運命の出会い 一回目 夏目達也 十五歳 #8
文字数 3,022文字
腫れた顔に氷を当て、自分の部屋のベッドに寝そべり、いつものラジオ番組を聴きながら思いをめぐらせた。
僕を愛していると次郎くんは言った。次郎くんは僕のためを思って言ってくれたんだ。叶えられない夢を追って傷つかないように。僕を愛しているから最後まで面倒を見てくれようとしているんだ。
……次郎くんの言う通りだ。
親もいない、学歴もない、特別な才能もない。素の自分では他人とろくにコミュニケーションもとれない。その上、こんな体質を持った僕には夢を見る資格なんてない。
そんなことをしても失敗するだけだ。
次郎くんは、僕が傷つかないようにしてくれている。守ろうとしてくれているんだ。
……バカなことをしようとしていた。
こんな僕が、鈴木和花のことを助けられるはずがないのに。現実の自分を忘れていた。桜井玲央のつもりになっていたのかもしれない。
また、わからなくなってしまった。
どうやって生きていったらいいのか。
と、そのとき──。
「続いては、静岡県浜松市の桜井玲央くん。十五歳の中学生やって──」
ラジオから、そう聞こえた。
僕は起き上がる。
一瞬、聞き間違えたかと思った。
けれど、ラジオから流れてくるネタの内容を聞くと、たしかに僕のハガキだった。三日前に出した、三十枚のハガキの中の一枚。
僕の出したネタが、ラジオで読まれた?
「玲央くん、今週だけで三十枚も出してくれたんやて。まだ中学生なのにネタもなかなかエッジが効いとるし」
「ねえ、将来有望ですよ──」
褒められた。
……『認めてもらえた』という感覚だった。
僕の存在を、ここにいることを、生きていることを、認められた気がした。
このときに、気づいた。この感覚は、最近ずっと感じていた。
鈴木和花。
彼女と会っているときは、ずっと同じような感覚だった。鈴木和花は、ずっと僕のことを認めてくれていた。
現実味がなく、僕はしばらく放心状態になった。
そして──ケータイから短い着信音が聞こえた。
鈴木和花からのメールだった。
【おめでとう! わたしの言った通りだったでしょ。君ならどこにでも行けるよ】
どこにでも行ける──。
僕が?
こんな僕が、どこかに行ける可能性が、本当にあるのだろうか。
ここから抜け出してもいいのだろうか。
わからない。
──と、なぜか思い出した。
鈴木和花が前にガストで言っていた言葉を。
仮に僕が彼女から離れることになっても、「しかたない」と言っていた。「好きだから、しかたない」と。
次郎くんは「愛してるから、最後まで面倒を見る」と言っていた。
二人は真逆のことを言っている。
……なぜ鈴木和花は、あんなことを言ったのだろう。
その意味を知れば、答えが出るような気がした。
僕は彼女にメールする。
【ガストで、「離れることになったら、しかたない」って言ったよね。「好きだから、しかたない」って。好きなら、そばにいたいんじゃないの?】
すぐに返信がきた。
【逆だよ。好きだから自由に生きてほしいの。縛りつけたくないの】
涙が出た。
なんでかわからないけど、どんどん出てきた。
自分が泣きたがっていることに気づき、僕は声をあげて泣いた。
僕の思っていた愛情とは、混沌としていて、あいまいで、嵐のようで、痛みや支配といつも隣り合わせで、自分を押し殺さなければ得られないものだった。
違う。そうじゃない。
僕は今まで、愛を勘違いしていたとわかった。
本物の愛を、はじめて見た気がした。
しばらく泣き続けたあと──なぜか「今しかない」と思った。
涙を拭った僕はリビングに向かった。
今まで葉子にこんなことを言ったことはなかった。葉子はこの生活を続けようと思っているかも。だから断られるかもしれない。
それでも、僕は言った。
「葉子、この家、出るぞ」
葉子は一瞬、目を丸くしたけど、すぐに「わかった」と答えた。
二人で話をして、明日の朝、浜松駅から新幹線に乗ることに決めた。
僕は鈴木和花に電話することにした。
ここから逃げるためには、ケータイも捨てなければいけない。持っているだけで次郎くんに場所を特定される恐れがあるからだ。今後、彼女と連絡をとるつもりもない。最後に声を聞きたかった。
電話をかけると、すぐに出た。
「もしもし」
「和花ちゃん?」
「……文花! 騙された?」
「騙された……お姉ちゃん、隣にいる?」
「うん。ちょっと待ってね」
「……もしもし。かかってくるかもって思ってたの。おめでとう」
鈴木和花に代わった。
よく聞くと、文花ちゃんと少し違う。鈴木和花のほうが大人っぽい。
いつもと同じ声。聞いているだけで眠くなるような、高くて優しい声。
明日からはもう、この声も聞けなくなる。
「ありがとう。でも、そのことじゃなくて……別の話があって」
「……うん。どうしたの?」
僕の暗い声を聞いて、なにかを察したようだった。
「急に……引っ越すことになったんだ」
「……いつ?」
「……明日」
「えっ?」
しばらく無言になった彼女は、小さな声で言った。
「どこに引っ越すの?」
「仙台。親の仕事の都合で、実は、前から決まってたんだけど言えなくて……」
行く先はまだ決めていない。とりあえず遠くで住める場所を見つけ、年齢をごまかして働くつもりだ。
「急すぎるよ」
悲しげな声を聞いて、息がつまる。
「ごめん」
「さみしいけど……もう会えないわけじゃないもんね」
少し、元気な声になった。
「うん」
「あのね……こんなときになんだけど……違うや、こんなときだから訊きたいんだけど」
「なに?」
「わたしたちって……付き合ってるって考えてもいいのかな?」
ちょっと恥ずかしそうに訊かれる。
胸が張り裂けそうになった。
僕は着ていたスウェットの胸の部分をぎゅうっと摑みながら、なんとか楽しげな声をしぼり出す。
「……もちろん」
「よかった。断られたらどうしようかと思った」
「そんなわけないよ」
「わたし、男の子と付き合ったことなかったから、よくわからなくて」
「……おれも」
「はっきりさせたかったんだ」
僕は泣きそうになって口を押さえる。
「……おれも」
「キスしたのもはじめてだったんだよ」
「……おれも」
彼女の小さく笑った吐息が、電話から聞こえてきた。
「おれも、ばっかり」
泣いていることを必死に隠しながら、「ごめん」と笑う。
「これから、たくさんデートしようね」
「……うん」
「連絡もいっぱいとろうね」
「……うん」
「浮気したら嫌だよ」
「……うん」
今まで何人もの女の子たちと出会っては別れてきたのに。
人と別れることがこんなにつらいなんて、はじめて知った。
「明日、見送りに行っていい?」
「でも、朝早いから……」
「行きたいの」
ちょっと怒ったように言われた。
彼女が僕に見せた、はじめての顔。以前よりも僕に心を開いてくれている。これから一緒にいたら、もっともっと、いろんな顔を見られただろう。
その願いは叶わない。
「……浜松駅から新幹線に乗る予定。朝、八時十一分の電車」
「わかった。それより前に改札口に行くね」
「うん。それじゃ」
「バイバイ」
僕は電話を切った。
僕を愛していると次郎くんは言った。次郎くんは僕のためを思って言ってくれたんだ。叶えられない夢を追って傷つかないように。僕を愛しているから最後まで面倒を見てくれようとしているんだ。
……次郎くんの言う通りだ。
親もいない、学歴もない、特別な才能もない。素の自分では他人とろくにコミュニケーションもとれない。その上、こんな体質を持った僕には夢を見る資格なんてない。
そんなことをしても失敗するだけだ。
次郎くんは、僕が傷つかないようにしてくれている。守ろうとしてくれているんだ。
……バカなことをしようとしていた。
こんな僕が、鈴木和花のことを助けられるはずがないのに。現実の自分を忘れていた。桜井玲央のつもりになっていたのかもしれない。
また、わからなくなってしまった。
どうやって生きていったらいいのか。
と、そのとき──。
「続いては、静岡県浜松市の桜井玲央くん。十五歳の中学生やって──」
ラジオから、そう聞こえた。
僕は起き上がる。
一瞬、聞き間違えたかと思った。
けれど、ラジオから流れてくるネタの内容を聞くと、たしかに僕のハガキだった。三日前に出した、三十枚のハガキの中の一枚。
僕の出したネタが、ラジオで読まれた?
「玲央くん、今週だけで三十枚も出してくれたんやて。まだ中学生なのにネタもなかなかエッジが効いとるし」
「ねえ、将来有望ですよ──」
褒められた。
……『認めてもらえた』という感覚だった。
僕の存在を、ここにいることを、生きていることを、認められた気がした。
このときに、気づいた。この感覚は、最近ずっと感じていた。
鈴木和花。
彼女と会っているときは、ずっと同じような感覚だった。鈴木和花は、ずっと僕のことを認めてくれていた。
現実味がなく、僕はしばらく放心状態になった。
そして──ケータイから短い着信音が聞こえた。
鈴木和花からのメールだった。
【おめでとう! わたしの言った通りだったでしょ。君ならどこにでも行けるよ】
どこにでも行ける──。
僕が?
こんな僕が、どこかに行ける可能性が、本当にあるのだろうか。
ここから抜け出してもいいのだろうか。
わからない。
──と、なぜか思い出した。
鈴木和花が前にガストで言っていた言葉を。
仮に僕が彼女から離れることになっても、「しかたない」と言っていた。「好きだから、しかたない」と。
次郎くんは「愛してるから、最後まで面倒を見る」と言っていた。
二人は真逆のことを言っている。
……なぜ鈴木和花は、あんなことを言ったのだろう。
その意味を知れば、答えが出るような気がした。
僕は彼女にメールする。
【ガストで、「離れることになったら、しかたない」って言ったよね。「好きだから、しかたない」って。好きなら、そばにいたいんじゃないの?】
すぐに返信がきた。
【逆だよ。好きだから自由に生きてほしいの。縛りつけたくないの】
涙が出た。
なんでかわからないけど、どんどん出てきた。
自分が泣きたがっていることに気づき、僕は声をあげて泣いた。
僕の思っていた愛情とは、混沌としていて、あいまいで、嵐のようで、痛みや支配といつも隣り合わせで、自分を押し殺さなければ得られないものだった。
違う。そうじゃない。
僕は今まで、愛を勘違いしていたとわかった。
本物の愛を、はじめて見た気がした。
しばらく泣き続けたあと──なぜか「今しかない」と思った。
涙を拭った僕はリビングに向かった。
今まで葉子にこんなことを言ったことはなかった。葉子はこの生活を続けようと思っているかも。だから断られるかもしれない。
それでも、僕は言った。
「葉子、この家、出るぞ」
葉子は一瞬、目を丸くしたけど、すぐに「わかった」と答えた。
二人で話をして、明日の朝、浜松駅から新幹線に乗ることに決めた。
僕は鈴木和花に電話することにした。
ここから逃げるためには、ケータイも捨てなければいけない。持っているだけで次郎くんに場所を特定される恐れがあるからだ。今後、彼女と連絡をとるつもりもない。最後に声を聞きたかった。
電話をかけると、すぐに出た。
「もしもし」
「和花ちゃん?」
「……文花! 騙された?」
「騙された……お姉ちゃん、隣にいる?」
「うん。ちょっと待ってね」
「……もしもし。かかってくるかもって思ってたの。おめでとう」
鈴木和花に代わった。
よく聞くと、文花ちゃんと少し違う。鈴木和花のほうが大人っぽい。
いつもと同じ声。聞いているだけで眠くなるような、高くて優しい声。
明日からはもう、この声も聞けなくなる。
「ありがとう。でも、そのことじゃなくて……別の話があって」
「……うん。どうしたの?」
僕の暗い声を聞いて、なにかを察したようだった。
「急に……引っ越すことになったんだ」
「……いつ?」
「……明日」
「えっ?」
しばらく無言になった彼女は、小さな声で言った。
「どこに引っ越すの?」
「仙台。親の仕事の都合で、実は、前から決まってたんだけど言えなくて……」
行く先はまだ決めていない。とりあえず遠くで住める場所を見つけ、年齢をごまかして働くつもりだ。
「急すぎるよ」
悲しげな声を聞いて、息がつまる。
「ごめん」
「さみしいけど……もう会えないわけじゃないもんね」
少し、元気な声になった。
「うん」
「あのね……こんなときになんだけど……違うや、こんなときだから訊きたいんだけど」
「なに?」
「わたしたちって……付き合ってるって考えてもいいのかな?」
ちょっと恥ずかしそうに訊かれる。
胸が張り裂けそうになった。
僕は着ていたスウェットの胸の部分をぎゅうっと摑みながら、なんとか楽しげな声をしぼり出す。
「……もちろん」
「よかった。断られたらどうしようかと思った」
「そんなわけないよ」
「わたし、男の子と付き合ったことなかったから、よくわからなくて」
「……おれも」
「はっきりさせたかったんだ」
僕は泣きそうになって口を押さえる。
「……おれも」
「キスしたのもはじめてだったんだよ」
「……おれも」
彼女の小さく笑った吐息が、電話から聞こえてきた。
「おれも、ばっかり」
泣いていることを必死に隠しながら、「ごめん」と笑う。
「これから、たくさんデートしようね」
「……うん」
「連絡もいっぱいとろうね」
「……うん」
「浮気したら嫌だよ」
「……うん」
今まで何人もの女の子たちと出会っては別れてきたのに。
人と別れることがこんなにつらいなんて、はじめて知った。
「明日、見送りに行っていい?」
「でも、朝早いから……」
「行きたいの」
ちょっと怒ったように言われた。
彼女が僕に見せた、はじめての顔。以前よりも僕に心を開いてくれている。これから一緒にいたら、もっともっと、いろんな顔を見られただろう。
その願いは叶わない。
「……浜松駅から新幹線に乗る予定。朝、八時十一分の電車」
「わかった。それより前に改札口に行くね」
「うん。それじゃ」
「バイバイ」
僕は電話を切った。