オンライン座談会 会場 Part3
文字数 11,610文字
お伝えすればよかったのですが、作品のほうでは、基本情報の「セリフ投稿時の公開日表示」にて、日時を表示しないほうが良いかもしれません。どっちでも作品には影響ないのですが、いちおう見栄え的な問題で、もしお気にされるようでしたら。
そのままでも良いと思いますけどね。
>『もしリアルパンクロッカーが仏門に入ったら』
あざっす!
前に、「女子高生が宗教法人を設立して、それで世界を征服する」というプロットを作ったことがあって、割とポップな宗教思想設定にしていたんですね。
それがあって、ファッション仏教というセンスにちょっと感じるものがありました。その宗教世界征服モノも、ぼくらしいプロットなので、そのうちどこかでガチなノリで書いてみようと思ってます。
何なら架神さんのファッション仏教思想を採用して、リアルと連動した布教活動をやっても面白いかなぁなんて適当なことを考えました。でもキリスト教でもいいんですよ。
全然アウトじゃありません。
というか、答えるはずがないでしょう…。
> 「女子高生が宗教法人を設立して、それで世界を征服する」というプロットを作ったことがあって
これ、おれも数年前に某社から打診されましたね~。
ちょっと考えたんですけど、なかなか難しくて諦めた過去があります。
おれの方は、かなり計算で宗教法人を作って「教祖様」を演じるタイプの話だったんですが、その場合、個別的なケースにクローズアップしていくと、本気で悩みを抱えている可哀想な人たちを描くことにならざるをえず、それを「演じている」側がどう対処すれば、話に爽快感が出るのか分からなかったっていうのが大きいです。
でも、至道先生だったら、ガチで宗教法人を作る女子高生が主人公になると思うので、そのへんは解決できそうですね。
>至道先生だったら、
架神さんは一本気で根がひたすら真面目だから、その実直なやり方わかるような気がしますよ。
陰謀や姦計を駆使したりして、大真面目に宗教組織をつき詰めていくんじゃないでしょうか。
ぼくなど真正面から無理やり突破です。
教祖だって核くらいナチュラルに撃ちますからね。ジェノサイドの一つや二つ、いいんじゃないでしょうか。
せっかくの機会ですので、新人賞以外のキリスト教関係の質問なんかもよろしいでしょうか。
寺の坊主なんかは婚活パーティーしてたりしますが、教会のシスターさんと合コンする、いわゆるシスコンみたいなのはやったりしてるのでしょうか。
>>教会のシスターさんと合コンする、いわゆるシスコンみたいなのはやったりしてるのでしょうか。
こんばんわ。横からすみません。
シスターは一生独身が原則なのでそのような合コンとかはないようです。
残念ながらしないですね。ほとんどがご高齢ですし…。
ありがとうございます。
よくラノベや漫画でもありがちな混同としては「プロテスタントなのに神父やシスター」が出てきたり、「カトリックなのに牧師」が出てきたりという基本的な誤解もあったりするわけですが…
*参照「カトリックとプロテスタントを簡単に見分ける一覧表が便利すぎると話題に」
「この春、入学・進学して初めてキリスト教に出会った学生・生徒たちの率直すぎる反応がこちら2017」
某吸血鬼漫画でカトリックのお偉いさんがプロテスタントを罵り上げるシーンを読んで、「さすがにここまでいかんだろうけど仲悪いの?」と初めて感じる程度の認識です。
教会の中とか、興味はあるのですが入ったことすらありません。
寺とか神社とかは気軽に行ける分、キリスト教よりも認識が深いのかもしれませんね。
「映画の中で見分けるポイント」面白いですねえ。
おれなりに簡単に解説しますと、プロテスタントはカトリックの教会組織に対抗したため、これまでの慣習的なもの(組織や組織運営上のシステムなど)を排除しにかかったんですね。
つまり、
聖書+慣習
で成り立ってたカトリックから、慣習部分をかなりの部分取っ払っていった。
すると、こんな感じになる。
・司祭を[神父と呼ぶ][牧師と呼ぶ]→神父は教会組織の中に位置づけられる「地位」なので採用しない
・教会が[ゴージャス][シンプル]→免罪符は巨大教会の建築費用捻出のためのものだったので、その反動か?
・教会のなかに[像と絵がたくさんある][十字架とオルガンくらいしかない]→宗教改革時の聖像破壊運動の流れか。「聖像って偶像じゃねーの? ぶち壊そうぜ」ってノリ。
・教会のなかに[懺悔ボックスがある][ない]→懺悔は組織運営上の要請により生まれたシステムなので
・教会で[よく儀式をする][よく賛美歌を歌う]→儀式は組織構造の一部なので
・礼拝を[ミサと呼ぶ][礼拝と呼ぶ]→これは誤りでは? 聖体の秘跡が行われる典礼がミサ。プロテスタントだと聖餐式?
・司祭が[独身][妻あり]→聖職者独身制は組織運営上の要請により生まれたシステムなので
・マリア様を[とても敬う][あまり気にしない]→聖母崇敬は実質聖母崇拝みたいなものだし、明らかに民衆心理から生まれた慣習的行為。
・ケネディーを[尊敬している][あまり気にしない]→ケネディが(アメリカでは少数派の)カトリックだったから?
・聖書に[注釈がついている][ついていない]→カトリックが使用する聖書に注釈が付いてるって初めて知ったんだけど、そういえばフランシスコ会訳には付いてたなあ。いつの時代から付いていたのか分からないけど、注釈は慣習的解釈に依らざるを得ないからか?
・手で十字を[よく切る][切らない]→よく分からない。この行為自体が慣習だから?
・兄弟が[多い][少ない]→カトリックでは避妊が好ましからぬとされているためか
・家系が[苦しそう][余裕を感じる]→よく分からない。上記と関連して、子供が多い=家系が苦しい、か? 神父などは逆に独身で余裕があるイメージだが。
ヘルシングで「カトリックとプロテスタントって仲悪かったんだ!」と初めて認識した人は多いんじゃないですかねえ。
それだけ今や両派は仲良しだということですが(少なくとも日本では)。
ヘルシングのあれは宗教改革時あたりのイメージで両者の関係性を描いてると思います。
当時のカトリック的にはプロテスタントどもはバリバリの異端のクソで必ずぶち殺すべき存在であったと思われます。
いわゆる礼拝全体のことをカトリックでは聖体拝領(プロテスタントでいう聖餐式)を含めてミサと呼んでいます。
あと、カトリックでは礼拝堂を聖堂とかお御堂と呼びます。
プロテスタントに通っていました。礼拝はそのまま礼拝または聖会と呼び、聖餐式はその流れの一部という感覚ですね。賛美歌を歌いながら種無しのパンとぶどう酒を配って、牧師が読み上げる聖句と共にいただく簡素な儀式でした。
ちなみに礼拝堂は会堂と呼んでます。
皆さんのおうちにもエホバの証人の人が来たことあると思いますけど、来た時に色々話をすると、それから半月に一度くらいの頻度で来るようになって、毎回10分くらい話して帰っていきます。勧誘とかはあんまりされません。
人によっては迷惑に思う人もいると思うけど、一方で、「カトリックやプロテスタント各派もこのくらい営業努力してもいいんじゃないの?」と思ったりもするんですが、松谷さん的にはああいう宣教方針とかってどうなんでしょうか。
概ね穏やかで良い人が多かった気がしますが、たぶん、コンタクトした層が限定されているせいなので(例えば大学のキリスト教系サークルとかだと、一定以上の知的教養のあるクリスチャン層になる)、クリスチャンの全体は見れてないんだろうなあ、という気はしてます。
人生の中でクリスチャンだと明確に認識できる人と会ったのは2人だけです。
どちらも食事前にお祈りしていたのでわかった感じでした。
お祈り以外は全く普通で、しいて言うなら「男の娘可愛い……だが男だ」という葛藤を見たぐらいでしたが、それ自体も信仰とは関係ないのかもしれません。
実際に受賞した場合は監修が付くということで、面白ければ神父と牧師が混同していたり、十二使徒や登場人物の設定を勘違いしてたりしても良い、と見ていいんでしょうか?
私が投稿するなら最低限納得するまでは資料を漁りますが、今回の選考基準では正確性は特に問わないということですよね?
そんな細かい事よりも、革新的で話題性がありそうな、新しいジャンルとなりえるような物を求めているのかな、という印象は抱きました。
はい。
>今回の選考基準では正確性は特に問わないということですよね?
その通りです。
>そんな細かい事よりも、革新的で話題性がありそうな、新しいジャンルとなりえるような物を求めているのかな、という印象は抱きました。
その認識で間違いありません。
入信はしないけど、話は聞いてみてもいいかもしれない。
牧師、というと、おだやかで優しい人だけれど、お説教は厳しくて難しそう、というイメージがあります。
そういえば、前に障害福祉施設と仕事をしたとき、そこの施設長さんは優しいシスターさんでした。
我が家は浄土真宗で、祖父が僧名に改名したり、僕も滝行に連れて行ってもらったりもしましたが、教理を勉強したことはなく、仏間には神棚もありましたし、敷地内にはお稲荷様の社もありましたが、しかしクリスマスにはツリーを飾るという、日本に多いであろう宗教ミックス状態で育ちました。
教会に行く、教会が近くにあるという環境ではなかったので(知らなかっただけかもしれませんが)、何となく敷居が高いイメージです。
神社は神主に会わなくても参拝できて、でも教会は…? というところにも、ハードルを感じているのかもしれません。気軽に中を歩いて回っていい、ということなら寄ってみたいとも思うのですが。
>教会に行く、教会が近くにあるという環境ではなかったので(知らなかっただけかもしれませんが)、何となく敷居が高いイメージです。
ですよねぇ…。意識をして探すと意外にあるものなんですけどね。
「ポケモンGO」きっかけで初めてそこが教会だと認識できたって声も聞いたことがあります。
>気軽に中を歩いて回っていい、ということなら寄ってみたいとも思うのですが。
海外の教会だと24時間出入り自由で、礼拝中でも気軽に入れるんですけどね。
日本の場合、カトリックの大教会を除いて平日はほとんど開放していません。
キリスト教に関してはおぼろげな世界史知識程度しか持ち合わせていないもので、今回座談会の内容を見て目からウロコが落ちるようなことをいくつも知ることができました。キリスト教、面白いですね。
>皆さんのおうちにもエホバの証人の人が来たことあると思いますけど、来た時に色々話をすると、それから半月に一度くらいの頻度で来るようになって、毎回10分くらい話して帰っていきます。勧誘とかはあんまりされません。
私は小さいころに一人で留守番しているときに来た勧誘の方に「将来の事どう考えていますか?」「未来の事心配になることありませんか?」など細かく聞かれたり、見せられたパンフレットに描かれたイラストがおどろおどろしかったことで勧誘の方にはどうしても迷惑というよりむしろ警戒心・恐怖心に近いものを抱いてしまっていました。
しつこい勧誘をするような方ばかりではないのですね……。今度いらしたら少しお話ししてみようかなと思いました。
キリスト教についての純粋な興味なのですが、信者の皆さんはユダヤ教に対して今現在どのような考え・宗教観をお持ちなのでしょうか。よろしければお聞かせください。
そうなのですね! なんだかもったいない気もしますね。
神社の場合は田舎では特に地域になじんでいて、別に壁で囲われているでもなく、扉があるわけでもなく解放されていて、だから「よし、神道の宗教施設に行くぞ!」というような気負いはないように思います。入りにくくも、入ったら出られないという恐れもなく。散歩がてらに寄ってみたり、部活動の練習で石段を駆けのぼったり、肝試しをしてみたり(それが宗教的に良いのかどうかはともかく)……。
教会も、いつでも足を踏み入れていいような雰囲気であれば、ふらっと立ち寄って敷地内の花壇を眺めてみたり、聖堂から漏れてくる賛美歌に耳を傾けたり(すみませんイメージです)しているうちに、キリスト教の活動そのものにも興味が芽生えるかもしれません。
日本は過去のあれこれから、ちょっと過剰なほどの宗教アレルギーがあるような気がするので、今回の企画でもそうですけれど、まずは宗教であることを意識させ過ぎずないという方向性も必要なのかもしれませんね。楽しくて接していたら、もっと知りたくなったというような。
近隣の大きな神社では、月次祭のときに併設幼稚園の園児が参列しているので、似たようなことをしているのかも?と思ったことはあります。
近隣に教会は点々とありますが、外観は事務所や町内会の集会所のような小さい所がほとんどです。むしろ新興宗教の施設の方が立派で数が多いですね。
こんばんわ。
一番ややこしいのは英国国教会こと聖公会。カトリックとプロテスタントの橋渡し的教派であってか、教会によっては聖餐式を重視するカトリック的なハイチャーチと聖書を重視するプロテスタント的なローチャーチの2種類があって、前者では神父様か司祭様と呼び、後者では牧師先生か司祭様と呼ぶようです。マリア崇敬抜きのロザリオの祈り(俗にいうアングリカン・ロザリー)をする教会もあって、本当にややこしい感じです。ちなみにカトリックで神父になった後、好きな女性と結婚したいがために聖公会に移って牧師になる人もいたようです。
そう言えば、この慣用句、出典は新約聖書からで、よく説教者が用いる箇所だったりするんですよね。ユダヤ教の偉い人、パウロ(この時点ではサウロ)さん、ユダヤ教から分かれ始めたイエス・キリスト派をフルボッコにしてやると意気込んでたのに、神的超常現象にあって失明アンド回復して、急に回心しちゃったので。
説教者は大好きみたいです。みんな回心しないかなーって。急に理解して。
たちまち目からうろこのようなものが落ち、サウロは元どおり見えるようになった。そこで、身を起こして洗礼を受け、食事をして元気を取り戻した。サウロは数日の間、ダマスコの弟子たちと一緒にいて、すぐあちこちの会堂で、「この人こそ神の子である」と、イエスのことを宣べ伝えた。(使徒言行録 9章18節~20節)
行間だらけで、すべてを書いていない書物。なので、解釈次第で大炎上。歴史を動かし。時に、大量殺戮を容認する根拠にも。そして、この書物を心のよりどころとして生きる人も。どんな可能性があるのか、皆さんの作品をこっそり楽しみにしています。
今回の公募で、どのようなアイコンがあればいいと思いますか?
汎用性の高いものから作っていきたいと思います。
リクエストお寄せ下さい。
なお現在のラインナップはこちら。(キリスト教系のページをどうぞ)
教派の違いについてはぜひ弊紙連載中の「教派擬人化マンガ ピューリたん」をご参照ください。最近、アプリゲーも出たのでバックナンバーも読めますヨ!
日本の新聞がキリスト教派を擬人化!外国人、堪らず「ピューリたん」に萌えあがるwwwwww
キリスト教の教派を擬人化!? 日常系4コマ『ピューリたん』が話題
「営業努力」に関してはおっしゃる通り見習うべき点もあるかと思いますね。
やり方の問題はどうあれ。とにかく熱心なんで。
一方で、街中で「信じなければ救われない」「地獄に堕ちる」的な脅迫的宣伝をしている方々を見ると、さすがにあれはマイナスイメージを増幅させるからやめてほしいなとも思います。正直…。
一部の研究者は別にして、一般のキリスト教徒はユダヤ教に対しては何とも思っていない(関心もない)と思います。少なくとも日本では。
…というか、そもそも自分が属する教団・教派、教会以外にはあまり関心を持たないというのが大方の現状かと。残念ではありますが。
なので、当然「ラノベ?なにそれおいしいの?」「ぱねえ?ワロタ??」っていう世界です。
> 一方で、街中で「信じなければ救われない」「地獄に堕ちる」的な脅迫的宣伝をしている方々を見ると、さすがにあれはマイナスイメージを増幅させるからやめてほしいなとも思います。正直…。
あれ、聖書配布協力会という団体なんですね。
http://www.christiantoday.co.jp/articles/13487/20140612/kirisuto-kanban.htm
前におれもどこがやってるのか疑問になって街頭宣伝してる人に話しかけたんですが、「東北の方から……」「ボランティアで……」みたいなことをボツボツ言われただけで、全然要領を得なくて分からなかったんですが。
くそ、やっぱり調べてた人がいたのか……。(自分がやりかけた仕事を人にやられて悔しい感)
聖書配布協力会の情報すごく面白いっすね!
自分いま仕事で出先なんで長く書けませんが、なんか興奮しましたよ!
新しい小説の発想をもらえたような気がします。あざっす。
あの看板、ガラが良いとは言えない地区に入るほどよく見る傾向があるなと思ってたんで、人権系の政治団体の方々のご活動の一環かなあと思ってました。純粋な布教活動だったんですね、意外な盲点でした。
はじめましてです。
いきなりですが、質問させてください。
1.他サイトでの公開は許されるか
私は別の投稿サイトで主に活動しております。
こちら、トークメーカーで作品を投稿し、所定の手順で公開されたものが大賞の対象となるとのことでしたが、同じ作品を別サイトに投稿するのは可能でしょうか?
もちろん、掲載するだけで、別の大賞に同時に応募するなどは致しません。
2.二回目の開催はあり得るか
今回の募集が年末までということで、専業でもなければプロでもない私にとっては、かなりタイトです。
それまでに作品が間に合うかと言われたら、自信がありません。
最初の一万文字だけでも、ということではありますが、選ばれようと思ったらもっと書き進めたいものですし、そもそもプロットをちゃんと組む時間、キリスト教について改めて調査する時間も欲しいです。
ぜひ書きたいというテーマはある(キリスト教の顔面に右ストレートを入れたい!)のですが、個人的リソースがギリギリすぎて悩んでのご質問です。
以上、よろしければお答えください m(_ _)m
このあたりのルールは時代によって流動的ですね。各社さまも、線引き明確化して厳密にやるのは難しいと思っているはずです。
そのため公式的な答えとしてするなら、厳しめの線引きにしておくしかないです。
まだ商業化されていないコンテンツで、自分のサイトや、他サイトさんで掲載していたものを、それを明示して掲載してもらうのはありですが、応募結果が出るまでは賞への投稿のみを公式とさせてください。
二回目以降の開催については、もうお答えしているはずです。ぼくの勘違いでしたっけ??
回答ありがとうございます。
ということなので、記述はありますが……
「可能性はある」なのですよね。
つまり、この機を逃したらもうないかも、でもある。
間に合わなければおしまい、という状況で、できるかどうかわからないけど、やるならやるしかない、でなければ諦めよう、って感じですね。
わかりました。
主催する側にも当然コストと労力が掛かりますから。
第一回目が空振りに終わったのに次を企画できるかというと、それは難しい。
第一回目開いたこと自体、結構なバクチなわけですし。
逆に言うと、今回良いのが出揃ったならば、コストと成果が釣り合って、主催者側も「よし、次もやったるか!」となるわけです。
聖書の著作権について伺いたく存じます。
例えば仮に、聖書の抜粋を小説の巻末付録としてつける必要があった場合、
聖書の著作権はどのような扱いになりますでしょうか?
ネットで調べましたところ、以下の事柄を知りました。
・原典の著作権は切れている。
・翻訳の著作権は存在する。
ここから先のことが知りたいと思っています。
キリスト新聞社様がご出版されている聖書を用いる分には一切問題がない?
それとも、使用料金的なものが別途発生する?
使用できる分量に制限がある?
など、聖書の著作権に関して、
キリスト新聞社様ではどのように扱われていますでしょうか。
著作権については、発行元である日本聖書協会の以下の規定に従います。
◆無償提供 翻訳された聖書は本来多くの方がたに読まれることがその使命ですので,学術引用,宣教のための金銭授受のない使用は無償提供とします。その場合,著作者人格権を遵守して下さい。
◆有償提供 引用の範囲(およそ250節)を超えて転載された聖書の翻訳本文が金銭授受の商行為を伴う時は,いかなる場合でも有償提供となります。そのような事態が予想される場合は日本聖書協会聖書図書館までお問い合わせ下さい。著作権使用許諾書を申請して頂き著作権使用許諾書を発行します。有償金額は使用頻度,発行数に応じて定められています。印刷以外の他のメデイアについてもこれに準拠します。
ご参考まで。
聖書って古文書なんでしょうか?
ご返答いただきありがとうございます。
ちょっと補足します。
もし、トークメーカーの執筆段階で聖書の引用や改変などが必要な場合は、口語訳、文語訳などを用いれば、万一の問題も発生しません。これらは翻訳者の著作権が切れてますので。
この「著作者人格権を遵守」というのは、改変とかすんなよ、ということです。
作品作りの際に、このガイドライン通りに無償利用するのは難しいと判断してます。なので、口語訳とかで代用しておき、受賞した際には新共同訳の利用料を出版社側の費用として払ってもらうのが現実的かと思います。
しかし、前から思ってるんですけど、たとえばRSV(英訳)なんかを参照しながら自分で日本語に訳したものが新共同訳と似通ってた場合は、自分で訳したから自分の著作になるのか、新共同訳の改変という判断になるのか、微妙ですよねぇ……。
ありがとうございます。
著作権フリーの聖書があるのですね。
さっそくkindleで口語訳を購入いたしました。
補足ありがとうございます。今、実際に日本の教会で使われている聖書は主に「口語訳」「新共同訳」「新改訳」の3つです。ご指摘のとおり、完全に著作権フリーで使えるのは(著作権の切れた)「口語訳」です。
国内で最も普及していて汎用性が高いのは、カトリックでも使われている「新共同訳」です。
「新改訳」は主に福音派と呼ばれるグループが採用しています。
現在、「新共同訳」も「新改訳」もそれぞれに新しい翻訳による聖書を製作中なので、この辺りも近々より複雑になりそうです。
架神さんの『仁義なきキリスト教史』などはまさに、この延長上にあると思われます。
今回の聖書ラノベ新人賞も、究極的には聖書という大昔の読み物をより現代に通じる言葉で翻訳するという試みだと考えています。
もちろん、「ラノベにする」という行程は聖書そのものを直訳するだけでなく、そこに込められたメッセージ、モチーフ、キャラクターなどを新しく解釈し直すという作業に当たるのではないでしょうか。