大関の妻

文字数 5,614文字

 これも初めて知ったことだけど、力士というのは全員が全員相撲部屋に住むわけではないらしい。ある程度番付の階級が上がると結婚が出来るようになり、相撲部屋から出て自分の家で生活できるようになるらしい。この年になっても知らないことがいっぱいだ。
 私としては、そもそも階級が上がらないと結婚できないという決まりの方が衝撃的だったけど。これ、結婚した後に階級が下がってしまったらどうなるんだろうか。そうなったら引退なのだろうか。
 まぁどうでもいいか。
 大関鶴の山が京都で暮らしていた家は山科区の郊外にあった。力士は金持ちというイメージがあったけど、その家は豪邸ではなく普通の田舎の一軒家といった感じだ。二階建てで取り立てて大きくはない。壁面は最近塗り替えたばかりなのか真新しい一方で軒先の瓦やそれを支える柱は年季が入っていてちぐはぐな印象を受ける。
 庭に止まっているのはフォルクスワーゲンだ。明るい黄色の外装は小さな傷も全くなく、手入れが行き届いているのか新車なのか、どちらにせよ所有者の所得を思わせる。これも田舎の民家にはいささか違和感があった。
 そもそも取組みが多く行われる東京ではなく、なぜ京都に自宅があるのだろうか。この辺の事情は気になるけど、事件とあまり関係はなさそうだから聞く機会もないかもしれない。
 川島が車を家のそばに止める。私たちは車から降りると、玄関のインターフォンを鳴らした。すぐに中から足音が聞こえてきて、引き戸が喧しく開かれる。
 中から出てきたのは中年の女性だった。疲れた顔をしているもののしっかりと化粧をしており、香水の甘い匂いが鼻についた。いかにも高級そうな生地を使った服に宝石の輝くアクセサリー。だけどファッションとしては調和しておらず服に着られているという印象を受ける。
「京都府警の神園と、川島です。鶴岡綾子さんですね? 鶴岡良治さんの奥さんの」
「はい……」
 私が尋ねると、口から意気消沈と聞こえてくるような沈んだ声で鶴岡綾子が答えた。彼女が目を伏せると、べったりと引かれたアイラインのせいで派手に見えていた目元に疲れが浮かぶ。化粧による仮面は効果をなさず、下に隠れている素朴な目元が露わになっているように見える。田舎育ちの女性が、華美な化粧品や装飾で自分を上書きしたようだ。
 経験上、こういう女性はおおむね二つのパターンに分かれる。急な金が入って自分に定着しない贅沢を楽しんでいるか、必要に迫られて装っているか。鶴の山が大関になったのは四年前。そのタイミングで彼女の環境にも大きな転換があったのかもしれない。玄関から覗くことのできる家の内装もシンプルで、全体的にくすんでいる。少なくとも贅沢暮らしを楽しむタイプではないのだろう。
「旦那さんの件でお聞きしたいことがあります。お疲れでしょうが……上がっても?」
「はい。こちらです」
 私の要求に鶴岡は嫌な顔一つせず、唯々諾々と従って私たちを家へと上げてくれる。私と川島はダイニングまで通され、そこに置かれた椅子を勧められた。
 鶴岡家の内部は全体的に年季が入っていて、家そのものの築年数は玄関先で見た柱の方と一致しているのだろう。壁はやはり後から塗りなおしたらしい。窓枠や壁紙もところどころ補修された跡があり、家の中は昔と今が混在するごった煮状態になっていた。
「お茶、お持ちしますね」
「あぁお構いなく……」
「じゃあせっかくなので、お願いしますね」
 遠慮して鶴岡の申し出を断ろうとする川島を遮って私は頼んだ。彼女はちょっと不審そうな顔をするけど、すぐに踵を返してキッチンへ向かう。私だって別に喉は乾いていないけれど、聴取の前に家の中をあれこれ眺めて、彼女や被害者の人となりを推し量る時間が欲しかったのだ。現場でのバタバタや相撲協会の横やりのせいで情報が全然入ってきていない。
 それに、鶴岡もすぐに聴取するよりは心を落ち着ける時間を取った方がいいだろう。落ち着いて見えるけど、自分の夫が死んだという衝撃は大きいはず。手を動かせば多少は気がまぎれるかもしれない。
 私は手帳を眺めて質問事項を整理する川島を尻目に、室内をぐるりと見渡す。リビングとダイニングがひと続きになった内装。家具は少ない。二人掛けのソファはベージュの革張りだけどところどころ革が剥げてしまっている。元々あった場所から移動させた痕跡か、床にへこみがある。大型テレビもあるけど型は一昔前のものだ。
「なんか、大関の家っぽくはないですね」
「そうね……普通の民家っぽい」
 川島の独り言に私は頷いて、探索を続ける。唯一「大関の家っぽい」ものがあるとすれば、飾り棚に立てかけられた手形くらいだろう。名前は書いていないけど、ここに飾られているということは鶴の山のもののはずだ。
「お待たせしました」
 鶴岡はすぐに戻ってきた。手に持ったトレーにティーカップと小さなケーキを乗せている。カップからたつ湯気は少ない。時間から考えても、予め用意してあったのだろう。
 さっきまで彼女は、相撲協会の聴取とやらを受けていたはずだ。何か余計な知恵を吹き込まれていないといいけど。
「ありがとうございます。おいしそうですね」
 川島は鶴岡からカップとケーキの乗った皿を受け取って、暢気に言うと早速フォークを手にぱくつき始める。さっきの遠慮はどこに行ったのか。それでも彼の毒気のない態度に緊張がいくらかほぐれたのか、鶴岡の表情が柔らかくなったように見える。
 私もカップを受け取ると白いテーブルクロスの上へ乗せる。この香りはアールグレイかな? 私も川島にならって紅茶へ口をつけると、濃い香りと酸味の中にわずかな塩気が広がった。
「これは、珍しい味の紅茶ですね」
「岩塩が入っているんです。ミネラルが体にいいそうで……夫のために料理には気を使っていましたから……」
「あぁ、なるほど……」
 私は暗くなった空気を誤魔化すためにもう一度紅茶をあおる。しょっぱいけど飲みにくくはない味だ。
「では……早速お尋ねしたいことがいくつか」
 私は声を低くするように努め、同時に川島を一瞥して「私が鞭で、お前が飴な」の合図を送る。この二人で事情聴取をしていて私が飴だったことはない、というか、それに限らず私が飴だったことがいままであったか怪しいけれど、一応の確認だ。
「最後に鶴の山関……いや、良治さんを見たのはいつですか?」
「えっと……今朝です。巡業会場の体育館で新聞の取材があり、一緒に向かいました。確か家を六時ごろ出て、六時半過ぎには会場についていました」
 毅然とした私の声に気圧されたのか、鶴岡の顔に緊張が戻ってくる。それでも彼女の言葉は滑らかで、引っ掛かりが少ない。時間もやけにきりがよく、思い出そうとしている様子が見られない。
 まるで練習したみたいだ。同じことを思ったのか、川島も紅茶をすすりながら視線を私に向けてくる。
 だったらひとまず彼女に乗っかって、頭の中のストーリーを引き出してやろう。
「新聞の取材というのは?」
「はい、宇治新聞というところの取材を。鶴の山……夫は京都の出身なので、巡業の意気込みなどを聞いて、土俵も入れて写真を撮りました」
「へぇ、最近やけにローカルのニュースで鶴の山の話題を聞くと思ったら、そういうことだったんですね」
 川島の合いの手に彼女は薄っすら誇らしげな顔をして頷く。地元の英雄鶴の山というわけだ。とりあえず被害者が巡業が始まるだいぶ前に会場にいた理由は分かった。
「取材にはあなたも同行したんですか? 一緒に会場に?」
「はい、妻の私にも聞きたいことがあるとかで。写真も一緒に撮りました。記者の名刺はここに」
 聞いてもいないのに、鶴岡は机のわきに置かれた財布から名刺を抜き出して私に見せてくる。名刺には宇治新聞のロゴと「荒牧正秋」という名前が入っている。川島が手帳へペンを走らせる。
「取材に来た記者はこの一人ですか?」
「はい。この人一人でした」
「取材はいつまで続きましたか?」
「だいたい四十分くらいだったと思います。七時すぎには終わりました」
「取材のあと、あなたと鶴の山はどこへ?」
「夫は、あっ、ええっと……」
 鶴岡の口から言葉が出かかってから、彼女は慌てて考え込むような言葉を挿入してきた。あまりにもすらすらと答えすぎたと思っているのだろう。彼女は思い出すような唸り声と空白を挟んでから、再び口を開く。
「確か……夫は用事があるから私に先に帰るように言いました。巡業前の稽古には付け人と行くからと。なので私は行きに乗ってきた車で先に帰りました」
「良治さんの用事の内容は聞かなかったんですか?」
「はい、ただ用事があると。仕事の話はあまり……それで家に帰ってしばらくすると、巡業の主催の方から連絡があって、夫が亡くなったと……」
 そこまで言うと鶴岡は安堵したように肩を落とす。一通り話し終わって安心したらしい。私はフォークを手に取ってケーキのイチゴに突き刺し、川島に目線を向けバトンタッチする。彼は最後に残っていたイチゴを口へ放ると背筋を伸ばして鶴岡へ向き直る。
「では僕からもいくつか……あなたは取材が終わったあと、まっすぐ家へ帰りましたか?」
「はい、寄り道は特にせず」
「家へ着いたのは何時ごろですか?」
「えっと、七時半……いや、四十五分くらいだと思います。道は混んでいませんでしたから、行きにかかった時間と変わりないはずです。それから一時間くらい後に電話がかかってきました」
 鶴岡の言葉に迷いが混ざる。相撲協会もそこまではリハーサルしてくれなかったか。私はすかさず二人の会話に口を挟む。
「家には一人でいましたか? そのことを証明できる人は?」
「一人でしたけど……ちょっと待ってください、私を疑うんですか?」
「いえいえ、形式上ですよ。聞かなきゃいけないルールになってまして。奥さんを疑うわけないじゃないですけど、一応」
 語気を強める彼女を川島が即座に宥めにかかる。彼の言葉はいささか言いすぎな気もしたけれど、それで鶴岡は安心したらしく胸に手を当てて彼の方を見つめた。川島もにっこりと笑って言葉を続ける。
「それで、もし鶴の山関を殺害するような恨みのある人物に心当たりが教えてほしいんですけど」
「それは……私にはよく……」
 鶴岡は露骨に言いよどむ。何かを隠しているのは明白だった。それはそうだろう。平凡な会社員ならいざ知らず、競争の世界に身を置いた人間が誰からも恨まれないなんてことはありえない。
 問題は、彼女が何を隠しているかだ。
「相撲協会に口止めされてますか?」
「えっと、それは……」
「もし喋れば不利益を被るなどと言われているのであれば、脅迫罪でしょっ引くこともできますが」
「脅迫罪?」
 私が大げさな罪名を突き出すと鶴岡は口をパクパクさせ、目を左右へ激しく動かした。厄介ごとに巻き込まれたくないから黙っていたのに、かえって話が大きくなってしまいそうだということに動揺しているのだろう。彼女が事なかれ主義なら、これで早々に落ちるはず。
「大丈夫ですよ。情報源の秘匿は捜査の基本ですから。それに早く言った方が気が楽になりますよ」
 川島が彼女の背中を押すようにゆっくりと言った。飴担当の刑事の言うことだ。鶴岡はその言葉で決心したのか、短く息を吐くと背筋を伸ばす。
「実は、刑事さん……夫は殺される数日前、付け人の一人から何かを相談されていたみたいなんです」
「さっきもちらっと出てきたと思うんですけど、付け人というのは?」
「力士について手伝いのような仕事をする人です。荷物を持ったり……」
 聞きなれない言葉に首を傾げる私たちに、鶴岡が説明してくれる。巡業会場での取材を終えた鶴の山と、一緒に稽古に出向く予定だったのも付け人だったはずだ。
「その、付け人というのは具体的に誰のことですか?」
「たぶん朝錦という力士だと思います。夫がちらりと言っていたような気がします」
「相談内容はわかりますか?」
「さぁ……夫はそういうことを私にめったに話さないので」
「そうですか」
「こんなことなら、もっと話を聞いておけばよかったかしら……」
 鶴岡の声が震え、テーブルの上に置かれた指が落ち着きなく伸びたり縮んだりを繰り返した。被害者遺族の後悔は何度聞いても慣れることがない。気づくと私もカップへ視線を落としていた。
 既に皿の上のケーキもカップの紅茶も無くなっていた。それに気が付いた鶴岡は立ち上がるが、その拍子に机についた手で自分のカップを弾き飛ばしてしまう。彼女のカップに半分ほど残っていた紅茶が白いテーブルクロスに流れ出て、広くシミを作った。
「あぁ、ごめんなさいっ」
「いえ、大丈夫ですよ。私が拭くものを持ってきますから」
 慌ててこぼれた紅茶を何とかしようと手でシミへ触れる鶴岡を私は制して座らせる。幸い紅茶の海は机の上に収まり、床へ垂れるようなことはなかった。私は立ち上がるとキッチンにまで歩いていき、色とりどりの中身はなんだかよくわからない、スパイスの小瓶らしきものが並ぶカウンターのそばに畳まれたふきんを手に取る。
 机まで戻ると、川島が持参していたポケットティッシュを使って紅茶を片付けているところだった。鶴岡は茫然としているのか無感動な顔をして椅子に腰かけている。
「はい川島。これ使っていいですよね?」
「えぇ……ありがとうございます……」
 鶴岡は蚊の鳴くような声で言うと、手で顔を覆った。
「最後にお聞きしたのですが」
 私は元の席に戻らずに、鶴岡へ尋ねる。
「その朝錦の件以外で、鶴の山が恨まれる心当たりはありませんか?」
 鶴岡は首を横へ振るだけだった。
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