ルー=ガルーという現実

文字数 4,984文字

『ルー=ガルー忌避すべき狼』

 私は、この本を喰べたい。

 まぁ、落ち着いてくれ。そんなに戻るボタンを連打するでない。
 私はお薬なぞやっちゃ無いし、幻覚に脳をクラッキングされる程、飢餓状態に陥っている訳でも(ギリ)無い。因みに以前、給料日前恒例の空腹時にリ◯トンのティーバッグを破り、中身を食した事があるが、これは一向にお薦め出来ない。腹が全く満たされないのに対し、メンタルゲージの減り幅がSEKIRO(どんだけレベルを上げても、敵からの小突き一発でHPが半分くらいギュイーンって削られる鬼畜ゲームね)並みだ。少しの空腹にすら勝てぬ、貪汚なる私への制裁的な無慈悲なお味であった。

 と、話が脱線してしまったが、

 今日紹介したいのは、まさに日常に『飢え』を覚える人に食す程の勢いで読んで頂きたい

 京極夏彦 著『ルー=ガルー忌避すべき狼』だ。

 ──あなたは、獣の匂いを知っているだろうか?

 舞台は、日々の生活がネットのみで完結し、直接会う事(リアルコンタクト)に抵抗感を覚える程の近未来。
 一四歳の少女 葉月はコミュニケーション研修(登校日)の為、モニタ越しではなく、生身のクラスメイト達と顔を合わせる。学校も、仕事も、買い物も、全てが端末で済まされる世の中。現実(リアル)がまるで虚構に思える程、葉月もまたネットと日々を過ごしていた。よって、クラスメイト達と同じ空間を共有しても、彼らがモニタで見た人物と同一(、、)なのか、葉月には実感が湧かない。モニタというフィルターを通さなければ、相手を上手く認識出来ないのだ。つまり、葉月の中で居ても居なくても正直「分からない」相手となってしまう。
 だが、歩未だけには他の子達には無い、気高きものを感じられた。
 ベリーショートがよく似合う、凛とした少女 歩未。葉月は何故か、彼女に狼の姿を重ねてしまう。葉月達の世界では、既に狼は絶滅している。更に、動物達は自然保護区内に生息し、居住区内ではまず姿を見ない。動物愛護的概念からペット飼育という習慣も消え去っており、動物とモニタ以外で接する機会の無い葉月。そんな彼女ですら、歩未からは(けもの)の気配を感じ取ったのだった。
 かく言う私も、愚鈍な人間の所為か、動物園などに足を運ばない所為か、獣を身近に感じる事が少ない。猫と同居はしている。しかしながら、日々獣と暮らしているという印象が薄い(これは偏に、ペットという認識を持ってしまった私の傲岸不遜だと指摘されてしまうと閉口するばかりだが)。だが、そんな私でも、肉を食べる際獣を感じる事がある。こんなにも麻痺した感覚しか持ち合わせていないにもかかわらず、匂いを介して本能的に、これは獣なのだと脳が反応する。そして、私は生き物の肉を食べる、つまり自分は動物である事を改めて認識するのだ。
 だが、殺生を止め、合成食品(本物の肉を模した人工物)のみを口にする葉月達は、接触する事は疎か食でも動物を認識する機会がほぼ皆無だ。そう、彼等は驚く程に、人間が本来動物であるという事実からかけ離れた環境に置かれていた。
 そんな葉月でさえも、獣を感じる程に高潔さと異質さを持ち合わせた歩未とは一体……。
 
 歩未だけは、「何か」が違った。

 歩未と関わるまでは、人とのコミュニケーションに憂慮し、自尊心を持つ訳でも無く、世界全体を冷眼していた葉月。だが、不思議と惹かれる歩未の背を追うにつれ、彼女は少しずつ自分が閉鎖的思考になっていた事に気付かされるのだった。
 そして、そんな歩未の魅力に引き寄せられたのは、何も葉月だけでは無い。

 一四歳にして、海外の大学院博士課程を習得中の天才メカニカル少女、美緒。彼女もまた、歩未に惹かれる一人だ。
 ハッキングや偽造ID作成も彼女にとっては軽難易度ゲーム同然。C指定地区という旧歓楽街(政府が作成したマップ上では、警告色に近いマゼンダでこの地区を表示されている)に住む。プラズマ発生装置など少々物騒な機械を作る趣味を持つ、かなりの変わり者だ。

 そして、もう一人。無責任な未来予測(、、、、)である占いが衰退した時代に、(ぼく)という吉凶の受け止め方を他者に伝える、占い本来の意味を見出した雛子。喪服を思わせる衣装を纏い、普段は怯懦な態度が目立つ。しかし持論を語る際は、大人を圧倒する程の雄弁さを持つ。

 歩未に惹かれながらも、一定の距離を保つ、謎多き少女 (ミャオ)
 全国民がIDにより完全管理される中、IDを所持せずC指定地区(スラム街)にて野良猫達と生活している。彼女は、無登録児童ゆえに学校にも行けず、警察やエリア警備隊から身を潜める様な生活をしていた。拳法の達人で、本物の猫の様に身軽である。

 この様に特徴的な少女達ばかりが顔を揃えると、どうも現実とかけ離れてしまい、物語に共感し難い印象を受けるかもしれない。だが、そこは京極作品の魅力の一つである、精緻に読み手の気持ちを汲んだ才筆により、登場人物との隔たりを消し去ってくれるのだ。かつての幼い自分が(今もそうだが)悩んだ様に、彼女達もまた、自身を取り巻く環境や対人関係による蟠りや、自尊心と自己否定の狭間に苛まれる姿に思わず読む手に力が入ってしまう。京極氏の作品に登場する人物達の台詞には、気付かされる事がとても多い。何気無く流してしまっているものの危うさや尊さは、第三者の言動を通さないと再確認し辛かったりする。教訓的過ぎず、読者の思想を強引に誘導せず、だがしっかりと心に響く京極氏の文体が、優しく読み手に教えてくれるのだ。

 さて、モニタの中にこそ自分の居場所を感じるのは、何も幼い葉月だけでは無い。
 葉月や他の生徒達のカウンセラーとして勤める静枝もまた、現実(リアル)を自分の生きる場所として受け入れられずにいた。菌とウィルスで溢れる空気、壁、床。完全なる直線で無いのに、直線を装う廊下、道路、それから建物。正論など押し付けと幻想にも関わらず、他者に異論を唱え、責任転嫁ばかりに思考を巡らせる周囲の人間達。現実とは、静枝にとって虚偽よりも怏怏たるものであり、受け入れる必要性が見出せないものだった。他者も自分自身を含めたこの世界も、侮蔑し、嫌悪し、拒絶すれば良い。そうする事で、殻に閉じ籠った繊細で脆弱な自分を守る事が出来ると信じていた。

 だが、葉月にも、カウンセラーの静枝にも、現実と対峙せねばならない運命は訪れる。

 葉月の住むエリアにて、殺人事件が起きるのだ。
 彼女と同年代の男子生徒が、無残な死体となって発見された。人が外を出歩かない時代だが、殺人事件を起こすとなると犯人は被害者とリアルコンタクトを取る必要がある。被害者の男子児童と接触するのなら、登校日、若しくは同じ趣味を持つ友人が無難だ。つまり、被害者と近しい同年代の子供の犯行であろう、と警察は推測する。県警は、事件が起きたエリアの子供達を担当する静枝に、異常者(警察の独断的基準)を割り出す為カウンセリングデータを渡す様に指示。静枝は、一方的な警察のプロファイリングに反感を覚え、激しく抗議するが、権力の前で一介のカウンセラーは無力だ。結局、警察からあたかも監視役の様に寄越された刑事の(くぬぎ)と共に情報提供用資料を作成する事となる。当初、捜査には参加させて貰えず見張り役に回された、ただの中年オヤジに思えた橡だが、長年の刑事のカンとでも言うのだろうか。今回の事件から、微かな違和感と、ある『偶然性』に気付く。
 また、葉月も端末に流れるニュースにて、今回の殺人事件を知る事となる。しかし、彼女は人の死にリアリティーを全く感じられずに居た。自分には関係の無い、遠い異国の人に思えてしまうのだ。自分には一切関係の無い、そう、その筈だったのだが……。
 

 文庫本にして九〇〇ページ近くのボリュームである本書。この分厚さだと、途中休憩を入れたくなる所だが、話が葉月編と静枝編で比較的短めのインターバルにより交互に展開していくので、読むのを途中で止められないのだ。もうずぶずぶとはまっていく蟻地獄状態よ。次の展開が気になる所で、葉月編から静枝編へと変わるというニクい仕掛け。海外テレビドラマでよくある一話終了時に視聴者を飽きさせない為の驚愕の事件が起きる、あの匠の技だ。次々と起こる衝撃の展開に、ページをめくる手を止める術はなし。
 私も初めて手に取った日、時間も忘れて耽読した事を今でもよく憶えている。

 昨日の事は憶えていないけど(多分会社に居た)。

 明日の仕事内容とか、ちょっと忘れてしまいたい気分だけど。

 とまぁ、こんな話はさておき。

 今回この書評を書くに当たり「狼とは何や」という疑問が私の中に湧いてきたのだ。
 という事で、頭の中はミジンコが二、三匹漂っている程度(おそらくミソは詰まっていない)の私が調べてみた。
【参考書籍は紹介文ページに記載】

 まず初めに、本タイトルであるルー=ガルーとは。それはつまり、人狼の事である。要は狼の姿をした化け物だ。昔から狼とは、人狼やグリム童話『赤ずきん』など、恐怖と憎悪を抱く対象という印象が強い。
 では、そもそも狼とは。
狼とは、一般的にハイイロオオカミ(タイリクオオカミ)を指し、学名はカニス・ルプスと言う。最大のイヌ科動物であり、彼らは家族の群で生活をする。因みに、カニスは『家畜化された犬』、ルプスは『狼』という意味だ。この名は生物学者カール・リンネが命名したのだが、つまり狼とは「イヌありき」という事になる。そうなると、まるで人間と近しい関係を築いてきた様に思えるが──今回のタイトル同様、狼との歴史を調べていくと、やはり忌避すべき存在として扱われていた事実を知ることとなる。
 狼の歴史を紐解くと、鬱鬱とした、目を逸したくなる程に悲惨なものであり、その最たる原因は残念ながら我々人間だ。そもそも人間が、家畜という形式を起用した時点で、生態系のバランスを著しく歪ませたにも関わらず、その家畜を襲う悪者として狼は槍玉に挙げられたのだ。
 歴史は古く、紀元前二〇〇〇年以前に書かれたとされる『ギルガメッシュ叙情詩』に、追い払われる存在として狼は登場する。これ以降も狼を悪とする書物や事件は続き、しかもその執拗さは異常極まりなかった。まるで社会への不満や、生活の不安を狼に全て肩代わりさせているかの様な印象を受ける。そんな人間によって作り上げられた悪への理不尽な暴挙は、長い時間を経てついに、最終段階の道を辿る。
 時は一九世紀前半。狼狩りだけでは飽き足らず、北米を皮切りについに政府までもが狼根絶(、、)へと動き出したのだ。この頃になると、人間は銃などで一匹ずつ狩るのでは無く、薬品による大量虐殺という手段を手に入れていた。ストリキニーネ(毒薬)を人間が虐殺したバッファローの肉に仕込んでおく。人間により迫害されていた狼たちは、食料を手に入れる手段を絶たれ飢えていた。そんな彼らが放置された肉をみつけ、一斉に群がる。
「ここに少量があるぞ」
 他の飢えた仲間を呼び集め、必死で肉を喰らう。猛毒入りの。

 毒殺された狼たちの亡骸は、川のように連なっていたという。

 この残虐な計画は、ロシア、そして日本へと波及していく。
 かつて日本に棲息していた狼は、北海道のエゾオオカミ、本州以南にニホンオオカミの二種だ。
 日本において狼は、狼を守護神と奉る狼神社や、北海道のアイヌ民族からはホロケウカムイ(吠える神)と呼ばれるなど、尊ばれる存在であった。獣故に恐怖という概念が全く無かった訳ではないが、彼らに対して日本人は畏敬の念を抱いていたという方が強いだろう。諸外国に比べ、人と狼の関係は比較的穏やかだったと言える。しかし、一九世紀後半、欧米の酪農システムを取り入れたのと同時に、負の濁流に飲まれる様に狼への憎悪までも受け継いでしまった。次第に日本でも狼根絶活動が始まる。

 そうして、狼はいなくなった。

 いや、正確にはいなくなったと言われている。今でもニホンオオカミの目撃情報は数少ないが無くなってはいない。もしかすると、まだ生き残っている狼が、我々人間の旧悪と、これからの動向を森の奥から静かに見据えているのでは──。
 
 もし、狼が生き残っていたら。
『ルー=ガルー忌避すべき狼』はそんな思いを込めて読むと、一層胸に刻まれる。

 あなたも絶滅したとされる(、、、)気高き狼に、本書で出会ってみてはどうだろう。
 
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