黒猫の呪詛

文字数 3,627文字

 夜の静寂に響くは猫の声。田舎の畑の片隅で、その身体は冷えていく。金色の瞳は輝きを失い、共に過ごしたきょうだいをぼんやり写し出していた。
 夜が明け、冷えきった遺体が発見された。その腹は引き裂かれ、爪には人の皮膚が残っていた。しかし、その皮膚片に気付かれることはなく、小さな亡骸は埋められた。墓標は無く、ただ摘まれた花と線香が添えられた。
 墓標なき畑の片隅、掘り起こされたとて誰が気にしよう。気付かれたとて、せいぜい野犬に掘り返されたと思われるだけ。だから、それは闇夜に紛れて這い出した。黄泉の国から逃げ出して、怨みを糧に這い出した。

 弱者にしか強がれぬ男が居た。その弱い男は、抵抗できぬ小さな動物を捕らえては命を奪った。体格差があるにも関わらず刃物を用い、相手が苦しむ方法で切り裂いた。
 男は一人だった。その性格により一人だった。だが、それに気付かぬ男は不満を人間以外にぶつけ続けた。その手は血に染まったが、それに気付く者は居なかった。男はひたすらに一人だった。広い家に一人きり、誰とも関わらず関わろうともしない。男は、そうして外界から身を守っていた。その弱い心を、その醜さを。
 しかし、黒猫を引き裂いてから数日後、男の家に訪問者が現れた。人ならざる訪問者。暗闇に金色の瞳だけが光り、男の頭上から叫び続けた。

 おわあ!

 おわあ!

 男は、それを始末しようと屋根に登る。男が梯子をかけて屋根の上を見た時、そこには金色の瞳が輝いていた。金色の瞳の下からは白い牙が覗き、吼え声が発せられる。
 その声に男はおののき、梯子ごと倒れ始めた。男は強かに頭を打ち、体の自由を奪われる。屋根上の仮生(けしょう)は男の腹に降り立ち、その服を鋭い爪で引き裂き始めた。その爪は、やがて皮膚を引き裂き脂肪を撒き散らし筋肉に至る。そうしてから、仮生は男の顔に飛び乗った。

 そして、にやりと赤い口腔を晒して言う。

 こんばんわあ!

 仮生の瞳が男の目を捉えた時、男の目は爪で傷付けられ瞼は食い千切られた。男は痛みに声をあげるが、体を動かすことは出来なかった。仮生はその後も男の体を傷付け、引きちぎっていく。
 男の体には、無数の傷が刻まれた。しかし、どれも致命傷にならなかった。しかし、生きながらにしてその体は蝿に好かれ、夜が明ける頃に異様な光景は通報された。
 男の回りに人だかりは出来たが、誰一人として近付くものは居なかった。ただ、人の気配に蝿が幾らか離れ、大人達は子供をそこから遠ざける。
 救急隊が到着した時、男はまだ生きていた。体を動かせず、声も出せず、様々な虫に喰われながら生きていた。男は病院に運ばれ、治療を受けた。仮生の爪痕は治りにくく、爛れ熱を帯び腐っていった。医者は治療を続けたが、その症状は悪化するばかり。
 それでも男は生きていた。ただ、生きていた。

 ある時、医者は決断する。得体の知れぬ菌が原因なら、広がる前に切ってしまえと。命に関わる前に切ってしまえと。
「残したところで、機能が回復する見込みもない」
「介護する側も、軽い方が楽で良いだろう」
麻薬が効いているのを良いことに、医者は様々な軽口を叩いた。
「治したところで、治療費払ってくれますかね?」
「それは、我々の心配するところではない」
「取り立ては事務任せでしたか」
「こらこら、取り立てだなんて。我々は患者を治療するのが仕事だ。手を抜いたら後が怖い」
「訴えられても面倒ですもんね」
「そういうことだ」
「でも、あれですよね。助けたら助けたで、医療費の無駄遣いって言われそうで」
「金勘定は事務方の仕事だ。そして、治療行為が医者の仕事だ」

 そんな会話がなされながら、治療と言う名の切除は続いた。男の体は切り刻まれたが、それでもまだ生きていた。動けず、話せず、横たわり、ただ痛みに耐えながら生きていた。男の意思を確認することもなく、生かされ続けた。

 それから暫くして、男の家で奇妙なことが起こった。手入れをされぬ家は朽ち、幽霊屋敷と呼ばれることは珍しくない。男の家もそうだった。特に庭の荒れ方は酷く、様々な生き物の気配がした。だが、子供らを脅えさせる程に奇妙なことは他にあった。風にのって歌が聞こえてきたのだ。耳を塞いでいても聞こえてしまう虚ろな歌が。

 猫さん 猫さん どこいくの

 わっちは悪党引き裂きに

 それなら我等も連れりゃんせ

 お前が来れば糧になる

 真っ暗闇を絶望を

 悪党共にくれてやれ

 その歌は子供にしか聴こえなかった。だから、いっそう怖がられた。しかし、何時しかその歌は聴こえなくなった。子供らのあずかり知らぬ場所で、その家の男と同じ目に遭った者が出た日だった。

 その腹は引き裂かれ、ある臓器だけが引き千切られていた。
その女の家には猫が居た。その猫は不妊にはされておらず、季節が巡る度に子をなした。しかし、女は子が生まれる度、産まれたばかりの子らを川へ投げた。ばれぬよう闇に紛れ、目も開かぬ子を捨て続けた。何度その罪を犯したか、それを女が数えることはなかった。
 子を成せぬよう、医者へ連れていくこともしなかった。
生き物とは不思議なもので、乳をやっている間は子を成さない。だが、乳をやる子が居なければ話は別だ。無論、例外はある。しかし、子育て中の猫と言うものは、なによりも子を優先することがある。だから、怨みは降り積もった。本能に逆らって産まぬ選択は、猫になかった。
 ただただ、産んでは取り上げられ、その度に怨みを増していった。子を産むというのは力を使う。孕むこと自体は病でない。だが、摂った栄養は胎に注がれ、日々重くなる腹は負担をかける。幾度となく子を産んだ体は衰え、毛並みは悪くなっていった。そして、その猫は子を産んだ際に立てなくなってしまう。
女は捨てた。子猫共々投げ捨てた。猫は子猫に寄り添い、川の流れが猫と子猫を引き裂いた。川の流れる音が変わった。低く重く唸る様な響きに。その時、川縁に黒い影が舞い降りた。その影は真っ赤な口を開いて問う。

「悔しいかい?」
 その問いに、川の流れる音が応えた。
「ああ、悔しいさ、口惜しいさ」
 影が更に問う。
「我等と共に来るかい? 来るなら、力を貸してやろう」
 川の流れる音が応える。
「そうさね、貸してもらおうか」
 その時、影が川へ伸び、何かを掴んで空に舞い上がった。

 川に流された猫は待った。女へ一番打撃が与えられる時を。見た目の良い女は、簡単に男を落とした。そして、女の腹には子が宿る。それこそ、猫が待っていた復讐の時だった。
 子に罪はない。だが、奪われる苦しみを味合わせねば、その怨念は収まらなかった。
女に同じ苦しみを。しかし、子供に罪はない。人の形になる前に。その袋ごと引き出そう。女と繋がるその間に、引き摺りだして捨ててやろう。二度と子供を望めぬ様、その全てを引き裂こう。

 暗い歩道橋、女が登るその時に。仮生は現れ道塞ぎ。女は腰を強かに打つ。仮生は女の腹に乗り、辺りは闇に包まれた。外からは見えず、中の声は外へ出ぬ。仮生の闇は、女だけを包み込む。
 仮生の爪は女の腹を割き、鼓動を打ち始めた胎ごと内臓を引き摺り出した。引き摺り出された内臓は仮、生の牙によって体を離れ、仮生はそれをくわえたまま女を見つめる。

 すると、閉じられた仮生の口辺りから、苦しそうな声が響いた。

 おぎゃあ

 おぎゃあ

 おぎゃあ

 人の形をなす前の胎は猫の形となり、女のものだった臓器から這い出した。女は、痛みを忘れて逃げ出そうとした。しかし、動くのは上半身だけだった。女は、それでも逃げようとし、幾らか動いたところで闇は消えた。
 その時、女の体は車道にあり、腹に傷はなかった。だが、突然現れた女の体は、スピードを上げたままの車に衝突する。女の腰回りの骨は砕け、内臓は潰された。
 女をひいた運転手は停まることすらせずに去り、女は道端に放置される。幾らかして通りすがりの人に発見され、女は命をとりとめた。しかし、歩くことも、子をなすことも叶わぬ体となった。
 美しかった顔は歪み、見た目に惚れた男は去った。女に残されたのは、不自由な体と孤独ばかり。

仮生は笑った。赤い口腔を晒して笑った。新たな怨みの復讐はなされた。

 次の罪は何だ。
 次は誰だ。
 次は何処だ。
 次は何時だ。

 仮生の中に取り込まれた念は、だんだんと強く激しくなっていった。仮生は、その後も念を取り込み、血を啜った。

 その体は大きく、闇は深く。
 強さは増し、怨みは止まず。
 多くの罪を裁き続けた。

 今日も何処かで仮生は歌う。
 哀しく、朧な歌声で。
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