのときだった。しばらくして夫から電話があった。いますぐ家に帰ってきてほしかったが、冷静に考えれば、霧雨を浴びずにもどってくるなんて無理だ。でもいったいあの霧は、どのくらい浴びると変身するのだろう。皮膚から吸収されるのか、それとも目や鼻の粘膜からだろうか。真知子は天井を見あげた。二十四時間換気の通気口が口を開けている。外の霧が漏れ入ってきそうで怖くなり、急いでスイッチを切った。エアコンや換気扇はどうだろう。とにかく外とつながっている管は閉じておいたほうがいい。真知子は台所のひきだしからガムテープと生ごみ用のビニール袋を取りだし、あちこちに広げて貼りつけだした。
 インターホンが鳴った。
 真知子は悲鳴をあげて飛びあがった。
 モニターにスキンヘッドの男が映っている。宅配業者にいそうながっしりした体格の若者だったが、背広姿のところをみるとそうではなさそうだ。NHKの営業マンだろうか。しかしこんなときに。あたりには霧が立ちこめていた。黒い影が近づいているのか、男はしきりに背後を振り返っている。真知子が応対できずにいると、もう一度インターホンが鳴る。切迫した表情で男はカメラに顔を近づけ、何ごとか口にしている。真知子は恐るおそる受話器をあげた。
 「おねがいです。開けてください! お金なら払います。殺される!」
 泣きながら必死に訴える声に真知子は返事ができなかった。
 「車のなかに隠れていて、すきを見て逃げてきたんです。早く! 早く! うしろにいる! なかに入れてください!」たしかに大きな影が画面の端、エントランスの外に揺らめいている。
 目の前にある開錠ボタンを押すだけで男を化け物の顎から救うことができそうだった。
 「開けてください!!」
 悲痛な叫び声が真知子にボタンを押させた。男は謝意も告げずにマンションのなかに転がりこむ。ドアが再び閉じる前に映像が途切れた。まさか怪物までなかに招いてしまったか。真知子は不安に駆られた。
 ふたたびインターホンが鳴る。
 モニターに浮かびあがったのは別人だった。エントランスではない。部屋の玄関だった。
 白髪に銀縁めがねをかけた丸顔の老人が映っていた。マンションは内廊下式だから密閉されている。そこを出歩くぶんには危険はない。居住者だろう。真知子は受話器を取った。
 「隣の堀川です」
 すぐにわかった。隣戸の住人だ。独り暮らしの老人で、たしか画家だとかいう話だった。ときどき息子さんらしき男の人が訪ねてきている。しかし付き合いはなかった。
 「だいじょうぶですか」
 真知子が一人でいることを知っているのだろうか。安否をたしかめにきてくれたようだ。「ちょっと待ってください」真知子はアームロックと錠を開けた。
 堀川は自分でドアを引き開け、玄関に首を入れてなかのようすをたしかめるように見まわした。「おひとりですか」
 「ええ、いまは」
 隣人は大きくため息をついた。「まったくとんでもないことになったものです。ロシアが細菌兵器を使ったなんて話もある。それにしても――」
 堀川はするりと玄関に入ってきた。真っ赤なアロハシャツに短パン姿でサンダルをつっかけている。小柄な枯れ木のような老人だった。しかしふだん隣にいるのに、どこか遠い国の人のようにも思えた。都会の隣人なんてそんなものだ。しょせんは他人なのだ。これまでほとんど接点がなかったし、建物内ですれちがって会釈しても目を合わせることなんて一度もなかった。騒音を出すとかベランダをのぞかれるとか、ネガティブな出来事でもあれば逆に気にするだろうが、そんなこともないからそこに暮らしていること自体、意識にのぼらぬ存在だった。
 「恐ろしいことです」真知子はようやく隣人らしく振る舞うことができた。「ご心配ありがとうございます。そちらはだいじょうぶですか」
 「ええ」堀川はにっこりと微笑んだ。そのとき真知子は気づいた。自分も短パン姿のままだった。色白の脚がむきだしになっている。「ところで」ふいに浮かびあがった羞恥心を無理やりまぎれさせるように堀川がきりだした。「さっきエントランスからインターホンを鳴らされませんでしたか。禿げ頭の男に」
 そうか。あの男は片っ端から部屋の番号を押していたのか。「はい、たすけを求められました」
 「なるほど」堀川は額に片手をあてた。爪の先が絵の具らしきもので色がついている。「それでどうされました」
 「外にいる怪物に襲われそうだったので、なかに入れてあげました」
 「やっぱり」堀川はもう一度大きくため息をついた。「あの男、うちのインターホンも鳴らしたんです。びっくりしましたよ。こんなときにどうしたんだろうって」
 「車に隠れていたと言ってましたけど」
 「どうですかね。どこの馬の骨かわからないじゃないですか。それに感染していたらどうするんです。車から出てきたときに外の霧にあたっているでしょう。みんな、あれにあたるとおかしくなるって話ですからね。おたくはわざわざ化け物をなかに入れてやったことになる。いまごろ下で変身しているんじゃないかな。上がってこないといいんだが」
 真知子は戸惑った。隣人はクレームを言いにきたらしい。「すみません。でも放っておくわけには……というかそこまで考えがおよばなくて――」
 つぎの瞬間、反射的に真知子の体が反応し、うしろに一メートルも飛びすさった。わけがわからなかった。だが目の前に堀川の骨ばった両手がのびていた。
 胸をさわられたのだ。
 無言のまま隣人は部屋にあがってきた。どろりとした眼つきに変わっている。真知子は腰を抜かしてトイレのドアに寄りかかった。そこにふたたびゾンビのように手がのびてきた。
 「やめて……!」ようやく声を絞りだしたときには、堀川の顔が目の前にあった。体に抱きつかれ、汚物のような口臭が鼻をなぶる。
 「いいだろう、すこしぐらい……もう、みんなおしまいなんだから」平板な口調でつぶやきながら上体に力をくわえ、のしかかってきた。「ずっとこうしたかったんだよ。奥さん、きれいだから。したかったんだよ……」
 真知子はフローリングの床に倒された。年寄りだったがそれでも堀川は男だ。腕力は真知子よりも強い。真知子は恐怖とおぞましさに悲鳴をあげながら必死に身をよじり、両手の爪で老人の顔を引っかいた。それが眼に入ったらしく、ほんの一瞬、老人がひるんだ。そのすきに四つん這いになってリビングへと逃げる。
 堀川はうしろから飛びかかってきた。「そんなにきらわないでくださいよ。どうせみんな死ぬんだ。だったら最後にいいことさせてくださいよ……あぁ、いいにおいがする」老人は真知子の尻に顔をうずめた。「女のにおいだ……ひさしぶりだ……すごくひさしぶりなんだ……」
 「やめて!」うしろに向けて真知子は闇雲にキックした。爪先は空を切ったが、そのいきおいで体を起こすことができた。目の前のカーテンを両手で必死につかんで立ちあがる。半開きになったカーテンの合間から差しこむ外の光のなか、隣人と対峙した。真知子は堀川から目をそらさぬよう注意しながら、武器になるものを探した。包丁なら台所にあるが、そこにいくは堀川の背後にまわりこまねばならない。やむなく真知子はダイニングテーブルのほうに飛びだし、十年ほど前に目黒のバリ島家具の店で購入したチーク材のいすをつかんだ。
 だがあまりに重すぎて持ちあげられず、その間にふたたび堀川に抱きすくめられてしまった。短パンのへその前の隙間から冷たい手のひらが入ってくる。それから逃れようと真知子はしゃがみこんだ。もうただひたすらに叫ぶことしかできなかった。それが外の化け物を呼び寄せることになるかもしれないなどと冷静に考える余裕はなかった。
 堀川は真知子に馬乗りになった。「一回でいい……やらせてくれ。おねがいだ。もう死ぬんだから……」バタバタと抵抗する両手を巧妙によけて、老人は柔道の寝技のように真知子の首筋に抱きついてきた。すでにTシャツがめくりあげられ、ブラジャーがねっとりとした手につかまれている。そこに向かって老人の唇が性急に下りていった。
 そのときだった。鶏の首を絞めたような短い悲鳴があがり、真知子は急に体が軽くなるのを感じた。
 堀川が消えていた。かわりにスキンヘッドの若い男があらわれた。男はためらうことなくわきに転がった変態老人の横っ腹に二発目のキックをお見舞いした。インターホンの男だった。鈍い音がリビングに響き、堀川は腹を押さえたまま悶絶している。
 「悲鳴が……聞こえたもので……」男は堀川の動きに注意しながらかすれ声で言う。「エントランスを開けてもらったから……お礼を申しあげたくて……」男は尻ポケットから財布をつかみだしていた。「それでここまであがって――」
 耳元で爆発が起き、男の声がさえぎられた。
 窓がぶち破られたのだ。ちょうどカーテンの隙間だった。真知子は唖然とした。巨大な甲虫の頭部が部屋のなかをのぞきこんでいた。節くれだった左右の前肢をガラスの割れ目に突っこみ、水のなかをもがくようにしてなかに入ろうとしている。それがなにをもとめているかあきらかだった。
 血と肉だ。
 真知子も若い男も反対側の壁にあとじさった。化け物はみるみる部屋のなかに入ってくる。それだけではない。外の霧もたなびきながらしのびこんでくる。
 最後は窓ガラスをめりめりと割り広げながら、ずるりと怪物は部屋に降りたった。後肢でフローリングの床をしっかりと踏みつけ、頭は天井にぶつかりそうだった。これほど近くで目にするのははじめてだった。なにより気色悪かったのは、三組の肢が集結する赤黒い腹の部分がぬらぬらと脂ぎって見えることだった。
 化け物は堀川に飛びかかった。ぐしゃりというスイカが割れるような音が響き、床に鮮血が飛び散った。そして化け物が頭をひと振りしたとき、テーブルの下に隣人の首がごろごろと転がった。
 若い男がとっさに食卓を楯のように持ちあげて突進していった。それで怪物を押しつぶそうというのだろうか。しかしあっという間に跳ね飛ばされ、逆に怒りを買うことになった。長い触角が鞭さながらに激しく前後に動き、男を窓際まで追い立てた。シロクマほどの体長のあるカミキリムシの化け物が男の前に立ちはだかり、二つの複眼のついた頭部をかしげてみせる。まるで獲物を値踏みするかのようだった。真知子にはどうすることもできなかった。それ以上に割れた窓から霧がゆらゆらと流れこんできているほうが恐ろしかった。若い男の頭上だった。それに触れたらあの男がどうなるか。そしてあの霧がこっちに漂ってきたら――。
 化け物はちょうど真知子に背を向ける位置にいた。足音を立てぬよう気をつけて真知子はリビングから後ずさった。玄関に出てほかの家のドアをたたくしかない。
 音をさせないよう注意して玄関までたどり着いた。しかしドアを開けて内廊下に顔を出した途端、急ブレーキがかかった。どこからともなく流れこんできた霧が足もとにたまりだしていたのだ。踵を返して真知子はリビングの手前のドアを引き開け、寝室に飛びこんだ。さいわいにもドアには錠がついていた。あの化け物なら頭突き一つで破られそうな心もとない錠だったが、かからないよりはましだ。
 七畳あまりの寝室に霧は入ってきていなかった。窓も割られていない。隣のリビングでフローリングをこする音が聞こえる。あの若い男がどうなったか考えるひまはなかった。逃げないと。そればかりが頭のなかでめぐっている。そうだ。クローゼットだ。真知子はウォークインクローゼットの扉を開け、明かりをつけた。そこに隠れようというのではない。天井にメンテナンス用のハッチがあるのだ。よじのぼってそこから天井裏に潜むことができたらなんとかなるかもしれない。
 ハッチを見あげた瞬間、絶望に襲われた。
 隙間から白い煙が漂いおりてくるのがはっきりと見えたのだ。真知子は後ずさりしながらクローゼットの扉を閉じた。
 あろうことか玄関と寝室を隔てるドアの下からも、うっすらとしたもやが侵入してきていた。もちろんレースのカーテンをひいた窓の向こうは、とっくの昔に完璧な乳白色の世界だ。
 逃げ場がなかった。
 とっさに真知子は衣装だんすの上から布団袋を引きずり下ろした。冬用の羽毛布団を二枚つかみだし、それらをいま使っているタオルケットの上に手早く広げる。それからボックスタイプのシーツをめくりあげ、汗取り用に敷いてあるパッドもめくって、その下にもぐりこんだ。
 四隅をしっかりと押さえ、霧が入ってこないようにする。三十秒もしないうちに耐えがたい蒸し暑さに包まれた。それでも体を覆う布団が霧を吸収してくれるはずだ。それに図体は大きいが、所詮やつらは昆虫だ。ベッドに隠れていることに気づかないかもしれない。
 バリバリと木の板が割れる音がした。
 真知子はベッドに腹這いになりながら身をすくめた。化け物が寝室のドアを破ったのだ。フローリングをこする音が耳元で聞こえる。身をかがめながら神経質に触角を動かし、部屋のなかを探る姿が目に浮かぶ。
 すこし離れたところでも物音がした。あの若い男も変貌を遂げたのだろうか。ゾンビのように人間を襲うモンスターに。
 ギィィ……。
 地獄の獣が歓喜するような生々しい雄叫びが頭上であがった。いまにも布団ごと鋭い顎の餌食になりそうだった。
 テッちゃん……。
 夫との思い出が脳裏にまざまざとよみがえった。出会いから恋人時代、結婚をへていまにいたるまでの、かけがえのない美しい記憶の数々に涙があふれだす。子どもはできなかったが、二人でいるだけで幸せだった。もし来世があるのなら、迷うことなくおなじ伴侶を選ぶだろう。真知子は大声で夫の名を呼びたかった。あの腕にもう一度抱きとめてもらうことが無理だと言うのなら、せめて声だけでも聞きたかった。
 でも心の片すみでにわかには信じがたい思いもわき起こっていた。堀川のように首を食いちぎられるのはごめんだった。だったら思いきって自分のほうからゾンビになってしまうのはどうなのだろう。暑苦しい布団をほんのちょっとめくって隙間を作るだけでいい。カミキリモンスターの肢なんかよりずっとやわらかで穏やかな触手が、音もなく自分の体を包みこんでくれる。そこでちょっとがまんすれば、わたしも襲われる側から襲う側に入れ替わって――。
 自分のほうから布団をめくる必要はなかった。じわじわと背中が重くなってきている。霧によって布団が濡れて重くなっているのだ。肌に直接触れている汗取りパッドが湿ってくるまであとどれくらいだろう。これからわが身に起きることを想像し、真知子はそれ以上考えるのをやめた。
 一時間か二時間か、それ以上か。
 耐えるしかなかった。

 十七
 14時31分
 東京都荒川区町屋
 ミヨちゃんは本当はミヨコって名前なんだ。
 なかにし・みよこ。
 でもミヨちゃんはミヨちゃんだ。お目めのぱっちりしたかわいい女の子。大好きだった。でももっとお話したいけど、恥ずかしくってなかなかうまく話せない。ほかの男の子たちはずうずうしく話しかけているっていうのに。
 だからこうして手をつなぎながら保育園の廊下を走り抜けているのが信じられなかった。なんだかおへその下がむずむずして走りにくくなるような感じもしたけど、いまは気にしていられない。怪人からミヨちゃんを守らないといけないんだから。
 きょうはこんな天気になるってパパは言ってたっけかな。夏の晴れ間が広がるって、けさの天気予報ではしゃべっていたはずだ。それをいつもおぼえて、保育園でみんなに話して聞かせる。それがぼくの朝一番の仕事だった。ところがお昼ごはんを食べおわったころからおかしくなってきた。パパの天気予報は最近たしかに外れることが多い。地球全体で異常気象が起きているからしょうがないって言い訳しているけど、なんだか適当にごまかしているみたいにも聞こえた。だいいちこんな煙みたいなものが街じゅうに立ちこめるなんてはじめてだ。そしたらテレビにパパが出てきたんだ。お昼過ぎに出てくるなんてはじめてじゃないかな。だから大声で「パパだ!」って言っちゃった。
 絶対に外に出ないでください――。
 テレビの前にきちんと正座して見たんだけど、なんだかいつものパパとちがう感じがした。先生たちもみんな見ていたけど、泣いてる先生もいた。どうしたんだろう。そう思ったとき、パパが怖い顔になって言った。
 外のキリはきわめて毒性が高いと思われます――。
 それでわかった。窓の向こうに広がるあの白い煙がキリだ。前にパパが話してくれたことがある。雲みたいな水蒸気の塊で、ちょうどお風呂の湯気みたいなもやもやしたものだって言っていた。でも毒があるってどういうことだろう。そう思っているうちに、先生たちがぼくたちを二階のいちばん大きな部屋の真ん中に集めて座らせた。「だいじょうぶですよ、みんな。こわくありませんからね」何度もおなじ言葉をくりかえすものだから、泣きだす子が出てきた。そりゃそうだよね。こわくないと言われるのがいちばんこわいんだから。たぶん。
 それにもうそのときにはテレビにあの昆虫怪人が映っていた。最初は新しい仮面ライダーシリーズかと思ったけど、ふつうの男の大人が変身していくところが、CGじゃなくてすっごく本当っぽかった。それでも怖くはなかった。だってテレビだもん。画面のなかにパパが出てくるときだって、すっごく遠くにいるんだもん。いくらあの昆虫怪人だってぼくたちの保育園に来られるわけがないもん。
 そうじゃなかった。
 それでぜんぶがおかしくなった。
 みんなが泣きだして、逃げだした。
 ぼくたちの目の前で大好きなケイコ先生が変身しちゃったんだ。
 昆虫怪人に。
 カミキリムシのモンスターに。
 隣にいたべつの先生の胸に咬みついて食べちゃった化け物に。
 みんな、いっぺんに逃げだした。といっても外には出られない。出たらぼくたちも怪人になっちゃうから。それで廊下に出て、階段のほうに走りだした。もうそのときにはミヨちゃんの手を握っていた。すっごく自然にできた。お遊戯するときは、恥ずかしくってぜんぜんできないのに。
 はじめは三階に上がろうとした。園長先生の部屋があるからだ。でも途中の踊り場で引き返した。天井に昆虫怪人がはりついていたんだ。もしかしたら園長先生かもしれない。あのガリガリした肢でスパイダーマンみたいにどこでも登れるようになったんだ。だけどぜんぜんイケてない。ミヨちゃんはわんわん泣いている。保育園のあちこちでみんなわんわん泣いている。でも男の子は泣いちゃいけないんだ。ぼくはそのまま一階に下りた。
 下駄箱の向こうの玄関は閉まっていた。窓の向こうはキリがもくもく出ているし、運動場に怪人が何人か入ってきているのが見えた。こっちに向かってきている。もちろん外に出るつもりなんてない。玄関のすぐわきに先生たちの部屋がある。そこに逃げこもうと思ったんだ。
 ドアを開けた途端、あわてて閉めた。たぶん窓が割られたんだ。煙がもくもくだったし、怪人が床に這いつくばってむしゃむしゃ食べているところだった。男の先生を。パパよりもずっと若いコンドウ先生を。体操が得意でオリンピックも目指していたっていう、ライダーみたいにカッコいい先生を。なんだか急に悲しくなってぼくも泣きだしそうになった。
 でも泣いてるわけにいかなかった。爆弾が爆発したみたいな大きな音がして、玄関が破られたからだ。
 「こわいよ、シンちゃん……」ミヨちゃんは震えている。
 「だいじょうぶだよ」ぜんぜんだいじょうぶじゃないのにぼくは言った。「ぼくがついてるから」
 だけどそのときには玄関のほうからも階段の上からも昆虫怪人たちが近づいてきていた。もしぼくがライダーだったらいろんな武器を使って戦えるんだけど、武器なんてどこにもない。それにぼくは子どもだし、最近人気の気象予報士の息子だってこと以外に取り柄はない。だいいち、この怪人たちは気色が悪い。おなかのあたりなんて、油を塗ったみたいにてらてらしていて、薄っぺらい膜みたいなものの内側でなにかジュルジュルしたものが流れているのがわかる。長い触覚はヘビみたいだ。きっとあれの先っぽにスズメバチのお尻の針みたいのがついているんだろうな。刺されたらおしまいだ。
 目の前に消火器があった。
 ぼくはそれに飛びついた。使い方は知っている。黄色いストッパーを抜いて、ホースを構えてグリップを握ればいい。今年の春、消防署の人が運動場でデモンストレーションしてくれたし、何人かがやらせてもらった。あのときはぼくまで順番が回ってこないで、すごく悔しい思いをしたけど、いまはぼくとミヨちゃんしかいないし、ミヨちゃんはなにかができるようすじゃない。
 イメージしたのは火炎放射器だった。怪人たちを一気に焼き払う。テレビでよくやってるじゃんか。まあ、消火器は火を放つんじゃなくて、消すほうだからどんなふうになるかはわからないけどね。
 思った以上に重たかった。二リットルのペットボトルぐらいある。あわてていたから床に転がしてしまった。うしろで泣いていたミヨちゃんがチッと舌打ちするのが聞こえたような気がした。カッコ悪いな。でも女ってやつはどうしてこんなときにも男にばっかり頼ろうとするんだろう。急に腹が立った。だけどそんなひまはない。その場にしゃがみ――子どもがしゃがむとどうしてこんなにカッコ悪い、うんちするみたいなポーズになっちゃうんだろう――まずは黄色いストッパーを引き抜いて、横倒しのままホースを外してとりあえず一番近くにいる怪人に向ける。二階から下りてきたやつだ。てことはケイコ先生なのかな。いつものいいにおいがしないかたしかめようかとも思ったけど、いまさらどうにもならない気がしたし、ミヨちゃんにへんに思われるのもいやだった。だから余計なことは考えずにグリップをぎゅっと握りしめた。
 ほんの一瞬、コントみたいな間があった。ホースが詰まってしまったかのように先っぽからなにも出てこなかったんだ。怪人のほうもふしぎそうに首をかしげた。
 「シンちゃん!」
 ミヨちゃんもしゃがんでぼくの手に飛びついてきた。驚いたけど、いっしょになってグリップを握りしめてくれた。どうやら子ども一人の力では噴射させられないらしい。不良品だ。けどミヨちゃんをこんなに近くに感じられるなんて。こんなときでもぼくの頭には関係ないことが浮かんでくる。
 それは一瞬の出来事だった。
 なんだか真っ白い下痢が一気にお尻から爆発したみたいだった。生クリームみたいな泡が噴きだして目の前の化け物のおなかのところを直撃した。そのままホースを近づいてきたもう一匹に向ける。いや、それはミヨちゃんの手がやってくれたのかもしれない。とにかく二匹のおなかに消火器の泡をバッチリお見舞いすることができた。火炎放射器なら焼いてしまうこともできただろうけど、火を消す薬だからたいした効果はないだろう。でも水鉄砲だっていきなり食らったら、みんなビックリする。そのすきに逃げればいいんだ。ぼくは立ちあがり、ミヨちゃんの手を引っ張った。
 「いくよ!」
 ミヨちゃんは動かなかった。じっと怪人たちに見入っていた。こわくて足が床にくっついちゃったみたいだったけど、そうじゃなかった。目の前にいた二匹が次々と床に仰向けになって倒れたんだ。
 「ゴキブリみたいね」ミヨちゃんは目を丸くしてつぶやいた。「ガラスクルーかけたときみたい」
 「いいから、こっち!」ぼくはミヨちゃんの腕を無理やり引っ張ってさらに階段を下りた。
 地下室だ。
 といっても小さな物置があるだけだった。時々かくれんぼをしたりして、先生にしかられる場所だ。でも子ども二人なら隠れられるかもしれない。
 階段の下はふだん電気をつけていないから薄暗かった。その奥に物置があった。カギがかかっていたらどうしよう。心配だったけど、ドアは開いていた。なかは真っ暗だ。でも懐中電灯があった。それをつけてドアを閉めた。
 しばらく二人でだまっていた。緊張して声が出なかったわけじゃない。さっきミヨちゃんが言ったことを考えていたんだ。窓ガラスを拭くときに使うスプレーならうちにもある。たしかにあれを虫にかけると退治することができた。空気を吸う気門がスプレーの液でふさがれて息ができなくなるんだ。あの怪人がもし本当に昆虫が大型化したものなら、たしかにおなかのあたりに気門があるし、それが消火器の泡でふさがれたというのもありかもしれない。
 「大成功だね」思わず口にすると、ミヨちゃんがいきなり顔を近づけてきた。なにか熱くてやわらかいものが唇に触れる。
 「ありがと、シンちゃん」
 返事なんかできるわけがない。おへその下はもう火事みたいになっていた。これがキスなのか。はじめてだった。でもミヨちゃんはすごく自然にすることができた。もしかしてほかのだれかにしたことがあるのかな。
 そんなことをいま考えているひまはなかった。それにはミヨちゃんのほうが先に気がついた。
 「シンちゃん、たいへん!」ミヨちゃんは足もとを指さし、一歩うしろに下がった。がしゃんと音がしてミヨちゃんはダンボール箱の上にひっくり返った。
 心配しているひまはなかった。たしかにたいへんだった。懐中電灯の黄色い明かりのなか、ゆらゆらとキリの白いもやがちょろちょろと出たり引っこんだりしていた。きっと破られた玄関から入ってきたんだ。
 「毒があるんでしょ」ミヨちゃんが泣きだした。
 「しぃっ! 声出したらあいつらにバレちゃうよ」
 「だって……」とりあえず泣くのをやめてくれた。
 安心させるためにこういうときこそ、ぼくのほうからキスしてあげないといけないんだけど、恥ずかしくってそんなことできっこない。かわりにミヨちゃんが倒れこんだダンボール箱をつかんでバリケードにしようとした。すごく重い。なにが入っているんだろう。ふたを開けて懐中電灯で照らしてみて、あっと思った。
 「除湿器だよ、ミヨちゃん」
 真夏のいまは朝から晩までエアコンを使うようになったけど、五月のちょっと蒸し暑い日なんかはこれが活躍してくれた。うちにもある。パパがいちいち細かく説明してくれたけど、ようするに空気のなかの水蒸気を吸い取る機械だ。
 「これで吸い取れるんじゃないかな」
 「コンセントあるのかしら」さすがミヨちゃんだ。あわててあっちこっちに懐中電灯を向けて探したら、壁に一つだけついていた。
 箱から取りだすのは重くて無理だった。しょうがないから二人してダンボールをびりびり破いて引きずりだした。あとで先生にしかられるのはまちがいなし。でもどの先生が残っているかな。考えるとなんだか悲しくなった。
 コンセントにコードをつないでスイッチを入れてみたら、たちまちゴオゴオいうすごい音がした。ミヨちゃんの泣き声どころじゃない。さっき声出しちゃダメって言っちゃったから、ちょっときまりが悪かったけど、いまはそんなこと気にしてる場合じゃない。懐中電灯をミヨちゃんに持ってもらい、ドアの下の隙間のところまで除湿器のキャスターを転がした。
 ちょうどいい感じだった。除湿器の吸いこみ口も下のほうについているからだ。どんどん、どんどんキリを吸いだした。もしキリのなかの水蒸気に毒が入っているのなら、それは内蔵タンクのなかにたまっていくはずだ。
 「だいじょうぶなの……?」ミヨちゃんが心配そうに見つめている。
 「湿気を取る機械なんだよ。パパが言ってた。キリっていうのは、雨の粒が細かくなって空気のなかに浮かんでいる状態なんだって。その細かい雨粒をぜんぶ吸っちゃうんだ」
 「そうなの……でもここから風が出てるよ」ミヨちゃんは機械のてっぺんに開いた網目窓をちょっとだけ指さし、またすぐに引っこめた。「これはだいじょうぶなのかしら。キリじゃないの?」
 ライダーならぱっとすぐに答えられたかな。でもぼくにはそれができなかった。「どうかな……すずしい風が出てるね。でもキリじゃないみたいだけど。白っぽくないし」
 「透明のキリかもよ」
 ぼくはだまりこんでしまった。ミヨちゃんは物置のいちばん奥まで下がってしゃがみこんだ。ぼくも隣に並ぶことにした。除湿器は一生懸命ゴオゴオとうなりつづけた。でも停電したらどうなるかな。余計なことをつい考えてしまった。
 ずっとだまっていることがつらくなったらしく、ミヨちゃんが小声で言った。「あたしのこと……」好きかって聞かれるのかと思ったらぜんぜんちがった。「食べちゃう?」
 どう答えていいかわからなかった。女って生きものはよくわからないんだよ。ぼくが赤ん坊のころに死んじゃったママのことを懐かしそうにパパが話してくれるとき、ときどきそんなふうに言うことがあった。いまのミヨちゃんはそんな感じかもしれない。
 キスの思い出なんかより、ずっとドキドキしはじめた。だから男って生きものはダメなんだ。それもパパが言っていたことだった。だけどしかたない。ぼくはパパの子なんだから。
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